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神々の法廷


第4章:神々の法廷(ネムルト山頂、午後5時15分)


標高2,150メートル。ネムルト山の山頂は、まさに天空の孤島だった。西の空が血のような残照に染まり、東からは夜の帳が静かに降りてくる。冷烈な強風がハサウェイのトレンチコートを激しく叩き、周囲に転がる神々の巨首が、長い影を歪ませながら二人を睨みつけているようだった。


背後からは、アーサー・バンスと武装した警備兵たちが、一定の距離を保ちながら冷酷な足取りで追ってきている。彼らの手には、国際司法裁判所(ICJ)へのデータ送信を力ずくで阻止するための、電波妨害装置ジャマーと武器が握られていた。


「日没まであと15分だ、ハサウェイ」バンスの声が風に吹かれて響く。「そこは人間の立ち入る場所ではない。君のリーガル・ブラフ(法的なハッタリ)もここまでだ。山頂の電波は完全に遮断した。世界への配信などできん。ここで君たちが流砂に呑まれて死ねば、全ては『不慮の滑落事故』として処理される」

ハサウェイはバンスを無視し、ソフィーと共に東側テラスの最も巨大な石像――アンティオコス1世自身の像の前に立った。

「ソフィー、デバイスの準備を」

「わかっているわ、ジョン」

ソフィーは震える指で、メンデス教授が残した音波発振器のプロトタイプを起動した。それは、一見すると頑丈なミリタリー仕様の無線機のようだったが、先端には超高感度の指向性アクチュエーターが取り付けられていた。

ハサウェイは、ポケットからインカのキープを取り出した。ラマの毛の結び目が、山頂の微光の中で不気味な陰影を作っている。

「記号論と地質学の融合だ……」ハサウェイは呟いた。「バンス、君は文字を『権力の所有物』だと信じている。だがインカの祖先たちは知っていた。文字はインクで書き換えられ、紙と共に燃える。だから彼らは、地球の質量そのものに干渉する『周波数』という名の、最も破壊不可能な文字を選んだんだ」

ハサウェイはキープの最初の紐を指でなぞった。「第1結び、512ヘルツ。ソフィー、放射してくれ」

ソフィーがダイヤルを合わせ、トリガーを引いた。不可聴域の重低音が、石灰岩の地面を微かに震わせた。バンスの背後にいる警備兵たちが、一瞬身構える。

「第2結び、824ヘルツ。第3結び、1024ヘルツ……!」

ハサウェイが次々と数字を読み上げ、ソフィーがその正確な周波数を、石像の台座に向けて照射していく。キープの「色」が示す音階比率に基づき、変調された音波が重なり合っていく。

すると、奇跡が起きた。

山頂を覆う、あの2000年間誰の手も寄せ付けなかった何百万個もの小石の山(墳丘)が、まるで生き物のように不気味なうなり声を上げ始めたのだ。サラサラという音が、やがてゴロゴロという地鳴りへと変わる。

「な、なんだこれは……! 小石が……!」バンスの部下が恐怖に声を震わせた。

小石の雪崩が起きたのではない。むしろ逆だった。照射された特定の固有振動数により、石灰岩の小石同士が微細な結合を起こし、まるで液体がコンクリートに変わるかのように、強固な「岩の壁」へと一瞬で固化していったのだ。掘れば崩れるはずの流砂の罠が、音波の檻によって完全に固定された瞬間だった。

そして、固まった小石の山の中心部が、地割れのように左右に割れ、天然の岩盤をくり抜いた「暗黒の地下通路(玄室)」への入り口が姿を現した。

「本当に……実在したのね……」ソフィーが息を呑んだ。

ハサウェイは迷わず、スマートフォンのライトで暗闇を照らしながら地下へと足を踏み入れた。バンスもまた、己の法の限界を超えた光景に憑りつかれたように、銃を構えた部下を引き連れてその後を追った。




第5章:黒曜石の裁き(ネムルト山・王墓玄室、午後5時45分)


地下の空気は、完全に静止していた。数千年の沈黙が、ハサウェイたちの足音によって破られる。


玄室の中央には、アンティオコス1世の棺ではなく、異様な存在感を放つ巨大な構造物が鎮座していた。

それは、高さ3メートルに及ぶ、漆黒の「黒曜石オブシディアンの碑文」だった。


ソフィーがライトを浴びせると、その滑らかな黒い表面には、世界中の誰も見たことがない精密な『彫刻』がびっしりと刻まれていた。


「これは……」ハサウェイは眼鏡の位置を直し、その碑文に顔を近づけた。「ヒエログリフ、楔形文字、マヤの絵文字、そしてインカのトカプ模様……。それらが全て、一つの数理的規則性アルゴリズムの元で、中央の巨大な円形のシンボルへと収束している」

「ロバート・ラングドンなら『神の言語』とでも呼ぶかもしれないな」ハサウェイは冷徹に言った。「だが、パリ政治学院の法学者として言わせてもらえば、これは『人類最古の社会契約書』だ」


「社会契約書だと?」バンスが暗闇から銃口を向けながら歩み寄ってきた。その顔は、秘密が暴かれた絶望で歪んでいた。


「そうだ、バンス。これを見ろ」ハサウェイは碑文の下部を指差した。「ここには、人類が農耕を始め、文明を築く際、なぜ『文字』という武器を生み出したのかが記されている。文字は、大衆を支配し、税を徴収し、戦争の正当性を記録するための『権力の道具』として発明された。


