第一集
眠気をごまかしながらシャーペンを握っている。いや、それはボールペンだ。慌てて憂はシャーペンに持ち変える。「ねむい」と言えば「かっこいいと思ってる」と言われるかもしれない。それは避けたい。
「ねむそうだね」
「本当にねむい」
「かっこいいじゃん」
ほら見たことか。誘導尋問じゃないか。
…そんなことはさておき、憂には悩んでいることがある。
「あの人って転校生?」
「どこ?」
「あそこ」
「ん?だれもいないよ?」
黒板の右端。カレンダーを隠すように立ち尽くす女の子が、雫には見えていないようだ。
少女は緊張しているように見える。横を人が通るたび、ビクッと体を震わせて目線を下げている。借りてきた猫みたいだ。
ん?
憂と目が合う。私を見てる?と言いたげな顔をして。
何かを話している。
怒っている?
助けを求めてる?ように見える。
とにかく、憂に向かって何かを発信している。声は届かない。多分、聞こえない。
「どしたの?黙って」
「…幻覚見えてきた。今日は早く寝るよ」
「おぉ、かっこいいじゃん」
舐めんなよ。心に留めておく。
「…舐めんなよ」
「言いすぎです」
「我慢できなかったわ」
他の人に見えていないものが見えている。それは呪いなのか、念なのか、悪魔なのか。いや、悪魔なら見えるか。憂はそれを妖怪だと踏んでいる。
「今日飯食べ行かない?昆布水の美味しそうな店、インスタのリールで見つけたんだよね」
「明日ならいくよ」
「すぐ帰るの?なんで?」
「ねむいから」
ニヤニヤする雫に威嚇しながら席を離れる。最近の流行りは「冷笑」らしい。グループは憂以外、全員部活動をしていて、高2で最後の大会が控えている。だから1人。決してボッチなわけではない。うん。決して。
なんだ?
声が聞こえる。何を話しているかは聞き取れない。
教室にいた女の子が走って追ってきている。恐ろしく無音。殺し屋かと思うほどの足音の無さだ。
いやいや違う。この人——————
「同じクラスの人だよね」
「うん」
少し、浮いている。
「名前なんていうの?」
「ほしやま、うい」
「うい君って呼んでいい!?」
「もちろん。あなたのお名前は」
「名前?そんなのないよ!」
はい、おわった。確実に人間じゃない。
「いや?」
「ん?いや?」
「いや、あります」
「そうなの?」
「そうです」
キョトンとした顔がムカつく。騙そうとするならもっと人間のことを知ってこい。
「じゃあ…しずくで!」
「幼なじみと被ってる」
「じゃあ、ゆう、とかどうかな」
「友達と被ってる。しかも男の」
「じゃあ…もうあやかしでいいよ、あやかしって呼んで」
「あ」
憂の疑いは確信に変わった。憂がひと知れず見てきたものは、やはり妖だった。
——————
「ただいま、おじいちゃん」
「おかえり」
コタツでパソコンをいじっている。MLBのニュース。大谷が19号ホームランをスタジアム上段まで飛ばしたらしい。憂が直面している問題など、どうでも良くなるほどの飛距離である。
「じいちゃん、話半分で聞いて欲しいんだけど」
「なんじゃ」
「俺、多分妖怪が見えるんだよね」
キーボードを触る手が止まる。
「そうか、それはドンマイじゃ」
「いやホントホント!からかってるとかじゃないよ!?話し続けるけど、横に今妖怪がいて、ちょっとの間家に棲みつくかもなんだけどいい?」
祖父の目は今、ホワイト•ソックスのハイライトに向いている。村上が怪我から復帰して一打席目から二塁打を放ったそうだ。おめでとう。いや、そんな話はどうでもいい。
「聞いてる?」
「そやつ、悪い妖怪ではないのか?」
「んー、たぶん。見た目はだいぶガキだし」
そう言った瞬間に、憂の頭が揺れる。何かが、頭を殴ったかのように見えた。それはあやかしの仕業である。
「まぁ、あったかい緑茶でも飲んで、心を落ち着かせるのがよいな」
憂はげっそりしている。信じられていなさすぎるからだ。まぁ無理もないか。
「後日、何か対策を立てようか」
あれ、意外と?真剣に取り合ってくれるのか?
