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ちょっと君に聞いてみたいことがあるんだけどさ。
夢の中にしか出てこない女の子がいたとして、その子と俺が両思いだったとしよう。
夢の中で、俺はその子と恋人同士ということになっていて、イチャイチャしている。
そして俺が夢から覚め、一番最初に視界に入ってきたのが、現実の世界で俺が愛している女性だったとするならば。
君は俺のことを、浮気者だと思う?
スマホのアラーム音で目が覚める。霞かかった視界が捉えるのは、人間の輪郭。
耳の近くで聞こえてくる、浅めの呼吸音。顔にかかる生温かい息を鮮明に感じる頃には、意識は8割くらい覚醒していて、俺の上に乗っかっている人の正体にもピンとくる。
あー……またかー。
「……琴音さん、何してるんですか」
というか、候補は一人しかいない。何故ならここは、俺達夫婦が二人だけで暮らす、愛の巣なんだから。
俺の上に乗っかっている金髪碧眼の女性_____琴音さんは、道ですれ違えば10人中10人が振り向くだろう美貌を、可憐に歪ませる。
「夜這い♡」
ああ、俺の奥さんは今日も可愛い。だけど、その可愛さをもってしても聞き逃せない発言だ。
夜這いって。……夜這いって!
今はもう朝だよ!
「もう、降りてくださいよ」
琴音さんはほっぺたをプクッと膨らませる。
「嫌や。ウチ、もっと、はーくんの寝顔見てたいんやけど」
「ダメです。俺、今日は出かけなくちゃいけないんですから」
「そうやったっけ?」
琴音さんはパチクリと目を開閉させる。挙動のひとつひとつが、わざとらしいほどに可愛らしく、だけどこれが彼女の素なんだ。恐ろしいことに。
「カレンダーに書いたじゃないですか。今日は面接があるんですよ」
「ふーん……」
あからさまに気のない返事だなあ。
「なあなあ、はーくん。やっぱり、面接はお断りせえへん?」
「しません」
「なあ、ええやんか。ウチ、はーくんのことは一生養ってく覚悟あるで」
「俺が嫌なんですよ。男なら、女の人を養ってこそ一人前!……って、思いませんか」
「思わへん。はーくんって案外、前時代的やなあ」
ぜ、前時代的って。なんだか傷つくなあ。
「そりゃウチだって、はーくんがダラダラしてるだけの人やったらちょっと嫌やったかもしれへんよ。でも、はーくんはウチの代わりに料理も洗濯も掃除も、家のことは全部やってくれとるやん。せやのにお仕事までするってなったら、はーくんも疲れてまうんやない?」
だから、と琴音さんは俺の耳元で囁く。
「せやからな、お金を稼ぐのはウチに任せて、はーくんはお家の中で、ウチとずうっと、幸せに暮らしとっらええねん」
琴音さんは俺の頬を撫で、肩を撫で、何とかして俺を「その気」にさせようとしてくる。朝から浴びせられるにはあまりにも刺激的な、甘ったるい誘惑。
俺にだけ向けられるその愛情を無下にするのは惜しいけど……。
「お断りします」
琴音さんを引っ剥がし、ベッドのすぐ傍に下ろす。琴音さんは「へうん」と奇妙な鳴き声を上げ、その場に崩れ落ちた。
「はーくん酷いよお。ウチはこんなにはーくんのこと、愛しとるのに」
涙目で上目遣いをする琴音さん。今度は泣き落とし作戦か。だけど、負けるわけにはいかない。
「もちろん俺だって愛してますとも」
「やったら、外に行かんでよぉ。ウチの傍におってよお。ウチのこと好きなんやったら、そのくらいしてくれたってええやんかあ!」
こうなると話は平行線だ。俺は説得を諦め(というか、就活を決めた時に一通り話し合いはしたはずなんだけどなあ)、最後の手段に出る。
「琴音さん」
琴音さんの頭に手を置いて、ゆっくりと撫でる。
「琴音さんを心配させちゃって申し訳ありません。でも、俺は大丈夫ですから。ね?」
俺を見つめる瞳はみるみるうちに惚けていき、まるでアニメや漫画の中の人みたいに、青の虹彩にハートの模様が浮かびあがる。
「はーくん……♡」
琴音さんは撫で撫でを求める猫のように、俺の手に頭を擦り付けてくる。その動作が可愛くて撫で続けていたら、気がつけばかなりの時間が経っていた。
名残惜しさを覚えつつ、琴音さんから手を離す。
「続きは家に帰ってから、ですよね?」
琴音さんは頬を赤く染めて頷く。よかった。ひとまずは機嫌を直してくれたみたいだ。
さあて、俺もそろそろ出かける準備を始めていかないとな。と言っても、大体の準備は昨晩に済ませているから、最終チェックをするくらいだけどね。
「琴音さんは、もう朝ごはんは食べましたか?」
「ううん、まだ食べてへんよ」
「でしたら、一緒に食べましょうか」
「わーい! 久しぶりにはーくんと一緒の朝ごはんや! ウチ、お皿の準備してくるな!」
俺がベッドから降りると、琴音さんは鼻唄を歌いながらドアの方へと駆け寄っていた。その背中に俺は声をかける。
