第9話 3-3
恐怖のあまり飛び起きた。見渡せばそこは学園の寮の自室だった。部屋に投げ込まれた新聞を確認するまでもなく、メッセージカードが頭上に落ちてきた。
今度のメッセージは簡潔だった。
『3週目』
「また、また、まただわ!
アザトースが召喚された! 見間違いじゃなかったわ。
ヒロインが死んだから物語は、ゲームの強制力は消滅してエンディングが変わると思ったのにどうして?」
そこまで口にして気がついた。私は今までアザトースの召還は乙女ゲームのシナリオの延長線で発生するゲームのイベントだと思い込んでいた。だけど、アザトースの召還と乙女ゲームのシナリオに全く関係がなかったとしたら?乙女ゲームの進行に関係なく、アザトースが召喚されるのだとしたら?
「勝手に乙女ゲームのシナリオとアザトースの召喚を関連付けていただけど、もしかして完全に独立の事象だったりする?」
そうであれば、と私は一つの事実に思い当たる。発狂していた時の事故とはいえ、リリアンを階段から突き落として死なせてしまったが、それは無意味だったことになる。
私は膝から崩れ落ちた。階段に散らばるリリアンの薄ピンクの肉片が脳裏に浮かんだ。猛烈な吐き気が胃からこみあげてくる。罪悪感で胸が苦しい。
「うっ……、私はなんてことを」
突然襲われたからって、何も力任せに押し飛ばすことはなかった。この薄い手のひらのどこに人を突き飛ばせる程の力があったのだろう。発狂していて、肉体のリミッターが振り切れていたのか。それにしたって、取り返しのつかないことをしてしまうところだった。ループしたから良いものの、普通は人が死んだら生き返らない。
「次に会ったときは謝らないと。リリアンさんは覚えていないだろうけど。それでも誠意はきちんと見せなくては」
果たして、この物語の主人公であるリリアンは前回の記憶を覚えているだろうか?
「たぶん、覚えていないわよね。前のループの時だって他の人には記憶がなさそうだったし。私以外覚えてないわ、きっと。覚えている可能性があるとすれば、中身がニャルラトホテプであるラルト王太子か、深きものどもに片脚入れてるディーゴかしら」
そこまで考えて、思い出した。そうだ、もう一人可能性のありそうな人物がいた。ゲノス先生だ。ゲノス先生はネクロノミコンが納められた図書館に通じる冒涜的な呪文を知っていたし、おまけにタイムリープというこの世界に存在しないSF用語まで知っていた。怪しい。この世界の人間ではなさそうだった。そして、私はゲノス先生の正体に心当たりがあった。時空を自由に旅する神話生物と言えば、あの種族しかいない。
一度疑えば、それを裏付ける証拠ばかりのような気がした。ゲノス先生は私が学院に入学した頃から人が変わったように冷たくされていたけれど、その理由がリリアンを好きになったからではなかったら? 精神が入れ替わり別人になったから、知り合いである私を避けていただけだとしたら?
学院でのゲノス先生の評判はこうだ。高度な知識に、貪欲なほど勉強熱心。しかし、常に無表情で人形のよう。全ての特徴があの種族を連想させた。私の推測が当たっていれば、ゲノス先生の中身は神話生物のはずだ。
だけど、もし、ゲノス先生の中身までもが神話生物だとしたら、本当に、ここは神話生物のデパートだ……。
私は肩を落としたけれど、一方で少し希望も持った。
あの種族なら一番話が通じそうである。少なくともニャルラトホテプや深きものどもよりはSAN値が減りそうにないし、理屈に沿えば協力してくれるかもしれない。
「リリアンと廊下でぶつかるまで時間はある。それまでに、まずはゲノス先生に会いに行きましょう」
授業をサボって長い渡り廊下を通りゲノス先生の研究室に行く。
扉をノックすると返事が聞こえた。
「どうぞ」
「失礼いたします」
ゲノス先生は私を認めると、こめかみを痙攣させ頬を引き攣らせた。不機嫌さを現す表情なのだと思っていたけど、捉え方を変えると怯えているようにも見える。
「サヴィア公爵令嬢ですか。確か、この時間は授業がありましたよね? 一体何の用なんです?
