束の間の日常
シーツの中から聞こえる幽かな吐息が優しく耳に残り、少し目元を赤く腫らした彼女のあどけない寝顔が私の心を落ち着かせる。
時折鼻をすすってむずがる彼女は、まるで猫のように小さく丸くなりながら、私の手をぎゅっと握って離さない。
部屋の外はすっかり暗闇に覆われ、彼女から伝わる暖かな体温が、まるで世界に私と彼女の二人だけになってしまったような錯覚を覚えさせる。
「……せんせぃ」
寝言だろうか。目を閉じたまま小さく彼女が私を呼ぶ。
話をする彼女は普段通りに見えていたが、やはり緊張していたのだろう。
あの後彼女は――まるで糸が切れたマリオネットのように私に体を預け――そのまま眠ってしまった。
「…………」
彼女の目元に掛かった前髪を軽く流してやる。
私は机の上で揺れるランプの灯りに視線を移して考える。
彼女はその生まれ、育った環境、両親について、左腕について、虐待について、そして私に対する思いについて……その全てを話してくれた。
彼女はとても辛い過去を歩んでおり、それはありふれた言葉で慰めてあげる程度の事では解消出来ないだろう。
しかし、彼女は私を好きだと言ってくれた。
私の存在によって満たされる気持ちになると。
私はその言葉に対して、どう答えてあげればいいのだろうか。
確かに私は彼女の事を大切に思っている。それは紛れもない事実だが、しかしそれは同情心から来るものなのか、それとも彼女に対する異性としての愛なのか、分からない。
私は所詮恵まれた環境で生きてきた異世界人だ。
彼女はただ、そんな苦労を知らない男に優しくされて、騙されているだけかもしれない。
私は本当に、彼女の気持ちに答えてあげることが出来るのだろうか……。
分からないが、ただ一つ確実に言える事は、私も彼女と離れたくないと思っていると言うこと。
それはきっと、この先どんな困難が待ち受けていたとしても、変わらないと言う確信が私の中にあった。
……
「先生朝ですよ、起きて下さい」
耳元にカトリに声が聞こえる。
もう朝か、しかし頭が重い。昨晩はちょっと遅くまで考えすぎてしまったか。
くっついて離れたがらない瞼を頑張って開くと、何か蒼いものが見えた。うん?
それが何なのかよく分からなかったので、何となく手を伸ばしてみる。
手に触れた物は何だかサラサラで良い肌触りがする。
今だ寝ぼけている頭で、本能のままにその手触りをスリスリと楽しんでみる。
「ふふっ、先生ねぼすけさんですね。それは私の頭ですよ」
カトリの頭?
カトリの髪の毛の色は黒だったはず。ではこの蒼いものは何だ?
閉じかけていた瞼を開いて、再びそれと目が合う。
「お、おはようカトリ……」
「はい、おはようございます」
蒼いものの正体は彼女の瞳だった。
ちょっ! 顔が近い近い!
思わずベッドから飛び起きて離脱する。
彼女はベッドの前で肩肘を付いて私の顔を覗き込んでいたようだ。
私のあたふたした様子を彼女は別段気にした様子もなく、微笑みながら観察している。
「先生の寝顔が可愛くて、つい見とれちゃいました」
そう言って彼女は四つん這いになりながらじりじりと私の方に寄ってくる。
その顔は少し赤く染まり、目がとろんとしている。
あのカトリさん……?
