第一話 男性が消えた日
録音を止めたのは、佐和が機械の音量を下げてからだった。
画面には一分十二秒と出ていた。真帆はその数字を見て、長かったのか短かったのか考えた。遼なら、一度再生して、ちゃんと入っているか確かめる。真帆にはそれができなかった。もし何も聞こえなかったら、今聞いた音まで間違いだったように思えてしまいそうだった。
「測ったところは、今の週数に合っています」
佐和が言った。
「心拍も確認できました。胎盤も、引き続き見ていきます」
「大丈夫、なんですか」
つまみを動かしていた手が止まった。
佐和は真帆の顔を見た。
「今の診察で、赤ちゃんは生きています」
真帆は待った。
「この先も大丈夫かどうかは、今日のことがなくても、一度の診察では約束できません。ただ、今の状態を確認して、必要な診療を続けることはできます」
さっき、もう少し嬉しそうに言ってくれればいいのにと思った。すぐに、その考えを引っ込めた。嬉しい言い方をしてほしかったのは、先生のためではない。
「はい」
真帆は、握っていた寝台の縁から手を離した。
佐和が機械を止めると、部屋には空調の音だけが残った。腹を拭くための紙を渡され、真帆は冷えたところを何度も押さえた。
起き上がるのを、佐和が待っていた。いつもの診察なら、もう次の記録に目を移している頃だった。
「ゆっくりでいいですよ」
真帆は寝台に座り直した。床へ下ろした右足を、佐和が見た。
「そこ、どうしたの」
足の甲が赤くなっていた。
「コーヒーが」
それだけ言うと、佐和は近くへ椅子を寄せた。
触られた途端に、ひりついていることが分かった。ここまで歩いてきたときには、サンダルの擦れる方が痛いと思っていた。
「熱かった?」
「たぶん」
「水は当てた?」
「拭きました」
佐和は顔を上げた。真帆の手も見ていた。
爪の脇に、黒い砂と乾いた血が残っていた。
「こっちは?」
「私のじゃないです。下で、子どもがけがして」
「そう」
それ以上は聞かず、佐和は立った。
戸を少し開け、看護師へ話しかけた。手を洗える場所と、真帆が少し休める場所を尋ねている。自分が休む人に含まれたことが、真帆には意外だった。
「帰れます」
佐和が振り返った。
「歩いてきたから」
「歩いてきたことと、今すぐ帰れることは別です」
叱る声ではなかった。それで、真帆は言い返せなくなった。
看護師が、車輪のついた小さな台を押してきた。濡らしたものと乾いたものを分けて置き、佐和と短く話す。
そのあいだに、真帆は腹の上へ服を戻した。
もう画面を見られない。
手のひらで確かめようとしたが、服の下には自分の皮膚の温かさしかなかった。
*
手を洗った後、診察室の向かいの小部屋へ案内された。
棚に畳んだシーツが積まれ、壁際に細い寝台が一つあった。座ると、紙の掛けものが乾いた音を立てた。
「お水、飲めますか」
看護師が紙のコップを置いた。
「ありがとうございます」
持ち上げようとすると、指がコップの縁へうまくかからなかった。両手で持ち直す。自分の手が震えていることに、そこで気づいた。
看護師は見ていたが、何も言わなかった。
「戸、閉めておきます。呼ぶときは、これで」
壁のボタンを指さした後、鞄を寝台の横へ寄せてくれた。
戸が閉まると、真帆は水を飲んだ。
一口目では喉を通らなかった。少し口に含んでから飲み込むと、急に、朝からほとんど何も食べていないことを思い出した。
食卓にはパンが残っている。遼が買った、いつものより少し高いパンだった。真帆が先週、そっちの方が好きだと言ったから。
どこかへ逃げたのなら、電話くらい持っていく。
そんなことを考えた。
逃げる理由などなかったし、服を置いていく理由もない。それでも、いないことの説明を一つ見つけるたびに、すぐ次の説明を探してしまった。
電話を出した。
母へかける前に、録音の一覧を開いた。
日付と時刻の下に、一分十二秒。何の音かを示す名前は、まだついていなかった。
触れてみる。
布の擦れる音がした。自分の息が、近くで聞こえた。
その向こうで、心臓が動いていた。