「カブスがまた8連敗しているからのぉ、願掛けでもするか」
憂の眉間にシワが寄っている。祖父はスッと自室に戻った。
「やけに飲み込みが早いんだね、あの爺さん」
「信じてないだけ」
「それにしても、孫がこんな大胆な嘘ついても表情ひとつ変えなかったよ」
「どの口で嘘とか言ってるんだ」
座布団を用意したが、あやかしは断る。
「まぁ、良く言えば落ち着いてるってことだね」
「ボケてるだけね」
「殴るぞ」
「当たらないよ」
お茶はもちろん憂の分のみ。
「あやかしってさ、なんのあやかしなの?」
「もともとは雪女だったね」
「今は?」
「妖力が無くなってきて、もう山の守り神としては力不足で。山から離れて今後は都会で余生を過ごしてるって感じ」
「余生で高校生?痛々しくて見てられないじゃん」
透明の拳が飛んでくる。憂の頭がまた、揺れる。
あやかしは、異変に気づく。
なんで当たっている?
普通、人間には触れることができない。
そもそも、こいつは私の声を聞ける。
私の姿が見える。
それ自体、おかしいのだが。
「うい、いつから人が見えないもの見えるようになったの?」
「わからないよ。なんか最近、どうも…」
テーブルから湯呑みが離れない。ガッチリとくっついたように感じた。だが、その感覚は間違っていた。そもそも触れられていない。
「え?」
体が粘膜に包まれているように感じた。頭もうまく回らない。憂の手は、湯呑みを貫通していた。
「私を殴って」
憂はあやかしに腕を掴まれて、そのままあやかしの頬に拳を当てる。
「ちょ…大丈夫!?」
「こっちのセリフだね、それは」
「へ?」
「ういは人間じゃないみたいだね」
——————
起きる。朝日。そして雪女。
「すっごい暇」
「家事でも手伝ったらどう?」
「皿も服も、何も掴めないの」
2人は、朝っぱらから掴みどころのない会話をしている。
「別にうまくない」
「なんの話?」
「ういには関係ない」
あやかしはこちらを睨んでいる。ごめんなさい。
「学校は?」
「今日は土曜日」
「土曜日は学校ないんだ」
そんなのも知らないのかよ、と憂は洗面台に向かう。冷水で顔を洗って、少し伸びた髭を触る。この感触がたまらない。しかしこの行為は時間の無駄である。
「汚い」
「見にくるな」
「今は触れるんだね、水も歯ブラシも」
「…ひと通り終わったら、会議しよう」
「私に任せてよ」
あやかしは意気揚々と洗面台を出る。紙とペンを探して、脳内で現状把握と対策を書くイメージをする。しかしこの行為は時間の無駄である。なぜなら、ペンを握れないからである。残念だ。顔を膨らませて怒っている。
「なにから話す?」
「朝ごはんのネバネバしたやつ。あれは何?」
「どうでもええわそんなん」
反射的にエセ関西弁が飛び出す。柄にもなく、あやかしは笑っている。
「ういは、妖怪になるタイミングがある」
「はい」
「それはおそらく、妖力の波が原因」
「はい。詳しく」
会議、仕切り役はあやかし。書記は憂。
「妖力って体に纏わりついてるもので、基本的に妖力を纏っているのは妖怪。現実の生き物は全て例外なく妖力は持っていない」
「はい」
「ういはなぜか妖力を纏ってる。しかもムラがある。今はほぼ纏っていないけど、昨日の夕方は妖力があった。私の全盛期くらいのね」
「なるほど」
「理由は分からない」
ペンを持つ手が止まる。
「はい、質問です先生」
「なんだね」
「俺は最近、たまーに妖怪を見るんですけど、多分存在する全ての妖怪は見えてないんです。なぜですか」
「それは妖力の大きさが問題。妖力はガードみたいなものだから、妖力を纏う憂の目に、弱い妖力を纏う私が映るのはまぁ、当然」
「なるほど」
あやかしの少し悲しそうな顔を見て、憂はお茶を持ってきた。「飲めねぇんだよ」とキレ気味に言っている。
「妖力がゼロになれば妖怪は消える。私の命も、もうすぐだってことね」
「あらら」
「もっと悲しんでよ」
「昨日今日でそんなに感情的になれるかよ」
それでも、少しは悲しい。
目の前の人が、死を覚悟して落ち込んでいる姿は見ていられない。
それに、もう他人じゃない。
いや、まあ人じゃないけど。
「じゃあ、俺から妖力が無くなればいいんだな」
「そういうことだね」
「あげる」
