29.エピローグ2
ハルがいつもの特別室に移れたのは一週間前。ようやく一安心だと言われたのは、まだ昨日のこと。
手術から、一ヶ月近くが経過していた。
二度目の開胸手術の後もハルはまた高熱に悩まされ、何度かの心停止を起こした。
不整脈のコントロールが完璧じゃないから、まだ心電図は外せていないし、歩行も付き添い付きでトイレまで。
それでも、今では短時間ならベッドに起きていられるようになったし、大分顔色も良くなった。
特別室に移ってからは、オレも毎日、泊まり込んでいる。
三人掛けのデカいソファが実はソファベッドだと知ったのは、泊まり込むようになってから。
着替えや風呂に入りに家には帰るし学校にも行くけど、それ以外の時間はすべてハルの側にいる。
呆れつつも、誰も咎めないから、やっぱり結婚したのは大正解だったと心底思う。
最近、ハルは少し長い時間話せるようになってきた。
日に日に体調が良くなっているのを感じる。
「でもね、血栓が飛んだのが心臓で良かったんだよ」
二度目の手術について話をしていて、ハルがポンとそんなことを言った。
ハルの言葉に耳を疑う。
冠動脈が詰まるとは、平たく言うと心筋梗塞だ。冗談抜きで、健康な人がなっても命に関わる状態で、とても良かったとは思えない。短時間でも血流が滞ったハルの心臓の状態は、更に悪化している可能性も高い。
それはハルも知っているはずなのに……。
「あのね、」
オレの驚きに答えるように、ハルは続けた。
「一番怖いのは脳でしょう? 脳は後遺症がすごく怖いし」
「……ああ、確かに」
それは、怖いかも。
この上、頭蓋骨を切って開頭手術!?
……あり得ない。
そう考えると、確かに不幸中の幸いと言えなくもない。
だからと言って、この状況を素で「良かった」と言えるハルの精神力は本当にすごいと思う。普通なら、文句のひとつやふたつも言いたくなりそうなもんだ。って言うか、ぶつぶつ文句を言う方が普通じゃないかと思う。
昔から、ハルはいつもどこか達観している。
「それにね、ママは脳外科医でしょう?」
「うん」
「あんまり心労かけたくないし」
……って、よく分らない専門外より、自分の専門科の方が良くない?
いや、もちろん、脳に問題が出るのは勘弁して欲しいんだけど。
けど、ハルはオレが思っているのとはまったく違う事を考えていたらしい。
「家族の執刀はできないから、」
ハルがすべてを言い終わっていないと察していながらも、意外な言葉に、つい途中で口を挟む。
「え? そうなの?」
オレは、大切な人の手術なら自分がやりたいだろうし、するのだろうと、勝手に思っていた。
「だって、冷静にできないでしょう?」
「……確かに」
自分が助けたいと、その力があると思っていても、愛娘の身体にメスを入れて冷静でいられる訳ないという気がする。
あの豪胆なお義母さんなら……と思わないでもなかった。けど、もしもオレが神の手を持つ医者だったとしても、うっかり手が滑ったら、もしも自分のミスでハルに何かがあったら……そう想像しただけで、もうダメだった。
オレならきっと、手が震えて何もできない。
けど、ハルが言いたいのは、そういう事じゃなかったらしい。
「今、ママが脳外のエースだよ。なのに、違う先生に任せないといけないの。急な事だと外からお医者さまを頼む時間なんてないし」
「……あー、なるほど」
確かに、それは精神的にかなりシンドい状況な気がする。
「ただでさえ、いっぱい心配かけているし、忙しくて大変なお仕事だし……」
そこで、ハルは一度言葉を切って窓の外に目を向けた。
九月下旬の残暑。明るい日差しが差し込んでいた。
「お医者さまの仕事って激務でしょう? ママも昼夜関係なく働いているし……。ホント、これ以上の心労はかけたくないよね」
ハルはそう言うと、小首を傾げてオレをじーっと見つめ、なぜかニコッと笑顔を浮かべた。
「……ハル?」
ここまでの話の流れとハルの表情がつながらない。
オレの困惑をよそに、ハルはふわっと笑った。
「……カナがお医者さんを選ばなくて良かった」
「え?」
それ、どういう意味?
