最終話 大好き。
「夢野さん」
クラス委員長として会議に出席中の優希君を待つため、図書館に向かおうと廊下を歩いていた私は、背後から呼び止められ振り返った。
私と同じくらいある長い髪をきつく三つ編みにし、仁王立ちする女の子の姿が、そこにあった。
唇は固く引き結ばれ、丸い大きなフレームの奥の瞳は、はっきりと私を睨んでいた。
この人は確か……。
「吉田……さん?」
「吉原よ、吉原! 同じクラスになって一月近くになるのに、真後ろに座ってる私の名前、まだ覚えてないわけ? 本当に頭悪いのね!」
噛みつかんばかりの勢いとつり上がった眦に、怒っているのはわかった。
だが、なぜそんなに怒っているのかは、さっぱりわからなかった。
まあ頭が悪いのは事実だし、人の名前間違えるなんて最大限に失礼だし、しかたないか。
「えっと、それで、なにか御用かしら」
内心かなり気落ちしたものの、努めて明るく尋ねた。
途端、更にきつい眼差しを向けられた。
「あなた矢神君と付き合ってるって本当?」
「矢神君って……優希君?」
「他に誰がいるっていうの! 本当に頭悪いわね」
立て続けに頭が悪いと言われ、いくら能天気と言われる私でも、さすがに傷付いた。
大体、私と優希君がお付き合いしているかどうかが、吉原さんにどう関係してくるのだろうか。
その前に、私と優希君の関係って一体なんだろう。
言われてみてあらためて考えてみた。
確かに同じ中学に通いたいとは言ってくれた。
でも優希君から「好き」と言われたことはない。
それでも付き合っていると言えるのだろうか。
「なにぼさっとしてるのよ! 付き合っているのかどうか聞いているのよ!」
「あっ、はい!」
あまりの勢いに思わず返事をしてしまった。
途端、吉原さんの顔が真っ赤に染まった。
握り締めた拳は小刻みに震え、瞳が燃えるように揺れていた。
「……似合わないわよ」
搾り出すように告げられた言葉の意味が、すぐにはわからなかった。
「あなたみたいな背と胸ばっかり大きいばかな女に、優希君みたいな聡明な子、全然似合わないわよ!」
最大のコンプレックスである背と胸のことを言われて、頭の中に衝撃波が走った。
「世間では女の方が大きい夫婦のこと、なんて言うか知ってる? 『ノミの夫婦』っていうのよ!」
「ノミ!?」
「そうよ、ノミよノミ!」
続けざまの攻撃に、頭の中はもうぐちゃぐちゃだった。
反論できず立ち尽くす私に、吉原さんは一歩踏み込み、思い切り下から睨みつけた。
「とにかく全然似合ってないからね。これは私一人の意見じゃないわ。皆そう思ってるんだから」
あまりのショックに泣くことも反論することもできず、去ってゆく後ろ姿を、私はただ呆然と見つめていた。
吉原さんの言葉は、ハッピー続きで舞い上がっていた私をへこませるには十分すぎるものがあった。
「どうしたんだ。舞子」
先を行く優希君が足を止め振り返った。
心配げな眼差しが、まっすぐに私をとらえる。
「なっ、なにが?」
「元気がない」
「そんなことないよ。ほら、数学の宿題、いっぱい出たでしょう。舞子、数学苦手だから終わるかなと思って」
「分からないところがあったら電話しろよ」
「ありがとう」
優希君は優しい。
気が利くし頭もいい。
落ち着いていて考え方も大人で、舞子とは正反対。
吉原さんの言うことは、かなり正しい。
「ところでおまえ、背伸びた?」
「うっ、うん。少し」
身長の話に胸が大きく痛んだ。
「この前の測定、いくつだった」
「……167」
「マジかよ。うらやましいな。俺なんて今年こそは160いくかと――」
「身長の話はしないで!」
道行く人が振り返るような大きな声で言葉を遮った。
「まっ、舞子?」
目を瞬かせ驚く優希君を気遣う余裕はなかった。
「私だってわかってる! 優希君と舞子が不釣合いなことぐらい!」
頭の中で吉原さんの言葉がリフレインする。
「そんなこと言われなくたってわかってる!」
「どうしたんだよ、舞子」
「世間では私達のことなんて言うか知ってる? ノミって言うんだよ! ノミ!」
「ノミ!? なんだよ、それ!」
「舞子頭よくないし、背ばっかり高くて全然だめだってこと、わかってるわよ!」
「落ち着け、舞子」
「それでも好きなんだもん! 好きで好きでしかたないんだもん!」
「舞子!」
一際大きな声と共に、両頬をピシャリと叩かれた。
痛みはない。
ただ、その音にびっくりして口を噤んだ。
両頬に手を置いたまま、まっすぐに見つめる優希君と視線が合う。
「誰に何を言われたか知らないけど、舞子はそいつと俺、どっちを信じる」
「……優希君」
「だったらよく聞け。俺は好きでもないやつと一緒に登下校したりしない。ましてや休日にわざわざ会ったりするほど心の広い人間じゃない。舞子が身長のこと、そんなに気にしてるとは思わなかった。そのことについては謝る。けど俺は全然平気だから。例え舞子が2mになろうが3mになろうが並んで歩けるから」
「優希君……」
嘘偽りのない眼差しに、私は嬉しさのあまり抱きついてしまった。
「わっ、ばか! こんな所で抱きつくなよ!」
慌てふためく優希君をよそに、抱きしめる腕に力をこめる。
「優希君、大好き!」
溢れ出る幸せから弾けた言葉に、優希君は諦めたように小さなため息をもらすと抵抗をやめた。
宥めるように、優希君の手が優しく背中を叩く。
その仕草に深い愛情を感じ、私はそっと目を閉じた。