第35話 ……逃げました
横に控えていた兵が、一歩前へ出ようとして、そこで足を止めた。
「……逃げました」
記録官の筆先が止まった。
誰も、すぐには聞き返さない。
その一語だけが、小部屋の中に残った。
兵は唇を湿らせ、続ける。
「国境の……魔物に襲われた場所です。倒れた馬が道をふさいで、負傷者が出て、誰の声も届かなくなっていました」
喉が鳴る。
「そこで、ベッセン殿が馬を替えて――」
アルネが遮った。
「順に言え。馬を替えたところを見た者は誰だ」
椅子の兵が視線を動かす。
床、扉、ゼクスの足元。
最後に私の方を見て、すぐ逸らした。
「……俺も見た」
先に口を開いた兵も、苦しそうに頷いた。
記録官が新しい行を作る。
アルネは続けた。
「見たことだけ言え」
椅子の兵は膝の上で拳を握り、言葉を出した。
「倒れた馬が道をふさいでいた。足を引きずっている兵がいて、鎧を外す音もしていた。
ベッセン殿はその横を抜けて、近くに残っていた馬の手綱を掴んだ。止めようとした声はあった。
でも、ベッセン殿は振り向かなかった」
「その声を出した者の名は」
アルネが短く返す。
兵は息を詰まらせた。
「……分かりません。声だけです」
記録官が、そのまま書く。
分からない、という答えまで残る。
兵は続けた。
「ベッセン殿は、“ベンデル卿へ報告する”と言って……鞍に乗った」
私は記録官の手元を見てから、兵へ問いを重ねる。
「どちらへ向かいましたか。誰を残しましたか。担架の列は見えていましたか」
兵の口が動きかけ、止まる。
先に口を開いた兵が答えた。
「ソレイユ側の灯りの方へ走りました。負傷者と隊列を残して」
椅子の兵も、小さく頷いた。
「担架が運ばれ始めた頃には、もういなかった」
記録官が書き込む音だけが続く。
ペン先が紙を擦る音が、小部屋の中ではっきり聞こえた。
ゼクスが記録官の書面へ視線を落として言う。
「証言として確認します。ベッセン殿は魔物が出たあと、負傷者と隊列を残して馬を替えた。“ベンデル卿へ報告する”と言った。見ましたね」
兵が喉を鳴らして答える。
「……見ました」
アルネが次を問う。
「その後、誰が指揮を取った。クレールは何をした。見たまま言え」
椅子の兵が答えかけ、言葉を濁す。
「……隊長は……」
背後のバルハイム兵が、椅子の近くへ寄った。
椅子の兵は口を閉じる。
私は次の確認へ移った。
「赤い石について確認します。袋が運ばれるところを見ましたか。袋に触れた者を見ましたか」
アルネが私へ視線だけを向ける。
「赤い石は、誰の所持品から回収された」
私は答えた。
「クレールの腰袋です。回収の場にいました。治療のために外された装備から、兵が回収しました。その後、ここへ運び込まれて、記録官の前で中身が皿へ出されました」
私は記録官の紙へ視線を移す。
「回収した兵の名を言ってください。運んだ者の名も。皿へ出した者の名も。順に残します」
アルネが記録官へ告げる。
「回収者の名、運んだ者の名、立ち会った者の名を並べて書け。誰が、いつ、どこで触ったかもだ」
記録官のペンが走る。
行が増える。
兵の呼吸が浅くなる。
兵の目が水差しへ動いても、手は伸びない。
椅子の後ろにいる兵が、動かずに立っている。
記録官の紙には、名が増えていく。
クレール。
ベッセン。
ベンデル卿。
その上の行には、さっきの言葉が残っていた。
逃げました。
記録官はその横へ、短く補足を書き足した。
魔物出現後。
負傷者あり。
隊列を残す。
ソレイユ側へ移動。
アルネは声を荒げない。
問いを短くして、兵が言葉を濁すたびに戻す。
記録官は顔を上げずに書き続ける。
赤い石の扱いを決める前に、誰が触れたかだけが先に並んでいった。
証言を取っていた小部屋を出ると、詰所の奥に設けられた治療区画が見えた。
壁際に簡易寝台が一つあり、クレールはそこへ運び込まれていた。
清潔な布と薬の匂いがする。
壁の向こうでは、担架が床を擦る音と、短い号令が続いていた。
寝台から数歩離れた場所には、記録官の小机が移されている。
クレールの腰袋から出た品目の控えと、赤い石の保全記録がそこにあった。
赤い石そのものは布袋に戻され、皿ごと机の奥へ寄せられている。
