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第111話:影の多重、絶望の味

魔王城の喧騒が遠い夢のように思えるほど、【血の晩餐閣】は異様な静寂に支配されていた。

そこはリシュヴァの意志によって物理法則すら塗り替えられた、漆黒の極地。


足元を見た悠真は戦慄した。

石造りのはずの床が、いつの間にか光を吸い込む底なしの「闇」へと変わっている。一歩踏み出すたび、膝下まで影がまとわりつき、粘つく泥のように動きを奪っていく。


「ふふ……その顔、素敵だわ。ねえ、美咲? あなたの清らかな魔力が、私の影に穢されていく様……たまらないわ」


リシュヴァが優雅に指を踊らせる。


足元の闇から、あるいは空間の裂け目から、

無数の影の触手が這い上がり、美咲めがけて殺到した。


「……させない! 『事象の上書き』!」


美咲が鋭く叫び、杖を振るう。

襲い来る漆黒の塊が、触れた端から透明な水へと書き換えられ、バシャリと床に散った。


だが、リシュヴァの影は一層ではなかった。

消したはずの闇の奥から、二重、三重と重なり合った密度の異なる影が、時間差で迫ってくる。


「だめ……書き換えが、追いつかない……!?」


「無駄よ。私の影、多重の層にしてみたの。一つ消しても、奥の層が次の隙を貪るわ。そして──その水、捨て置くと思った?」


リシュヴァが手のひらを返すと、床に散った水は瞬時に足元の闇へと飲み込まれていった。


それどころか、美咲の放った魔力そのものが影の糧となり、リシュヴァの右半身を形作る闇が、より濃く禍々しく脈打ち始めた。


「お前の水は、私の影を育てる肥料にすぎないわ。うふふ、もっと絶望して、もっと泣き叫んで……その感情が、この影を完璧にするのよ」


「――っ、健吾!」


「任せろッ!」


美咲を狙う影の刺突を、健吾が《氷界の重力盾》で強引に逸らす。


底なしの闇に足を取られながら、

健吾は全身の筋肉を軋ませ、

肉の盾となって衝撃を受け流した。


「……っ、セレス!」


美咲の合図を受け、

セレスが《深淵の杖》を掲げる。


かつて北部戦線で死の淵を彷徨い、リシュヴァから逃げ延びた記憶が脳裏をよぎり、指先が微かに震えた。


だが、その瞳には恐怖を焼き払った冷徹な輝きが宿っていた。


「多重術式展開――『氷界の連弾』!」


「あら、懐かしいわね」


リシュヴァは避けない。氷の弾丸が彼女の体を貫こうとした瞬間、輪郭が揺らぎ、攻撃はすべてすり抜けた。

狙いを外れた氷弾は背後の石壁を粉々に砕き、城の深部へと激震を伝える。


「無駄よ、小娘。お前の魔力の揺らぎ、あの逃走劇で嫌というほど覚えたわ。どこを狙い、いつ放つか……私にはすべて視えている。もうお前には、微塵の油断もしてあげない」


不敵な笑みとともに、

リシュヴァが指を弾く。


死角から放たれた影の針が、

セレスの防御障壁を紙のように貫いた。


「――きゃあっ!」


激しい衝撃でセレスが後方へ弾き飛ばされる。


「一真、合わせるぞ!」


「ああ!」


悠真と一真が左右から肉薄し、

《雷光の剣》と《嵐焔の龍剣》が交差する。


しかし手応えはない。二人の刃は虚空を斬ったようにリシュヴァの体をすり抜け、正面の巨大石柱を叩き割った。


ズガァァンッ!

