17すべては、この日のために
家に帰ると、すでにミオとサクラが帰ってきていた。
「ドーナツ、おいしかった!」
ミオが目を輝かせて言う。
その足元には、いくつもの紙袋。
「かわいい服とか、いっぱい買っちゃった」
どうやら、おじいちゃんからもらった軍資金は、きれいに使い切ったらしい。
サクラも、どこか満足げに微笑んでいた。
◇
しばらくして、アケミさんとケンジおじさんがやってきて、ミオと顔を合わせた。
ふたりとも、ミオに興味津々だった。
「不思議なことがあるものね。」
「いや、たしかに、ハヤトくんに似ているなあ」
やはり、俺の前例があるためだろう。
この非現実的な出会いをすんなりと受け入れたようだ。
皆で夕食となった。
食卓に並んだのは、すき焼きだった。
ぐつぐつと煮える鍋。
甘辛い香りが、部屋いっぱいに広がる。
牛肉をとき卵にくぐらせ、口に運ぶ。
ミオが、一口食べて、目を見開いた。
「……すごく、おいしい」
少し驚いたように、続ける。
「こんな食べ方、思いつかなかった」
その反応に、サクラが楽しそうに笑った。
笑い声が、何度も食卓に弾ける。
◇
食事が終わり、湯のみを手にした頃。
自然と、話題は俺のこれからのことへと移っていった。
「おじいちゃんとおばあちゃんのことは、気にしなくていいからね」
「ハヤトが、お父さんとお母さんのところに戻るって決めても、私たちは構わないからね」
やわらかな声。
だが、その奥にあるものは、痛いほど伝わってくる。
――本当は、引き止めたい。
それでも、俺に選ばせようとしてくれている。
その優しさが、胸に刺さる。
昔。
自分たちの息子が、突然いなくなった。
そして今――
孫まで、いなくなろうとしている。
その現実を思うと、胸が締めつけられる。
視線が、わずかに揺れる。
父さん。
母さん。
あの世界の家族の顔が、浮かぶ。
十五年。
当たり前のように過ごしてきた日々。
失いたくないものが、そこにも確かにある。
――それでも。
俺は、ゆっくりと顔を上げた。
「ミオ」
静かな声。
「俺は、決めたよ」
部屋が、静まり返る。
「俺は――この世界に残る」
言葉にした瞬間、不思議と迷いは消えていた。
おじいちゃんとおばあちゃんの肩から、力が抜けるのが見えた。
おじいちゃんが、小さく息を吐く。
「……ハヤト、いいのかい」
「うん。決めたんだ」
まっすぐに答える。
サクラは何も言わず、ただ俺を見つめていた。
そして、ふっと微笑んだ。
◇
やがて。
ミオが、ゆっくりと口を開いた。
「兄さんのその覚悟で――」
一度、言葉を区切る。
「この先、私たちが進む道が、今、確定したわ」
その言葉の重み。
この決断が、俺ひとりのものではないことを、突きつけてくる。
「では――約束通り、すべて話すわね」
まっすぐに、俺を見る。
「私が、この世界に来た理由を」
静かに。
だが、確かな意思を込めて。
ミオは、語り始めた。
◇
ある日、突然。
兄さんが――レクサスごと、消えた。
跡形もなく。
父さんも母さんも、会社のみんなも、必死に探した。
森も、街も、道という道を。
それでも――何ひとつ、見つからなかった。
事故の痕跡すら、なかった。
やがて、誰かが言った。
――神隠しだ、と。
父さんも母さんも、否定しきれなくなっていった。
そして、少しずつ――諦めかけていた。
ふたりとも、ひどく憔悴していた。
◇
それから、ひと月ほど経ったある日。
いつものように、家族で夕食を囲んでいたときだった。
ふいに――
外から、エンジン音が近づいてくるのが聞こえた。
その音に、全員が顔を上げた。
止まる。
家の前で。
一瞬の静寂。
そして、全員が同時に立ち上がった。
――兄さんだ。
誰もが、そう思った。
玄関を飛び出す。
夕焼けの中、ヘッドライトが庭を照らしていた。
そこにあったのは――
レクサス。
見間違えるはずもない。
「ハヤト!」
父さんと母さんが叫び、駆け寄る。
ドアが開く。
降りてきたのは――
兄さんじゃ、なかった。
「……ミオ?」
そこに立っていたのは、私だった。
夕焼けに照らされて、輪郭が浮かび上がる。
けれど。
違う。
明らかに――私よりも背が高い。
顔つきも、大人びている。
まるで、大人になった私。
もうひとりの、ミオ。
そのミオは、すべてを見通しているような静かな目で、
父さんと母さんに、ゆっくりと言った。
「兄さんは生きている」
一拍。
「父さんの生まれ故郷――日本で暮らしているよ」
◇
その場は、大混乱だった。
当然だと思う。
一番混乱していたのは、きっと――私だ。
だって。
目の前に、“大人の自分”がいるのだから。
理解なんて、追いつくはずがない。
そんな私に、
大きいミオは、静かに歩み寄ってきた。
そして。
私の手に、何かを握らせる。
レクサスのキーだった。
「ミオ」
まっすぐに見つめてくる。
「次は、あなたの番よ」
言葉の意味が、わからない。
声も出ない。
ただ、立ち尽くす私に向かって――
