表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
34/46

第34話 名がない抗議は残らない

 詰所の奥の机で、記録官が紙束を揃えた。

 外の担架の音は壁越しに続くのに、ここではペン先の擦れる音のほうがはっきり聞こえる。

 アルネは机の横に立ち、入口側の通路まで目を配っている。

 ゼクスは半歩離れ、机に寄らない。私は正面から少し外れ、記録官と目が合う位置を取った。


 記録官が低い声で読み上げる。


「ソレイユ王国。騎士隊ならびに国境警備隊」


 続けて、手元の欄へ視線を落としたまま言う。


「追跡行為。越境未遂」


「違う!」


 ソレイユ兵が声を上げ、机へ寄ろうとして足を出しかける。

 通路の兵が半歩入って道を細くした。

 触れない。だが近づけない。


 アルネが短く止める。


「名だ」

「名がない抗議は扱わない」


 兵の口が開きかけて閉じる。名を言えば紙に残る。

 言わなければ、いま読まれた行だけが残る。

 記録官が促す。


「所属と氏名。順に」


 私は必要なことだけを告げた。


「確認します。私は元ソレイユ王国の聖女セラフィナです」

「いまはバルハイム王国の特級招聘技術官です」

「そのまま記録してください」


 記録官が欄を移す。


「保護対象:セラフィナ、特級招聘技術官」

「同行:ゼクス全権大使」


 机の端の皿へ一度だけ目をやり、続けた。


「現場回収物:赤い石一点。回収元:クレール所持品」


 ソレイユ側の誰かが歯を鳴らす音がした。


「“越境未遂”は書くな。せめて“誤認”に――」


 私はすぐ返す。


「言い換えるなら、書面にしてください」

「所属、階級、氏名。いま発言した方が署名する」

「署名できるなら異議として残します」

「できないなら、その抗議はここで終わりです」


 アルネが机へ視線を戻したまま言う。


「用紙を出せ」

「書く者だけ前へ。ほかは下がれ」


 記録官が訂正文の用紙を机の端へ寄せる。

 上段に「所属・階級・氏名」。下段に「異議の内容」。


 ソレイユ兵の指が動き、途中で止まった。ペンに触れれば名が残る。

 触れなければ、さっきの声は形にならない。

 背後の兵たちも、誰も言葉を足せない。背中を押した瞬間、その名まで巻き込まれる。


 私は淡々と言う。


「書かないなら、次へ進みます」

「“言った/言ってない”で揉める形は残しません」


 記録官が本記録を揃え、押印して端へ寄せた。次の紙へ移る。

 その動きで、ソレイユ側の勢いが落ちた。

 言い直しの声が上がりかけても、もう処理が先に進んでいる。


 アルネが告げる。


「次。命令系統を聞く」


 ゼクスが一言だけ添える。


「ここからは証言です。名のない声は残りません」


 扉を一枚挟むと、音の質が変わった。外の担架と号令は遠く残る。

 こちらへ届くのは、靴底が床を擦る音と、紙が擦れる音だけだ。

 小部屋の灯りは小さい。机は低く、椅子は一脚。水差しとコップが一つ。机の上には紙束と筆、インク壺。余計な物がない。


 記録官が机の内側に座り、紙束の角を揃える。

 上段に欄を作り、日付と場所を先に書く。

 手元が止まらないのに、動きは急がない。


 アルネは机の横に立つ。椅子には座らない。

 扉と通路が見える位置を取って、部屋の中の人の向きを揃える。


 私とゼクスは、机から一歩引いた所に立つ。

 記録官の手元が見える距離。紙には触れない。

 ただ、言葉が固定される瞬間を網羅するためにそこにいる。


 アルネが言う。声は低い。

 記録官へではなく、これから座る証言者へ向けた言い方だ。


「答えるのは、見たことと聞いたことだけだ」

「推測で人の名を出すな。分からないなら、分からないと言え」

「言い切れないなら、言い切れないと言え」


 記録官はアルネの言葉を、そのまま書き写した。

 言い方を変えない。後から言い逃れを作らせないためだ。


 扉が開き、最初の証言者であるソレイユ兵が、左右をバルハイム兵に固められて入ってきた。

