↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
2/2

第一話 男性が消えた日


 録音を止めたのは、佐和が機械の音量を下げてからだった。


 画面には一分十二秒と出ていた。真帆はその数字を見て、長かったのか短かったのか考えた。遼なら、一度再生して、ちゃんと入っているか確かめる。真帆にはそれができなかった。もし何も聞こえなかったら、今聞いた音まで間違いだったように思えてしまいそうだった。


「測ったところは、今の週数に合っています」


 佐和が言った。


「心拍も確認できました。胎盤も、引き続き見ていきます」


「大丈夫、なんですか」


 つまみを動かしていた手が止まった。


 佐和は真帆の顔を見た。


「今の診察で、赤ちゃんは生きています」


 真帆は待った。


「この先も大丈夫かどうかは、今日のことがなくても、一度の診察では約束できません。ただ、今の状態を確認して、必要な診療を続けることはできます」


 さっき、もう少し嬉しそうに言ってくれればいいのにと思った。すぐに、その考えを引っ込めた。嬉しい言い方をしてほしかったのは、先生のためではない。


「はい」


 真帆は、握っていた寝台の縁から手を離した。


 佐和が機械を止めると、部屋には空調の音だけが残った。腹を拭くための紙を渡され、真帆は冷えたところを何度も押さえた。


 起き上がるのを、佐和が待っていた。いつもの診察なら、もう次の記録に目を移している頃だった。


「ゆっくりでいいですよ」


 真帆は寝台に座り直した。床へ下ろした右足を、佐和が見た。


「そこ、どうしたの」


 足の甲が赤くなっていた。


「コーヒーが」


 それだけ言うと、佐和は近くへ椅子を寄せた。


 触られた途端に、ひりついていることが分かった。ここまで歩いてきたときには、サンダルの擦れる方が痛いと思っていた。


「熱かった?」


「たぶん」


「水は当てた?」


「拭きました」


 佐和は顔を上げた。真帆の手も見ていた。


 爪の脇に、黒い砂と乾いた血が残っていた。


「こっちは?」


「私のじゃないです。下で、子どもがけがして」


「そう」


 それ以上は聞かず、佐和は立った。


 戸を少し開け、看護師へ話しかけた。手を洗える場所と、真帆が少し休める場所を尋ねている。自分が休む人に含まれたことが、真帆には意外だった。


「帰れます」


 佐和が振り返った。


「歩いてきたから」


「歩いてきたことと、今すぐ帰れることは別です」


 叱る声ではなかった。それで、真帆は言い返せなくなった。


 看護師が、車輪のついた小さな台を押してきた。濡らしたものと乾いたものを分けて置き、佐和と短く話す。


 そのあいだに、真帆は腹の上へ服を戻した。


 もう画面を見られない。


 手のひらで確かめようとしたが、服の下には自分の皮膚の温かさしかなかった。


     *


 手を洗った後、診察室の向かいの小部屋へ案内された。


 棚に畳んだシーツが積まれ、壁際に細い寝台が一つあった。座ると、紙の掛けものが乾いた音を立てた。


「お水、飲めますか」


 看護師が紙のコップを置いた。


「ありがとうございます」


 持ち上げようとすると、指がコップの縁へうまくかからなかった。両手で持ち直す。自分の手が震えていることに、そこで気づいた。


 看護師は見ていたが、何も言わなかった。


「戸、閉めておきます。呼ぶときは、これで」


 壁のボタンを指さした後、鞄を寝台の横へ寄せてくれた。


 戸が閉まると、真帆は水を飲んだ。


 一口目では喉を通らなかった。少し口に含んでから飲み込むと、急に、朝からほとんど何も食べていないことを思い出した。