大きいミオは、続けた。
「あなたは、十五歳になったら、このレクサスに乗って、兄さんに会いに行くことになる」
「そして――そこから帰ってきたのが、この私」
◇
ひとまず、全員で家に戻った。
テーブルにつく。
父さんは、静かに状況を整理していった。
そして、ひとつの結論にたどり着く。
「……15歳のミオは、この世界からあちらの世界に転移したときに、時間のずれが生じたんだ」
「世界を越えると同時に、時間も越えた」
「だから――」
ゆっくりと、言葉を重ねる。
「この世界には今、“二人のミオ”が存在している」
現在のミオと、
未来から戻ってきたミオ。
◇
にわかには、信じられない話だった。
けれど――
次の行動で、それが現実だと突きつけられる。
大きいミオは、カバンを開いた。
中から取り出したのは、
一通の分厚い封筒と、十冊ほどの書物。
「これ……兄さんから」
封筒には、はっきりと書かれていた。
――父さん、母さんへ。
父さんが、震える手で封を切る。
中の手紙を広げる。
そして。
最初の一行を読んだ瞬間、息を止めた。
「……」
ゆっくりと、声に出す。
「父さん。鋼は、鉄に炭素を混ぜて作るんだ」
それは。
あまりにも――兄さんらしい書き出しだった。
◇
十冊の書物。
そこには。
日本で学んだ技術が、びっしりと書き込まれていた。
車。
鉄。
加工。
仕組み。
すべて。
兄さんが、この世界に持ち帰ろうとしたもの。
――未来を変えるための知識。
◇
それから、もう一人のミオとの、奇妙な共同生活が始まった。
最初のうちは、家族にも戸惑いの色があった。
けれど――
時間とともに、それはゆっくりと日常へと変わっていった。
「ごはんよー。ちょっとミオ、ミオを呼んできてちょうだい」
そんな会話が、ごく自然に交わされるようになる。
“ミオが二人いる”という異常は、
いつしか、当たり前の風景になっていた。
◇
父さんは、兄さんの書物を会社の研究室のメンバーに披露した。
車づくりが百年早まる――
誰もが、そう断言した。
その内容に、研究者たちは息を呑んだという。
兄さんの残したそれは、やがてこう呼ばれるようになる。
――ハヤトノート。
その日を境に、車づくりのための基礎研究は、
目に見えて――速度を増していった。
◇
大きいミオは、父さんの会社に入社し、研究室に配属された。
あちらの世界で兄さんと過ごし、
ハヤトノートの内容を理解している彼女は、
“翻訳者”として、なくてはならない存在になった。
◇
私も――
大きいミオから、たくさんの話を聞いた。
あちらの世界のこと。
兄さんのこと。
会ったことのない、もう一人のおじいちゃんとおばあちゃん。
そして、従妹のサクラちゃん。
そのすべてが、少しずつ現実味を帯びていく。
いつか会える日が、楽しみになっていた。
◇
父さんも母さんも、すっかり元気を取り戻していた。
兄さんが生きていること。
そして、自分の夢に向かって進んでいること。
それがわかったから。
――そして。
大きいミオが、まるで兄さんの分の元気まで
持ってきてくれたかのようだったから。
◇
やがて、月日は流れ――
私は十五歳になり、成人した。
父さんに教わりながら、レクサスの運転席に座る。
アクセルを踏む。
エンジンが応える。
その感覚は、不思議と懐かしかった。
――兄さんも、こうして走り出したのだろう。
◇
そして。
その日が、やってきた。
旅立ちの日時は、大きいミオが正確に覚えていた。
すべては、決まっている。
変えてはいけない。
◇
家族が見守る中、私はレクサスに乗り込む。
この役目は――
私じゃなければならない。
◇
父さんと母さんは、もう泣かなかった。
私が、無事に戻ってくることを知っているから。
「ミオ、これを――おじいちゃんとおばあちゃんに渡してくれ」
父さんから、分厚い封筒を受け取る。
何日もかけて書かれた手紙。
突然いなくなったことへの謝罪。
両親を想う気持ち。
会いたいという願い。
この世界で夢を追いかけていること。
そして――
自分の息子を、どうかよろしくと。
「わかった。必ず、渡す」
私は、まっすぐに答えた。
◇
「じゃあ、行ってきます。
ミオ。みんなを、よろしく頼んだわよ」
「こっちは任せて」
大きいミオと、しっかりと手を握る。
それは、過去と未来を繋ぐ握手だった。
◇
私は、レクサスを走らせた。
夕日に照らされた道を、まっすぐに進む。
風が、頬をなでる。
エンジン音だけが、世界を満たしていた。
◇
――そして。
その時刻が訪れたとき。
景色が、ふっと消えた。
◇
気がつけば。
私は、暗闇の中でハンドルを握っていた。
レクサスは、止まっている。
フロントガラスの向こうに広がるのは、
見慣れない世界。
静寂。
夜空の雲の隙間から月が覗いている。
◇
ふと、誰かが、こちらへ歩いてくる。
足音。
影。
そして――
その姿が、はっきりと浮かび上がる。
◇
兄さんだった。