天井が揺れ、大量の粉塵が舞う。


「無駄よ。ここは私の影の胎内。

物理的な距離も速度も、

私が許さない限り存在しないわ」


リシュヴァの嘲笑が広間に響く。

攻撃のたびに壁や床が無残に破壊され、

視界がさらに濁っていく。


美咲は苦悶の表情を浮かべながら、

内心で歯を食いしばった。


(……もっと派手に、もっと絶望に沈む獲物のように……あいつを油断させるために)


その頰には、戦いの最中に飛んできた石礫による痛々しい傷跡が刻まれている。


「……ねえ、お前。その澄ました美しい顔、見ているだけで胸がむかつくわ」


リシュヴァの瞳に、

愉悦とは別の冷たい殺意が宿る。


「透き通った水、純粋な魔力……反吐が出るほど清らかだわ。だからこそ──泥に塗れて、絶望に濁っていく様を、私の手で完成させてあげたいのよ」


影の触手が蛇のようにうねり、

美咲の四肢を執拗に追い詰める。


美咲は荒い息をつきながら、

背後に迫る「影の沼」を横目で捉えた。


悠真と一真の攻防の裏で、

彼女は杖の先をわずかに震わせ、

戦場の隙間に意識を集中させていた。


(今……!)


リシュヴァが悠真の剣を弾き飛ばした一瞬の隙。


美咲は目立たぬよう杖の石突をそっと泥へ沈め、広間に散った水の残滓を極細の「水糸」へと変えた。それを、リシュヴァの重なり合った影の合わせ目へと、密やかに滑り込ませていく。


一度では足りない。影が動くたびに、

髪の毛ほどの細い水糸を一本、

また一本と浸透させていく。


その間も戦場は破壊の限りを尽くしていた。一真の龍剣が床を抉り取ると、その亀裂から冷たい地下水がじわりと滲み出し、影の沼と混じり合う。


セレスの氷弾が石壁を穿つたび、

砕けた氷が霧となって広間に充満していく。


(……よし、通った……!)


美咲の胸が高鳴る。準備は完了した。これを発動させれば、重層影の隙間から水を急激に膨張させ、内側から層を乱せるはずだ。


逆転のチャンスに、指先に力がこもる。


(ここ……捉えたッ!!)


魔力を一気に解放した、その瞬間──


空間の密度が、

ピキッと引きつるような錯覚が走った。


「……ふふ。ねえ、それで終わり?」


リシュヴァの、背筋も凍る甘い声。


「気づかないとでも思ったのかしら? 

甘いわね……反吐が出るほど、甘すぎるわ!」


彼女が多重構造の影の層を凄まじい速度で逆回転させた。遠心力によって水糸は塵のように弾き飛ばされ、弾かれた水は空中で漆黒の「影の針」へと瞬時に書き換えられ、美咲へと降り注いだ。


「きゃっ……!?」


「美咲ッ!」


健吾が飛び込み、盾で針を弾く。

凄まじい衝撃に、

防いだ腕の骨が嫌な音を立てて軋んだ。


リシュヴァは勝ち誇ったように肩を揺らして笑った。


「あらあら……お前の浅知恵など、最初からお見通しよ。

少しは楽しませてくれるかと思ったのに……結局、こんなゴミみたいな足掻きだったのね。

さあ、次はどんな風に壊してほしいのかしら?」


勝ち誇る魔将。

逆転の芽を完璧に摘み取られ、

絶望が広間を支配する。


だが、泥を啜り膝をついた美咲の瞳の奥には、まだ消えない残り火が宿っていた。


「……ええ、そう言うと思ったわ。ねえ、セレス!」


「――崩落の極光ッ!!」


セレスが叫び、輝く極光を纏った巨大な氷の塊を、あえてリシュヴァではなく天井目がけて全力で叩きつけた。

第111話、最後まで、ご覧いただき本当にありがとうございます。(^^)


リアクションd(^^) もたくさんいただいて嬉しいです! ありがとうございます!


次回は、

第112話『屈折する殺意、極光の楔』


影の触手が、愛玩動物を愛でるように巻き付いていく。


「やめて……っ、リィナを放して!」


美咲が駆け寄ろうとしたその刹那、死角から伸びた「影の槍」が、彼女の右肩を容赦なく貫いた。


ドシュッ!


「あ……がっ……!」


凄まじい衝撃とともに、美咲は後方の石壁へと釘付けにされた。

深々と肩を貫かれ、力なく垂れ下がるその体。手からこぼれ落ちた杖は、足元の「影の沼」へと波紋一つ立てずに飲み込まれ、消えた。


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