22 一方、サリクスがいなくなった後のヘレナとノエルは(上)
ヘレナ・セントアイビスは苛立っていた。
無理もない。姉であるサリクスが行方不明になった以降、彼女はその対応に追われていたのだ。
有名な新聞社がサリクスの誘拐を大々的に記事にした——正確には、彼女の両親がそう依頼した——せいで、王都ではその件を知らない者はいなかった。
王国で四つしかない公爵家の長女、しかも第一王子の婚約者が誘拐された、といった報道は世間に衝撃を与え、あらゆる噂が飛び交った。
やれ他の公爵家が娘を王妃にするために拐っただの、やれ実は想い人がいてそいつと駆け落ちしただの、中にはサリクスが自殺したのを隠しているのではないか、といった荒唐無稽な物まで人々は口にした。
暇な人間にとっては手頃な暇つぶしなのだろうが、当事者であるヘレナにとってはこれ以上ない苦痛だった。
無関係な人間に噂されるのは別に良い。職場の同僚も気を遣ってくれる。だが、社交界はそうはいかない。
他の公爵家に疑惑の目を向ける者、サリクスの不貞を疑う者、この件を機に娘をノエルに勧める者。一筋縄ではいがない者らが集まって、様々な思惑が渦巻いているのだ。
そんな中ヘレナは他の貴族と衝突を避け、やましいことはないと潔白を主張し、婚約者立候補の牽制もしなければならなかった。
まだ十六歳の彼女が貴族間の政治に対応しなければならなかった理由は、ただ一つ。
ヘレナの両親が、未だサリクスがいなくなった悲しみに暮れているからだ。
(お姉様が姿を消して、もう二か月以上も経っているのに。お父様もお母様も、まともに働いてくれないんだから)
ヘレナはため息を吐いた。母は部屋に引きこもっており、父は仕事をしているように見えてどこか上の空だ。そんな頼りない二人を、ヘレナは放っておいた。
愛娘が行方知らずになってたった半月で立ち直ることは難しいと、彼女も何となく理解している。だが、時間は待ってくれない。嘆いている間にも、他の人間は裏で動いているのだ。
セントアイビス公爵家が必死にもぎ取った次期王妃の座を、他人に横取りされてたまるものか、とヘレナ一人だけが奮闘していた。
(それに、お姉様の代わりに私が王妃にならなくては、意味がない。意味がないのよ)
黒曜石の瞳に、焦りが浮かぶ。
(やっと、やっと二人が私を見てくれるチャンスなの。ずっと、お姉様しか見てこなかった二人が、私を愛してくれる、唯一のチャンスなんだから)
ヘレナは気づいていた。
両親にとって、常に一番はサリクス。期待しているのも、関心があるのも姉一人。その次に、いや、それ以外という括りに彼女はいた。
ヘレナのことは、公爵家の血を絶やさないための存在としか扱われていないと、彼女は身を以て知っていたのだ。
幼い頃は、まだ両親から愛されていると自惚れていた。
一日中ずっと勉強漬けの姉に比べ、自分は自由だと。勉強が嫌なら放り投げても良い。ちょっとマナーを失敗しても怒られない。欲しいものは何でも買ってもらえて、お菓子だってどれだけ食べても何も言われない。
それに比べて、姉であるサリクスは厳しく躾けられていた。食事のマナーに不備があったら折檻をされ、勉強や稽古だって我儘を言ったらすぐに怒られる。欲しいものを与えられるどころか、気に入っていた私物を処分される始末。
