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国境の盾は砕けない ~婚約破棄された辺境伯令嬢は、王都の混乱を他所に一族と領民の生存戦略を画策する~  作者: 薄氷薄明
【第1章】

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第6話 決断と別離



 硝煙(しょうえん)が晴れた(なげ)きの渓谷(けいこく)には、異様な静寂が戻っていた。


 かつて最強を誇った帝国軍三万は、半数が死傷し、残りの半数は散り散り(ちりぢり)になって北の森へと敗走していった。


 モルトケ軍の勝利である。


 だが、司令塔(しれいとう)にいるアンジェリカの表情は、歓喜に酔う兵士たちとは対照的に、事務的で冷静だった。


「……弾薬の消費率、予想より15%超過。銃身の加熱(オーバーヒート)による破損が二十丁。……コストパフォーマンスは悪くありませんが、改善の余地ありですね」


 彼女は手帳にペンを走らせていた。


 勝利はゴールではない。次の事業(戦争)への投資だ。


 隣にいた兄マクシミリアンが、呆れたように笑う。


「アンジェリカ、少しは喜べよ。俺たちは歴史を変えたんだぞ?」


「喜んでいますわ、お兄様。ですが、経理担当としては『事後処理』の方が頭の痛い問題です」


 アンジェリカは、眼下に広がる黒騎士たちの死体の山を指差した。


「あれを放置すれば疫病(えきびょう)の元になります。かといって、埋葬する人手も足りません。……ですが、彼らの鎧は別です」


 彼女の目が、キラリと「商売人」の色を帯びる。


「帝国の最新技術の結晶、『対魔装甲アンチ・マジック・アーマー』……。素材は高純度(こうじゅんど)のミスリル銀と黒鋼(くろがね)の合金です。……溶かせば、素晴らしい資源になります」