「え?」
「妖力、あやかしにあげるよ。俺はいらないから」
「本当!?」
憂の肩を持とうとするが、すり抜ける。おっと、と体勢を崩して妖は座り直す。少し興奮したのか、恥ずかしそうに「失礼した」と謝っている。敬語使えたのかお前。
コホン。憂は仕切り直す。
「どうやったら渡せるの?妖力」
「それは——————わからない」
「妖怪の知り合いでさ、そういうのに詳しい人はいないの?」
「妖怪同士の妖力渡し合いは御法度だからね、あんまり他のやつに聞きづらくて…」
あ。
そういえば、いる。
「私の妹」
「妹?家族がいたのか?」
少し嫌そうな顔をしているが、あやかしは話す。
「妖に家族とかあるんだ」
「まぁ、人間でいうところの、仲間。ヤクザでいうファミリー。ラッパーでいうと兄弟。私も彼らも多分、血は繋がっていないから所詮はただの仲間って感じだけどね」
今度は、憂が顔をしかめる。
「どこで覚えたんだよ、ヤクザとかラッパーとか」
「ちょっと問題児でね、妹が」
襖が開く。8:30。祖父のMLB観戦の時間だ。
「じいちゃん、俺は自室に戻っておくよ」
「待って、うい。少し、昔の話聞かせて。なんでもいい。なんでういに妖力があるのか分かるかもしれない!」
理由は、妖力だけではない。
憂のことが、知りたい。
そんな単純な好奇心もあった。
あやかしの発言に割って入るように、祖父が口を開いた。
「…憂、スタメンは」
「えーっと、正捕手のスミスが帰ってきたから、ラッシングが抜けてスミスが4番。それ以外は一緒。先発は知ってると思うけどササキ」
ドジャースの先発は、佐々木朗希。前回の登板では6回1失点の好投を成し遂げたので、今回も期待大なのだ。
憂は思う。
俺、結構知ってるな、メジャー。
そんな真剣に見てないのに。記憶力いいのかな。
「そんなんどうでもいいって!」
あやかしが、取り乱している。珍しい。少なくとも憂にとっては、初めて見る光景だった。
「…じいちゃん、楽しみにしてるとこ悪いんだけど、お父さんの話聞かせてよ、詳しく」
祖父はゆっくりとこちらを向いてきた。その姿に、なぜかあやかしが挙動不審になっていた。
「老木の話か」
「佐々木じゃなくて星山の方ね」
「あいつはわしが昔辞めた仕事をこだわって続けていたな。お前も知ってるとおり、仕事の息抜きと称して、養子としてお前を育てることにした。母親はすぐ他界してしまった。だが、養子とは思えないほどの愛情を送っていたぞ」
「…仕事って何してたの」
「暗殺家じゃ」
「いやウソつけぇ!」
ハリセンで父の頭を振り抜く。一体、どこから持ってきたハリセンなのか、あやかしは困惑していた。
「本当は?」
「猟師じゃな。最近だと熊の駆除でよく聞くやつじゃ」
「じいちゃんはなんで辞めたの?」
「怖くなってな。狩りをするのが」
憂は、祖父の沈んだ表情を見るのが初めてだった。
「猿を撃った。子供を守っていた猿をな。その後、子供も撃ち殺した。猿の群れは子供を尻目に散って行った。後悔を残したかのような顔でな。まるでわしが非道な殺戮者みたいだった」
「こんな現場が何度かあった。やってられるか?だがあいつは猟師にこだわっている。未だにな。息子を置いて、それでもやりたいことがあったのだろう。やつを止めることができなかった、すまない」
「そう、ごめん」
「なにがじゃ」
「話したくない話だったよね」
「いつか知ることじゃ、気にするな。それに、あいつはお前を捨てたわけじゃない。気に病むなよ」
1番大谷は四球。2番パペスは三振。3番フリーマンは死球。
ウィル•スミスの打席を、あやかしは見ていた。
自分から聞いといて、なぜちゃんと祖父の話を聞かないのかと言われればそれまでだった。
内容はしっかりと聞いていた。だからこそ、あまり聞いてないフリをしていた。
血が繋がっていない父。子供を置いて仕事を優先しているそうだ。それは憂が養子だからなのか。
「ごめん、ごめんね、うい」
そう言いたかった。憂の顔を見ると、胸が握り潰されそうに痛かった。私の何気ない言葉は、憂にとっては槍のように鋭かったのだろう。
フルカウント。ピッチャーの投げたスローカーブは、スミスの足元に落ちた。待っていたかのように、スミスは足を開いて振り抜いた。