「んっ……ふぅ……」
彼女はそのまま私の腰に抱きついてしまった。
心なしか息が荒く、体温が高い。
あのカトリさん、顔を洗いに行きたいんですが……。
「ごめんなさい、先生に触れたくて触れたくて、どうにかなっちゃいそうなんです」
そのまま私の胸に顔をぐりぐりと押し付けてくる。
とてつもなくスキンシップが積極的になっている……。
私は為すすべもなく、そのまま丁度いい位置にあった彼女の頭を撫で続けた。
……
一刻ほど経って、部屋から出た私達は一緒に並んで朝食を作る。
隣の彼女はさきほどの様子を感じさせず、いつも通りサラダを作っている。
ただなんとなく、いつもより近い位置にいるのは気のせいであろうか。
今朝の事をつい意識してしまいながらも、私は溶いだ卵を熱したフライパンの中に入れ、そのまま食パンを投入する。
お手軽朝食、フレンチトーストだ。砂糖の量はお好みで。
彼女は私の手際をじっくりと見つめている。
こんな料理で手際も何も無いのだが、関心したように「先生のお料理はいつも美味しそうです」と笑ってくれる。
ありがとうと答えながらちょっと引っかかった。そう言えば彼女にはあれ以来、サラダ作り以外に料理をさせていない。
これくらいならカトリでも出来るだろう、今度作らせてみてもいいかも知れない。
私がそう言うと、彼女は大きく喜んで「ありがとうございます」と笑う。
やはり女の子として料理に興味はあったのだろうか。
うっかりさえなければ、片腕なのを考慮しても、これくらいなら大丈夫だろうと思いつつ彼女を見ると、
「私、美味しいお料理をいっぱい覚えて、先生に食べて貰いたいです」
彼女の瞳は燃えていた。
右手をぐっと握りしめ、メラメラと燃えていた。
……やる気があるのはいい事だよね、うん。
どうも昨晩からの彼女の様子の変化に戸惑いを隠せない私だった。
私たちはリビングのテーブルについて朝食を食べる。
彼女はニコニコと美味しそうにフレンチトーストを頬張りながら、時折私と目が合うと恥ずかしそうにはにかんで少しだけ俯く。
彼女は昨晩の話で少しだけ心が軽くなってくれたのかも知れない。
その様子が私には嬉しく思う。
「あの、先生」
朝食を食べ終わった彼女が顔を赤くしたまま口を開く。
「昨日の先生の言葉、嬉しかった。胸が張り裂けそうなくらい嬉しかったです。
先生のくれるものは全部私の宝物です。物も、気持ちも、思い出も――
自分の本当の心に気が付きました。もうこの気持ちは止められません。……先生、大好きです」
そう言って彼女はとても幸せそうに微笑む。
自分の顔が赤くなっているのを感じる。
私は気恥ずかしくなってしまい、何も返せず横を向いて頬を掻いてしまう。
そんな私の様子を彼女は気にせずただ見つめた。
……
その夜、ベッドの中で横になりながら考える。
結局、今日一日私は彼女の好意に戸惑い続けてしまった。
大人しい子なのは変わらないが、目が合うと頬を赤くして顔を隠してしまったり、かと言えば突然くっついて切なそうな声を上げたり。
しかし、それを悪くないと思っている自分がいる。
彼女から受ける親愛の情を、心地よいものだと感じていた。
私は難しく考えすぎていたのかも知れない。
彼女は言っていた。過去は関係無いと、今が大切なのだと。
その通りだと思う。
私は彼女を大切に思っているし、彼女はそんな私を信頼してくれている。
ならばそれでいいじゃないか。
きっと私は彼女と同じ気持ちだろう、言葉にして伝える事は恥ずかしいのでまだ出来ていないが。
簡単な事だったのだ。
ならば私は、この日常を守るためにも行動しなくてはいけないな。
コチコチ……と時計の針の進む音が木霊する。
隣で眠っている彼女に視線を落とす。
彼女は変わらず安らかな寝顔を浮かべ、私の手を握っている。
私は彼女を起こさないように出来るだけそっと、それを離す。
名残惜しいがそろそろ行かなくては。
腰を上げ、彼女が眠る部屋から出て外に向かう。
冷たい風が私の頬を撫でる。もうすっかり冬と呼べる季節になったようだ。
その風に身を竦ませながら、ある場所へと向かって足を進めた。
目的のエリアに近づくにつれ、段々と人通りが多くなり、並んだ店の明かりも輝きを増していく。
店の中では、仕事帰りの労働者たちや遊びに来た酒飲み達がワハハと楽しそうに談笑しながら酒を煽っている。
ここはこの街の呑んべえ通りだ。私も人並みに呑めるほうだが、そう言えば最近はすっかり御無沙汰になっていた。
酒を楽しむ人々を横目にゴクリと喉を鳴らしながら、とある一件の店を目指す。全く先ほどまでシリアスな気持ちだったのに、私も現金なものだ。
店に入った私はキョロキョロと辺りを見回しながら、ある人物を探す。
「おーい、こっちだ先生」
目的の人物はすぐに見つかった。
彼は私の記憶の中の服装ではなく、ラフな茶色のジャケットを羽織り、既に顔を赤くして軽く出来上がっているようだった。
「久しぶりだな、先生」
「ええ、本当に。お久しぶりです」
その人物は世話になったあの闇商人の男。サーカスだった。