第1話 血まみれの帰還と第一種戦闘配置
馬が中庭に滑り込み、アンジェリカは手綱を離すと同時に、糸が切れたように落馬した。
「アンジェリカ様!」
駆け寄ろうとする兵士たちより早く、共に走り抜いた従騎士ロベルトと護衛騎士たちが、倒れ込む主人の体を支えた。
彼らもまた、立っているのが不思議なほど消耗していた。
アンジェリカは、脂汗の浮かぶ顔を上げ、充血した目で彼らを見た。
「……ロベルト、それに二人とも」
「は、はい!」
「よく保たせました。……貴方たちの献身がなければ、私は野垂れ死んでいたでしょう。……感謝します」
アンジェリカは震える手で、ロベルトの手を強く握った。
「すぐに医務室へ行きなさい。最高級の傷薬と、十分な食事と睡眠をとるのです。……これは業務命令です。一秒たりとも遅れることは許しません」
「っ……! ありがたき幸せ!」
男たちが涙ぐみながら敬礼する。
それを見届けたアンジェリカは、駆け寄ってきた城の守備隊長に向き直った。
その瞬間、彼女の纏う空気が一変した。
「隊長! 今すぐ『第一種戦闘配置』を発令しなさい!」
「は……? せ、戦闘配置、ですか?」
「そうです! 鐘を鳴らし、非番の兵を叩き起こして! 国境監視の斥候を倍……いいえ、三倍に増やしなさい! 帝国軍が来ます!」
城内がどよめいた。
アンジェリカは、呆然とする隊長の胸ぐらを掴まんばかりの勢いで叫んだ。
「敵はもう、鼻先まで来ているかもしれないのよ! 領民への避難勧告の準備と、備蓄庫の開放も急いで! ……すべて父上の許可はあると伝えなさい! 責任は私が取ります!」
「は、ハッ! 総員、第一種戦闘配置! 急げぇぇッ!」
鐘が乱打され、城内が蜂の巣をつついたような騒ぎになる。
その喧騒の中、アンジェリカは足を引きずりながら本丸へと歩き出した。
***
執務室の扉が、乱暴に押し開けられた。
「お父様! お兄様!」
飛び込んできたのは、泥と血にまみれたドレスを纏い、髪を振り乱したアンジェリカだった。
作戦会議中だった辺境伯ハインリヒと、兄マクシミリアンは、娘の姿と、外で鳴り響く警鐘の音に顔色を変えた。
「アンジェリカ!? どうしたその恰好は! それにこの警鐘は……!」
「王都にいるはずのお前が、なぜここに!」
「説明は後です! ……お父様、今すぐ国境の全砦に『最高警戒レベル』を通達してください! 正規軍だけでなく、予備役も招集を!」
アンジェリカは机に手をつき、荒い息で訴えた。
ハインリヒは、娘のただならぬ様子と、その瞳に宿る切迫感を瞬時に読み取った。
彼は何も聞かず、即座に通信機(魔導具)を掴んだ。
「総員に通達! モルトケ軍、全軍緊急配備! 北方の国境線に『正体不明の大軍』接近の可能性あり! 不審な動きがあれば即座に狼煙を上げろ! 迎撃準備だ!」
父の怒号が通信機を通じて各砦へ飛ぶ。
それを見届け、アンジェリカはその場に崩れ落ちた。
「……間に合った……」
張り詰めていた気が緩み、意識が遠のきかける。
それを支えたのは、兄マクシミリアンの太い腕だった。
「おい、しっかりしろアンジェリカ! 一体何があった! 王都で何が起きたんだ!」
アンジェリカは兄の腕の中で、苦しげに息を継ぎながら告げた。
「……婚約は……破棄されました。……王家は、我が家を『切り捨て』ました」
その一言は、室内の空気を凍りつかせた。
マクシミリアンが息を呑み、通信を終えたハインリヒがゆっくりと振り返る。
「……詳しく話せ」
アンジェリカは、王都で起きたことの全てを話した。
一方的な婚約破棄。理不尽な懲罰。陛下が病床にあり、王太子が暴走していること。そして、祖父母が自らを囮にして、自分を逃がしてくれたことまで。
話し終える頃には、マクシミリアンは激怒のあまり机を叩き割らんばかりだった。
「あのバカ王子がぁッ! 親父殿たちがこれほど苦労して国境を守っているのに、後ろから刺すような真似を!」
「……落ち着け、マクシミリアン」
父ハインリヒの声は低く、そして恐ろしいほど静かだった。
歴戦の武人である父の瞳には、怒りを超えた冷徹な光が宿っていた。
「王都からの連絡が途絶えていたのは、そういうことか。……つまり、王家は我々を見捨てた。このタイミングでだ。これは、帝国への『招待状』に等しい」
「はい、お父様。……帝国は間違いなく、この混乱に乗じて攻めてきます」
アンジェリカは、兄に支えられながら立ち上がった。
「お父様。……決断をお願いします。王家に義理立てして座して死ぬか、それとも……我々独自の力で、生き残るか」
彼女は懐から、道中で走り書きした手帳を取り出し、机の上に広げた。
そこには、これまで温めていた計画――領内の魔獣資源を利用した兵器開発や、防衛プランが記されていた。
「国が守ってくれないのなら、自分たちで守るしかありません。……たとえ国に『反逆』と疑われようとも、領民と家族の命には代えられません」
ハインリヒは手帳を見つめ、そしてボロボロになった娘の姿を見た。
血の滲む手。限界を超えた疲労の中で、なお燃え続ける瞳。
その覚悟が、父の心を動かした。
「……分かった。全責任は当主である私が取る」
ハインリヒは重々しく頷いた。
そこへ、優雅な足音と共に、医療箱を持った女性が入ってきた。
母、ソフィアだ。
「あらあら、随分と賑やかね。……アンジェリカ、お帰りなさい。まずはその傷の手当てをしましょう」
母は動じることなく、アンジェリカをソファへと座らせた。
だが、その目は笑っていなかった。
実家である他国の王族ネットワークに、すでに何らかの手を打っている気配があった。
「お母様……」
「話は聞こえていたわ。……アルフレッド殿下も、可愛いことをなさるわね。私の可愛い娘をこんな目に遭わせて……ただで済むとお思いなのかしら?」
母の笑顔の裏に、底知れぬ凄みが走る。
父ハインリヒが苦笑し、マクシミリアンがニヤリと笑った。
「よし! そうと決まれば話は早い! 新しい武器の素材が必要なんだろ? アンジェリカ」
「ええ、お兄様。……ですが、まずは具体的な『事業計画』の説明をさせてください」
アンジェリカは痛む足に顔をしかめつつも、不敵に微笑んだ。
「モルトケ辺境伯領は、本日より『魔導軍事産業都市』へと生まれ変わります。……帝国にも、王家にも、我々を見くびったことを後悔させて差し上げましょう」
その宣言と共に、辺境伯家の歯車が大きく回り始めた。
それは後に、大陸全土を震撼させることになる「不落の白薔薇」の快進撃の狼煙でもあった。




