銀〈覚醒〉③
〈茜〉
「茜君っ!!」
その声が聴こえた瞬間、頭の隅に設置された映写機がかちちち……と、フィルムを巻き上げる様な音を立てて、どこか懐かしく感じられる景色を瞳とは異なる世界へ映し出した。
白黒の銀幕いっぱいに、大きな蝶の羽が翻る。
色彩が備わっていれば、とても綺麗だったんだろうな。
蝶の羽がゆっくりと幕外へ逃れていき、焦点は羽の主へ拡大されつつあった。
羽を生やすは、蝶ではなく人だ。女優だろうか。とても綺麗だ。
儚げな横顔が徐々に浮かび上がってくる。
控えめな化粧は、彼女の美貌を失う事無く、そして、余す事無く昇華させていた。
色褪せても、幻想的な美しさを秘めし女性は、蝶の羽も相俟って、まるで妖精の様だった。
映像が彼女の口元へ近付いていく。
カメラの接近に気付いたのだろうか……彼女の口端が綻ぶ。
「茜君!!大丈夫っ!?」
背後より腕を乱暴に引かれ、夢影の蝶は瞬く間に霧散した。
すぐ眼前に猟奇的殺人者〈永久切〉を据えながらも、脳幕へささやかに描かれた小景。
ぼんやりと意識が霞むまま、あぁ。と生返事を上げる。
押切駅を覆う非常のサイレンも、紛れて木霊する阿鼻叫喚も、あいつの呼び声も……なんだか遠かった。
まどろむ俺を現実へ呼び戻そうとしていた鼓膜が寂しそうに震えていた。
「そんな……大臥さん」
〈永久切〉の足元に伏す大臥さんに気付いた菜子が、悲痛を声に滲ませている。
「菜子、逃げろ……」
数分前に大臥さんが、同じ言葉を俺に向けていた事を思い出す。
連鎖して蘇る忌まわしき瞬間。
思わず歯の根を強く噛んでしまう。
「……俺がもう少し早ければ」
既に変身は解けてしまった。こうなれば根拠なき強がりに縋るしかない。
虚勢に塗れた無力な俺を宥めるのは、不敵に笑う青年〈永久切〉だった。
「そう落ち込むなって。茜、あんたはよく頑張ったと思うぜ。俺、僕としては健闘を褒め称えたいぐらいだよ」
「貴方は、どうしてこんな事をするの?」
沈黙する俺に代わって、菜子は声を張り上げる。
「っは、まったくどいつもこいつも同じことばっか訊きやがって。やめろよ、苛々してしてくるだろうが」
〈永久切〉は見るからに不快さを濃くさせた。
片方の目尻に皺を寄せながら、彼は一歩、また一歩と踵を擦りながら俺達の元へ歩み寄ってくる。
「なぁ茜。世の中ってのは、俺、僕達が思うよりもよっぽど性質が悪いんだぜ。七色機関は堂々とヒーローなんて名乗ってるけどさぁ、それだって、誰の為のヒーローなんだろうな?正義とか悪とかさ、誰にとっても等しい筈なんてないって思わねぇか?必要悪だとか、共通敵だとか、そんな好都合なもん、現実には存在しねぇだろ。結局、信じられるものなんて自分自身の価値観だけなんだぜ」
「そんなの、犯罪者の自己正当化だろうが」
「まぁ、そりゃそうだ」
すんなりと得心の表情を浮かべる〈永久切〉。
はぁ、薄っぺらな話も終わりだな。
そう、ぼそりと溜息交じりに呟いていた。
「そろそろ野次馬も集まってくるだろうしな。俺、僕は大人しく帰るとするかな」
「お前なっ!!」
いきりたつ俺の肩を、菜子が手を置いて鎮める。
「私に任せて」
白金の甲冑姿へと変身を遂げ、気高く〈永久切〉へと立ちはだかる菜子。