授業を放棄してまで来たということは、さぞかし重要なお話なんでしょうね」
前言撤回だわ。やっぱりゲノス先生には嫌われている気がする。ひどい皮肉を浴びせられた。まあ、授業をサボっている生徒に優しくなんてできないでしょうから、仕方ないわ。
私はゲノス先生の興味を惹けるように、前回のループでゲノス先生自身が放った言葉を使うことにした。
「はい。重要なお話です。この世の真実の姿にも関わるお話ですから」
『真実の姿』にゲノス先生は眉をピクリと動かした。無表情のまま、ゲノス先生は私に椅子を指し示した。
「なるほど、よろしい、お座りなさい」
「ありがとうございます」
私は椅子に座った。使い古された椅子は脚の長さが揃っていなくて不安定だった。
「それで、話とはなんでしょうか」
体重が落ち着ける箇所を探すと、私は息を吸って吐いた。気持ちを落ち着かせるためだった。相手は神話生物、油断はできない。
「単刀直入にお尋ねします。ゲノス先生は、過去の宇宙からやってきたイースの偉大なる種族でしょうか」
「ど、どうしてそれを……!」
ゲノス先生は椅子から転げ落ちそうなほど動揺した。ずるっと腰が落ちそうになって、膝がカクカクと震えている。ただ、表情だけは一切変わらなかった。
「あ、あの先生? 大丈夫ですか?」
「なぜですっ! この文明人は魔法においては珍しい発展を遂げていますが、科学的技術は全くの未開レベルです。宇宙という概念すらも理解していないはず。それなのに、何故サヴィア公爵令嬢は私の正体を見破ったのでしょう?!
はっ! まさか、サヴィア公爵令嬢も私と同じイースですか? それなら納得できますね。サヴィア公爵令嬢はこの文明人にしては科学への理解が深かったですから。なんだ、それなら早く言ってくれれば私も警戒せずにすんだのに。
全く、同郷の出身だというのに今まで黙っていたなんて水臭いですね。
さぁ、サヴィア公爵令嬢。君もイースなのでしょう? 答えてください」
「いいえ、違います」
「な、なんですって!?」
無表情のまま、ゲノス先生は固まった。それから顔がみるみると青白くなった。これがSAN値チェックを受けている状態なのだろうか。SAN値チェックさせる体験は新鮮だった。ふーん、ふふふ。なかなか、クセになりそう。
「私は地球という惑星の人類です。と言っても前世が、ですが。ゲノス先生はあの高名なイースの大いなる種族ですから、地球という単語に聞き覚えがありますよね?」
「まあ、そうですね。ええ、ええ。確かに我々がその星に移住して去った1万年後に生まれた知的生命体が、地球と勝手に呼んでいることを知っています。貴女はその地球のヒト族なのですか? 精神交換を行ったのですか? 私が知っている限り、地球のヒト族の科学力では精神交換などできそうにありませんでしたが」
「私も良くわかりません。ですが、精神交換ではないと思います。ただ、生まれる前の記憶として地球での頃の生活を覚えているのです。地球で一生を終えた瞬間と、この国で生まれた瞬間をハッキリ記憶しています。精神を交換して対象の肉体に入り込むだけの精神交換では、自分が死ぬことはないですよね?」
「そうですね。貴女の言う通り、精神交換では死ぬことはありませんし、肉体が活動を終えたら精神交換もできません。
となると、私の知らない方法でヒト族の精神がこの星の肉体に宿ったことになりますね。それは、非常に興味深い。少し肉体を調べさせてもらえませんか? なに、痛くしません」
「いやだわ、よしてください。何ですかその怪しい右手の動きは。
近寄らないで。
だめですってば。
落ち着いてください!