 食卓にはパンが残っている。遼が買った、いつものより少し高いパンだった。真帆が先週、そっちの方が好きだと言ったから。


 どこかへ逃げたのなら、電話くらい持っていく。


 そんなことを考えた。


 逃げる理由などなかったし、服を置いていく理由もない。それでも、いないことの説明を一つ見つけるたびに、すぐ次の説明を探してしまった。


 電話を出した。


 母へかける前に、録音の一覧を開いた。


 日付と時刻の下に、一分十二秒。何の音かを示す名前は、まだついていなかった。


 触れてみる。


 布の擦れる音がした。自分の息が、近くで聞こえた。


 その向こうで、心臓が動いていた。


 真帆は音量を下げた。


 聞きたいのに、廊下まで聞こえるのは嫌だった。


 自分でも、その嫌さの理由をうまくつかめなかった。さっき受付にいた人が聞いたら、どう思うだろう。この音が、自分の子のものだと分かったら。


 録音を途中で止め、母へ電話をかけた。


 一度目はつながらなかった。二度目は、呼び出し音が何回も続いた。


「真帆?」


 母の声だった。


「つながった」


 母が言った。


「何回もかけたんだけど」


「うん。私も」


「今、どこ」


「病院。いつものところ」


「どうしたの」


 真帆は水の入ったコップを見た。


「診てもらった」


「お腹?」


「うん」


 母の息が、一度止まった。


「赤ちゃんは」


「心臓、動いてた」


 電話の向こうで、小さな音がした。母が鼻をすすったのだと分かるまで、少し時間がかかった。


「そう」


 母は言った。


「そう、よかった」


 真帆は返事をしなかった。


 母も、その先を続けなかった。


 二人が黙っているあいだ、電話の向こうでテレビの声が聞こえた。こちらの待合室でも、同じような調子の声が流れていた。


「お父さんは」


 真帆が聞くと、母は息を吐いた。


「まだ。近所の人が来てくれてる」


「どこかに、連絡した?」


「警察。つながらないの。つながっても、今は順番にって」


 母の声が、少し速くなった。


「お父さんの電話、ここにあるから。誰かが見つけてくれても、かけられないでしょう。だから、こっちから探さないと」


「うん」


「遼君の方は」


 真帆は、自分の右足を見た。看護師が手当てしてくれたところに、白いものが当てられていた。


「まだ、いない」


 母は何かを言いかけた。やめた。


「そっち、行こうか」


 真帆はすぐに、うん、と答えそうになった。


 来てほしかった。母が部屋の中へ入ってきてくれれば、床に落ちた服や、壊れたマグを、自分とは違う見方で見てくれる気がした。


 でも、母の家からは電車を乗り継がなければならない。


「今は、来ないで」


「でも、一人で」


「動かない方がいいって言ってる。道も、事故があって」


 言いながら、母は自分に同じことを言うだろうと思った。自分はその道を歩いてきた。


「先生に診てもらってるから」


「泊めてもらえるの?」


「少し、休ませてもらってる」


「今日は、うちに――」


 母はそこで止まった。


 互いの家に行くことが、いつもの相談ではなくなっていた。


「またかける」


 真帆は言った。


「お母さんも、家にいて。誰か来てるなら、一緒にいて」


「真帆もね」


 母が、少し強く言った。


「勝手に、大丈夫って決めないでね」


 その言葉に返事をするまで、真帆はコップを持ったまま待った。


「うん」


 電話を切った。


 男の子だという話は、しなかった。


 前の検査の後、母には、もう少しはっきりしてから伝えようと遼と話していた。どちらでも服を買い始めるに決まっているから、というのが遼の理由だった。真帆も笑って賛成した。