 袖には仲間の血が黒ずんでこびりつき、泥が乾いてひび割れている。


 椅子に座らされた瞬間、彼の視線は吸い寄せられるように水差しへ走った。

 喉がひきつるように鳴り、極限の渇きが伝わってくる。

 だが、背後に立つ兵士が逃げ道を塞ぐように椅子の背に手を置いた。


 アルネが間を置かずに聞いた。


「追跡命令を出した者は誰だ」


 椅子に座った兵が、唇を乾いたまま動かした。

 喉が鳴り、言葉が途中で詰まる。


「……クレール隊長が――」


 言い切る前に、すぐ横で控えていた別の兵から、弾かれたような声が被さった。

 保身の焦りが先に出て、語尾が鋭く跳ねる。


「違う! 騎士隊長のベッセン殿だ。俺たちはその場にいた!」


 記録官の手元でペン先が止まった。白紙の上にインクが小さく滲み、黒い点を作る。

 兵の呼吸が浅くなる。

 背後に立つバルハイム兵が無言のまま椅子の背へ体を寄せた。物理的な圧迫ではない。


 ただ「逃げ場はない」という事実が、絶望となって兵を侵食していく。

 机に置かれたコップの水面が、誰の震えを拾ったのか、わずかに揺れて止まった。


 私は机の上の紙ではなく、二人の口元を凝視した。言い合いをさせれば、話がそれる。

 事実を整えるのが先だ。


「“命令”を直接聞いたのは、どちらの口からですか」


 私は低く、突き放すように問う。


「距離は。周囲は騒がしかったですか。聞き違いの余地はありますか」


 兵の目が泳ぐ。出口ではない。水差しでもない。

 自分たちの責任を肩代わりしてくれる「不在の誰か」を探す視線だ。

 割り込んだ方の兵が、沈黙に耐えかねて先に吐き出した。


「ベッセン殿の口だ。国境の灯りの下で、クレール隊長に直接言った。俺は馬の鼻面にいたから、はっきり聞こえたんだ」


「なんて言った」


 アルネが畳みかける。


「『ベンデル卿の指示だ。逆らうな』と。聖女を……いえ、セラフィナ様を力ずくで連れ戻せと、そう命じていた」


 最初の兵が、裏切りを見るような目で隣を向き、激しく首を振った。


「俺は、クレール隊長の声を聞いたんだ! 『先に動け、止まるな』って……」

「ベッセン殿は、そのさらに前に言ったんだ! お前は馬を引いていて――」


 醜い責任の押し付け合いが混じりかけたところで、ゼクスが記録官へ短く、冷徹に言い放った。


「いまの二つは、別々に記録してください」

「片方を消してはいけません。矛盾そのものが彼らの軍紀の乱れであり、証拠になります」


 記録官は筆先を浮かせ、迷いなく行を分けた。

 上の行に『騎士隊長ベッセン』。下の行に『クレール隊長』。


 どちらも同じ濃さ、同じ筆致で書く。

 紙の上で二つの名が並んだ瞬間、兵の肩が目に見えて落ちた。


 どちらの言い分を信じてもらうかではない。

 どちらを選んでも自国の指揮官を売ることになる――その逃げようのない「断罪」の形が、墨の色で紙に刻みつけられた。


 その絶望の隙間に、アルネが次の問いを叩き込む。


「ベッセンは何処に行った」


 椅子の兵は、言葉を探す前に唾を飲んだ。

 乾ききった喉が鳴り、視線が水差しへ吸い寄せられる。


 だが、背後の兵がわずかに重心を移しただけで、部屋の空気が凝固した。

 指先一つ、水へ伸ばすことさえ許されない。

読んでくださり、本当にありがとうございます!

皆さまからいただく感想や応援が、この作品を前へ進めるエネルギーになっています。


「面白そう」「続きが気になる」と少しでも思っていただけましたら、ぜひ 「ブクマ」や「評価」 をポチッとしていただけると、とても嬉しいです!

感想は一言でも大歓迎です、それだけで物語の未来が大きく変わります。


今後の執筆の大きな支えになりますので、どうぞよろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
★▼短編版はこちらから読めます!★
↓タイトル押すと作品サイトに飛びます★↓

『短編版』婚約破棄で聖女契約が切れました。――この国は“5分後に”崩壊が始まります。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