クレールは起き上がれない。
胸の上下は浅く、肩に当てられた布には血が滲んでいる。
声を出そうとするたび、喉が鳴った。
近くには数人のソレイユ兵がいた。
だが、誰も寝台へ近づけない。
看護兵が通路を空け、寝台の横に立てる者を一人に限っていた。
二人目が寄ろうとすれば、掌を上げて止める。
アルネが寝台の横へ来た。
記録官も、次の紙を用意している。
ゼクスは出入口に近い通路側に立ち、廊下と周囲の兵を見ている。
私は寝台から一歩離れた正面に立った。
クレールの指が、寝台の布を掴む。
視線が、私の手元へ落ちた。
次に、記録官の小机を見る。
すぐにまた、私へ戻る。
私は寝台へ寄らず、記録官の手元が見える位置へ半歩ずれた。
看護兵が肩の布を押さえ直し、薬皿を引き寄せる。
クレールの視線は、まだ私を追っている。
私はその視線に返事をせず、記録官の手元を見た。
アルネがクレールへ告げる。
「救助は続ける。だが、話はここで残す。答えるのは見たことと聞いたことだけだ。言えないなら、言えないと言え。それも記録する」
記録官が筆先を整えた。
クレールが唇を動かす。
「……俺は……反対した……」
それだけ言って、クレールは咳き込んだ。
胸が跳ね、指が寝台の布を掴む。
布に皺が寄った。
看護兵が肩の布を押さえ直す。
クレールはその手を見て、次に私を見る。
私は答えない。
記録官は筆先を紙の上で止め、次の言葉を待った。
少し息が整ってから、クレールは続けた。
「ベッセンが……命令したんだ……」
寝台の周りにいるソレイユ兵たちが、互いの顔を見る。
だが、クレールに近づく者はいない。
クレールは寝台の布を掴み、声を上げた。
「ベッセンはどこだ。あいつを呼べ!」
返事はない。
クレールは部下たちへ視線を向ける。
だが、誰も頷かない。
誰も目を合わせない。
私は言った。
「ベッセンは、ソレイユ国境へ走りました。負傷者と隊列を残して」
クレールの喉が鳴った。
寝台の布を掴む指に力が入る。
アルネはクレールの反応を待たず、記録官へ視線を向けた。
記録官は顔を上げず、いまの確認を行に入れていく。
私は続けた。
「反対したという場面を、詳しく言ってください。誰の前で、どんな言葉で止めましたか。それを聞いた者は、今この場にいますか」
クレールが息を吸い込む。
また咳が込み上げ、肩が揺れた。
ようやく、かすれた声が出る。
「……国境だ。あそこで止めた。こんな真似をすれば、戦争の火種になると……」
私は聞いた。
「止めた相手は誰ですか。ベッセンですか。それとも別の騎士ですか」
クレールは視線を上げない。
「……ベッセンだ」
記録官が書く。
私は続けた。
「その後、あなたは追跡を止めましたか」
クレールの指が布を掴み直す。
「……俺は……部下を守るために……」
「反対したなら、なぜ隊は止まらなかったのですか」
クレールは答えない。
寝台の周りのソレイユ兵たちが、クレールを見る。
誰も助け舟を出さない。
クレールは息を荒くしながら言った。
「ベッセンが、ベンデル卿の名を出した。『卿の命令だ。止めるな』と。逆らえば、俺だけじゃない。隊ごと責任にすると言った」
ベンデル卿の名が出た瞬間、寝台の周りにいた兵の一人が視線を落とした。
「それで、あなたは何をしましたか。追跡を命じましたか。止めましたか」
クレールは唇を噛んだ。
しばらくして、声を絞り出す。
「……従うしかなかった。ベッセンが前に立って、卿の名を出した。あの場で止めたら、隊ごと潰される。だから……俺は、前へ出るしかなかった」
記録官のペン先が動く。
従うしかなかった。
前へ出るしかなかった。
反対した、という言葉の下に、その二つが続いた。
廊下を担架がまた一組通り過ぎた。
布が擦れる音と、短い号令が遠ざかる。
この区画だけ、しばらく誰も言葉を足さない。
ソレイユ兵たちの視線は、クレールの腰のあたりへ下がった。
そこに腰袋はない。
もう、記録官の机に移されている。
誰も、赤い石の名を口にしなかった。
私はその視線を見てから、次の確認へ移った。
「赤い石について答えてください」
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