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階上の足音、ゼロで止まる  作者: 雨野しずく


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第1話「ミシリ、ミシリ、あと十四」

引っ越しの段ボールは、まだ半分も開けていなかった。


遠野咲良は、フローリングに直接座り込んだまま、ノートパソコンの画面に赤ペンならぬ赤字を入れ続けていた。校正の締め切りは明日の正午。半年前に別れた恋人との思い出が染みついた部屋を出て、たどり着いたのがこの「陽だまり荘」202号室だった。


築四十年。家賃は都内とは思えないほど安い。理由は、内見のときになんとなく察していた。


壁が、薄すぎる。


時計の針が零時を回った瞬間――それは、聞こえた。


ミシリ。


天井の、遥か上のほうから。


咲良はキーボードを打つ手を止めた。耳を澄ます。集合住宅暮らしは長い。上階の生活音くらい、いちいち気にしていたら心が保たない。そう自分に言い聞かせて、また画面に視線を戻す。


ミシリ……ミシリ。


一定の間隔だった。まるで、誰かがゆっくりと、体重を確かめるように歩いているような。


咲良はふと、内見のときの不動産屋の言葉を思い出した。


「三階は今、空室ばかりなんですよ。というか、302号室はもう長いこと使われてなくて」


三階に、住人はいない。


なのに――ミシリ。また一歩。ミシリ。また一歩。


咲良は無意識に、心の中でその歩数を数えていた。いや、正確には――数えさせられていた。


(いち、に、さん……)


いや、違う。これはむしろ逆だ。数字は減っていく。まるで足音自身が、自分でカウントダウンをしているかのように。


ミシリ――十四。

ミシリ――十三。

ミシリ――十二。


背中を、冷たいものが這い上った。エアコンは効いているはずなのに、部屋の温度がふっと数度下がった気がした。


咲良は立ち上がり、恐る恐る天井を見上げた。当然、そこにあるのはただの古い染みの浮いたクロスだけだ。何も見えるはずがない。見えるはずがないのに――目を離せない。


ミシリ――十一。

ミシリ――十。


規則正しすぎる。人間の歩幅にしては、あまりに正確に、あまりに均等に。まるでメトロノームに合わせて、誰かが慎重に、慎重に近づいてくるような。


(数えちゃ、だめ)


根拠のない直感が、咲良の脳の奥でちりちりと警報を鳴らした。だが、一度耳が拾ってしまった規則性を、意識から追い出すことなどできるはずもない。


ミシリ――九。

ミシリ――八。


インターホンが、鳴った。


こんな時間に。咲良の心臓が跳ねる。モニターを見る勇気はなかった。だが同時に、足音は止まらない。


ミシリ――七。

ミシリ――六。


インターホンの音と、足音が、同じリズムで重なりはじめる。まるで、上と下から挟み撃ちにされているように。


咲良はスマートフォンを握りしめた。誰かに――誰でもいいから連絡を、と震える指で操作しようとした、その時。


ミシリ――五。

ミシリ――四。


廊下の向こう、玄関のドアの向こうから、声がした。しわがれた、管理人トメの声だった。


「……お嬢さん。数えとらんね?」


咲良は答えられなかった。喉が、からからに乾いていた。


ミシリ――三。


「もし数えとったら……今すぐ、耳を塞ぎなさい」


トメの声は、ドア越しにもかかわらず、まるで耳元で囁かれているかのように鮮明だった。咲良は両手で耳を覆おうとした。だが、間に合わない。


ミシリ――二。


もう遅い、と誰かが囁いた気がした。それは天井からでも、ドアの外からでもなく――咲良自身のすぐ後ろから聞こえた。


ミシリ――一。


咲良の部屋の中で、何かが、たしかに軋んだ。


ミシリ――ゼロ。


すべての音が、消えた。


インターホンも、足音も、トメの声も。世界ごと耳が塞がれたような、完全な静寂。咲良は自分の心臓の音すら聞こえないことに気づき、その異常さに悲鳴を上げそうになった。


そして、静寂を破るように――


コン、コン、コン。


三回。今度は、天井からでも、玄関からでもない。


咲良のすぐ背後、誰もいないはずの部屋の壁の内側から。

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