 あのとき黙っていたことは、ただの楽しみの先延ばしだった。


 今、同じことを言わずに済ませた理由は違った。


 真帆は電話を、画面を下にして寝台へ置いた。


     *


 佐和が来たのは、紙のコップが空になってからだった。


 戸の向こうで短く名前を呼ばれ、返事をすると、細い隙間から顔が見えた。


「少し話せますか」


「はい」


 佐和は丸椅子を持ち込み、戸を閉めた。


 白衣の袖が、今度は両方とも折られていた。


「お水、飲めた?」


「飲めました」


「何か食べた?」


「朝、少し」


 佐和は廊下へ出て、すぐに戻った。小さな袋に入ったクラッカーを渡される。


「こんなのしかないけど」


 真帆は受け取った。仕事の合間に誰かが食べるためのものらしく、袋の端に黒いペンで丸が書いてあった。


「先生のですか」


「食べていい方」


 佐和は言って、椅子を引き寄せた。


 真帆は袋を開けた。一枚を口に入れると、乾いた粉が舌に残った。噛んでいるあいだに、佐和が手元の紙を見た。


「先月の治療の後、今日はここで経過を確認する予定でした。記録は全部、うちにもあります。でも、追加で確認したいことが出るかもしれない」


「治療のせいですか」


 佐和が顔を上げた。


「何が?」


 真帆は腹へ目を落とした。


「この子が、いるの」


 言ってから、いることを悪いことのように聞いたと思った。


 佐和は、すぐには答えなかった。


「分かりません」


 そう言った後、紙を膝の上へ置いた。


「治療を受けたことが、今日のことと関係しているかどうかは、今の私には言えません」


「でも、ほかの人は」


 真帆は戸を見た。


 佐和も一度、そちらを見た。


「赤ちゃんが見つからなくなった方を、今日、診ています。一人ではありません」


 佐和の声は、廊下へ聞こえないくらい低かった。


「今朝、私が心拍を確認した方もいます」


 真帆は、口の中のものを飲み込めなくなった。


 午前と午後のあいだで、あの画面から、あの音がなくなる。


 それなら、自分の一分十二秒も、次の診察までをつないでくれるわけではない。


「男の子だったんですか」


 佐和は少し黙った。


「これまでの検査で、そう伝えられていた方はいます」


「みんな?」


「私が今日診た人だけのことで、全体を言うことはできません。それに、今は、記録を確かめられないところも多い」


 真帆はクラッカーの袋を膝へ置いた。


「遼も、男だからですか」


 自分の声が、硬くなっていた。


「ご主人に何が起きたか、私にはまだ説明できません」


「テレビは、そう言ってる」


「私も聞きました」


 佐和は、真帆の返事を待った。


 真帆は何も言えなかった。


 分からない、まだ言えない。どれも必要な言葉なのだろうと思った。でも、それを聞くたび、座っている場所が少しずつ小さくなるようだった。


「今日はね」


 佐和は、膝の上の紙を持ち直した。


「次に誰に診てもらえるかを、ここで決めておきたいんです。電話がつながらないまま、具合が悪くなると困るから」


 真帆は顔を上げた。


「ここじゃ、駄目ですか」


「ここでできることは、続けます。ほかの病院にお願いした方がいいことがあれば、そのときは話します」


 佐和が紙を一枚渡した。


 診療所の名前と番号があり、その下に、手書きの字が並んでいた。真帆が知っている総合病院の名前もある。


「受け入れられるところを、今、確認しています。連絡が取れたら、こちらからも電話します。つながらない場合のことも、書いておきました」


 真帆は紙を両手で持った。


 自分の先に、次の診察がある。


 そのことが、診察の結果を聞いたときとは違うところに届いた。


「お一人で住んでいるわけじゃないよね」


「遼と」


 答えてから、二人とも黙った。


 佐和は言い直さなかった。


「今日、一緒にいられる人はいますか」


 真帆は隣の部屋に住む樋口さんを思い浮かべた。自分の夫もいなくなったのに、けがをした子のためにタオルを集めていた。


「隣の人に、聞いてみます」


「聞けそう?」


「はい」


 今朝までは、隣の人にそんなことを頼む理由はなかった。醤油が切れたことさえ、少し遠い店へ行けば済んだ。


 紙をしまおうとして、青い袋を出した。


「これ、持ってきました」


 佐和は封筒の中を見て、うなずいた。何枚かを順に確かめ、もとの向きで戻す。


「この控えは、持っていてください」


「出さなくて、いいですか」


「うちにある分と同じです。ほかで診てもらうとき、必要になるかもしれないから」


 封筒を返された。


 上の角に、遼が折った跡があった。鞄に入るようにしたのか、別の紙と間違えたのか、分からなかった。


 真帆は折れたところを指で伸ばした。


「先生」


「はい」


「この子のこと、どこかに言いますか」


 佐和の指が、紙の端から離れた。


 真帆は戸を見た。


「男の子が、まだいるって」


 声にすると、さっきまでの診察とは違う話になった。


