最終話 さよなら、兄さん
「ミオ、すごーい!」
「武田、よくがんばった!」
皆が一斉に二人へ駆け寄る。
張り詰めていた空気が、一気に緩んだ。
――よかった。
武田も、ミオも、満足そうな顔をしている。
お互いにとって、いい経験になったはずだ。
そんな感慨に浸っていると――
ミオが、すっと俺を指さした。
「兄さん。久しぶりに手合わせしましょう!」
「……へ?」
思いもよらない一言に、間の抜けた声が出た。
「それはいい」
武田が、すぐさま乗る。
「兄妹対決か!」
山下も乗っかる。
……聞いていない流れだ。
だが。
ここで逃げるわけにはいかない。
兄として。
「兄さん。私、大きいミオに、ずっと稽古つけてもらっていたのよ」
やはりな。
さっきの動き。
日々、鍛え続けてきた動きだ。
「いいだろう」
できるだけ平静を装って答える。
「で、格闘でか?」
「いいえ」
ミオは、道場の隅に立てかけられている竹刀を指さした。
「あれで」
◇
道場の中央。
今度は、俺とミオが向かい合う。
審判役の武田が、静かに手を上げる。
ミオは竹刀を構える。
対して俺は――
礼。
構え。
間合い。
剣道の一連の所作に従い、静かに竹刀を構える。
ミオの目が、わずかに見開かれた。
――見たことがない動きだろう?
「はじめ」
武田の声。
その瞬間。
ミオの竹刀が、すでに俺の胴を捉えに来ていた。
そして、
俺の竹刀が、それを受け止めている。
「バチン!」
一拍遅れて、竹刀の衝突音が響き渡る。
ギャラリーは静まり返っている。
何が起きたのか、理解できていないのだろう。
静止した時間の中で。
ミオが、にやりと笑う。
「鍛錬、サボっていたわけではなさそうね。兄さん」
俺は、そのまま剣を払い、前へ出る。
踏み込み。
圧力。
速度。
ミオが受け、流し、即座に反撃する。
打ち合い。
応酬。
間合いの奪い合い。
空気が震える。
だが――
俺の太刀筋は、剣道仕込み。
あちらの世界では見慣れない軌道。
ミオの動きが、わずかに鈍る。
――通る。
そう思った、次の瞬間。
ミオが、一気に加速した。
視界から消える。
追えない。
気づいたときには――
袈裟斬り。
俺の肩口に、決定的な一撃が入っていた。
……負けだ。
やはり、ミオは強い。
◇
道場が、静まり返る。
武田も、サクラも、ハルカも、山下も。
全員、言葉を失っている。
「……なんだ、いまの?」
山下が、呆然とつぶやく。
「こんな試合、見たこともない」
武田も、ぽつりと言う。
サクラとハルカが、ミオに詰め寄る。
「ミオ、すごい!」
「二人とも速すぎて、よくわからなかった!」
手を取り、きゃっきゃとはしゃいでいる。
ミオも、どこか楽しそうだ。
その様子を横目に見ながら――
武田が、静かに近づいてきた。
タオルを差し出す。
「……俺は、感動した。すごかったよ、兄さん」
そうか。
何か、少しでも伝わったなら、それでいい。
だがな、武田。
お前に、兄さん呼ばわりされる筋合いはない。
◇
冬休みのあいだ、ミオは頻繁にサクラやハルカと出かけていった。
街を歩き、店をのぞき、
この世界のすべてを吸収するように楽しんでいる。
まるで観光客だ。
――いや、実際そうか。
一方で俺はというと、ほとんど家に引きこもり、
ノートの執筆に明け暮れていた。
残された時間は、刻一刻と減っている。
止まっている暇はない。
◇
やがて、新学期が始まった。
当然、俺は学校に通わなければならない。
だが――
授業中も関係ない。
教科書の影にノートを隠し、
ひたすら書き続ける。
いわゆる、内職だ。
教師に見つからないように注意しながら、
それでもペンを止めることはなかった。
放課後になれば、いつもどおり部活。
竹刀を振り、汗を流し、
そして帰宅する。
その繰り返し。
◇
ミオはミオで、
ひとり街を散策したり、図書館にこもったりしていた。
本を読み、知識を吸収し、
この世界の“当たり前”を、自分の中に積み上げていく。
ただ遊んでいるわけではない。
あいつなりに、準備を進めているのだ。
◇
剣道の練習を終えて帰宅すると――
今日も、俺のノートは付箋だらけになっていた。
ページの端から端まで、
びっしりと貼られた色とりどりの付箋。
一枚、めくる。
「ここ、何を言っているのか分からない」
「この説明だとイメージできない」
「図で書いて」
「具体例がほしい」
……全部、ミオの字だ。
遠慮がない。
だが――
的確だった。
どれもこれも、
“理解する側の視点”からの指摘だ。
俺一人では、絶対に気づけなかった部分。
俺は、深く息を吐いた。
そして――
ペンを取る。
ひとつずつ、潰していく。
言葉を砕き、
説明を足し、
図を描く。
何度も書き直す。
読む側が、迷わないように。
理解できるように。
その作業は、骨が折れる。
だが――
確実に、前に進んでいた。
◇
気づけば。
俺のノートは、見違えるように変わっていた。
ただの“知識の羅列”ではない。
誰かに伝えるための、
“技術書”へと変わりつつある。
その変化を、
俺自身が、一番実感していた。
◇
そして、ひと月が過ぎた。
約束の日。
ミオが、元の世界へ戻る時が来た。
その前日――
俺のノートは、完成した。
◇
家の駐車スペース。
そこに集まっているのは、
おじいちゃんとおばあちゃん、
アケミさんとケンジおじさん、
そして、サクラ。
本当の事情を知る者たちだけだ。
静かな空気が、場を包んでいる。
ミオが、レクサスの運転席に乗り込む。
ミオが肩から提げたかばんには、
俺のノートが、ぎっしりと詰め込まれていた。
俺は、一通の封筒を差し出す。
「これを、父さんと母さんに渡してくれ」
数日かけて書いた手紙だ。
「……うん。必ず渡すわ」
ミオは、しっかりとうなずいた。
◇
窓越しに、最後の別れが始まる。
誰もが分かっていた。
――これが、本当の別れだということを。
おじいちゃんとおばあちゃんが、ミオの手を握る。
「ミオ、元気でな」
「うん。おじいちゃん、おばあちゃんも。……会えてよかった」
その声は、震えていた。
おじいちゃんとおばあちゃんの目から、涙がこぼれる。
たったひと月。
それでも――
賑やかで、あたたかくて、
かけがえのない時間だった。
サクラも、涙をこらえきれない。
「私……本当の妹ができたみたいで、すごくうれしかった」
「わたしも。サクラ姉さん」
二人は、手を握り合う。
離したくない、という気持ちが、
そのまま伝わってくる。
◇
やがて。
ミオが、ハンドルに手をかけた。
「……時間ね」
ぽつりと、つぶやく。
涙をぬぐい、
それでも前を向く。
「行くわ」
そして、
「さよなら、兄さん」
ミオが、俺を見る。
まっすぐな視線だった。
俺も――
もう、涙をこらえられなかった。
「ああ……ミオ。本当に、ありがとう」
その言葉を口にした――
その瞬間。
レクサスは、音もなく、
目の前から消えていた。
◇
あとには、
静寂だけが残った。