「……あ、ごめん。何か、変なこと言っちゃった」
「あ、いや。ただ……どういう意味かなって」
「えっと、……別にお医者さまが嫌って訳じゃないよ。わたしも、いつも本当にお世話になっていて、心からありがたいと思っているし」
慌てた様子でそんな事を言いながら、ハルは更に言葉を探す。
いつもは心の中で言葉を探して話す事が決まってから、ようやく口を開くハル。思った事をぽろりと口にしてから言葉を探すのは、本当に珍しい。
「えっとね……カナには病気じゃなくて、わたし自身を見て欲しいなって、そう思ったの」
ハルはオレを見て、またふわっと笑顔を浮かべた。
「お医者さまだと、わたしの中の病気を見るでしょう?」
「……えーと、そう……かな?」
「どうやったら、この心臓を治せるかとか、長持ちさせるにはどうすれば良いかとか、そう言うの、考えるでしょう?」
「……オレ、医者じゃないからよく分からないけど、……まあ、そうかも?」
ハルはオレの困った顔を見て、クスクス笑った。
「ママもおじいちゃんも、専門が心臓だったら良かったのにって、きっと思ってるんだよ。もちろん自分のお仕事に誇りを持っているんだよ。けどどこかで、そう思っているだろうなって……」
お義母さんからもじいちゃんからも、そんな話は聞いたことがない。
……けど、ハルが言う通りかも知れない。
子どもの頃に忍び込んだお義母さんの部屋には、心臓病関連の専門書が並んでいた。じいちゃんの院長室も同様に、心臓に関する専門書が並べられていた。
「だけどね、わたしは専門が違っていて良かったなって思うんだ。お兄ちゃんも、心臓以外にすれば良いなって思うんだけど……」
ハルは少し遠い目をした。
明兄は間違いなく卒業後の進路に、循環器内科か心臓血管外科を考えているだろう。もしくは、先天性心疾患を扱う小児循環器……。
ハルもそれは察している。
ハルはそれ以上、何も言わなかった。
誰のためであれ、明兄が自分で選んだ道に口を出すようなハルじゃない。
けど、きっと志望は変えないだろうと思いつつ、オレは機会があったら明兄にこの話をしてやろうと思うのだった。
「……カナ」
「ん?」
ハルが手を伸ばしてきたので、そっと握る。
相変わらず冷たいハルの手。けど術後すぐとは違い、今はそこにハルの生きる力のようなものを感じた。
「ごめんね」
「……え? 何が?」
「……しんどかったでしょう、最初の手術から、ここまで」
「ハル?」
しんどかったのはオレではなく、ハルだろ?
「わたし自身は寝てるだけで、何もできないんだけど、カナはきっと色んなことを聞かされて、判断させられて、えーと……何ていうか、今にも死にそうなわたしに会わされて……」
思いもかけないハルの言葉に、思わず口を挟む。
「ハル、オレは……」
けど、ハルはオレの言葉を遮って続けた。
「本当は、七月に手術を頼んだ方が良いと思ったの。そう、勧められたし」
ハルはオレの目を見つめた。
「けど、大きな手術で……危険だって言うのも分かっていて、だから、本当は、ダメだって分かってたんだけど、」
「……ダメ?」
「結婚したばかりで、……たった十日ばかりでわたしが死んじゃったら、あまりに申し訳なさ過ぎるでしょう?」
「ハル!?」
結局、危険だと言われても、オレはそんな覚悟は一瞬もしなかった。
絶対にハルは戻って来ると信じていた。
動揺はしたし、身の置き所のない不安な気持ちにもなった。けど、オレは、そんな未来は想像もしなかった。
「あのね、信じた未来がやって来るんだよ?」
思わず、言っていた。
そんな未来をイメージしちゃダメだと言いたかった。
どんなに嫌な言葉が頭をよぎっても、ハルは大丈夫だと信じていた。
オレは、ハルが元気になる未来を信じていた。
……ただ、それはオレの事情でしかない。
ハルの身体の状態はハルがそう思うだけの根拠があるくらいに悪くて、だからこその危険を押しての手術な訳で……、実際にハルは何度も生死の境をさまよっていて……。
だから、もし、ハルがそんな暗い未来に取り付かれてしまうのなら、オレはそんな未来は見るなと言うのではなく、それを吹き飛ばせる人間にならなきゃいけない。
なのに、思わず口にしていた。
信じた未来がやって来るはずだから、そんな楽しくない未来は想像するなよ……ハル。
途中で言葉を切り、その先を言えずに黙り込んだオレに、ハルは
「……カナ、分かってる。大丈夫だよ」
そう言って、優しくほほ笑んだ。
ハルはきゅっと、つないだ手に力を込めた。
「分かってるから、わたし、ワガママ言って手術を遅らせてもらったの」
「え? どういう事?」
「カナが側にいてくれたら、がんばれる気がした。ちゃんと結婚して奥さんになったら、カナとの未来を嫌でも見つめさせられると思った」
「……嫌でも?」
きっと、オレは変な顔をしていたんだろう。
ハルはくすりと笑った。
「変な言い方だね。……逃げ道を断ちたかったのかな? 難しいな。あのね、結婚って、結婚相手への責任があると思うの」
「責任?」
「そう。……何て言うか岩にかじりついてでも……、運命に逆らってでもカナと生きたいって、生きなきゃって思いたかった」
思いたかった。つまり、ハルはそれまで、そういう気持ちを持っていなかったって事。
あるがままに全てを受け入れるハル。
もしかして、そのままに死すらも受け入れようとしていたのか?
