火曜と金曜の、最後の『げきうまヌードル』
「カップ麺、落としましたよ」
声をかけられ振り返ると
見覚えのない女が立っていた。
私のカップ麺を差し出している。
げきうまヌードル。
ずっと昔から変わらない
自己主張の強い名前と
素朴なパッケージ。
とある地方の小さな会社
三ノ輪製麺のカップ麺。
中身はごく普通の油揚げ麺だ。
200円高いノンフライ麺の
洗練された味には遠く及ばない。
でも、安心できる優しい味。
具のシイタケの食感は
他では味わえない。
このあたりで見かけるのは
このスーパーだけだ。
「ああ、ありがとうございます」
受け取って、買い物袋に詰め直す。
さっきレジを出たばかりなのに
もう一個落としていたらしい。
「気をつけてくださいね」
「はい」
女はそう言って
そのまま歩き去ろうとした。
普通ならそこで終わりだ。
でも私は、
「あの」
と呼び止めてしまった。
女が振り返る。
「はい?」
「……いえ」
何を言おうとしたのか
自分でもわからない。
女は不思議そうな顔をしている。
「何か?」
「その……
ありがとうございました」
「もう言いましたよ」
「ああ、そうでしたね」
また沈黙……。
女はもう一度去りかけたが
今度は自分から立ち止まった。
「あなた
さっきもここにいましたよね」
「え」
「三十分くらい前。
レジの列で前にいました」
言われてみれば
そうかもしれない。
でも私は覚えていない。
「そう…、でしたか」
「カップ麺
三個買ってましたね」
「よく覚えてますね」
「特に理由はないです」
女はそう言って
今度こそ歩き出した。
私は黙ってそれを見送った。
三日後
私は同じスーパーで
また買い物をしていた。
カップ麺を二個
カゴに入れる。
レジに並ぶと、前にあの女がいた。
女は私に気づいて
小さく会釈した。
私も会釈を返す。
女の買い物が終わり
私の番になる。
会計を済ませて外に出ると
女がまだそこにいた。
スマートフォンを見ている。
私は通り過ぎようとした。
でも、
「また会いましたね」
女が声をかけてきた。
「ええ」
「今日は何個ですか」
「二個です」
「減りましたね」
「たまたまです」
女は笑った。
「私、週に二回
ここに来るんです」
「そうなんですか」
「火曜と金曜。
今日は金曜」
「はい」
「あなたも?」
「……そうかもしれません」
正直、意識したことがなかった。
でも言われてみれば
確かに週二回くらい来ている気がする。
「じゃあ
また会うかもしれませんね」
「そうかもしれません」
女はそう言って
今度こそ本当に去っていった。
それから
私たちは何度か顔を合わせた。
レジで。
駐輪場で。
入口で。
毎回、短い言葉を交わした。
天気の話とか
カップ麺の話とか
どうでもいい話。
名前は聞かなかった。
聞く理由がなかった。
ある金曜
私がいつものように
カップ麺を手に取ろうとしたら
棚が空だった。
「あれ」
隣を見ると、女がいた。
最後の一個を手にしている。
私の好きな味だ。
「あ」
女も気づいた。私の視線の先を。
「これ……」
「いえ、大丈夫です」
「でも……」
「別の味でもいいので」
女は少し考えてから
カップ麺を棚に戻した。
「じゃあ
私も別の味でいいです」
「え」
「なんとなく」
女はそう言って
違う味を二個取った。
私も別の味を取った。
レジで、また前後になった。
外に出ると、女が待っていた。
「あの」
「はい」
「名前、聞いてもいいですか」
私は少し驚いた。
でも、
「聞かない方がいいと思います」
と答えた。
女は黙って、それから笑った。
「そうですね」
「はい」
「じゃあ、また」
「また」
それが最後だった。
その時買った
新味のカップ麺は……
美味しかったが
シイタケのないヌードルは
私には物足りなかった
次の火曜
女はいなかった。
金曜も、その次の週も。
私はカップ麺を買い続けた。
三個だったり二個だったり
一個だったり。
個数なんてどうでも良い。
女には、二度と会わなかった。
二ヶ月が過ぎた。
火曜と金曜のスーパーの
空気は変わらないのに
世界の色だけが微かに薄くなった。
ある火曜
