第62話 勝機の一滴
ローラン卿の眉が少し動いた。意表を突かれた質問だったのか、明らかに困惑している様子だ。苦しそうに奥歯を噛み締める彼は、脳をフル回転させて正答を探している。
その間にも、俺は持論を展開していく。
「…………確かにあなたは、井戸の存在も大海の広さも知っています。でも、あなたは井戸の中にある、もう一つの世界を知らない。
石壁に張られた絢爛な蜘蛛の巣も、濡れた苔の和やかな香りも、淀みなく流れる水の清廉さも……あなたは知らないんだ」
完璧超人に見えるローラン卿でも、毎日水は飲んでいることだろう。
しかし、彼は水を汲みにいかない。
そういった雑務は、メイドや弟子の仕事になってしまっているからだ。水を汲む暇があったら、宝飾品をジャラジャラ身に着けた上級国民の相手をして、彼は利益を確保しようとする。
だから彼は、井戸を使ったことがない。
ただその存在を、ひとつの知識として認知しているだけなのである。
「……きっとあなたは、俺には想像もつかないような世界を知っているんでしょう。
でも、それらは本から得ただけの単なる知識。綺麗な装丁の表紙を撫ぜただけに過ぎません」
知識の領域を出ないから、少数の犠牲を出すことを「仕方がない」で片づけられる。命の重さや意思の価値も、何処か実感が湧きにくい。
触れることのできない知識の海に沈み、ローラン卿はひとり溺れていた。
ゆえに、俺は書斎での会話において、彼に対して苛立ちを覚えたのだろう。
なぜ『犠牲なくすべてを救おうとしなかったのか』、と。
「――そうして見識ばかりが膨らんでいって、不安ばかりが見えるようになって。
悩んで、臆してしまったあなたは、安全策に走るしかなかった」
ローラン卿は沈黙を守っていた。俺の無責任な持論に対して、肯定もしなければ否定もしない。何か思うところでもあるのか、じっと一点を見つめて彼は考え込んでいる。石のように微動だにしなかった。
俺の脆弱な言葉では、彼の心を揺り動かすことはできないのかもしれない。
だが、それでも。
「――あなたは世界を見た。奴隷制度の醜さも、仕事を求める市民の顔も、ずっと見てきたはずです。
でも、それだけだ。
失敗しないように立ち回るあまり、あなたは問題と距離を置きたがった」
「……」
「立ち止まって景色を眺めるばかりで、其処に生きる者の息遣いを感じようとしない。
そんなあなたが…………いったい、何を語れるって言うんです?」
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場内では、未だに観客による怒号が飛び交っていた。暇人共の囀りをバックに、俺はローラン卿と向き合い続ける。
当のローラン卿は、険しい表情でこちらを見ていた。銅像のように整った眼から、慈愛の色は消えている。
俺と視線をぶつけた彼は、無理に笑窪を作っていた。
「……生意気な口を利いてくれるね」
彼は言った。「自分には世界の根源が見えていて、私以上に正しい判断ができるとでも?」
「まさか。俺は井戸の底で生きてきた貧乏人ですよ。
あなたに唯一勝る点を挙げるとすれば、他人から踏まれるのに慣れていることくらいなものでしょう」
「それこそが、私に足りないファクターだと?」
「そこまでは言いませんよ。
貴族にアドバイスができる程、俺は勇敢な人間じゃないですし…………自分が知らない世界なんて、この現実にあって当たり前のことです」
ルベイルの街に出てくるまで、俺も都会のことは何も知らなかった。
噂で聞いただけの知識量しかなかったおれには、眼に飛び込むもの全てが新鮮に感じられた。
肉の味も夕景の素晴らしさも、月明かりの下で飲む水の冷たさも精霊の手の温かさも、俺の知らない世界のひとつだった。
俺もローラン卿も、本質は同じはずだ。
井戸の狭さゆえ、俺は諦めることを知らなかった。世の広さゆえ、ローラン卿は身近にある井戸の底を覗き込もうとしなかった。
ならば、両者の違いは何処にあるか。
戦闘力も教養も、貴族である彼の方が上なのはわかっている。
では、考え方についてはどうだろう。判断の基準。視点の違い。現実に打ちのめされて簡単に諦めるか、否か。
もしかすれば、そこに俺だけの『武器』が隠されているかもしれない。
「――ただ一点だけ、あなたは井戸の中の世界を知らなかった」
希望的観測を胸に、俺は二本の脚で荒野に立つ。
「この未知数は、可能性は、勝負の分かれ目になりますよ。きっと」
ローラン卿の表情が歪んだ。
蛆に食い荒らされた死体を見せつけられたかのように、その顔は嫌悪感に覆われていた。
「……まだ君は苦しみたいのか。勝負の行く末は一目瞭然だ。これ以上の戦闘は無意味なんだぞ」
ちがう。
意味は自分で見出すものだ。他人が決めることじゃない。
だから無価値な俺の人生にも、ずっと意味はあった。子供の頃に一人の少女が、意味を生むきっかけを作ってくれたから。
そうだ。
俺は、諦めない先にある世界を知っている。
「……あなたは立ち止まってしまっているだけだ。世界が奏でる可能性の声に、耳を塞いでいるだけなんだ」
剣を構え、戦闘続行の意思を見せつける。
常識の殻に閉じこもるローラン卿に、愚かな俺は言い放った。
「――『誰の犠牲がなくとも、人を救うことはできる』。
精霊騎士を志す者として、俺はこの綺麗事を信じます」
「……口は禍の元だ。身の程を知らない思い込みは、やがて身を亡ぼすぞ」
「確信は既にあります。これは妄想でもなければ願望でもないんだ。だって、今の俺は一人なんかじゃ――」
言いかけたその時。
「――――イオリぃぃぃぃぃ!!!」
斜め後方の空堀から、バカでかい声が聞こえた。
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