姉だけは、両親の言うことを絶対に聞かなければならない。逆らうことも、口答えすることも許されない。
対して、自分は我儘を言っても、悪戯をしても許された。遊びたいときは遊び、寝たいときは寝る。姉との扱いの差に、ヘレナは両親から愛されていると勘違いした。
きっと、お父様とお母様は、お姉様が嫌いなんだ。
だっていつもお姉様にばかりマナーに厳しくて、怒ってばかりだもの。お勉強やお稽古が一日中ずっとあるのも、嫌がらせなんだわ。そうやって虐めているのよ。そうでなければ、お姉様のお気に入りのドレスを捨てるはずないわ。
お姉様、可哀想。愛されていたなら、私みたいに自由にさせてくれるのに——と、ヘレナはサリクスに同情し、そして優越感を覚えていた。
サリクスが希少な精霊使いであるに対し、ヘレナは至って凡庸な魔法しか使えなかった。生まれながら特別視される姉のことを、羨んだことがないと言えば嘘になる。
だが、そんな姉は両親に愛されず、自分だけが愛されている。魔法の能力が重視されるこの国において、唯一サリクスに勝っていることだと、ヘレナは誇っていたのだ。
だが、両親の愛を独占しているという幻想は、呆気なく砕かれた。
きっかけは、十歳の頃のことだった。ヘレナは友人の侯爵令嬢の髪飾りを褒めたら、彼女はこう返したのだ。
「ありがとう。これ、お母様と選んだの。魔法の先生に褒められたから、そのご褒美に買ってくれたのよ」
楽しそうに話す友人を見て、ヘレナも母と一緒に買い物をしたいと思った。
ヘレナはすぐに母であるルージュにそのことを伝えた。
今度、商人を家に呼んで宝石を買いたいと。お母様と一緒に選びたいと、ヘレナが話すと、ルージュは首を横に振った。
「急にそんなこと言われも困るわ、ヘレナ。お母様は忙しくて、そんな暇ないの。宝石は好きなだけ買っていいから、侍女のアリスと選んでちょうだい」
「いや! お母様と一緒に選びたいの! 忙しくないときでいいから、ヘレナに似合う宝石を買ってよ!」
「……わかったわ。時間ができたら、一緒に選びましょうね」
そう言って、ルージュがヘレナに宝石を買うことはなかった。
ヘレナはいつまで経っても一緒に買い物をしてくれないルージュを責め、泣きながら部屋に篭った。そのときはルージュが謝り、ヘレナが欲しがっていた人形を買って丸くおさめた。
だが、ヘレナはこれを機に違和感を覚えた。
姉であるサリクスには、母のルージュが付きっきりでドレスや宝石を選ぶのに、どうして自分とは買い物をしてくれないのだろう。
自分は姉よりも二人に愛されているはずなのに、なぜ母は時間を作ってくれなかったのか、と。
思い返せば、二人は欲しい物を買ってくれるが、私に時間を割くことは滅多になかった。
お父様とお話できるのは、いつも朝と夜の食事の時だけ。お母様も他の夫人とお茶会や夜会に行ったり、お姉様の躾けに忙しいから、やっぱり私に構ってくれない。
お出かけは四人で行くことが多いけど、たまに私だけを置いて三人で行ってしまう。ヘレナはまだ子供だからと言うけれど、なんでお姉様はいつも一緒なの? たった二つしか違わないのに。お姉様が次期王妃になるためよ、なんて、私だって王妃様になれるかもしれないのに。どうして私は置いていくの?
