第6話:折れた針が証明する――価値がないとされた理由①
◆離れたのは音だけ
「まずは、私の人生を返してください」
その言葉を最後に、馬車には車輪の回転音だけが残った。
勝ったという高揚も、許されたという安堵もない。
ただ、自分で引いた「境界線」を越えた事実だけが、揺れと一緒に足元へ戻ってくる。
関所の灯りは、もう見えない。
それでも耳に残る重さは消えなかった。
遠ざかったはずなのに、まだ離れてくれない。
あれは空気を震わせる音ではなく、私が切り捨てた王都そのものの叫びだったのだろう。
ガタ、と馬車が大きく揺れた。石畳が途切れ、土の道へ入った合図。振動が柔らかくなった分、夜気の冷たさがはっきりと入ってくる。
数年間、私が結界で温め続けてきた王都。
その外側は、こんなにも容赦がない。
魔力の供給が止まった瞬間、あの大広間のグラスも、甘い空気も、今ごろは同じ温度まで冷えているはずだ。
窓の外を流れる灯りは疎らになった。
ふっと後方の遠くで、ひとつの魔導灯が明滅し、消える。
消えたのか、崩壊の余波に飲まれたのか。
判別できない。
その曖昧さこそ、私が踏み込んだ新しい世界の常識なのだと理解する。
「……セラフィナ様」
向かいに座るゼクスが、短く声をかけた。
丁寧だが、余計な感情は混ぜない。
その距離の取り方が、今の私には助けだった。
「国境までは、まだ距離があります。少しでも目を閉じ、体を休ませてください」
「……ええ」
私は頷いた。
けれど、さっき背もたれに預けた身体を、もう一度起こす。
休めば楽になるのは分かっている。
それでも今夜だけは、冷気を避けたくなかった。
窓の隙間から滑り込む冷気を、あえて肌で受け止める。
私がいない世界がどれほど冷たく、そして自由なのか。この身で覚えておきたかったからだ。
外で護衛の気配が変わった。前後の距離が詰まり、蹄の刻みが揃う。
短い合図の笛が一度だけ鳴り、闇へ消えた。
逃げるための乱れではない。
バルハイムという新しい「規律」に合わせて走っている証拠だ。
離れたのは、響きだけだ。報いは、遅れて必ず追いつく。
前方に灯りが点り、また消える。それは「聖女」という名の道具を迎える光ではない。一人の「結界技師」として、一人の「人間」として、対等な契約を結ぶための目印だ。
「進んでください、ゼクス様。……夜が明ける前に、あの国が届かない場所へ」
私は最後に一度だけ背後の闇を視線で断ち切り、前を向いた。
……その時だった。
はるか後方、いま駆け抜けてきた関所の方角から、一本の鋭い光が夜空を刺した。
王室近衛騎士団が使う、緊急招集の魔導信号。
一つではない。二つ、三つ。
闇を切り裂くその光は、凍りついた王都がようやく「逃げ出した資産」の価値に気づき、なりふり構わず手を伸ばし始めた証拠だった。
「……ゼクス様」
「ええ、認識しています。野蛮な追撃ですね」
ゼクスは手元の懐中時計を確かめ、わずかに口角を上げた。
「ですが、無意味です。『計算の隙間』を、馬の速さで埋められるとでも?」
次の瞬間、御者の鞭が鳴った。乾いた一音が闇を割り、馬車がさらに前へ伸びる。
追ってくるのは、過去への執着。
こちらが進むのは、未来の契約だ。
夜明け前の街道を、漆黒の馬車が速度を上げて滑り出していった。
関所を越え、闇はいよいよ深さを増していく。
窓の外、遠くに瞬く灯りは細く、いまにも消え入りそうだ。
――その闇の向こうで、さっきまで夜空を裂いていた招集の光が、まだ目の裏に残っている。追手は走り出した。こちらは、逃げ切らなければならない。
向かいに座るゼクスは、窓の外を見ようとはしない。
背後で起きている崩壊にも、追手たちの呪詛にも、彼は眉一つ動かさない。
その徹底的な「無視」こそが、今の私には何より強固な盾に思えた。
追ってくるものが“馬”なら、こちらは“条文”で返す。
追撃の速度を、論理が止める。
車内に満ちるのは、傷を癒やすための慰めを待つ沈黙ではない。
次の一手を、最も確実な「勝利」へと繋げるために言葉を選ぶ、静謐な時間だ。