真帆は音量を下げた。
聞きたいのに、廊下まで聞こえるのは嫌だった。
自分でも、その嫌さの理由をうまくつかめなかった。さっき受付にいた人が聞いたら、どう思うだろう。この音が、自分の子のものだと分かったら。
録音を途中で止め、母へ電話をかけた。
一度目はつながらなかった。二度目は、呼び出し音が何回も続いた。
「真帆?」
母の声だった。
「つながった」
母が言った。
「何回もかけたんだけど」
「うん。私も」
「今、どこ」
「病院。いつものところ」
「どうしたの」
真帆は水の入ったコップを見た。
「診てもらった」
「お腹?」
「うん」
母の息が、一度止まった。
「赤ちゃんは」
「心臓、動いてた」
電話の向こうで、小さな音がした。母が鼻をすすったのだと分かるまで、少し時間がかかった。
「そう」
母は言った。
「そう、よかった」
真帆は返事をしなかった。
母も、その先を続けなかった。
二人が黙っているあいだ、電話の向こうでテレビの声が聞こえた。こちらの待合室でも、同じような調子の声が流れていた。
「お父さんは」
真帆が聞くと、母は息を吐いた。
「まだ。近所の人が来てくれてる」
「どこかに、連絡した?」
「警察。つながらないの。つながっても、今は順番にって」
母の声が、少し速くなった。
「お父さんの電話、ここにあるから。誰かが見つけてくれても、かけられないでしょう。だから、こっちから探さないと」
「うん」
「遼君の方は」
真帆は、自分の右足を見た。看護師が手当てしてくれたところに、白いものが当てられていた。
「まだ、いない」
母は何かを言いかけた。やめた。
「そっち、行こうか」
真帆はすぐに、うん、と答えそうになった。
来てほしかった。母が部屋の中へ入ってきてくれれば、床に落ちた服や、壊れたマグを、自分とは違う見方で見てくれる気がした。
でも、母の家からは電車を乗り継がなければならない。
「今は、来ないで」
「でも、一人で」
「動かない方がいいって言ってる。道も、事故があって」
言いながら、母は自分に同じことを言うだろうと思った。自分はその道を歩いてきた。
「先生に診てもらってるから」
「泊めてもらえるの?」
「少し、休ませてもらってる」
「今日は、うちに――」
母はそこで止まった。
互いの家に行くことが、いつもの相談ではなくなっていた。
「またかける」
真帆は言った。
「お母さんも、家にいて。誰か来てるなら、一緒にいて」
「真帆もね」
母が、少し強く言った。
「勝手に、大丈夫って決めないでね」
その言葉に返事をするまで、真帆はコップを持ったまま待った。
「うん」
電話を切った。
男の子だという話は、しなかった。
前の検査の後、母には、もう少しはっきりしてから伝えようと遼と話していた。どちらでも服を買い始めるに決まっているから、というのが遼の理由だった。真帆も笑って賛成した。
あのとき黙っていたことは、ただの楽しみの先延ばしだった。
今、同じことを言わずに済ませた理由は違った。
真帆は電話を、画面を下にして寝台へ置いた。
*
佐和が来たのは、紙のコップが空になってからだった。
戸の向こうで短く名前を呼ばれ、返事をすると、細い隙間から顔が見えた。
「少し話せますか」
「はい」
佐和は丸椅子を持ち込み、戸を閉めた。
白衣の袖が、今度は両方とも折られていた。
「お水、飲めた?」
「飲めました」
「何か食べた?」
「朝、少し」
佐和は廊下へ出て、すぐに戻った。小さな袋に入ったクラッカーを渡される。
「こんなのしかないけど」
真帆は受け取った。仕事の合間に誰かが食べるためのものらしく、袋の端に黒いペンで丸が書いてあった。
「先生のですか」
「食べていい方」
佐和は言って、椅子を引き寄せた。
真帆は袋を開けた。一枚を口に入れると、乾いた粉が舌に残った。噛んでいるあいだに、佐和が手元の紙を見た。
「先月の治療の後、今日はここで経過を確認する予定でした。記録は全部、うちにもあります。でも、追加で確認したいことが出るかもしれない」
「治療のせいですか」
佐和が顔を上げた。
「何が?」