一度疑問を覚えると、違和感はどんどん大きくなっていった。
両親は何でも買ってくれた。勉強をしたくないと我儘を言っても許してくれた。ヘレナを叱ることも滅多にない。自分が泣けば、何でも言うことを聞いてくれる。欲しい物を与えてくれる。
ドレスも宝石も、人形も動物だって。手に入らなかったのは一つもない。
だけど。ああ、だけど。
物に溢れ返った、ヘレナの自室で——
——二人が、ヘレナのためにプレゼントを選んでくれたことは、一度もなかった。
ヘレナは、そんなはずがないと、必死に記憶を探った。
何度も何度も。二人との思い出を引っ張り出して、確認する。
だが、結果は変わらなかった。部屋にあるのは、どれもこれも自分から強請った物だ。
ドレスも宝石も、人形も動物だって。ヘレナから、欲しいといった物だ。
二人が選んでくれた物は、一つもなかった。
自分は両親に愛されているはずだ。それが、こんな。
まるで彼らは、自分に興味がないみたいではないか。
嘘だ、とヘレナはすぐに現実を受け入れられなかった。
両親からの愛情を信じていた彼女は、ある行動に出た。単純な作戦だ。
自分の十歳の誕生日。その時のプレゼントを、父と母に選んで貰おうと、ヘレナは考えたのだ。
二人が自分を愛しているなら、それくらいの時間は取ってくれるはず。
そうだ。お母様は、たまたま時期が悪かっただけ。二人が今までプレゼントを選んでくれなかったのだって、自分から強請ってしまうからだ。そうだ。そうに違いない。
だから、大丈夫。私は、お父様とお母様から愛されている。きっと、大丈夫。
ヘレナは不安を覚えながらも、早速両親にそのことを話した。
今年の誕生日プレゼントは二人に選んで欲しい。ヘレナが好きな物を、ちょうだいね、と。
両親は少し驚くも、すぐに快諾してくれた。彼女は安心し、誕生日を心待ちにした。
当日、彼らはヘレナの期待に応えた。
渡されたのは、魔法の杖だった。装飾が凝っており、彼女の好きな赤い宝石が付いた大きな杖。子供の背丈より長いそれに、ヘレナは喜んだ。
大きな魔法の杖は、ヘレナがずっと憧れていた物だった。上背ほどの杖を振るう魔法使いの姿がカッコいいと、子供ながら思っていたのだ。いつぞや話したそれを二人が覚えていてくれたなんて、とヘレナは嬉しくなった。
やっぱり、自分は両親に愛されている。ただの心配のしすぎだったんだ。良かった。
ヘレナは幸せな気持ちのまま、誕生日を終えようとした。
だが、ベッドに潜った直後、高揚した気分が落ち着かず、もう一度二人にお礼を言おうと、部屋を飛び出してしまったのだ。
ヒヤリとした廊下を渡り、まずは父親の書斎に向かった。すると、そこに侍女のアリスが入っていった。
ヘレナは不思議に思って、こっそりと扉を覗くと、父親のクラフトとアリスが話していた。仕事の話かと、ヘレナが離れようとしたとき、クラフトがアリスを褒めた。
「よくやった、アリス。やはり、ヘレナのプレゼントはお前に任せて正解だったよ」
ヘレナはピシリと固まった。
今、お父様は何て言った?
「ありがとうございます。しかし、ヘレナお嬢様は、旦那様と奥様が選んだのを欲しがっておりました」アリスが頭を下げながら、クラフトに言った。「今からでも、お嬢様に旦那様からプレゼントをお渡しできませんでしょうか?」
「なんだ、急に。それは前にも言っただろう。そんな暇ないと」
「ですが——」
プレゼントを任せた? アリスに、選ばせたの?
——お父様とお母様は、選んでくれなかったの?
嫌な汗をかきながら、ばくばくと鳴る心臓を押さえる。
そして、クラフトの言葉が、ヘレナに止めを刺した。
「くどいぞ、アリス。私は忙しいんだ。それに、私はヘレナの好みを知らない。そばにいるお前の方が詳しいのだから、お前が選んだプレゼントの方がヘレナも喜ぶだろう?」
「——っ!」
ヘレナは口を押さえ、その場から逃げた。
違った。自分の話なんか、父は全然覚えていなかった。
父は自分のことなんて興味ない。いや、母もだ。
二人は、ヘレナのことなど、どうでも良かったのだ。
ヘレナにだけ甘いのも、怒らないのも、欲しい物を買い与えるのも。忙しさを理由に、楽な選択をしているだけだった。二人がヘレナを愛しているからではない。ただただ、ヘレナに割く時間を惜しんだだけだ。
ヘレナは自室のベッドに戻り、一晩中、声を上げて泣いた。
そして、翌日、ヘレナは貰った魔法の杖を壊した。
二つに折れた杖を見ても、両親は何も言わなかった。
面白かったら評価・ブックマークをお願いします。