しかし、文字による支配は必ず思想の分断を生み、帝国を崩壊させる。インカの祖先やアンティオコス1世は、その限界を悟った。だからこそ彼らは、文字による分断を拒絶し、この地球の物理法則(音と岩石の結合)の中に、人類が再び一つになるための『真の対話のコード』を遺したんだ」

「馬鹿げた理想論を!」バンスが叫んだ。「そんなものが世に出れば、人類の歴史を管理してきた我々ヴァチカンの法も、国家の秩序も、全てが無に帰す! ジョン・ハサウェイ、君たちの勝ち目のない法廷はここで閉廷だ。部下たちよ、全員殺せ。そしてこの部屋ごと爆破しろ!」

警備兵たちが一斉に引き金に指をかけた、その瞬間。

ソフィーが持っていた音波デバイスが、ハサウェイの手によって最大出力へと切り替えられた。ハサウェイがキープの最後の結び目――「0(ゼロ)」の空間を、デバイスのセンサーに滑り込ませたのだ。

「バンス、君は法を武器に勝訴を重ねてきた。だが、自然の法(万有の法則)に勝てる弁護士はいない」

デバイスから、空間を引き裂くような超高周波のブザー音が鳴り響いた。


その音波が、黒曜石の碑文ではなく、周囲の「固化していた石灰岩の天井」へとダイレクトに衝突する。

一瞬にして、分子結合のロックが解除された。

固まっていた天井の小石が、瞬時にサラサラとした「流砂」へと戻り、滝のように激しく玄室へと流れ込み始めたのだ。


「なっ……崩落するぞ! 退け!」

バンスの部下たちがパニックに陥り、銃を放り投げて地上への出口へと逃げ惑う。しかし、流れ込む小石のスピードは人間の足を遥かに凌駕していた。

「ジョン! 早く!」ソフィーがハサウェイの腕を引っ張る。

二人はメンデス教授のキープを抱きかかえ、事前に計算していた岩盤の「わずかな出っ張り(地質学的に絶対に崩落しない安全地帯)」の影へと滑り込んだ。

「ハサウェイッ……!」

バンスは、自分がこれまで貪欲にかき集めてきた「偽りの歴史の権利書(書類)」を両手に抱えたまま、容赦なく降り注ぐ小石の津波に飲み込まれていった。彼の愛した「権力の法」は、古代の建築家たちが仕掛けた「流動する自然の法」の前に、完全に圧殺されたのだった。





エピローグ:沈黙の法廷(パリ、1週間後)



セーヌ川を見下ろすパリ政治学院(Sciences Po)のハサウェイ教授の研究室。

窓の外には、歴史の荒波を生き抜いてきたパリの美しい街並みが広がっていた。

デスクの上には、あのペルーから持ち帰ったインカのキープと、ソフィーが極秘にスキャンした黒曜石の碑文のデジタルデータが置かれていた。

「インターポールの手配書は、フランス政府の介入によって完全に却下ディスミスされたわ」

ドアを開けて入ってきたソフィー・アサノは、すっきりとした笑顔で言った。彼女の手には、バチカン側が「アモル・デイ」の存在を公式に否定し、ネムルト山の開発権を永久に放棄したという和解文書セトルメントが握られていた。

「バンスの身元はまだ、あの山の下だ。トルコ政府は、ネムルト山の発掘を『現代の技術では危険すぎる』として、再び永久に凍結することを決定した」

ハサウェイは静かにコーヒーを啜り、黒曜石のデータの1ページを閉じた。

「それでいい」ハサウェイはブルーの瞳を窓の外へ向けた。「人類はまだ、この碑文に刻まれた『文字なき世界の真実』を受け入れるほど成熟していない。法や宗教という嘘の檻の中で、もう少し学ぶ時間が必要だ」

「じゃあ、このデータはどうするの?」ソフィーが尋ねる。

ハサウェイは微笑み、トレンチコートのポケットから、あのラマの毛のキープを取り出した。

「シアンスポの私の講義の、最初の課題にするさ。『文字が人類に与えた最大の罪とは何か』というテーマでね。そして、この本当のデータは……誰もアクセスできない、我々だけの『秘密のクローク(書庫)』に保管しておく」


ハサウェイがキープの結び目を優しくなぞると、それはまるで、古代の神々が現代の知性に宛てて残した、静かな署名(指紋)のように見えた。


「文字は時に歴史を偽るが、石と結び目は決して嘘をつかない」


二人は静かに笑い合い、新たなる歴史の闇を監視するため、それぞれの学問の戦場へと戻っていった。

最後まで、お読みいただきありがとうございました。


本作は、インカ帝国が誇る高度な紐文字「キープ」の計算システムと、トルコのネムルト山にある「掘ろうとすると崩れる流砂のディフェンス」という、実在する二つの歴史ミステリーへの憧れから生まれました。


文字は時に嘘をつきますが、地球が刻んだ石の成分や、物理的な結び目の記憶は決して嘘をつきません。


古代人が遺した静かなロマンが、皆様に届いたなら幸いです。


「本書(本作品)はフィクションです。作中に登場する人物、団体、名称、地名、事件などはすべて架空のものであり、実在するいかなる対象とも一切関係ありません。また、特定の思想・信条・宗教を支援または誹謗中傷する意図はございません。」

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