彼女たちのピアノホール・前編
長くなってしまったので二つに分けました。
「先生朝ですよ。起きて下さい」
少し体をゆすられ、意識が覚醒してくる。うーんおはようカトリ。
あぁ頭がガンガンする。昨日は少し飲み過ぎてしまった。
しかし最近はこうやって起こされる事が日課になってきてしまったな。ううむ、少しだらしないか。
目を開けると彼女がスンスンと鼻を立てて何やら私の匂いを嗅いでいた。
え、何? どうかしたか?
「先生からお酒の匂いがします!」
そう言って彼女が私のシーツの中に顔を突っ込み、もぞもぞと動いてお尻をふりふりしている。
頭隠して尻隠さずスタイルである。ってそんな事より私はまだ起きていないんだぞ……。
君は朝から何をやっているんだ……。
「先生のお酒の匂いに、ちょっとドキドキしちゃいました」
シーツから顔を出した彼女がいたずらっぽい笑みを浮かべて口を開く。
匂いで酔っ払っているのかこの子は……。
しかし帰ってきてから風呂には入ったのだが。ごめん、臭かった?
「そんな事全然。何時もいい匂いです」
自分の匂いなんて分からないが、男っていい匂いするか? 君の方がいい匂いしていると思うが。
そんな朝からボケをかます彼女を横目に私は起き上がり、顔を洗うため欠伸をしながら部屋から出ていく。
彼女もそんな私の後ろに続いて歩いてくる。
今日は彼女に朝食作りを任せてみる。
彼女はじっとフライパンに視線を落として目玉焼きとベーコンが焼ける様子を睨んでいる。
そうそう良い調子だ。後は古典ギャグをかまさなければ大丈夫だ。
「そろそろいいかな。火を止めて塩コショウをかけて」
別に味に変化が出る訳ではないが、まだ固まっていない卵に塩コショウをかけると表面に凹凸が出来てしまうのだ。だからそれらは焼きあがってからのほうが見た目が良くなる。
一瞬砂糖に手を伸ばしそうになった彼女がギリギリでそれを引っ込めて、塩とコショウをつまんで振りかける。
何が彼女をそこまで砂糖に手を向かわせるのか……。
その後フライ返しで二つの卵焼きを切り分け、皿によそう。はい完成。
「ど、どうですか?」
テーブルについた彼女が不安そうに尋ねてくる。
見た目は問題ない。口に含んでも、うん上手に焼けている。塩味がちょっと濃いが全然問題無く食べられる。
「上手に出来てるよ」
そう言うと彼女はぱぁっと顔を綻ばせ「嬉しい! 先生ありがとう」と喜ぶ。
全く目玉焼きくらいで大げさだなと思いつつも、喜ぶ彼女の姿を見ていると朝から元気が貰える気がする。
そんな何時もの団欒を楽しみながら少ししょっぱい目玉焼きに舌鼓を打っていると、彼女からとあるお願いをされた。
「先生、来週の今日、行きたい場所があるんですが……」
……
ガタガタと座椅子が揺れる振動を感じながら、窓から覗く景色に目を向ける。
窓の外は広大な緑と田んぼが広がり、時折農作業を勤しむ人達が見て取れた。
私たちは今、馬車である場所へと向かっていた。
当たり前の話だが、元の世界の自動車とは比べ物にならないほどゆっくりと景色は進み、その風景に見慣れてきてしまった私は眠気を感じて大きな欠伸が出てしまう。
隣には私に寄り添うように肩を預けているカトリ。
その口元には静かな寝息を立てている。
手には色とりどりの献花と一輪の鈴蘭。
鈴蘭は墓に添える花としてはふさわしくないかも知れないが、彼女の母が好きだった花だ。構わないだろう。
今日は彼女の母親の命日だ。
今はその墓参りに向かっている所だった。
彼女の母親が眠る場所は診療所から遠い場所にあるらしく、とても徒歩では行けない距離らしい。
何でもそこは前に住んでいた家の近くにある共同墓地なのだとか。
前に住んでいた家――つまり前の主人の家の事だ。
その事を話す彼女はとても難しい表情をしていた。
無理もない。幼かった彼女が一人で母の葬儀を行える訳も無く、その手続きはその時の身近にいた人間――つまり前の主人が行ったことになる。
そしてその男は彼女の母をその実家では無く、近くの墓地へと埋葬した。
そこにある心はつまり――彼女の母を実家に渡したく無かったと言う事だ。
彼女の母の遺体を実家に渡したくない理由――そこにあるのは倒錯した愛情か、偏屈した嫉妬の心か――
それは彼女が母親に会いに行くたび、彼女にその事を思い浮かばせる。
それと同時に、その時受けたトラウマの過去も同様に――
「たぶん、前のご主人様は、お母様の事が好きだったんだと思います」
そう話す彼女の感情は分からない。
「あの人は母と話す時、とても楽しそうでした。母の体を心配し、何時も何か不満が無いか聞いていました。
母はそんなあの人の態度にいつも頭を下げていました。そうやって謝られるたび、あの人は何処か寂しそうな顔をしていたのを覚えています。
だけど母は――父の事を忘れられなかったのでしょう。ふとした時に見せる母の顔は、何処か遠くを見ているような気がしました」
彼女は窓に視線を移す。
それは何かを見る訳でも無く、ただ流れゆく景色をぼんやりと眺めていた。
「日に日に弱っていく母を見て、幼いながらも私は理解していました。もう助からないだろうと……。
だからお母様が亡くなった時、悲しかったです。泣きました。大声で泣きました。
でも――心のどこかは冷静でした。
嗚呼、とうとう亡くなってしまったのかと――
でもあの人はそんな現実を受け入れられなかったのかも知れません。
母の亡骸を自宅近くの墓地に埋葬した後は、毎日母に会いに行っていました」
その時の男の感情が伺える。
それは一種の現実逃避だった。
生きている間に受けれて貰えなかった感情は、その死後に自分だけの物になる。
そしてその心は次第に崩壊していき、行き場を失った感情はその娘へと向かって――
「私は本当はあの人を受け入れれば良かったのでしょうか……?