真帆は腹へ目を落とした。
「この子が、いるの」
言ってから、いることを悪いことのように聞いたと思った。
佐和は、すぐには答えなかった。
「分かりません」
そう言った後、紙を膝の上へ置いた。
「治療を受けたことが、今日のことと関係しているかどうかは、今の私には言えません」
「でも、ほかの人は」
真帆は戸を見た。
佐和も一度、そちらを見た。
「赤ちゃんが見つからなくなった方を、今日、診ています。一人ではありません」
佐和の声は、廊下へ聞こえないくらい低かった。
「今朝、私が心拍を確認した方もいます」
真帆は、口の中のものを飲み込めなくなった。
午前と午後のあいだで、あの画面から、あの音がなくなる。
それなら、自分の一分十二秒も、次の診察までをつないでくれるわけではない。
「男の子だったんですか」
佐和は少し黙った。
「これまでの検査で、そう伝えられていた方はいます」
「みんな?」
「私が今日診た人だけのことで、全体を言うことはできません。それに、今は、記録を確かめられないところも多い」
真帆はクラッカーの袋を膝へ置いた。
「遼も、男だからですか」
自分の声が、硬くなっていた。
「ご主人に何が起きたか、私にはまだ説明できません」
「テレビは、そう言ってる」
「私も聞きました」
佐和は、真帆の返事を待った。
真帆は何も言えなかった。
分からない、まだ言えない。どれも必要な言葉なのだろうと思った。でも、それを聞くたび、座っている場所が少しずつ小さくなるようだった。
「今日はね」
佐和は、膝の上の紙を持ち直した。
「次に誰に診てもらえるかを、ここで決めておきたいんです。電話がつながらないまま、具合が悪くなると困るから」
真帆は顔を上げた。
「ここじゃ、駄目ですか」
「ここでできることは、続けます。ほかの病院にお願いした方がいいことがあれば、そのときは話します」
佐和が紙を一枚渡した。
診療所の名前と番号があり、その下に、手書きの字が並んでいた。真帆が知っている総合病院の名前もある。
「受け入れられるところを、今、確認しています。連絡が取れたら、こちらからも電話します。つながらない場合のことも、書いておきました」
真帆は紙を両手で持った。
自分の先に、次の診察がある。
そのことが、診察の結果を聞いたときとは違うところに届いた。
「お一人で住んでいるわけじゃないよね」
「遼と」
答えてから、二人とも黙った。
佐和は言い直さなかった。
「今日、一緒にいられる人はいますか」
真帆は隣の部屋に住む樋口さんを思い浮かべた。自分の夫もいなくなったのに、けがをした子のためにタオルを集めていた。
「隣の人に、聞いてみます」
「聞けそう?」
「はい」
今朝までは、隣の人にそんなことを頼む理由はなかった。醤油が切れたことさえ、少し遠い店へ行けば済んだ。
紙をしまおうとして、青い袋を出した。
「これ、持ってきました」
佐和は封筒の中を見て、うなずいた。何枚かを順に確かめ、もとの向きで戻す。
「この控えは、持っていてください」
「出さなくて、いいですか」
「うちにある分と同じです。ほかで診てもらうとき、必要になるかもしれないから」
封筒を返された。
上の角に、遼が折った跡があった。鞄に入るようにしたのか、別の紙と間違えたのか、分からなかった。
真帆は折れたところを指で伸ばした。
「先生」
「はい」
「この子のこと、どこかに言いますか」
佐和の指が、紙の端から離れた。
真帆は戸を見た。
「男の子が、まだいるって」
声にすると、さっきまでの診察とは違う話になった。
まだ生まれてもいない。自分の腹の中にいるだけなのに、誰かがそのことを知りたがるかもしれない。
テレビに出ていた高速道路を思い出した。画面を見ていた人が、その後で自分へ顔を向けるところを想像した。
「誰に知られるのが心配?」
佐和に聞かれて、真帆は困った。
誰か一人の顔があるわけではなかった。
「分かりません。でも」
封筒を抱え直した。
「聞かれたら、答えないといけないんですか」
佐和は椅子へ座り直した。
「診療に関係のない人へ、あなたのことを話すつもりはありません」