対して〈永久切〉は前髪を雑にかき上げながら吐き捨てた。
「あーあ、〈銀〉とはこれ以上戦えそうにねーし、もう人を殺さなくていいんだって安心してたのさ。あんたはそんな俺、僕にまだ人殺しを続けろって言うのかよ?」
「〈永久切〉……大人しく投降してください」
凛と答える菜子。
「うるせぇブス。お前が俺、僕の何を知ってるんだよ?そうやって自分は正しいんだって面しやがって……」
極限の緊迫感からか、空気が凍りついたかの様に固まって息苦しい。
しかし、一触即発の場を打ち破ったのは、菜子でも〈永久切〉でもなく、颯爽と現われし一人のヒーローだった。
本当に一瞬だったが、ビル全体の鉄骨が軋んだ……気がした。
凄まじい衝撃音を伴って俺達の間に割って入ったのは、深紅のマフラーを背後に線引く青年だった。
真っ赤に燃え上がった頭髪が沸々と脈動している。
彼は俺や菜子を一瞥すると、すぐに背を向けて声高らかに名乗り出した。
「七色機関所属〈七極彩〉の〈赤〉━━赤神灯真だ。君が……〈永久切〉だな?」
〈永久切〉は無反応だ。口を開くでも、首を傾げるでもなく、ただただ、駆け付けた〈七極彩〉の〈赤〉を見下している。
「灯真さん……」
〈七極彩〉の姉を持つ菜子は、やはり〈赤〉とも顔馴染みらしく、安堵からか胸を撫で下ろしていた。
「無駄な抵抗はやめてくれよ」
赤神灯真の通告を受けて、ようやく〈永久切〉は反応を示した。
「っはは、こいつは心底、愉快だぜ。あんたが〈赤〉なのか?おいおい、なんだろうな、全然、初対面って感じがしないぜ。赤神ってのは、そういう事だったのかよ。なるほどな……あんたも」
━━黙れ。
ぴしゃりと。
〈永久切〉の嘲笑を掻き消す一言。
てっきり赤神灯真が放ったものだと思っていたが、しかし、素早く周りを見回す彼の様子から、すぐにそれが勘違いなのだと伝わった。
「余計な事は口走るな」
〈永久切〉よりも、やや斜め後ろの空間が歪む。
宙に波紋が立ち、粘り気のある波を全身で突き破って姿を現す男性。
先程の赤神灯真の飛来とは打って変わって、その男は無音━━静かなる表出だった。
「……っ」
咄嗟に固唾を飲んだ。
菜子も、甲冑にて擦れ音一つ起こさず硬直している。
理解が追い付かなくとも、瞳には確かに映り込んでいた。
それは同一の容姿━━。
まるで赤神灯真をそのまま鏡に晒したかのような、真っ赤な頭髪に深紅のマフラー。顔立ちも体型も、変身姿さえもが……何もかもが一寸の狂いもなく投影されていた。
「……なぜ……」
今度は赤神灯真が上擦った声を漏らしていた。
「悪いな〈赤〉。まだ、これを失う訳にはいかないのだ。それと……」
声質は酷似しているが、喋り方が異なっている。それ故か、姿形は瓜二つでありながら、明確に区別できた。
赤神灯真そっくりの人物は、俺へ真っ直ぐに視線を向け、そして淡々と語り出す。
「ようやく目覚めたな〈銀〉よ。……覚えておくといい。我々〈罪色樹〉は君の仲間だ。必要な時はいつでも呼んでくれ。いついかなる場合であろうと、我々は君の力になる事を約束しよう」
唐突に飛び出す〈罪色樹〉の名称。いや、それよりも。この男は何を言っているんだ?
俺に向かって、仲間……だと。そう言ったのか?
