第34話 名がない抗議は残らない
詰所の奥の机で、記録官が紙束を揃えた。
外の担架の音は壁越しに続くのに、ここではペン先の擦れる音のほうがはっきり聞こえる。
アルネは机の横に立ち、入口側の通路まで目を配っている。
ゼクスは半歩離れ、机に寄らない。私は正面から少し外れ、記録官と目が合う位置を取った。
記録官が低い声で読み上げる。
「ソレイユ王国。騎士隊ならびに国境警備隊」
続けて、手元の欄へ視線を落としたまま言う。
「追跡行為。越境未遂」
「違う!」
ソレイユ兵が声を上げ、机へ寄ろうとして足を出しかける。
通路の兵が半歩入って道を細くした。
触れない。だが近づけない。
アルネが短く止める。
「名だ」
「名がない抗議は扱わない」
兵の口が開きかけて閉じる。名を言えば紙に残る。
言わなければ、いま読まれた行だけが残る。
記録官が促す。
「所属と氏名。順に」
私は必要なことだけを告げた。
「確認します。私は元ソレイユ王国の聖女セラフィナです」
「いまはバルハイム王国の特級招聘技術官です」
「そのまま記録してください」
記録官が欄を移す。
「保護対象:セラフィナ、特級招聘技術官」
「同行:ゼクス全権大使」
机の端の皿へ一度だけ目をやり、続けた。
「現場回収物:赤い石一点。回収元:クレール所持品」
ソレイユ側の誰かが歯を鳴らす音がした。
「“越境未遂”は書くな。せめて“誤認”に――」
私はすぐ返す。
「言い換えるなら、書面にしてください」
「所属、階級、氏名。いま発言した方が署名する」
「署名できるなら異議として残します」
「できないなら、その抗議はここで終わりです」
アルネが机へ視線を戻したまま言う。
「用紙を出せ」
「書く者だけ前へ。ほかは下がれ」
記録官が訂正文の用紙を机の端へ寄せる。
上段に「所属・階級・氏名」。下段に「異議の内容」。
ソレイユ兵の指が動き、途中で止まった。ペンに触れれば名が残る。
触れなければ、さっきの声は形にならない。
背後の兵たちも、誰も言葉を足せない。背中を押した瞬間、その名まで巻き込まれる。
私は淡々と言う。
「書かないなら、次へ進みます」
「“言った/言ってない”で揉める形は残しません」
記録官が本記録を揃え、押印して端へ寄せた。次の紙へ移る。
その動きで、ソレイユ側の勢いが落ちた。
言い直しの声が上がりかけても、もう処理が先に進んでいる。
アルネが告げる。
「次。命令系統を聞く」
ゼクスが一言だけ添える。
「ここからは証言です。名のない声は残りません」
扉を一枚挟むと、音の質が変わった。外の担架と号令は遠く残る。
こちらへ届くのは、靴底が床を擦る音と、紙が擦れる音だけだ。
小部屋の灯りは小さい。机は低く、椅子は一脚。水差しとコップが一つ。机の上には紙束と筆、インク壺。余計な物がない。
記録官が机の内側に座り、紙束の角を揃える。
上段に欄を作り、日付と場所を先に書く。
手元が止まらないのに、動きは急がない。
アルネは机の横に立つ。椅子には座らない。
扉と通路が見える位置を取って、部屋の中の人の向きを揃える。
私とゼクスは、机から一歩引いた所に立つ。
記録官の手元が見える距離。紙には触れない。
ただ、言葉が固定される瞬間を網羅するためにそこにいる。
アルネが言う。声は低い。
記録官へではなく、これから座る証言者へ向けた言い方だ。
「答えるのは、見たことと聞いたことだけだ」
「推測で人の名を出すな。分からないなら、分からないと言え」
「言い切れないなら、言い切れないと言え」
記録官はアルネの言葉を、そのまま書き写した。
言い方を変えない。後から言い逃れを作らせないためだ。
扉が開き、最初の証言者であるソレイユ兵が、左右をバルハイム兵に固められて入ってきた。
袖には仲間の血が黒ずんでこびりつき、泥が乾いてひび割れている。
椅子に座らされた瞬間、彼の視線は吸い寄せられるように水差しへ走った。
喉がひきつるように鳴り、極限の渇きが伝わってくる。
だが、背後に立つ兵士が逃げ道を塞ぐように椅子の背に手を置いた。
アルネが間を置かずに聞いた。
「追跡命令を出した者は誰だ」
椅子に座った兵が、唇を乾いたまま動かした。
喉が鳴り、言葉が途中で詰まる。
「……クレール隊長が――」
言い切る前に、すぐ横で控えていた別の兵から、弾かれたような声が被さった。
保身の焦りが先に出て、語尾が鋭く跳ねる。
「違う! 騎士隊長のベッセン殿だ。俺たちはその場にいた!」
記録官の手元でペン先が止まった。白紙の上にインクが小さく滲み、黒い点を作る。
兵の呼吸が浅くなる。
背後に立つバルハイム兵が無言のまま椅子の背へ体を寄せた。物理的な圧迫ではない。
ただ「逃げ場はない」という事実が、絶望となって兵を侵食していく。
机に置かれたコップの水面が、誰の震えを拾ったのか、わずかに揺れて止まった。
私は机の上の紙ではなく、二人の口元を凝視した。言い合いをさせれば、話がそれる。
事実を整えるのが先だ。
「“命令”を直接聞いたのは、どちらの口からですか」
私は低く、突き放すように問う。
「距離は。周囲は騒がしかったですか。聞き違いの余地はありますか」
兵の目が泳ぐ。出口ではない。水差しでもない。
自分たちの責任を肩代わりしてくれる「不在の誰か」を探す視線だ。
割り込んだ方の兵が、沈黙に耐えかねて先に吐き出した。
「ベッセン殿の口だ。国境の灯りの下で、クレール隊長に直接言った。俺は馬の鼻面にいたから、はっきり聞こえたんだ」
「なんて言った」
アルネが畳みかける。
「『ベンデル卿の指示だ。逆らうな』と。聖女を……いえ、セラフィナ様を力ずくで連れ戻せと、そう命じていた」
最初の兵が、裏切りを見るような目で隣を向き、激しく首を振った。
「俺は、クレール隊長の声を聞いたんだ! 『先に動け、止まるな』って……」
「ベッセン殿は、そのさらに前に言ったんだ! お前は馬を引いていて――」
醜い責任の押し付け合いが混じりかけたところで、ゼクスが記録官へ短く、冷徹に言い放った。
「いまの二つは、別々に記録してください」
「片方を消してはいけません。矛盾そのものが彼らの軍紀の乱れであり、証拠になります」
記録官は筆先を浮かせ、迷いなく行を分けた。
上の行に『騎士隊長ベッセン』。下の行に『クレール隊長』。
どちらも同じ濃さ、同じ筆致で書く。
紙の上で二つの名が並んだ瞬間、兵の肩が目に見えて落ちた。
どちらの言い分を信じてもらうかではない。
どちらを選んでも自国の指揮官を売ることになる――その逃げようのない「断罪」の形が、墨の色で紙に刻みつけられた。
その絶望の隙間に、アルネが次の問いを叩き込む。
「ベッセンは何処に行った」
椅子の兵は、言葉を探す前に唾を飲んだ。
乾ききった喉が鳴り、視線が水差しへ吸い寄せられる。
だが、背後の兵がわずかに重心を移しただけで、部屋の空気が凝固した。
指先一つ、水へ伸ばすことさえ許されない。
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