「……なるほど。敵を倒して、資源を回収するか。無駄がないな」


 父ハインリヒがニヤリと笑う。


「ガンツ! 総員に通達だ! 追撃は深追いするな! それより『戦利品(ドロップアイテム)』の回収を優先せよ! 鎧、剣、そして無傷の馬! 使えるものは全て拾え!」


 戦場は一転して、巨大な「資源回収現場」となった。



***



 だが、その夜。


 祝勝会(しゅくしょうかい)の準備が進む城内(じょうない)に、冷や水を浴びせるような報告が届いた。


 王都に潜伏していた隠密(おんみつ)からの、命がけの伝書鳩(でんしょばと)だ。


 緊急招集がかけられ、作戦会議室(さくせんかいぎしつ)には軍の最高幹部たちが集まった。


 当主ハインリヒ。

 その妻ソフィア。

 長男マクシミリアン。

 長女アンジェリカ。

 モルトケ家騎士団長ガンツ。

 そして、新たに加わった亡命騎士団の代表、アラン千人隊長だ。


「……最悪の知らせだ」


 ハインリヒが、短い手紙を机に置いた。


「帝国軍『本隊』十万、東の中立国ルクセンを通過。……現在、王都まであと一日の距離に迫っている」


「とお、まん……!?」


 アランが絶句する。ガンツも顔をしかめ、腕を組んだ。


 北の三万ですら絶望的だったのに、その三倍以上の本隊が無傷で王都へ向かっているのだ。


「王弟殿下の軍は?」


「機能していない。指揮官は暗殺され、兵は混乱し、近衛騎士団は王城に引きこもっている。……おそらく、戦わずして開城(かいじょう)することになるだろう」


 沈黙が落ちる。


 王都が落ちれば、次は、この辺境伯領に十万の軍勢が押し寄せる。しかも、今度は「野戦陣地(キルゾーン)」の準備がない南側からだ。


「……待ってください、父上!」


 マクシミリアンが血相を変えて立ち上がった。


「王都が落ちるということは、祖父様たちはどうなるのですか!? ヴィルヘルム祖父様と、祖母様はまだ王都にいらっしゃるはずです!」


 アンジェリカも顔を青くした。


 彼らを見捨てて、自分たちだけ生き残るなど考えられない。


「すぐに救援部隊を送りましょう! 私の遊撃隊なら、強行軍で……」


「お待ちなさい、マクシミリアン」


 焦る兄を制したのは、紅茶のカップを持った母ソフィアだった。


 彼女は静かに、夫ハインリヒの手元にある手紙を指差した。


「手紙の『追伸』を読みなさい。……お義父様ヴィルヘルムからの伝言よ」


 ハインリヒが手紙を裏返し、読み上げる。


『追伸。……我々のことは心配無用。この混乱に乗じて地下へ潜る。帝国軍が王都を占拠している間、内部から情報を収集し、貴公らに流し続ける所存だ』


「ち、地下へ潜る……?」


「ええ。お義父様たちは元々、裏の世界での駆け引きに長けた方よ。……王都の地下水道や隠し通路は、今の王家よりも詳しいわ」


 ソフィアは誇らしげに、しかし少し寂しげに微笑んだ。


「彼らは逃げ遅れたのではありません。『あえて残る』のです。……敵の懐に入り込み、喉元にナイフを突きつけるためにね」


『生き延びよ。そして、奪い返せ』


 手紙の最後には、力強い筆跡でそう記されていた。


 それは、祖父母からの「遺言」ではなく、孫たちへの「指令」だった。


 帝国に奪われた国を、誇りを、必ず取り戻せというげきだ。


「……流石は祖父様だ。俺たちが助けに行くなんて、百年早かったか」


 マクシミリアンが安堵と共に椅子に座り込む。


 アンジェリカも胸を撫で下ろした。家族がご無事なら、迷うことはない。


「……お父様。私に考えがあります」


 アンジェリカは、地図の南端――海に面した港湾都市を指差した。


「ここを捨てて、南へ下りましょう」


「なっ!?」


 ガンツとアランが同時に声を上げる。


 ハインリヒは眉を動かさず、娘の目を見据えた。

「……理由を述べよ」


「はい。第一に、ここで十万の敵と戦うのは物理的に不可能です。弾薬も食料も足りません。第二に、王都が落ちれば、この地は孤立無援になります」


 アンジェリカは、冷静に「損切り」を提案した。


「ですが、南の海なら活路があります。……お母様のご実家(大陸の連合王国)と貿易ができれば、無限の物資補給が受けられます」


「ああ、なるほど……! 母上ははうえのご実家か!」


 マクシミリアンが手を打つ。


 母ソフィアは、海の向こうにある大国の王族の血を引いている。そのコネクションを使えば、帝国に対抗できるだけの支援が得られるはずだ。


「だがお嬢、この街はどうするんですかい? 民の家は? あんたが作った工場は?」


 ガンツが太い腕を組んで問う。


 ここは故郷だ。先祖代々の土地だ。それを捨てるなど、貴族の、そしてこの地を守ってきた武人の矜持に関わる。


 アンジェリカは少し悲しげに目を伏せ、しかし毅然と言った。


「……街は、また作れます。工場も、再建できます。ですが、領民の命と、お父様やお兄様、ガンツさんたち熟練した職人たちは代えが利きません」


 そして、彼女は覚悟を決めたように告げた。


「敵に、この要塞を使わせるわけにはいきません。……撤退する際は、全ての施設を破壊し、井戸を埋め、畑を焼き払います」


焦土作戦(しょうどさくせん)だな……」


 ハインリヒが唸る。


 それは、侵略者に何も残さない、最も過酷で効果的な戦術だ。


 だが、それを実行すれば、自分たちが帰る場所もなくなる。


「……本気か、アンジェリカ。二度と戻れないかもしれんぞ」


「戻ります。……祖父様たちが命がけで情報を送ってくれるのです。私たちが負けるわけにはいきません。……必ず戻ってきて、今よりもっと素晴らしい街を再建します」


 娘の言葉に、ハインリヒは深く息を吐き、そして笑った。


 それは、もはや迷いのない、覇者の笑みだった。


「……よく言った。土地に縛られるのが貴族のさがだが、それに殉じて死ぬのは愚か者のすることだ」


 ハインリヒは立ち上がり、全員を見渡した。


「総員に通達! これよりモルトケ軍は、全領民を引き連れての『大撤退』を行う! 目指すは南の港町『ベルゲン』!」


「閣下、しかし領民たちが納得するでしょうか? 故郷を燃やせと言われて……」


 アランの懸念に、ハインリヒは答えた。


「説得は私がする。……泥を被るのが当主の役目だ。アンジェリカ、お前は撤退の『行程表』を作れ。一人の脱落者も出すな」


「はい、お父様!」


 方針は決まった。


 勝利の美酒に酔う暇はない。


 モルトケ家は、三万の民と膨大な物資、そして鹵獲した資源を抱え、王国を縦断する大移動を開始する。


 王都の地下で戦う祖父母たちに、いつか勝利を報告するために。




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