やがてゼクスが、外套の内側から一つの封筒を取り出した。
厚い書類束ではない。重厚な封蝋だけが、微かな灯りを吸って鈍く光っている。
その縁は、わずかに欠けていた。
後から押し直したのではない。
最初から「欠けたまま」で完成している。証拠は、こういう形をしている。
ゼクスはその封筒を指先で弄びながら、私を見るでもなく言った。
その声には、一切の湿り気がない。
「確認いたします。……セラフィナ様、あなたは結界を『止めて』などいないですね?」
問いかけは、確信に満ちていた。私は背筋を伸ばし、彼の深海のような瞳を見据える。
「ええ。……ただ『鍵』が外れただけです」
「止めた」のか、それとも「外れた」のか。
結果は同じでも、そこに生じる責任の所在は天と地ほど違う。
追手はそれを「聖女による職務放棄」という罪に仕立て上げたい。
だが、ゼクスは今、その土台を、追いつかれる前に根こそぎ引き抜こうとしている。
「そうです。外したのは、あなたではない。……殿下です」
ゼクスは「お気の毒に」などという安い同情を口にしない。
ただ冷徹に、私を「加害者」の位置から引き剥がしていく。
馬車の揺れが一度大きくなり、私は膝の上の指先を噛み締めた。追ってくる足音の代わりに、ここでは言葉が釘を打つ。
「ですから、今後の争点は『破壊の是非』ではありません。『鍵を外す決断を下し、あえて放置した者は誰か』。一点、そこだけに絞られます」
「ですがゼクス様、彼らはこう言い立てるでしょう。『聖女には国を守る義務がある。鍵が外れようと、維持し続けるべきだった』と」
私が投げかけた「相手側の悪あがき」に対し、ゼクスは短く息を吐いた。
笑みというより、温度のない確認だった。
「……その主張は、通りません」
「所有者が自ら鍵を壊し、立ち入りを禁じた現場に、無断で留まり修理を続ける権利など誰にもない。それはもはや『維持』ではなく、王家資産への『不法侵入』であり『魔力干渉』です」
ゼクスの声は低いのに、刃のように明瞭だった。
追撃の光が増えたぶん、彼は言葉を削る。刺さる部分だけを残す。
「あなたが無理に結界を維持していれば、それこそが殿下への反逆罪に問われていたでしょう。――だからあなたは、逃げたのではない。罠から出ただけです」
言葉が、骨まで届く。
頭の理解ではなく、胃の底が冷える。
私はようやく、あの場で私が踏み外しかけていた場所を知った。
あのまま残っていれば、私は“守ったつもりで”罪人になっていた。
「あなたがしたのは、止めることではない。……外れることが確定した瞬間を、ただ『外れた』と証明できるように整えただけです」
「彼らは自分の足で崖から飛び降りた。あなたはそれを、記録していたに過ぎません」
外で風が唸り、馬車の車体が軋んだ。
背後で追撃の信号が増えた光景が、また脳裏に刺さる。
追ってくる者たちは怒っているのではない。
取り戻せると思っている。――それを、ゼクスは“取り戻せない形”に変える。
「……はい」
私は短く答えた。従うのではない。
彼が示した戦場で、私もまた戦うという合図だ。
必要なのは、あの国を、あの王子を、二度と私に触れさせないための「絶対的な拒絶」の証明なのだから。
ゼクスは満足げに頷くこともなく、淡々と付け加えた。
「論理に、血は流れません。記録に残る数字と事実で、彼らを――手を伸ばした瞬間ごと、折ります」
その一言で、車内の空気が固定された。
勝った喜びではない。
「自分を責める必要が、法的に一切存在しない」という確定。逃走の揺れの中で、それだけが揺れなかった。
馬車は速度を落とさず、闇の先へと進む。
背後で響いていたはずの王都の悲鳴は、もうここまでは届かない。
私は、ずっと強張らせていた指先の力を、ほんの少しだけ抜いた。
夜気は相変わらず冷たかったが、隣にあるのは「熱」ではなく、信頼に足る冷えた知性だった。
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