第8話 敗残兵と懐かしい記憶
故郷を焼き払い、南への「大行軍」を開始してから、三日が経過した。
だが、進んだ距離は、わずか四十キロメートル。
降りしきる冷雨が地面を泥沼に変え、三万人の足を重く縛り付けていた。
隊列の中央。
屋根付きの馬車に乗ることなく、雨合羽を着て泥道を歩くアンジェリカの脳裏に、ふと懐かしくも苦い記憶が蘇った。
(……ああ、嫌ですね。この泥の感覚、前世の『デスマーチ(死の行軍)』を思い出します)
彼女には秘密があった。
彼女は、この世界の住人ではない。かつて日本という国で生きていた、企業再建のプロフェッショナル(社畜)だった記憶を持っているのだ。
前世の彼女は、傾いた会社を立て直すために奔走し、過労で倒れて人生を終えた。
目が覚めると、乙女ゲームの悪役令嬢になっていた――というのはよくある話だが、彼女はただ前世を覚えてるにすぎなかった。
(前世では過労死しましたが、今世では絶対に生き残ります。……そのためには、まず衛生管理です!)
彼女の知識が警鐘を鳴らしていた。
三万人が野外で生活するこの状況。
敵の剣よりも恐ろしいのは、赤痢やコレラといった疫病だ。一度発生すれば、この密集した集団は数日で全滅する。
「アンジェリカ様! 第三グループで腹痛を訴える者が増えています! 喉が渇いて、水溜まりの水を……」
衛生兵代わりのメイドの報告に、アンジェリカの表情が凍りついた。
「……即座に隔離してください! それと全軍に通達! 水は必ず煮沸すること! ……いいですか、私たちは今、見えない敵と戦っているのです!」
アンジェリカは指示書を叩きつけた。
「工兵隊! 休憩地点に着くたびに、まず便所の穴を掘りなさい! 水源から百メートル以上離し、排泄後は必ず土を被せること。……これを徹底させないと、自分の排泄物で病気になって死にますよ!」
前世の知識に基づいた、徹底的な公衆衛生の指導。
兵士たちは戸惑ったが、アンジェリカの鬼気迫る表情に圧倒され、泥まみれになりながら穴掘りを開始した。
***
そんな時だった。
後方の森から、マクシミリアン率いる遊撃隊が戻ってきた。
だが、いつもと様子が違う。彼らの後ろに、ボロボロの鎧を着た集団が続いていたのだ。
「……アンジェリカ! 父上! 生存者を拾ったぞ!」
マクシミリアンが連れてきたのは、数百人の兵士たちだった。
彼らはモルトケ家の家紋を見るなり、泥の中に膝をついて泣き崩れた。
「あ、ああ……! モルトケ閣下だ……! 味方だ……!」
「助かった……! もう駄目かと……!」
ハインリヒが駆け寄り、一番年嵩の兵士に声をかける。
「……どこの隊だ?」
「はッ! 我々は北の国境砦を守っていた守備隊の生き残りです! ……砦は帝国軍に踏み潰され、散り散りになって森を彷徨っていました」
彼らは数日間、飲まず食わずで逃げ回り、絶望の淵にいたのだ。
そこへ、マクシミリアンの雷撃が見え、藁にもすがる思いで集まってきたという。
「隊長は死にました……。生き残ったのはこれだけです。……申し訳ございません」
泥と血にまみれた兵士たち。
ハインリヒは重く頷き、彼らの肩を抱いた。
「よく生きていた。……恥じることはない。貴様らの命、私が預かろう」
「閣下……ッ!」
こうして、数百人の敗残兵が合流した。
さらに、近隣の村からも逃げ遅れた村人や自警団が合流し、隊列は膨れ上がる一方だった。
だが、それは同時に「問題」の拡大も意味していた。
「……お嬢様。人が増えたのは良いのですが、物資が限界です」
職人長のガレンが、悲鳴のような声を上げた。
「食料も足りませんが、何より馬車が足りません! 怪我人や兵士を乗せるスペースがないんです。……この泥道じゃ、これ以上荷車を引くのも無理でさぁ!」
新たな人員(守るべき対象)の増加。
泥による行軍速度の低下。
そして、輸送力の限界。
アンジェリカは、計算尺を握りしめた。
切り捨てていい人間など一人もいない。
「……ガレンさん。馬車が動かないなら、動くように改造すればいいのです」
アンジェリカの瞳に、不敵な光が宿った。
前世の知識(効率化)と、今世の環境を組み合わせる時が来た。
「お兄様! 周辺の森には、どんな魔獣がいますか?」
「え? ああ……泥地を好む『鉄甲鰐』や、巨大な『大王陸亀』がうようよいるぞ。厄介な連中だ」
「最高ですわ」
アンジェリカはニヤリと笑った。
「彼らに『資材』になってもらいましょう。……鉄より硬い皮でソリを作り、巨大な甲羅でバスを作るのです」
こうして、アンジェリカの指揮の下、モルトケ軍は「魔獣狩り」と「大改造」という、常識外れの方向へと舵を切るのだった。




