彼女たちのピアノホール・後編
絶え間なく雨が降り注ぎ、濡れ鼠となったカトリが振り返る。
まさか来ることになるとは。
緊急時とは言え、彼女はここを忌避してるものだと思っていた。
「良かった。まだあったんだ」
彼女は慣れた様子で家の裏側に回り、郵便受けを開く。
それは二重底になっているようで、下から鍵を取り出し裏戸の扉を開け中に入っていく。
私もそれに続く。家の中は寂れた様子で薄暗く、ただ少しばかり品の良さそうな調度品が時が止まったように置かれていた。
「…………」
彼女はただ無表情に足を進める。
外は雷鳴。壁に当たって弾ける雨粒の音。その後ろに、はるか遠くから運ばれてきた途方もない雨音の群れ。
左右の扉には目もくれず、ただ何処かを目指して歩いていく。
この家はどこか居心地が悪い。
薄暗い廊下に敷き詰められた赤い絨毯は、何かの血液のようにどす黒く見える。
外から聞こえる雨音は悪魔の咆哮のように響いて鳴りやまない。
まるで蠢く魔物の腹の中に入ってしまった気持ちだ。
それはきっとここには――男の、彼女の母の、そして彼女の声の無い慟哭が渦巻いているからだ。
「ここで雨が止むまで過ごして行きましょう」
彼女の足が分厚い木目調の両手開きの扉の前で止まる。
そう言ってその扉を開く。
中は存外に広い空間であり、厚めのカーテンで敷き詰められている音楽室のようだった。
その中心には大きなグランドピアノ。
「ここでよく、母と一緒にピアノを弾いていました」
一息ついた私は鞄からランプとタオルを取り出す。
マッチでランプに火を灯し、明るくなった部屋の中で濡れた体をぬぐう。
「…………」
外は変わらず激しい雨音。
少し肌寒さを感じて、私たちは身を寄せ合う。
彼女の視線はあの大きなピアノに向いている。
ここに彼女が一心に目指した理由が何となく分かる。
魔物の腹の中にあって、何故かここだけは私の心を落ち着かせた。
ここは彼女と母の思い出の場所なのだろうか。
彼女の視線はあのピアノから離れない。
それは既にボロボロで埃を被り、屋根からいくつか弦が切れたように飛び出している。
このピアノは――何となく彼女と似ている気がした。
奏者が去ってしまい時が止まったピアノと、母が去ってしまい一人で残された彼女――
外の様子と相まって物寂しさを覚えてしまう。
「…………」
ピアノに視線を向けたままだった彼女がおもむろに立ち上がり、ゆっくりと近づいて椅子に腰を降ろす。
埃まみれなのも構わず、優しく鍵盤蓋に手を乗せる。
「先生、ピアノは出来ますか?」
学生の頃は良く弾いていたな。社会人となってからはすっかり触れる事も無くなってしまった。
私が口を開く前に彼女はそのまま言葉を続ける。
「私片腕だから難しい曲は出来なくて……だけど憧れていたんです、弾けたら楽しいだろうなって。
だから母に頼んで一緒に弾いて貰っていたんです。私が右手でメロディーを弾いて、隣で母が左手で伴奏を弾いて……」
そう言って鍵盤蓋を開けた彼女は、一つ白鍵を叩く。
ボーンと少しチューニングのずれた音が部屋に鳴り響く。
「…………」
右手で何かのメロディーをなぞるように鍵盤を叩く。
ただ部屋の中に彼女の音が響く。
それはショパンのノクターン第二番のようにゆっくりとした曲調だった。
「……こうして」
指の動きが止まる。
顔を俯かせ、声に嗚咽が混じ始めた。
「こうして、昔は、母と一緒に……。
母は、そんな私のわがままに、嫌な顔一つしないで……」
音が止まる。
力無く、その右手を下に落とす。
私は彼女の隣に座り、左手を鍵盤に乗せる。
「……先生」
ゆっくりと白鍵と黒鍵を交互に叩く。低音でどこか音程のずれたそれが部屋に響く。
時折、弦が切れて鳴らない鍵盤が間抜けに指の音だけをなぞる。
鍵盤を叩く。何処かで見た奏者のように、それっぽく。ゆっくりとゆっくりと、しかし力強く、雨音にそれがかき消されようとも、彼女の耳には届くように。しっかりと。
「…………」
彼女はじっと私を見つめて離さない。久々の指の動きに手がつりそうになるが、構わず鍵盤を指で弾く。
小指、人差し指、中指、薬指、親指。全ての指を不規則に動かす。左から右へ、右から左へと。crescendoを意識しながら。ゆっくりとゆっくりと。頬に暖かいものが触れる。
