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今朝のニニは、いつにもまして、可愛かった。靴が脱げていることに気づいて振り返った時の、張り詰めた真顔が可愛かったし、拾ったつやつやの靴も、ニニみたいにコロンとしていて可愛らしかった。
蝉にくっつかれた本人は大変な思いをしたのだが、俺からしてみれば可愛いだけの、微笑ましい出来事だ。肘だけはかわいそうだったが。
今日もいい天気で、この青空がやがて暮れていくように、いつも通りの一日が終わっていくことに何の疑問もなかった。
広場近くの詰め所に噴水の前で刃傷沙汰が起きていると花屋の女の子が駆け込んできたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
駆けつけてみると、人垣の上にひょっこり出ているアランさんの頭が見えた。我々ネコ隊の到着を知った人々が道を開けたその数メートル先で、男が剣を振り上げニニが跳ぶのが見えた。
俺は思わず叫び声をあげた。
結論から言えば、ニニは無事だった。
焦った騎士の手からすっぽ抜けた剣がそのまま石畳に叩きつけられたからだ。
アランさんに引き起こされたニニは真っ白な顔をして俺の声も聞こえていないようだったが、その手をとると、ぼんやりとこちらを見た。
それからよろよろと歩いて行って吐き始めた彼女が気にはなったが、この騒ぎの元凶である王女殿下ご一行を何とかしなくてはならない。
もう一台馬車を呼んで、無礼だのなんだのギャーギャー、ギャーギャー騒いでいる彼らを押し込めて城まで運び、その辺にいた近衛に押し付けると、俺は第二の本部まで急いだ。
ニニは何の害もない蝉一匹に泣きそうなほど怯えて取り乱すくせに、騎士が振りおろす剣の下に飛び込んでいった。
わからない、知らないうちに、足が勝手に、と本人は言っていた。
考えもせずに体が動いているなんて、言語道断。
俺たち騎士はどんな場合でも、己の身を投げ出したり、命を懸けたりしてはいけないのだ。
死なせないし死なない。そのための訓練を毎日しているのだから。
「リアム。」
会議室から出てきて俺に声をかけたニニの頬は、色が変わり腫れ上がって、左目を半分ふさいでいた。
分隊長にやられたんだそうだ。
ニニを娘のように可愛がっている分隊長の手も、ずいぶん痛かっただろう。
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その晩、捕らえられた少年が一言も話さず、聴取もできていないと聞いてふたりで訪れた地下の留置所で、ニニはパンと温めたミルク、それに毛布を差し入れた。
「おなか空いたでしょ、寒いでしょ。」
膝を抱え俯いて、奥の壁にぴたりとくっついて動かない少年は、ニニの手招きでよってきた。
「甘いの持ってきたよ。冷めないうちに飲んで。」
「…ほっぺた、どうしたの?」
驚いたことにその小さな小さな声は、女の子のものだった。
名をマリナというその少女は、母子家庭の長女で弟が2人いる。よくある話だが、母親はろくに食事もとらずに働きづめという生活が祟って、体を壊して臥せっているそうだ。マリナは、なんとしても金を手に入れなければならなかったのだ。
それでひったくりだ。
短絡的であることこの上ないが、かといって犯罪、物乞いの他に金を工面する手段なんて、彼女にはない。
働こうにもこんな小汚なくて痩せ細った非力な少女がこの街で仕事にありつくのは困難だろう。
俺は騎士として正義の味方のような顔をして街を闊歩しているくせに、小さなマリナにとって何の役にも立っていないのだ。
「一緒に食べよ。」
ニニは座り込むと、俺たちふたりの顔を見上げて微笑み側の床を手のひらでポンポンと叩いた。
「すごく痛そう。…大丈夫?」
受け取ったパンを左手に持ったまま鉄格子の隙間から手を伸ばして、腫れ上がったニニの頬に指先でそっと触れるマリナ。
「さっき、ケンカしちゃったんだ。」
ヘラヘラ笑ってごまかすニニ。
そんなふたりを見て俺は、今夜はやりきれない気持ちに眠れぬ夜を過ごすのだろうと思った。
騎士とはなんだ?
いったい俺たちは、何を守っているのだろうか。
「リアム」
並んで歩く帰り道、立ち止まったニニが、泣いていた。
「リアム」
俺の名前だけを繰り返すニニをそっと抱き締めて、俺も少しだけ、泣いた。