真帆はその言葉を聞いて、肩を少し下げた。
「ただ、赤ちゃんとあなたを診るために、ほかの医師と相談することはあると思います。何も伝えないと、診療ができなくなることもある」
「名前も?」
「名前を出さずに相談できることもあります。実際に診てもらうなら、必要な記録を渡さなければならない」
真帆は、封筒の端を押さえた。
自分はこの紙を持って、ここへ来た。先生には、正しく見てほしかった。
「伝えるとき、先に教えてください」
佐和はうなずいた。
「相談の仕方も、話しましょう。急いで診療しなければならないときには、待てないこともあります。でも、あなたを置いて話を進めないようにします」
ずっと誰にも言わないと約束してくれたわけではなかった。
真帆は、それをもう一度頼もうとして、やめた。
「今は、男の子ってこと、外では言いたくないです」
「分かりました」
佐和は答えた。
その声を聞いても、真帆はすぐには封筒を鞄へ戻せなかった。
*
小部屋を出たとき、待合室の時計は二時を過ぎていた。
元の予約なら、今から診察を受けるはずだった。
受付の椅子に、さっきの女性が座っていた。両手を膝へ置き、壁の方を向いている。隣の席には別の女性がいた。二人の肩は触れそうなくらい近かった。
真帆は、鞄を身体の脇へ寄せた。
受付で手帳を返してもらう。中に、今日の画像が挟まれていた。
「お会計は、後日で大丈夫です」
看護師が言った。
「先生が、帰る前に一度声をかけてって」
真帆はうなずいた。
手帳の厚みが、来たときと違っていた。増えたのは薄い紙一枚なのに、持っていることが隠せない気がした。
隣から、声をかけられた。
「診てもらえました?」
別の椅子に座っていた女性だった。鞄の持ち手を両手で握っている。
「はい」
真帆は答えた。
「先生、いるんですね。さっきのところ、誰もいなくて」
「いらっしゃいます」
女性は、診察室の方を見た。
「よかった」
そう言って、持ち手から片方の手を離した。
真帆は、それ以上聞かれると思っていた。お腹の子はどうだったのか。男の子なのか。どうして自分だけ、手帳に画像を挟んでもらえたのか。
けれど女性は、そのどれも聞かなかった。
真帆は自分の鞄を見た。
肩にかけた紐を、少し緩めた。
佐和が診察室から出てきた。別の患者のために看護師と話し、その人が中へ入ってから、真帆の方へ来た。
「隣の人に、聞いてみてくださいね」
「はい」
「連絡先は、今の電話でいい?」
「これで」
鞄から出そうとすると、佐和は、番号は分かっているから大丈夫、と言った。
「音、消さないでおきます」
真帆は言った。
診療の相談には関係のないことだった。なぜ先生に言ったのか、自分でも分からなかった。
佐和はうなずいた。
「うん」
廊下から、名前を呼ぶ声がした。
佐和はそちらへ顔を向けた。
「気をつけて」
そう言って、戻っていった。
真帆は診察室の戸が閉まるのを見た。
さっきまで、その向こうで自分の子を見ていた。今は別の人が座り、同じ画面を見ている。
何も聞こえない。
真帆は出入口へ向かった。
外へ出る前に電話を出し、樋口さんの名前を探した。以前、留守中の荷物を預かってもらったときに番号を交換していた。かけたことは一度もなかった。
呼び出し音が続いた。
四回目で、返事があった。
「朝倉さん?」
「すみません。真帆です」
「今、どこにいるの」
「病院を、出るところです」
そこから先の言い方を、考えていなかった。
少しだけ、今日だけ。そうつけ足せば、頼みやすくなる気がした。
真帆は鞄を持ち直した。
「帰ったら、一緒にいてもらえませんか」
電話の向こうで、樋口さんが息を吸った。
「私も、頼もうと思ってた」
真帆は、出入口の前で立ち止まった。
「うちでも、そっちでもいいから。帰ったら、声かけて」
「はい」
その返事は、すぐに出た。
電話をしまい、戸を押した。
湿った風が入ってきた。雨は降っていなかった。門の外では、誰かが止まった車を避けて歩いていた。
真帆は、足元を確かめてから、一歩を出した。




