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第39話 影となれ――赤い石奪取の命令書

 国境と王都中間地点、ソレイユ軍が仮設した連絡詰め所。

 静寂を切り裂き、一頭の軍馬が泡を吹いて倒れ込んだ。

 馬を乗り捨て、返り血と泥にまみれて転がり込んできたのは、追跡隊長ヘッセンだ。


「通信だ! 早く用意しろ!」


 駆け寄る役人を突き飛ばし、ヘッセンは苛立ちをぶつける。


「隊長、現場の状況は……」

「長話をしている暇はない! 国境付近で魔物の群れが発生し、追跡隊は壊滅的な被害を受けた」

「私はこの非常事態をベンデル卿へ直報するため、死地を脱したのだ」


 彼は自らの逃走を、その場で「報告という名の任務」へと言い換えた。その瞳には、部下を見捨てた罪悪感など微塵もなく、自らの保身を完遂せんとする卑屈な執念だけがぎらついている。


「これ以上の詳細は卿にのみ話す。魔導通信器を早く貸せ、急げ!」


 役人が差し出した通信器の感度を強引に調整し、ヘッセンは王都の執務室へと回線を繋いだ。


 ソレイユ王都、ベンデル卿の執務室は、深海のような闇に包まれていた。

 机上の魔導記録板には、徴発量や国境連絡の到達数といった、国家を統制するための無機質な数字が冷たく並んでいる。


 そこへ、ヘッセンからの緊急通信が、ノイズ混じりの音を立てて響き渡った。

 ベンデル卿は届いた情報を、まるで壊れた道具の目録を確認するように、感情を排して処理していく。


「……現場が崩壊、ですか」

「卿、私はこの事実をいち早くお伝えするために、あえて汚名を被る覚悟で脱出しました」

「……魔物の襲撃で現場は混乱を極めています。あの状況からすれば、聖女セラフィナもろとも『赤い石』がバルハイム側の手に渡ったと見るべきです」

「あれが証拠化されれば、我々の立場が危うい」


 現場から逃げ出したゆえの推測。

 だが、その推測はベンデルにとって「確定した最悪の事態」として受理された。

 通信の向こうで震えるヘッセンの声を、ベンデルは冷たく遮った。


「誰が、貴公の退避を見た」

「……え?」

「貴公は何と言って現場を去った。その言葉は、誰の記憶に刻まれている」


 ヘッセンが絶句する。ベンデルが確認しているのは、騎士道でも事実でもない。

 後に残る「記録の形」だけだ。


「貴公の名は、こちらで預かりましょう」

「必要な場所にだけ、都合の良い形で残してやる。現場が崩壊したというのなら、相応の『責任者』が必要になるのでね」

「……貴公がその役割を望まぬのであれば、今すぐ黙れ」


 通信を断つと、ベンデルは一人になった。

 すると、机上の記録板に並んでいた数字が歪み、蠢き始める。


 文字は黒い霧へと変わり、禍々しい紋章を形作った。魔族との秘密裏の交信。

 それは、ベンデル卿が若さと権力を維持するために結んだ、禁忌の契約であった。


『……バルハイム側の動きを感知した』


 霧の中から、複数の声が重なったような不快な響きが漏れる。


『赤い石が、バルハイムの手に落ちた。石の秘密を知る者……石に触れ、共鳴を起こさせた者が生存している。放置すれば、お前が差し出した“供物”の意味が消えるぞ』


 ベンデル卿は眉一つ動かさず、闇を見据えた。


「回収しろ。失敗は許さん」


 ベンデルは、皺の少ない指先で記録板をなぞり、続けた。


「承知している。……加えて、愚かな王子の数字進行によって、結界の崩壊も始まった」

「混乱を広げる土壌は計画通り整っている」


 ベンデルの報告は、どこか自慢げですらあった。


「あとは、事実を知る者を消し、石を回収するだけだ」

「……私の『更新』に支障は出させん」


 ベンデルが鏡に目を向けると、そこには実年齢より若い男が映っていた。

 目尻に薄い皺はある。だが、長年政の表舞台に立ち続けてきたはずの年齢の重さが、ない。契約が更新されるたび、彼は他者の生命を喰らい、その肉体を「不自然な若さ」へと引き戻し続けているのだ。


『回収、および口封じを完遂せよ。それこそが、お前の若さを繋ぎ止めるための絶対条件だ。証拠を消せ。さもなくば、次はない』


「……失敗は許されない、ということか」


 ベンデルは眉一つ動かさず、闇を見据えた。


「否定は後でいい。先に物証を無に帰す」


 交信を終えたベンデルは、机の中からあらかじめ用意されていた一枚の書面を取り出した。

 そこには、バルハイム詰所内の詳細な地図と、短い指示が記されている。


 目的は二つ。

 一つ、保管庫に眠る「赤い石」の奪取。

 二つ、石の秘密を知る「クレール」の抹殺。


 ベンデル卿は、自らの指先でペンを握り、工作員への「鉄の掟」を書き添えた。


「灯りを増やすな。声を出すな。影となれ」


 最後に、その冷酷な意思を裏付けるように、自らの署名を深く刻み込む。


 その命令書を扉の外へ滑らせた。

 返事はない。次の瞬間、廊下の気配が分かれて消えた。


 同夜、二手による静かな侵入。

 それは、セラフィナがようやく手にした安らぎを、再び絶望へと引きずり戻すための、命令であった。

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『短編版』婚約破棄で聖女契約が切れました。――この国は“5分後に”崩壊が始まります。
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