「捉えた」
実況と同時に、あやかしも「打った」と言った。
復帰直後のスリーラン。
あんな話をしていた憂と祖父が、笑顔でハイタッチをしている。
話したいけど話せない。
言いたいけど、言えない。
祖父がなぜ、あんなにメジャーを必死に見ていたのか、あやかしは理解した。
——————
寝床で、あやかしと憂が話をしている。母親の話だ。憂が5歳の頃、彼女は亡くなったそうだ。憂の記憶にあるのは、いつも遠目でこちらを見つめる姿だけだった。ご飯を振る舞う姿も、ういの世話をする姿もなく、ただ優しい目をして、嬉しそうな目をしてういを見つめていただけ。
それだけに、祖父の「愛情を送っていた」という言葉の真意が分からなかった。
「記憶が曖昧なだけじゃないかな」
あやかしはそう言っている。憂自身も、そう思っている。「名前すら知らないんだ」と言うと、あやかしはひどく驚いた。そして自分だけ家族の詳細を話さないのは不義理だろうと、嫌々ながらに妹の話を始めた。
「雪山を管轄する雪女は、その地に棲みつく妖怪が集まって民主的に決められる。私の妹は好奇心が強くてね、界隈のルールを破っては当時の雪女にいびられていた。ついでに私も怒られてた。だから私は妹が嫌いになって、私が雪女になって力を得てからは、暴れん坊だった妹の行動を制限した」
話せば途方もないくらいの悪行。妹も、妹を止めるためにあやかし自身も、それを行っていたらしい。話の途中で寝落ちした憂を、そっと撫でてあやかしは静かに目を閉じた。
そして翌日から、雪山乗り込み作戦が始まった。まずは買い出しから。
「これくらいなら防寒できるか」
「ムリだよ、ムリムリ。吹雪を浴びたことのない甘ちゃんがこんなアウター1枚でなんとかなると…」
「じゃあこれ」
「そんなモコモコしてる意味ない!登山用の服!探しに行くよ!」
2人は服屋から出て、スポーツ用品を扱う店に入る。
「これか?」
「これを着た人が、山の山頂付近で亡くなっているのを見たことがある」
「じゃあダメか…」
「いや、山頂付近まで来られるのならば、防寒着としては有効だ。他のアイテム探しに行くよ」
あやかしは、いつになく楽しそうにういを案内する。そんな中、他人の目を気にしながらういは歩く。
「あんれぇ何してんの1人で」
「なんでいるんだよ、しずく」
先導していたあやかしが振り返ると、そこには憂の幼なじみがいた。
「何それ」
「登山着」
「なんで」
「…じいさんが登山したいから買ってきて欲しいだとよ」
「自分で買い物にもいけない老人が、山に行くだって?止めなよ、じゃなきゃ私が止めにいく。あの人にはお世話になってるからまだ死んでほしくない」
「あーいや違う違う、ついで、ついでに買っといてって言われただけ。ってどうした?」
「なにが?」
憂がなんの前触れもなく、突然振り向いたことに、雫は困惑した。
「うい。どうしたの」
顔を近づけてくる。
やばい。何か、言い訳…。
憂の脳内は真っ白だ。
「そういえば、明日行こう。昆布水のつけ麺。俺にもあの動画回ってきて、美味しそうだったから」
「ふーん。おっけ。詳しくは明日聞くから覚悟しといてね」
パンパンの買い物袋を手に、雫は去った。
しずくと話をしている間、ういは後ろから肩に手をかけられていた。人には見えない、あやかしに。
「どうしたんだよあやかし、顔怖いぞ」
「関係ない。分かんないけどなんかむかついたの」
「しずくが?あいつも変な妖力とか持ってんのかな?全然あり得るけど、あいつなら」
「うるさい、もういくよ。早くついてきて」
それからはういは、あやかしの機嫌をとりながら自然に買い物を進めていった。
家に〜帰れば〜積水ハウス。じゃなくてボロい木造の家に2人は帰還した。
「たいそうな荷物じゃな。どれ、わしも手伝おうかい」
「じいちゃん、大丈夫。1人で運べるよ」
そもそも老人が荷物を運ぼうとするなよ。
憂は祖父の元気さに驚いている。いや、呆れている。
「まったく、すごいじいさんだね」
あやかしは感服している。
そのとき、祖父はなんだか嬉しそうな顔をした。
「…ん、立派に育ったなぁ、憂」
「突然なんだよ」
祖父はキッチンに戻り、鍋の蓋を外した。匂いが解き放たれる。今夜はビーフシチューのようだ。