今思えば、あの人が変わったのは母が亡くなってからでした。
あの人は母の面影を私に重ねていたのでしょうか……?」
しかしそんな物は男の身勝手で独りよがりな感情だ。
それを無理やり押し付けられ、あまつさえ暴力を振るわれた彼女が気に病む事は無い。
私は彼女の肩を抱いてやる。
彼女は驚いた表情を浮かべ私を見上げたが、すぐに少し微笑みを携え力を抜いて私に体を預ける。
「先生、もっと強く……抱いて下さい……」
そう言って彼女は目を閉じる。
彼女の体温を感じなら、窓の外から覗くゆっくりとした景色を横目に私はそのまま目的地まで時間を過ごした。
……
途中休憩を挟みつつ、半日ほど馬車に揺られていた私たちは、ようやく緑しか見えない景色から解放され、一見して牧草的でのどかな街並みに足を踏み入れた。
レンガで出来た家の煙突から小さな白い煙が上がり、街沿いに流れる小川から水車がカラカラと回る音が聞こえる。
村と言うほど小さくは無いが、私の住んでいる街よりももっと旧然とした街並みのようだ。
「ここから少し歩いた所に母の墓があります」
街の入り口に付いた私たちは、馬車の御者に厩に停めておくように言い渡し、連れ添って歩き出す。
街の中はどこまでものどかで、近くの畑から収穫したであろう野菜を運ぶ業者や、幼い子供たちが走り回って遊んでいた。
ここが、彼女の前に住んでいた街。
隣で歩く彼女は右手に献花を携え、何時ものように静かに前を向いて歩いている。
その顔から追憶の感傷や郷愁の念は感じられない。
まだ市場に買い出しに行く時のほうが表情があるものだ。
当たり前か、この街には――色々な思いが渦巻き過ぎている。
今、彼女がその胸に馳せている思いは母親との思い出か、それとも過去のトラウマか――
遠くでゴロゴロと雷が唸る音が聞こえた。
空を見上げると、先のほうに大きく灰色の雲の塊が見える。一雨来るかも知れない。
途中、彼女の左手と隠し切れない傷跡に気づいた人たちがジロジロと不躾な視線を送ってくる。
彼女はそれを気にした様子も無く歩いている。
ただ少しだけ、何時もより私との歩く距離が近い。
今の彼女から分かる感情はただそれだけ、ただそれだけだった。
……
にぎやかな通りを抜け、段々と人通りが少なくなっていき並ぶ建物も寂しさを増していく。
そのまま歩き続けると、緑の壁に囲まれた墓地が見えてきた。
並ぶ墓石の中を、彼女は迷うことなく進み、そして一つの墓石の前で足を止める。
「……ここに母が眠っています」
その墓石は汚れが目立ち、周りにいくつも雑草が生えている。
もう何年も放置されている様子が伺えた。
「ずっと来れなくてごめんなさい、お母様……」
膝を折り、墓石に手を当てて呟く。
それは彼女が悪い訳ではない。監禁され、それからは奴隷として引き取られていた彼女にそんな自由は無かっただろう。
しかし、この荒れ様子ではいささか彼女の母が可哀想だ。
「カトリ、掃除をしてあげよう」
そう言って腰を落とし周りの雑草を引き抜く。
彼女も頷いて、私に倣う。
彼女が母と会話するにも、まずは綺麗にしてからのほうがいいだろう。
胸に手を当てた彼女は俯き、目を閉じている。
今彼女は母親とどんな会話をしているのだろうか。
自分を置いて去ってしまった悲しみや恨み、だけど自分を愛してくれた思い。
哀惜、遺恨、切望、恵愛、思慕――
どの言葉でも、今の彼女の気持ちを表すことに正しいように感じなかった。
先ほどの雨雲は既に頭上に来ている。
灰かかった天候はまるで、彼女の胸中を現しているように思えた。
十分ほど経っただろうか。目を開けた彼女が立ち上がり、こちらに振り返る。
「もういいのか?」
「はい、先生ありがとうございました」
彼女は母としっかり対話出来ただろうか。
そこまで時間は経っていないが、雨が降る前に帰ろうかと思っていた所でポツポツと水滴が私の頬に当たる。
「とうとうふってきたな」
上を見上げると稲光りが射し、空が灰色に膨れあがっているのが見えた。
水の塊は瞬く間に大きくなり、ザーッと言う音が一気にはじけ辺り一面を濡らしていく。
参ったな、周りに雨宿り出来そうな場所は無い。
「先生こっちです」
そう言って彼女が来た道とは反対の方向に駆け足で進んでいく。
やがて周りを取り囲む植物の壁の気配が消えると、目の前に古ぼけた屋敷と、それが雨に打たれる音が一塊になって現れた。
薄暗い景色と雨の様相と相まって、まるでホラー映画の舞台のような洋館だ。
人が住んでいる気配を感じられず、打ち捨てられたようにその家は、ただそこに佇んでいる。
この家は――
「ここは私が前に住んでいた家です」