それよりも、もっと重要なことがあるんですから!」
立ち上がり、私ににじり寄ったゲノス先生に魔法を飛ばして足を止めた。ゲノス先生は足元に絡んだ私の魔法をすぐさま解くと、椅子に深く座り直した。
「もっと重要なこと? なんですか?」
「実は、私は時間をループしているんです。今日から卒業式までの4日間を繰り返しているのです。ループの最後である卒業パーティーで必ず盲目白痴のアザトースがやってきて、世界が終わり3日前に戻ります。私が今日を過ごすのは、もうこれで……3回目です」
果たして信じてくれるだろうか。
私が躊躇いながら言うと、ゲノス先生は意外にも否定せずに頷きながら聴いてくれた。
「アザトースですか……。かの強大な邪神が現れたら確かにこの星など容易く破壊されてしまいますね」
「信じてくれるのですか?」
「もちろん。世界にはアザトースやヨグ=ソトース、ツァトゥグァなど大いなる存在がひしめいていますからね。ああ、ヒト族は文明レベルが低すぎて受け入れられず、個人の創作と誤解していましたね。
もし、貴女が信じられないのなら真夜中の図書館で、最奥にある扉の前でこの呪文を唱えなさい。扉の先で真実の知識に触れられるでしょう」
ゲノス先生はサラサラと紙に何かを書きつけると私に渡した。見れば、やはりと言うべきか。前回に貰ったあの怪文書めいた不気味な呪文が書かれていた。
「ゲノス先生、質問よろしいでしょうか?」
「どうぞ」
「この呪文は前回のループでも先生から頂いて、図書館の奥の扉で唱えました。すると、幹の中が本で埋められた奇妙な森に移動しました。あそこは、なんだったんです?」
「ほう。別の時間座標の私もサヴィア公爵令嬢にその呪文を渡したのですか。
その呪文はこの文明について粗方調べつくしたので、そろそろ元の円錐体の体が恋しくなったころに、精神交換を行おうとしたら見つけたものでしてね。いやあ、あれは驚きましたよ」
スラスラと話すゲノス先生は、放って置いたらいつまでも関係のないことを喋り続けてしまいそうだった。無口でクールな印象だったけれど、それは正体をバレないように気を張っていたからなのかもしれない。
「それで、あの場所は一体何なんです?」
「そうですね……ここの言語では適当な単語がなくて説明が難しいですね。
そうだ、サヴィア公爵令嬢は宇宙の形を知っていますか? 丸とか答えないでくださいね。難しいと思うのでヒントをあげましょう。ヒントは宇宙に端がありません」
ゲノス先生は教師らしい口ぶりで質問してきた。宇宙の形なんて当然ながら知らないし、朧げな記憶によれば、地球の学者達の間でも答えが出ていなかったはずだ。私は適当に浮かんだ答えを口にした。
「ドーナツ型でしょうか?」
「残念ながら、違いますよ。ただ惜しいです。
2次元上で端が無い宇宙を表現しようとすればドーナツ形になります。ちょうど紙を筒状にまるめた時のようにね。ですが、実際の宇宙は果てしなく広がる空間です。3次元上は、ですが。立体空間である3次元に時間の概念を加えた4次元空間においては、宇宙は閉じた形をしています。というのも、宇宙が誕生した時点で時間の座標は一通りに決まっていますからね。時間の座標が決まっているので、自然と閉じた形になります。
時間の座標が決まっていると聞くと、全ての運命が確定されているように思いますよね? 未来なんて変えられないと。ですが、実際には座標の各点における空間の状態は定まっていません。常に複数の可能性の間を揺れ動いています。しかし、ある方法によって座標を観測すると、状態が一つに集約されます。面白いですよね。私たちが立っているこの時間空間は観測者がいなければ決定されないんですよ。
まあ、とにかく、観測された時点で座標の状態が決定するという時空の性質を利用して私たちイースは意図した時空に移動しているんですよ。
私たちは時間を支配したと言われていますが、それでもわからないことはあります。例えば、この宇宙の時間座標はどのように決定されたのか? 一通りに決まるとは、何かしらの法則であったり、力が作用したと想像されますが、私の考えでは――」
難しい話になってきた。ただ、イースが前世の日本よりも遥かに進んだ知識を有していることは理解できる。ゲノス先生が当たり前のように言っている4次元空間の存在を地球では観測すらできていなかった。
「それで、一つに決まっている4次元の時間座標と、常に揺れ動いている3次元の空間で宇宙が構成されているとして、その宇宙の形のお話と、あの図書館の奥の不思議空間はどう関係しますの?
図書館の奥が宇宙の外にでも繋がっていると仰りたいの?」
「せっかちさんですね。これからが良い所なのに。
まあ、いいでしょう。
図書館の奥はですね、3次元では宇宙の果て、無限の彼方にあり、4次元では中心にあります」
まったくピンと来なかったので首を傾げていると、ゲノス先生が察して続けてくれた。
「説明しますと、3次元の果てならば宇宙で最も古い領域になります。しかし、4次元における中心は座標軸で言えば0。つまり、最も新しい領域になります。つまり、あの空間は宇宙で最も古い領域であり、同時に最も新しい領域であるのです。普通はこの二つが両立することはありえません。少なくともイースのこれまでの常識においては。ですが、何事にも例外はあります。私はあの場所に何度も通って調べた結果、ある仮説を得ました。なんだと思いますか?」
今度の質問に対しては私は考えもつかなかったので素直に答えた。
「さあ、見当もつきませんわ」
ゲノス先生は、もったいぶって大仰に深呼吸をした。まるで神聖な言葉を読み上げるように重々しく口を開いた。
「あそこは宇宙の特異点。宇宙の始まりであり終わりの場所。つまり、」
「つまり?」
「神の領域です」