「あぁん!?俺、僕は嫌だぜっ」
すかさず八重歯を尖らせる〈永久切〉へ男は見向きもせず、一方的に告げる。
「そうか、なら置いていくとしよう」
「おいっ……茜。これから、よろしくな」
あっさりと手の平返してんじゃねぇよ。
「六課の連中も嗅ぎ付けて来ている。〈永久切〉急ぐぞ」
「へーへー」
再び、男のすぐ側……手を伸ばせば届くか否かぐらいの距離の宙から、波紋が生じる。
逃がしてしまっていいのかと、赤神灯真の背中へ訴えかけた。
しかし〈七極彩〉の〈赤〉は微動だにしない。
「そうだな。〈銀〉よ。君の信頼を得る為に、一つだけ真実を送ろう。━━古賀大臥は生涯、二度の過適合を成し遂げた男だ」
俺の反応を待たず、そのまま波紋の奥へと姿を消していく男性。
真紅のマフラーが先端まで波の向こう側へ飲み込まれたのを見届けた〈永久切〉も、何かを言い残そうとしているのか、首を曲げてこちらへ瞳孔を流す。
だが、開いたのは口元ではなく、気だるそうな半開きの目だった。
直後、不意を突いて、背後から大声が響いた。
「全員、動くな!!警視庁過適合対策課だっ!!」
しゃがれ気味だが、芯から張り上げているのがよく分かる、他者を強制的に黙らす声だ。
「あーらら、六課もう来ちゃってるじゃんかよ。そんじゃ、またな」
不意なる介入を受けて、〈永久切〉はそそくさと波紋へ飛び込んでいった。
〈罪色樹〉を名乗る男性と、猟奇的殺人者〈永久切〉が舞台から降り、俺達だけがその場に残される。
結局、逃がしてしまった。
俺にもっと力があれば……あの変身を使いこなせてさえいれば。
出口の存在しない思考迷路へ没頭しかけた俺の意識を力ずくで引き戻したのは、先程の警察の男性だった。
「動くなと言った筈だ!!この場は六課が……古賀虎継が取り締まる」
「なっ、いや……」
反論しかけた唇が、振り返ると同時に━━ぴたりと止まった。
この人、古賀って名乗ったのか!?
思い出す。
駅地下での大臥さんとの会話を思い出す。走馬灯のように目まぐるしく。途切れ途切れに場面が再生されていく。
━━父親が警察官なんだ。だからさ、今はちょっとだけ喧嘩中になるのかな。
節々に大臥さんの面影が重なるのは、一種の思い込みなのだろうか。
乾いた肌には深い皺が癖を残しており、白髪交じりの頭髪は短く、額が広がりつつあった。
体系は肥満気味とまではいかず『恰幅の良い』に収まる範疇だと思う。
しかしながら、眼光は鋭く、表情は鬼の如く厳格だ。
重圧的な態度が自然と似合う、いや馴染んでいる男性だった。
彼はどしどし。と漫画なら擬音が書かれそうな力強い足取りで歩を進め出す。
淡い光が零れ、菜子の変身が解ける様を横目に、古賀虎継は〈七極彩〉の〈赤〉こと、赤神灯真の元へ大股に詰め寄っていく。
そして、無言で彼の手首を掴み上げると、Einsの指輪を取り外し、そのまま手首へ錠を渡した。
「はっ!?……あの、その人は俺達を助けてくれたんですけど」
あまりにも粗暴な扱いに、思わず声を挟んでしまう。
「お前らも逃げた奴らの片割れは見ただろ。あれは……赤神仁衛。四年前の〈災厄〉にて消息不明となっていた元〈七極彩〉だ。そして、この男……赤神灯真の兄だ。〈永久切〉の逃走に加担した赤神仁衛との繋がりが疑わしき以上、重要参考人、もとい被疑者として身柄は拘束させて貰う」
「いやいや、ちょっと待ってくださいよ」
俺の呼び掛けを無視して、懐から携帯を取り出す古賀虎継。
「あぁ、すまない。少し慎重になりすぎた。〈永久切〉には逃げられてしまったが、関係者と思われる被疑者の身柄拘束には成功した」
断片的な通話内容から察しが付く。
ここは屋外だ……たぶん、どこか遠くから双眼鏡か何かで状況を観測していた人間が居たのだろう。
で、飛び出す頃合いを見計らっていたとかなのか?けど、それってどうなんだ?
