第2話 生存の事業計画と帝国の事情
執務室の隣にある仮眠室。
その天蓋付きベッドの上で、アンジェリカは苦悶の声を漏らしていた。
「……っ、うぅ……」
「我慢なさい、アンジェリカ。皮がめくれて酷いことになっているわ。消毒しないと化膿しますよ」
母ソフィアと、呼び出された老年の女性侍医が、アンジェリカの内股に薬を塗っている。
三日半の不眠不休の強行軍。ドレスの布地は擦り切れ、柔らかな肌は無惨にただれ、血と膿が固着していた。
見るも無惨なその傷跡は、彼女がどれほどの覚悟でこの距離を駆け抜けてきたかを物語っていた。
父ハインリヒ、兄マクシミリアン、そして従騎士ロベルトは、分厚いカーテンで仕切られた部屋の向こう側で、焦燥しきった様子で待機していた。
「すまない、アンジェリカ……。俺たちがもっと早く王都の異変に気づいていれば、お前にこんな真似はさせなかった」
カーテン越しに、兄の悔しげな声が聞こえる。
アンジェリカは痛みに脂汗を流しながらも、気丈に答えた。
「お兄様が謝罪なさる必要はございません」
処置が終わり、新しい包帯が巻かれると、アンジェリカは侍医の制止を振り切って体を起こした。
侍女に用意させた新しい室内着を纏い、身なりを整えてから、カーテンを開ける。
「……お待たせいたしました」
よろめきながら立ち上がり、待っていた父たちと執務机へと向かうアンジェリカ。
その瞳に宿る冷徹な光に、ハインリヒたちは居住まいを正した。
「王家は我々を切り捨てました。公式な支援は一切期待できません。お父様、動かせる我が軍の戦力は?」
「……本領の正規騎士団と、領内の治安維持や、街道警備のために各地へ小隊規模で散らばっている兵を合わせ、およそ一万だ」
ハインリヒが重い声で即答する。そこに、マクシミリアンが身を乗り出して付け加えた。
「父上、領民の中には猟師や元傭兵、血気盛んな若者など『戦える男たち』がいます。彼らに声を掛けて武装させれば、さらに五千……合わせて『一万五千』の兵力にはなります。非戦闘員の女子供や職人たちを含めれば、我々が守るべき命は総勢三万といったところです」
「……確かに戦える領民はいるな。
対して帝国は、前回の演習規模から推測するに、先遣隊だけで三万。……そして本隊が動けば、軽く十万を超えるだろう」
一万五千 対 十万以上。
およそ七倍から十倍の兵力差。
戦いは数だ。いくらモルトケ軍が精強でも、この差は個人の武勇で埋められるものではない。
「……他国の介入を待つか?」
「いいえ、お父様。籠城はジリ貧です。敵に包囲されれば、補給を断たれて終わります。それに、他国が動く保証はありません。……我々に必要なのは、単独で帝国軍の本隊を『採算割れ』に追い込むだけの、圧倒的な攻撃力《火力》です」
アンジェリカは地図上の「北の森」――魔獣が巣食う危険地帯を指し示した。
「我が領地は、長年この魔獣の被害に悩まされてきました。……ですが、視点を変えれば、ここは宝の山です」
「宝、だと?」
「はい。……お兄様、以前見せてくださった魔獣の素材。例えば…ミスリルタートルの甲羅は、魔法抵抗力が極めて高く、同時に魔力を増幅させる性質がありましたよね?」
話を振られたマクシミリアンが、ハッとして頷く。
「あ、ああ。だが、加工できる職人がいないぞ」
「ミスリルタートルの甲羅。……あれを砕いて精製し、筒状に加工すれば、魔力を圧縮して撃ち出す『魔導砲』の砲身になります」
アンジェリカは、手帳に描かれた設計図を提示した。
それは、既存の騎士の常識を覆す、異形の兵器のスケッチだった。
「剣と魔法だけでは、この圧倒的な兵力差は覆せません。……我々に必要なのは、農民でも引き金を引けば敵を倒せる『魔導銃』と、城壁ごと敵を吹き飛ばす『魔導砲』による火力支援です。……数で劣る我々が勝つには、質で圧倒するしかありません」
彼女の計画は、領内の魔獣という厄介事を全て「軍事資源」へと転換するものだった。
「工場を作り、兵器を量産します。お父様は軍の再編をお願いします。お兄様は……テストパイロット兼、素材調達班の隊長です。各地に散らばる部隊への召集命令を出しつつ、一番危険な狩りをお願いします」
「ハッ! 望むところだ! その魔導砲とやら、俺が一番にぶっ放してやる!」
マクシミリアンが嬉々として腕を鳴らす。
そこにあるのは、未曾有の危機に立ち向かう、狩人たちの獰猛な闘志だった。
「決まりですね」
「あぁ、決まりだな。直ちに行動を開始しよう。開戦まで、おそらく一ヶ月もない。」
家族の誰にも悲壮感はなかった。
***
──帝国が、エルデラント王国最強の盾と謳われた辺境の地『モルトケ領』に対し、軍を差し向けるのには明確な理由があった。
一つ目は、建前である。
『大陸に真の統一と平和をもたらす』。それは、帝国の国民を熱狂させ、兵士たちを死地へと送り出すための美しき大義名分であった。
二つ目は、帝国の本音である。
強大な軍事力を誇る帝国だが、その領土の大半は寒冷で痩せた土地であり、慢性的な食糧不足と魔力枯渇という『飢え』に喘いでいた。国家が立ち行くために、近隣国の中で一番豊かな土地と資源のあるエルデラント王国が必要だったのである。
そして三つ目、帝国との国境にあるモルトケ領へ、帝国が侵攻する引き金を引かせるような『後押し』。
今回の婚約破棄で王家からの援軍は絶たれるも同然。
孤立無援となるモルトケ領は、帝国の軍勢によって赤子の手をひねるように蹂躙される……はずだった。