「だから、ワガママ言って結婚を先にしてもらった。わたし、カナが大変な目に会うのは分かってたのに……」
ハルはひたすらに申し訳なさそうな顔をする。
「本当にごめんね」
違うよ、ハル!!
それは謝るようなことじゃなくて……。
じんわりとお腹の奥底から暖かいものが溢れ出してきて、気がつくとベッドに上半身を起こしていたハルを抱きしめていた。
力を入れ過ぎないように細心の注意を払う。ハルの傷はまだ完全にはふさがっていない。
「ハル……」
髪をなで背中をなで頰と頰を触れ合わせ、ハルを堪能する。
愛しくて、愛しくて、仕方がなかった。
オレが半ばムリヤリ結婚を押し通したのだと思っていた。
それでも良いと思っていた。
オレは、それでもハルの一番近い場所に行きたかったから。
けど、ハルも望んでいてくれたのだと、そう分かったらもうダメだ。
一番しんどい時、他の誰でもないオレに側にいて欲しかったと……そんな事を言われたら、もうダメだ。
ハルの言葉って、つまりは、運命に逆らってでもオレと一緒に生きたいと思ってるって事だろ?
「愛してる、ハル」
感激でろくに言葉が出てきやしない。
「うん、わたしも……愛してるよ」
そう言いつつも、ハルはどこか不思議そうで、オレはそんなハルが愛しくて仕方ない。
オレがなんで喜んでいるのか、多分、ハルは気が付いていない。だけど、オレに身をゆだねてほほ笑んでくれる。
それだけで十分だった。
ハルが今、生きて、オレの腕の中にいて、オレと共に生きるのを望んでくれている。
それだけで、オレは十分に幸せだった。
☆ ☆ ☆
「もう、すっかり秋だね」
車を降り、色づきかけた庭の木々を見て、空を流れる羊雲を見上げてハルが言った。
十一月頭、入院から二ヶ月半近くが過ぎていた。
何度かの外泊を経て、ようやくこぎ着けた自宅療養。
「寒いだろ? 中に入ろう」
入院した時は半袖を着ていたハルが、コートを着て退院。
オレにはまだコートは不要。だけど、この入院で元々少なかった筋肉も脂肪も更に落ちてしまったハルに、秋の気温は若干厳しい。
「お帰りなさいませ!」
玄関先で、ハルは沙代さんに抱きしめられて、「ただいま」と抱きしめ返す。
「お部屋、暖めてありますよ。横になってくださいな」
「そんなに大事にしなくても大丈夫よ?」
確かに、病院は車で五分の距離。移動に疲れる程ではない。
「ハル、それじゃあ、リビングでお茶でも飲もうか?」
「うん」
ハルが嬉しそうに頷くと同時に、沙代さんがいそいそとキッチンへと向かった。
お茶を一杯飲んだ後、寝室に移動して、ベッドに腰掛けてひっくり返る。
「久しぶり!」
そう言うと、ハルも隣に座りクスクスと笑った。
「カナってば、毎日病院に泊まり込むんだもん」
「そりゃ、泊まるでしょ?」
オレは起き上がって、ベッドの上であぐらをかく。
「そう? 今まで、誰かが泊まっていったことって、一度もないんだけど」
ハルは小首を傾げた。
オレはハルの頬に手を伸ばす。
「ハル、オレたち、一応新婚だからね? これでも、いつもの部屋に戻るまでは我慢したんだよ?」
「……そりゃ、ICUはムリだよね?」
「ハールー」
思わず、後ろからハルを抱きしめる。
何かにつけて、やっぱりハルはオレより随分と淡泊だと思う。
「ハルは寂しくないの?」
「……んー。慣れてるしね」