確かに、過適合者絡みの犯罪対応策として、Einsの強制解除を狙う作戦があるとは聞いた事がある。
「茜君、どうしよう……」菜子にしては珍しく弱気だ。
「とにかく、誤解を晴すしかないよな」
Einsを奪われた赤神灯真は真っ赤なネクタイにスーツ姿だった。
そうか、今日って〈七極彩〉の召集日だったんだっけ?って事は、仮本部から真っ先に駆けつけてくれた訳だろ?
何としてでも疑いを解かないとな。
俺は覚悟を決め、再度訴えた。
「あの、この人は〈七極彩〉の〈赤〉として何度も人を救ってきたヒーローなんですよ。さっきだって〈永久切〉を捕まえようとして」
「うっせぇな!!子供が一々口を挟むんじゃねぇよ!!
そんな俺の言い分を、ばっさりと。怒鳴り声が消し飛ばす。
「なっ、警察がそんな言い方していいんですか?こんなの……横暴ですよ」
ちっ。と、わざとらしく舌打ちをされた。
「あぁ!?……いいか?よく聞けよ?俺達はな、疑わしき奴を野放しにはできねぇんだよ。それが仕事なんだ。それが人々の平穏を守るって事なんだろうが」
「だからって、あんたら警察は何度も、そうやって無実の人を拘束して、人生を大きく狂わせてきてるじゃないですか!!」
熱が入り、口調がやや乱暴になってしまう。これは失敗だ。向こうに合わせたら駄目だ。
しかし、頭を冷やそうとする俺に反して、古賀虎継は続け様に怒鳴る。
「まだ親の脛をかじっているような子供がっ!!知った風な口をきいてんじゃねぇぞっ!!きっと大丈夫とか、たぶん悪くない。とかそんな無責任な判断の結果、より多くの人が犠牲になったらどうすんだ!?今回みたいに何十人もの無関係な人間がよ、命を失って、そうなっちまったら、俺達は誰に謝ればいい?どうやって許して貰えばいいんだ?人間は、文字や会話なんかで意志の疎通ができる素晴らしい生き物だ。だけどなぁ、文字や会話なんかじゃあ、何度謝ったって決して許されない事があるんだよっ!!……俺達はな、常に取捨選択していかなきゃいけねぇんだ。なんでもかんでも救えるなんてのは、それこそ子供が夢見るヒーローでしかねーんだ」
何も言い返せなかった。
彼の勢いにのまれた。というのもあるにはあるが、それ以上に……この人の言い分は間違ってないんだと思ってしまった。そう考えてしまったら、もう負けなんだ。
正直、納得はできない。したくもない。
ただ、俺には、もう反論すべき言葉が見つからなかった。
なにより怒鳴る彼の瞳の奥に━━俺は垣間見てしまった。
哀しみを憤りで必死に誤魔化そうとしていて、強がる眼尻に微かにだが水滴が滲んだのを。
さりげなく目元を拭う古賀虎継。それに気付いた瞬間、俺は確信した。
やっぱり、この人は大臥さんの父親なんだ。
威圧的な声調とは裏腹に、直視したくない現実から必死に目を背けようとしている。
老齢に差し掛かりつつある男の人が一瞬だけ覗かせた弱さ。
そんなものに気付いてしまったら、俺はもう……唇を噛んで押し黙る他なかった。
━━それから、すぐ翌日の話だ。
〈七極彩〉の〈赤〉こと赤神灯真と、押切区の赤こと古賀大臥の遺体が揃って消えた。




