第8話 「船出と別れ」
満天の星空だった。
燦然とした煌めきを魅せる夜空はそれでいて、静謐な雰囲気を湛えている。
「綺麗……」
草原に仰向けで寝転がり、茫漠と空を見上げているのは可愛らしい顔立ちをした獣人の少女だった。
レーナ・ランズウィック。
猫耳をぴょこぴょこと揺らす彼女の胸中は、綺麗な夜空とは対照的に分厚い雲が覆っていた。
「わたしは…………どうしたいのかな」
ぽつりとした呟き。
当然、答える者は誰もいない。
『――――よう』
脳裏に蘇るのは、己の右腕を犠牲にしてレーナを救った少年――神谷士道の後ろ姿。
漆黒の魔導服をたなびかせた彼の背中はそのとき、何処までも大きく感じていた。
まだ会ってから一ヶ月ほどしか経っていないのに、できる限り彼の傍にいたいと思っている。
士道は少し感情表現が下手で、不器用だけど、暖かい優しさを持っていた。
彼のことを考えると、胸が締め付けられる思いだった。
「……好き、ですけど」
レーナは息を吐いて自分の手に目をやる。足りないものは、分かっていた。
彼の誘いを保留して、悩んでいた理由はその一点のみ。
――今のままでは、確実に彼の足手まといになるということ。
士道は第三級冒険者でランクこそレーナと一緒だが、その実力には天地に等しい差があった。
自分のせいで窮地に陥り、再び守らせてしまうほど情けないことはない。
血に染まる士道の姿は、もう見たくなかった。
「…………よし。決めました」
――それでも、彼の横で同じ道を歩んでいきたい。
なら、やるべきことは決まっていた。
レーナは元気良く立ち上がり、夜空へと手を伸ばす。
届かない星を、掴むように。
そして一週間が経過した。
朝焼けが目に染みる中、士道は下着と魔導服を着用し、腰に刀を吊り下げる。
食物やテント関連の旅支度を整え、荷物をすべて魔力袋に詰め込んだ。
宿屋の婆さんに、今までの礼を告げて外に出る。
アクアーリアの街並みには、今日も変わらない喧騒が響いていた。
今日でこの街から離れると思うと、少し寂しさを感じる。
異世界の街ながら、愛着が湧いていたのだろう。
「…………さて」
依頼の出発時刻まで時間がある。
眠たげな士道は欠伸をしながら、通い慣れた治癒院へ向かった。
雑踏を潜り抜けた先にあるボロい木造の扉を開く。
そこでは、腰の曲がった治癒術師の婆さんがのんびりと洗濯をしていた。
士道は軽い調子で手を上げる。
「よう、婆さん」
「……アンタか。まったく、今度はどうやって死にかけたんだい?」
「俺がここに来た時点で死にかける前提なのかよ」
「それが平常運行だねえ。否定できるのかい?」
「…………今日は怪我してないぞ」
「あら珍しい。ドラゴンでも降って来そうだね」
真剣な表情で窓の外を見やる婆さんにジト目を向けながら、士道は二階へと上がっていく。
窓際に目を向けると、ベッドで書物に目を通していたダリウスが、柔和な笑みを浮かべて顔を上げた。
「来ると思っていましたよ」
「……怪我の様子はどうだ?」
「まぁ、もう少しですかね。コルノさんの腕が良いおかげです」
「コルノ? ああ、婆さんのことか」
「名前ぐらい覚えてあげましょう」
「あの婆さん、ひねくれてるから教えてくれないんだ」
頭を掻く士道にダリウスは苦笑して、
「今日が出発でしたか?」
「ああ」
「気をつけて下さいね。魔大陸で新魔王ルドラが台頭し始めたおかげで、各国はピリピリしてます。港町では下手な行動を取らない方がいいですよ」
「……分かった。じゃあ、元気でな」
「さよならは言いませんよ」
背中を向けて去っていく士道にダリウスは華麗に手を振って、告げた。
「――また、会いましょう」
士道はその後も、この街で関わった人達への挨拶周りをした。
第三級冒険者"幻影"シドー・カミヤがアクアーリアを離れることは広まっていた情報のようで、驚いた様子を見せる者はいない。
「"幻影"の名声がここまで轟くことを待ってる」と言って笑ったガウス達。
「余裕があったら帝国の武芸大会に来いよ! ……む、俺か? 俺はもう腕を失くしたから出場しないけどな! ハッハッハ!」
胸を張り、快活に笑うのは隻腕のグランド。
「アルバートに会ったらよろしく言っといてくれ」とは、わざわざ出向いてくれたノーランド伯爵。
「達者でね。あたしはもともと定住するタイプじゃないから、また何処かで会うかもしれない」
そう言って、握手を求めたのはエレノア。
知人と呼べる者達に挨拶を済ませたせいか、妙に寂しさを覚える。
そんな柄ではないだろうと自重しながら、士道は古賀玄海の墓前にやってきていた。
玄海が好んでいた酒を魔力袋から取り出し、墓に捧げる。
この男から継承した技術を、絶対に無駄にはしないと胸に誓いながら。
「またな、爺さん。――俺は、前へと歩いていく」
片雲が風を誘い、魔導服を靡かせた。
士道はもう振り返ることはない。
決意の言葉だけがその場に残った。
「シドー、さん……」
士道が最後に寄る場所を見透かしていたのか、前方にはレーナが佇んでいた。
「……どうしたんだ?」
士道は柔らかい口調で問いかける。
彼女の瞳は悲しみに揺れていた。士道は思わず慰めてやりたくなったが、その行為は未練を生むだけだと思い直す。
一週間前、レーナは決めたのだ。
あの日の言葉が脳裏を過ぎる。
『――わたしは、ここに残ります』
『……そうか』
彼女が決めたことだ。寂しいが、仕方がない。
入院中も常に側にいてくれた彼女の存在は、いつの間にか士道の中で大きなものとなっていたのだ。
そのレーナは、目尻を下げて微笑む。
「また、会いましょう」
「……ああ」
「これ、形式的なものじゃありませんよ?」
それはどういう意味なのか。
不思議そうに首をひねる士道は、駆け寄ってくるレーナを何となしに眺めていた。
だからこそ、突然抱き締められたことに驚く。
「お、おい!?」
「あ。珍しいですね、シドーさんが慌てるの」
ふわっと甘い香りが鼻を通り、柔らかな胸が押しつけられた。
「にゃぁ」と、胸板をふさふさの猫耳がくすぐる。
士道の匂いを堪能したレーナは蠱惑的な微笑を浮べ、
「……今のままじゃ、わたしはシドーさんの足手まといにしかなりません」
耳元で囁くような声音だった。
よく見ると、その瞳には涙が見え隠れしている。
悲しみの混じったその言葉に、士道は何も言えなかった。ただ、綺麗な茶髪を梳くように撫でる。
「――いつか、今度はわたしがあなたを助けられるぐらい強くなって、また会いに行きますから」
「……本当に、いいのか?」
「わたしが欲しいのは信頼です。今のままじゃ、それは得られそうもありません」
そう言って、レーナは太陽のような笑みを浮かべる。
少し物足りなそうにしながら、士道の身体から身を離した。
「それじゃ、そろそろ時間ですよね?」
「っと、ちょっとヤバいかもな。走ることにするわ」
ばいばい、とレーナは手を振った。
士道は応えるように手を掲げて、港の方角へと走り出す。
――そして、ライン王国の港町レルヒムに向けて商船隊は出発する。
士道の目的地は、その街の先にある迷宮都市ローレン。
異世界の太陽が煌々と辺りを照らす中で、ハズレ術師は海に飛び出した。