確かに、いつだって一人で入院していたのだから、慣れているのかも知れないけど。
ハルはしばらくクスクスと笑った後、ふと黙り込んだ。
「……ごめん。……ウソ」
「ウソ?」
「本当はね……」
とハルは振り返って、オレを見上げた。
「本当は、カナと一緒にいられて、とても嬉しかった」
ハルはにこりと笑う。
「ありがとう、カナ」
ハルはスリッパを脱いでベッドに上がると、あぐらをかいて座るオレにぎゅっと抱きついて来た。
「わたし、入院するのがこんなに嫌じゃなかったの……初めてだった」
「ハ……ハル!?」
ちょっと待った!!
ここ、ベッドの上なんですけど!
ハル、もしかして、オレの忍耐力試してるの!?
って、そんな訳があるはずもなく、条件反射で抱きしめるとハルは無邪気にオレの腕の中で丸くなった。
「……やっぱり、家はいいね」
ハルはポツリとつぶやく。
オレはハルの頭をそっとなでた。
思えば、この部屋でハルとゆっくり過ごしたのは手術前の二泊三日だけだ。後は、様子見の外泊が数回。
……一人でこの部屋にいる時間は、本当に寂しかった。
二人のために用意した真新しい家具は、逆にハルの気配を消してしまって、いたたまれなかった。
けど、あの墨絵のように寂しかった部屋が、ハルがいる、ただそれだけで今はカラフルに色づく。
久しぶりの自宅に安心したのか、ハルはそのままオレの腕の中でうとうとし始めた。
「ハル、おかえり」
薄っすらと目を開けてほほ笑みながら、ハルは
「ただいま」
と返してくれた。
ここは、オレが子どもの頃から何度も遊びに来ているハルの部屋だけど、
今ではオレたち二人の寝室となった。
見慣れたハルのベッドやハルの勉強机や本棚は、もうない。
午後の日差しがレースのカーテン越しに部屋に差し込み、まだ真新しいオレたち二人分のベッドやデスク、本棚を照らした。
ハルのお気に入りのロッキングチェアだけが、昔と変わらず窓際に置かれていた。
オレは寝息を立て始めたハルをベッドに寝かし、そっと布団を掛けた。
「ハル、愛してるよ」
ささやき、ハルの額にキスを落とす。
眠るハルの髪を梳き、手を握り、そっと頬に触れる。
ハルの穏やかな寝息に耳を傾けながら、ようやく戻ってきたハルとの日常を噛みしめる。
まだまだハルは本調子ではない。
少なくとも一ヶ月は自宅療養をするように言われているし、一緒に学校に行ける日が来るのは、まだ当分先だろう。
だけど、朝目が覚めたらハルが隣にいて、夜寝る時にもハルが隣にいる。
夜中に誰かが見回りに来る事もなければ、深夜、他の病室から漏れ聞こえるざわめきに息をのむ事もない。
同じ部屋で、何に煩わされる事なく二人きりでいられると言うのが、どれほど幸せな事か……。
きっと、ハルはもっと元気になる。
開胸・開心手術の傷が癒えれば、以前よりは状態の良い心臓がハルを元気にしてくれる。
きっと……。
「ハル、愛してる」
オレは何度でも、ハルへの愛を口にする。
ハルへの愛しさが、尽きることなくあふれ出てくる。
「ずっと……一緒にいようね」
オレはハルとの幸せな未来を思い浮かべながら、永遠を誓った教会を思い浮かべながら、ハルの頬にそっとキスをした。
《 完 》
本編はこれで完結です。
残り、番外編が2つ続きます。
よろしければ、最後までお付き合いくださいませ。