「先生……へたっぴですね……」
そう言って彼女も右手で鍵盤を叩く。
外は強風。雷鳴。壁に当たって弾ける雨粒の音。
それに負けないように二人で鍵盤をなぞる。
時折音がずれる。リズムが狂う。当たり前だ。壊れたピアノでお互い何の曲かも分からず、適当に合わせているだけ。
しかしその度、私たちは顔を見合わせて笑い合う。
ぐちゃぐちゃで支離滅裂な、まるで音楽の体を成していない伴奏とメロディー。
ただひたすらに、熱だけがこもった心の音。
今、この瞬間、ここだけは私たちの空間だった。
それは雨が止むまで続けられ、私はその間、彼女に三回キスをされた。
……
「君のお母さんはどんな人だったんだ?」
帰りの馬車の中、彼女に尋ねる。
雨はすっかりそのなりを潜め、空からは暖かな光が差し込めていた。
行きはつまらない話だった。だから帰りは楽しい話が聞きたい。
「母はとても優秀な人だったそうで、お父様とは遠くの大学で知り合ったそうです。見た目はお淑やかでほんわかした人なんですけど、内面は結構愛嬌のある人で「大学で一番の成績で優秀な私にお父様はメロメロだったのよ」と楽しそうに話していたのを覚えています。
そんな優しい母でしたが、怒ると怖くて怖くて……。私が勉強をしている時に退屈で逃げ出そうとすると、烈火の如く顔から火を吹かせて叱られました。それだけじゃなくて、歩き方やお茶の淹れ方、ピアノのお稽古や言葉使いなど、少しでも間違えるとすぐに般若のような顔をするんです」
彼女が自分の肩を抱いて震える演技をしながら話す。
般若って……中々に教育ママだったようだ。
だがそれでも一緒にいて楽しかったのだろう。何故なら彼女はこんなにも笑顔なのだから。
「先生と一緒に弾いた曲は母のお気に入りだったんですよ。けど先生がピアノを弾けるなんてびっくりしちゃいました。男の人で出来る人はあんまりいないと思っていたのに」
そうかな? 音楽は心を豊かにしてくれるし、楽器を弾くのは単純に趣味として楽しいものだろう。
まぁこの考えは豊かな現代で育った私だからこそかも知れないが。しかしピアノを弾くなんて久々過ぎて指が痛い。キーボードくらい鍵盤が軽かったら楽だったんだが、グランドピアノのそれは慣れないと重くて硬い。しかも所々壊れてるし。
そんな左手をにぎにぎしていた私をカトリがじーっと見つめてくる。うん? どした?
「先生ってもしかして元々貴族の方でしたか? お医者様で頭も良いですし」
いいえ実家はギリギリ東京の、周りが田んぼに囲まれた田舎にあるド平民ですが何か?
まぁこれを彼女に言っても仕方ないので適当にごまかす。
それでも彼女は訝し気な目で私を見ていたが、頭をポンポンと撫でるとすぐにコテンと私に肩を預けてくる。全く小動物みたいなのは変わらないな。
そうやって私たちは何処か間の抜けた空気を醸し出しながら、帰りの馬車に揺られ続けた。
……
やっと私たちの街に着いた頃には、日付が超えてしまう頃だった。
しんと静まり帰った街並みを家まで歩く。夜の風景と冬の寒さに何処か寂しさを感じてしまうが、隣の彼女の手から伝わる暖かさがそれを打ち消す。
彼女は少し眠そうだ。それも仕方ない、結局今日は一日かかってしまったな。
彼女は母に対して自分の気持ちを整理出来ただろうか。そうであったらいいなと心から思う。
暫く歩いてようやく診療所が見えてきた。ああ疲れたなと思いながらも近づくと何故か部屋から灯りが漏れている。
あれ、ランプをつけっぱなしで外に出てしまったっけ?
しかし何処か様子がおかしい。何故か人の気配を感じる。今日は休館日のはずだし、夜中に上がり込む人もいないはずだが……。
「先生……?」
彼女も様子がおかしい事に気が付いたようだ。分からないがこのままでいる事も出来ないだろう。
私は意を決して診療所のドアノブを握る。鍵がかかっていたはずのそれはすんなり開いてカランコロンと来客を知らせるベルが鳴る。
「ああようやく帰って着ましたか。お待ちしていましたよ先生」
そこにいたのは何時もの高級なスーツに身を包んだ件の奴隷商、ニコラスだった。




