第9話 契約は救済ではない
馬車は進む。車輪が石畳を叩く規則的な音だけが、深夜の静けさを刻んでいた。
先ほど確認した「責任の所在」が、車内の空気を張り詰めさせたまま、ほどよい秩序として残っている。
私はもう窓の外を見ない。
闇に溶けていく王都の灯りを探したところで、そこにあるのは浪費された数年の痕跡だけだ。
「次に、あなたの立場――そして我が国が求めるものを、明確にします」
ゼクスが沈黙を断ち切った。
慰めるためでも、追い詰めるためでもない。必要な言葉だけを選ぶ、乾いた声。
「バルハイムは、この数年で都市の仕組みを組み直し、国としての力を底上げする計画です。その中核に据えているのが、魔導結界による管理の刷新。……ですから、私は派遣されました」
国の都合。冷たい響きだ。けれど、その冷たさは私への蔑みではない。人を飾り物にしない温度だと思えた。王都で味わった甘い言葉より、ずっと信用できる。
遠く、後方の気配が薄い圧として残っている。
さっき夜空を裂いた緊急招集の光。
追手は走り出した。けれど、この馬車の中でそれは焦りではなく、確認の材料に変わっていく。
「誤解のないように言います。我々が求めているのは、あなたの魔力量そのものだけではありません。あなたが積み上げた結界の運用――判断と手順、そのすべてです」
私は開きかけた口を閉じた。
礼を言うべき場面ではない。
ここで情緒を差し込めば、必要な線が濁る。
これは救いではなく、合意だ。
ゼクスは続けた。言葉は短く、しかし順序立っている。
「まず、運用の判断基準。どの区画を維持し、どこを切り離すか。現場で迷わないための基準を、あなたの言葉で示してほしい」
「次に、権限の扱い。登録と解除、引き継ぎの手順。人が変わっても、恣意で揺れない形にする」
「最後に、異常時の対処。想定外が起きたとき、被害を広げないための手立て。――その三つです」
並べられた言葉に飾りはない。
だが、だからこそ私は理解できた。
私を偶像として担がないために、必要なものだけを差し出しているのだ、と。
「……ゼクス様。一点、私から付け加えてもよろしいでしょうか」
私が問うと、ゼクスはわずかに眉を動かし、続きを促した。
「王国の失敗は、魔力の量ではありません。結界を『維持すること』自体を目的にしてしまったことです」
私は息を整え、あの日の構造を言葉に変える。感情ではなく、起きたことの筋道として。
「結界は本来、状況に合わせて変えなければいけない。今回のように王宮側から崩れが始まったなら、優先すべきは尖塔の体裁ではなく、回廊の回路を速やかに遮断することでした」
「末端の損傷を切り離し、中枢への負荷を避ける。そういう判断が欠けていたから、連鎖は止まらなかったのです」
ゼクスの視線が、わずかに深くなる。評価というより、確認に近い色だった。
「……その考え方こそ、我が国が求めているものです」
彼は静かに言葉を継ぐ。
「私情を挟まずに、繋ぐべきものと切り離すべきものを見分ける。あなたは、その判断を言語化できる」
「ここから先、あなたが背負っていた肩書きの形を、こちらから求めることはありません。必要なのは、運用です。判断です」
脅しでも励ましでもない。余計な重荷を外すための宣言だった。
「あなたが通るべきだと判断した道を、崩さない。それだけでいい」
「……承知いたしました、ゼクス様」
私は小さく、しかし確かな意志を込めて頷いた。軽くなったのは、救われたからではない。私が進むべき道が、揺れない形で定まったからだ。
馬車は速度を上げ、闇の中を突き進む。
背後に残したものの叫びは、もう思考を乱す音にはならなかった。
追ってくる足音が増えるほどに、私が握るべきものは、むしろはっきりしていく。
関所を離れるほどに、道は底のない闇へ沈んでいく。街道沿いの民家は途切れ、今はただ、馬車の車輪が硬い地面を噛む音だけが、世界の輪郭を保っていた。
ゼクスは外套の内側から、先ほど関所で提示した書類を改めて取り出した。
逃走のための確認ではない。ここからは、それぞれの効力を確定させる段階だ。
「整理します。」
彼はそう前置きし、膝の上に書類を揃えて置いた。
「第一。バルハイム王国による、あなたの受け入れと身分保証」
差し出された一枚には、鮮明な国章と簡潔な文言だけが記されている。
あなたは保護対象であり、正当な手続きを経て移送され、その対価は契約に基づいて支払われる――ただそれだけだ。
「これで、あなたは『逃げた個人』ではなく、『合意の下で移動する存在』になります。王国側がどんな言葉を並べても、この一点で立場は逆転します」
感情の余地はない。国家と国家の間で、位置が定まる。
「第二。婚約破棄に伴う、結界権限の失効」
ゼクスの指が、次の書類を示した。
三行だけの簡潔な記述。
鍵、命令権、解除条件。
そこに解釈の余地はない。
「結界が落ちた理由は、この合意に尽きます。
真贋を疑われようと、現実の結果が補強し続ける。
彼らは『知らなかった』とは言えない」
私は短く息を吐いた。
「……ええ。切り捨てたのは、私ではない。制度そのものですね」
「その通りです」
「そして第三」
最後の一枚。
指輪と結界の同期構造を示す儀式記録。
そこには、アルベルト王子の署名が明確に残っている。
「誰が引き金を引いたか。これを否定するには、彼自身が署名を否定するしかありません。ですが、それをすれば――」
「結界の正当性そのものを、自分で壊すことになる」
私が言葉を継ぐと、ゼクスは小さく頷いた。
「ええ。反論すればするほど、彼らの主張は自壊します」
一瞬、脳裏に浮かぶ。
王宮で机を叩き、書類を突き返し、怒鳴る彼らの姿。
だがその声は、途中で止まる。
否定すれば、自分たちの署名と制度を否定することになると気づいた瞬間に。
「……分かりました」
私は一度だけ、はっきりと頷いた。
「この三点で十分です。私が私自身の判断で選び、確定させた立場です」
勝利でも復讐でもない。
ただ、戻れない位置に立ったという確認。
ゼクスはそれ以上の言葉を足さず、書類を外套へ戻した。
その時、馬車の外から短い声が届く。
「斥候より報告。この先、街道に検問があります」
ゼクスは即座に応じた。
「承知した。予定通り進む」
彼は私を見ずに言う。
「書類は揃っています。止められる理由は、ありません」
馬車は速度を落とさず、闇の中を進んでいく。
背後で追手が何を叫ぼうと、ここには届かない。
私は静かに背を預けた。
胸に落ちたのは高揚ではない。
「もう、何も言わせない」
その確信だけだった。
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