 まだ生まれてもいない。自分の腹の中にいるだけなのに、誰かがそのことを知りたがるかもしれない。


 テレビに出ていた高速道路を思い出した。画面を見ていた人が、その後で自分へ顔を向けるところを想像した。


「誰に知られるのが心配?」


 佐和に聞かれて、真帆は困った。


 誰か一人の顔があるわけではなかった。


「分かりません。でも」


 封筒を抱え直した。


「聞かれたら、答えないといけないんですか」


 佐和は椅子へ座り直した。


「診療に関係のない人へ、あなたのことを話すつもりはありません」


 真帆はその言葉を聞いて、肩を少し下げた。


「ただ、赤ちゃんとあなたを診るために、ほかの医師と相談することはあると思います。何も伝えないと、診療ができなくなることもある」


「名前も?」


「名前を出さずに相談できることもあります。実際に診てもらうなら、必要な記録を渡さなければならない」


 真帆は、封筒の端を押さえた。


 自分はこの紙を持って、ここへ来た。先生には、正しく見てほしかった。


「伝えるとき、先に教えてください」


 佐和はうなずいた。


「相談の仕方も、話しましょう。急いで診療しなければならないときには、待てないこともあります。でも、あなたを置いて話を進めないようにします」


 ずっと誰にも言わないと約束してくれたわけではなかった。


 真帆は、それをもう一度頼もうとして、やめた。


「今は、男の子ってこと、外では言いたくないです」


「分かりました」


 佐和は答えた。


 その声を聞いても、真帆はすぐには封筒を鞄へ戻せなかった。


     *


 小部屋を出たとき、待合室の時計は二時を過ぎていた。


 元の予約なら、今から診察を受けるはずだった。


 受付の椅子に、さっきの女性が座っていた。両手を膝へ置き、壁の方を向いている。隣の席には別の女性がいた。二人の肩は触れそうなくらい近かった。


 真帆は、鞄を身体の脇へ寄せた。


 受付で手帳を返してもらう。中に、今日の画像が挟まれていた。


「お会計は、後日で大丈夫です」


 看護師が言った。


「先生が、帰る前に一度声をかけてって」


 真帆はうなずいた。


 手帳の厚みが、来たときと違っていた。増えたのは薄い紙一枚なのに、持っていることが隠せない気がした。


 隣から、声をかけられた。


「診てもらえました?」


 別の椅子に座っていた女性だった。鞄の持ち手を両手で握っている。


「はい」


 真帆は答えた。


「先生、いるんですね。さっきのところ、誰もいなくて」


「いらっしゃいます」


 女性は、診察室の方を見た。


「よかった」


 そう言って、持ち手から片方の手を離した。


 真帆は、それ以上聞かれると思っていた。お腹の子はどうだったのか。男の子なのか。どうして自分だけ、手帳に画像を挟んでもらえたのか。


 けれど女性は、そのどれも聞かなかった。


 真帆は自分の鞄を見た。


 肩にかけた紐を、少し緩めた。


 佐和が診察室から出てきた。別の患者のために看護師と話し、その人が中へ入ってから、真帆の方へ来た。


「隣の人に、聞いてみてくださいね」


「はい」


「連絡先は、今の電話でいい?」


「これで」


 鞄から出そうとすると、佐和は、番号は分かっているから大丈夫、と言った。


「音、消さないでおきます」


 真帆は言った。


 診療の相談には関係のないことだった。なぜ先生に言ったのか、自分でも分からなかった。


 佐和はうなずいた。


「うん」


 廊下から、名前を呼ぶ声がした。


 佐和はそちらへ顔を向けた。


「気をつけて」


 そう言って、戻っていった。


 真帆は診察室の戸が閉まるのを見た。


 さっきまで、その向こうで自分の子を見ていた。今は別の人が座り、同じ画面を見ている。


 何も聞こえない。


 真帆は出入口へ向かった。


 外へ出る前に電話を出し、樋口さんの名前を探した。以前、留守中の荷物を預かってもらったときに番号を交換していた。かけたことは一度もなかった。


 呼び出し音が続いた。


 四回目で、返事があった。


「朝倉さん?」


「すみません。真帆です」


「今、どこにいるの」


「病院を、出るところです」


 そこから先の言い方を、考えていなかった。


 少しだけ、今日だけ。そうつけ足せば、頼みやすくなる気がした。


 真帆は鞄を持ち直した。


「帰ったら、一緒にいてもらえませんか」


 電話の向こうで、樋口さんが息を吸った。


「私も、頼もうと思ってた」


 真帆は、出入口の前で立ち止まった。


「うちでも、そっちでもいいから。帰ったら、声かけて」


「はい」


 その返事は、すぐに出た。


 電話をしまい、戸を押した。


 湿った風が入ってきた。雨は降っていなかった。門の外では、誰かが止まった車を避けて歩いていた。


 真帆は、足元を確かめてから、一歩を出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。