私はいつものようにレジを済ませ
駐輪場に向かった。
自転車の鍵を取り出そうと
バッグを漁っていると
足元に何か硬いものが転がった。
昔ながらの素朴なパッケージ。
私がいつも買っていた
あの味のカップ麺だ。
私は反射的に拾い上げた。
新品のフィルムに傷はない。
——落とした覚えはない。
顔を上げると
少し離れた場所に
あの女が立っていた。
いつもの服
いつもの表情。
そして……
いつもの『げきうまヌードル』。
ただ、今日は
少し疲れているように見えた。
私がカップ麺を差し出すと
女は受け取ろうとしない。
「あなたのじゃないんですか」
私が聞くと
女は首を横に振った。
「もう、このカップ麺は
食べないことにしたんです」
「え」
「あっちでは
売ってなかったから……」
女はそう言って
小さく息を吐いた。
「でも、ここに来てしまったら
いつもの習慣でつい」
女はそう言って
私の持つカップ麺ではなく
私の目を真っ直ぐ見た。
「落とす直前に
気がついたんです」
「何を」
「あなたが
私を探しているってこと」
女はそう言いながら、一歩
私に近づいた。
その手に、彼女が買ったらしい
小さな袋が握られている。
「もう
会いたくないと思ったんです。」
「これ以上
どうにもならない関係を
続けるのは、意味がないから」
「……そう、ですね」
私も、何と答えるべきか
分からなかった。
名前も知らない
連絡先も知らない
スーパーでしか会わない。
ただの『火曜と金曜の人』。
その曖昧さこそが
私たちを繋いでいた唯一の鎖だった。
「私、今年で今の仕事を辞めて
引っ越すんです」
「でも、今年最後の火曜の今日
つい習慣で来てしまいました」
「でも、私が最後に落とした一個を
あなたが拾ってくれるなら……」
女は、袋から一つ
封筒のようなものを
取り出した。
半額シールの貼られた
クリスマスカードだった。
「……?」
「お礼です。
カップ麺を拾ってくれて」
「意味なんてありません。
レジ前で見かけて
なんとなくカゴに入れたものです。」
それでも女は
少しだけ微笑んで言った。
「これをあなたが
持っていてくれるなら
また会いに来てもいい」
「ここでもう
カップ麺は買いません。」
「もう、どうでもいい雑談も
しません。」
「それに、もし……」
「次に会ってしまったら
きっと私はあなたに
もっと『面倒なこと』を言います」
女は、静かに笑った。
それは、いつもの
少しおかしそうな笑い方では
なかった。
「それでいいですか」
私が頷くと
女は満足したように微笑んだ。
「じゃあ、また」
女はもう一度去りかけたが
今度は自分から立ち止まった
「あ、そうだ」
「え」
目があいそうになった時
女は目を閉じる
そして一言
「良いお年を」
彼女は今度こそ
本当に歩き去った。
私は、彼女が
二度と振り返らないことを
知っていた。
手に残ったのは
彼女の最後のげきうまヌードルと
数日遅れのクリスマスカード。
私はカップ麺をバッグに入れた。
いつも食べているものなのに
もう二度と食べられない気がした。
そして、カードを強く握りしめる。
三日後の金曜
正月休みで人通りの少ない中
私はスーパーに向かった。
カップ麺は買わない。
ただ、彼女に会うためだけに
駐輪場で立ち尽くす。
彼女が来たら
私はこのカードを見せて
言うつもりだった。
——カップ麺じゃなくて
私を拾ってしまったのね、と。
彼女がどんな
『面倒なこと』を言うのか
私はもう恐れていなかった。
待っていた。
永遠にも思える三分が過ぎる。
カップ麺ができるまでと同じ時間だ。
誰も来なかった。
違う。
違う、そうじゃない。
彼女は来なかったのではない。
ここには、もう来ないのだ。
きっと私は
彼女が最後に言った
『面倒なこと』とは何かを
聞きたくてたまらないのだ。
季節が巡り
彼女が遠くへ
行ってしまった後でも、
私は、次の火曜か金曜に
またスーパーへ足を運ぶだろう。
カップ麺を買うでもなく、ただ
この半額シールのついた
クリスマスカードを
彼女の前に差し出すために。
そして、その時に初めて——
『本当の終わり』が来る。
それは
始まりかもしれない。




