第19話 私の記録を燃やそうとした人がいました
西の森から溢れ出したという、異常な魔物の群れ。
その凶刃から生還した最強剣士・レオンさんの口から語られた事実は、ルーンベル支部に絶望的な緊張感を走らせた。
二階の医務室では、今も治癒術師によるレオンさんの懸命な治療が続いている。
彼の無事を祈り、震える手を強く握りしめていた私だったが、ふと、事務員としての冷徹な思考が頭をもたげた。
(……西の森の異常発生が事実なら、それを隠蔽していたバルザック子爵は完全に窮地に立たされる。だとしたら、彼らが次に狙うのは)
『ギルドに残された、数々の不自然な依頼と横領の証拠(記録)の隠滅』だ。
私は血の気が引くのを感じながら、足早に一階の奥、薄暗い書庫へと向かった。
私の推測が正しければ、子爵の手の者はこの混乱に乗じて、必ず動くはずだ。
音を立てないように書庫の重い木扉を少しだけ開けると、鼻を突く油の匂いが漂ってきた。
「……っ」
暗闇の中、ランプの微かな明かりに照らされていたのは、黒い外套に身を包んだ見知らぬ男の背中だった。
男は、私が「過去の不正台帳の控え」を隠していたはずの棚から羊皮紙の束を引きずり出し、そこに油をまき散らして、今まさに火打ち石を鳴らそうとしていた。
「そこまでです。何をしているんですか!」
私は咄嗟に大声を上げ、書庫の中に踏み込んだ。
ビクッと肩を揺らした男が振り返る。覆面の奥から覗く目は、完全に殺意に染まっていた。
「チッ、ただの受付嬢か。運が悪いな、死ね!」
男は火打ち石を放り投げ、腰から鋭い短剣を抜いて私に向かって一直線に飛びかかってきた。
剣も魔法も使えない私には、男の素早い動きを躱す術なんてない。
死を覚悟して、ギュッと目を閉じた、その瞬間だった。
「――うちの可愛い受付嬢に、刃物を向けるなよ」
闇に溶け込むような低い声と共に、突風が巻き起こった。
直後、ガキンッ! という鋭い金属音と、男のくぐもった悲鳴が書庫に響き渡る。
「カ、カイルさん……!」
目を開けると、私の目の前に、A級斥候であるカイルさんが立っていた。
彼は男の背後に音もなく回り込み、手首を捻り上げて短剣を叩き落とすと、そのまま冷酷な手つきで男の首筋に自身の刃を突きつけていた。
「俺はレオンみたいに甘くないからね。一ミリでも動いたら、その首飛ぶよ」
琥珀色の瞳は氷のように冷たく、普段の軽薄な態度は微塵もない。
完全に制圧された男は、ギリッと歯ぎしりをして、私とカイルさんを睨みつけた。
「ふざけるな……! 俺を捕まえても、もう遅い! 証拠の台帳はもう油まみれだ、これで西の森の記録は完全に闇の中だ!」
男が狂ったように嗤う。
確かに、床に散らばった羊皮紙の束は油を吸い、使い物にならなくなっていた。
けれど、私は乱れた息を整え、スカートの裾を軽く払って男を見下ろした。
「……事務員は、大事な証拠を無防備な場所に置きっぱなしにはしません」
「は……?」
「あなたが今油をかけたのは、五年前に期限切れになった白紙の依頼書に、私が『不正台帳』という偽の表紙をつけただけの、ただのダミーです」
私の言葉に、男の笑いがピタリと止まった。
「本物の台帳と王都の資料は、すでに支部長室の隠し金庫の中です」
現代の会社で、理不尽な責任転嫁やデータの消失を何度も経験してきた私だ。
命を懸けて集めた記録を、バックアップも囮も用意せずに保管しておくほど、私は無能な事務員ではない。
「なっ……き、貴様ぁ……!」
男が絶望と怒りに顔を歪める。
その様子を見ていたカイルさんが、呆れたように小さく吹き出した。
「ははっ、傑作だ。プロの工作員が、ただの受付嬢の事務処理に完全に出し抜かれたってわけだ」
カイルさんは手際よく男を縄で縛り上げると、ふっといつもの甘い笑みを浮かべて私を振り返った。
「本当に君は、最高に優秀で恐ろしい子だね。……こんなの見せられたら、ますます俺のものにしたくなる」
彼の熱を帯びた琥珀色の瞳と、危険な色気を含んだ囁きに、私は思わずドギマギして視線を逸らした。
相変わらず口から出まかせばかり言う人だけれど、彼がいなければ私は今頃殺されていた。その背中の頼もしさに、心から感謝する。
「おい、ユイ! カイル! 無事か!」
ドタバタという複数の足音と共に、松明を持ったヴィクトル支部長と数人の冒険者たちが書庫に駆け込んできた。
縛り上げられた子爵の工作員と、散乱したダミーの書類を見て、支部長はすべてを察したように低く唸った。
「……ギリギリだったな。よく記録を守り抜いてくれた、ユイ」
「支部長。証拠の保全は完璧です。これで、子爵の言い逃れはできません」
「ああ。これよりルーンベル支部は、王都本部への『子爵の正式告発』と、街へ迫る『魔物大災害の防衛』の二面作戦に移行する!」
支部長の豪快な怒声が、夜のギルドに響き渡る。
私が集めた紙の上の数字が、ついにこの異世界の巨大な悪を討ち、街を守るための決定的な剣へと変わろうとしていた。