「琴音さん」
「なぁに?」
「俺、何か寝言で変なこと言ってませんでしたか?」
琴音さんの動きが一瞬、ピタッと止まった。ほんの一瞬。気のせいかと思うくらいの僅かな間を開けて、琴音さんは俺の方を振り向かずに答えた。
「どうして?」
「いや、その……変なこと言ってたら、恥ずかしいなって思って」
琴音さんがドアノブに手をかける。くるっと振り向いた琴音さんは、眩しいほどの溌剌とした笑顔だった。
「ううん。何も言っとらへんよ」
短く言い切って、ドアを開け、その向こうへと吸い込まれるように消えてしまった。
……何も言ってない。だったらいいんだけど。
俺は琴音さんより少し遅れて部屋から出た。
洗面所の鏡を見る。そこに映る自分の顔は、お世辞にもイケメンとは言いがたい。何より見苦しいのは、瞼が腫れぼったく、赤くなっていることだ。
「……。」
夢の内容はほとんど覚えていない。女の子が出てくることと、その女の子を俺が大好きだということだけ。
幸せな夢だった、はずだった。だというのに、何故こうも胸が痛むんだろう。
俺は何か大切なことを忘れている気がする。決して忘れてはならない、大切な何かを。
蛇口を捻る。冷たい水に顔を浸せば、ほんの僅かに脳に残った夢の名残りは、跡形もなく消えてしまった。
*
「時雨覇王」
と、俺の名前を読み上げるのは、スーツ姿の男。「小木」と名乗ったその人は、履歴書と俺の顔を交互に見てくる。何やら意味ありげに。
「覇王、ですか」
「はい」
「……覇王」
「……はい」
「何か言いたいことでもあるのでしょうか」と喉元まで出かかったのを飲み込み、俺はぎこちなく笑う。
「変わった名前ですねえ」
「よく言われますね」
「ご両親はどうして、時雨さんにこのお名前を付けたんですか?」
小学校の授業で、似たようなことを聞かれたことがある。何の教科だったかは覚えていないけど、自分が生まれた時のことについて親に聞いてくるという授業があったんだ。
『あなたの名前の由来は何ですか?』
それに対する俺の答えはこうなる。
『ド派手でインパクト抜群な名前を付けてあげたかったという、両親の親心です』
うん、確かにインパクトはバッチリかもしれない。でもね、お父さん、お母さん。その名前を付けるのは、生まれた俺の顔を見てからでもよかったんじゃないかな〜って思うんです。
見てくださいよ、この黒髪、子犬を彷彿とさせるつぶらな瞳、人畜無害な体格。
俺の顔、「覇王」感は全くないじゃないですか。
はっきり言って、かなり荷が重いんですけど……。
「えっと……俺に天下を取ってほしかったんじゃないですかね」
「天下を?」
面接官がギラリと目を光らせる。
うう、そんな目で見ないでくれ……。
「あは、あはは……ゆくゆくは御社の社長に、なあんて……」
面接官の視線が更に鋭くなる。
あ、終わった。
*
汗だくになりながら、オフィスから最寄りのバス停に到着し、ベンチに腰掛ける。さっきの面接官との会話が脳裏に蘇り、俺は頭を抱えて項垂れた。
ああ、またダメだった。
俺ってば、いつもこうなんだ。
名前のことを聞かれると、焦って変なことばかり言ってしまう。
昔から言われ慣れてるはずのに、何と返すのがベストなのか未だに分かんないんだ。
でもさあ、これって俺だけが悪いのかなあ。
せめて偉そうなヘンテコネームでも、「王子」とか「プリンス」とか「大名」とかだったらまだ可愛げがあったよ。
それに比べて、覇王て。王の中でも取り分け怖そうな奴じゃん。圧政を敷く者じゃん。メロスに激怒される側じゃん。
無理だって、この名前で良い感じに生きるのは。
「またエントリーするとこからやり直しかあ……」
見上げた空は、俺の心を反映したみたいに曇っている。
俺は立ち上がり、縁起がよさそうな方角に向かって手を擦り合わせる。
頼みますよ、神様。ひ弱なこの俺に力を分けてください。せめて今月には内定が欲しいんです。家で帰りを待つ妻に、よい知らせを持って帰ってあげたいんです!
何卒、何卒! どうかよろしくお願いします!
目を瞑り、ひたすら念じていたその時だった。額にピタッと冷たいものが落ちてきた。
指先で拭うと、俺の人差し指には水滴が付いていた。
「……マジですか」
天気予報は晴れだと言っていたはず。傘なんて持ってきてないんだけど。とか、そんなこと思ってる間にも、どんどん雨強くなってきてるし。
面接は失敗して、雨まで降ってきて、今日はとことんついていない。神様は、少なくとも俺の周りには存在しないみたいだ。
どこか、雨宿りできるところは……あ、あそこにお邪魔させてもらおう。
俺はバス停から一番近いところの軒下に滑り込んだ。
「うわー……完全に豪雨じゃん」
矢のように降り注ぐ雨が視界を白く霞ませている。
この感じだと、雨はしばらく止みそうにないな。この家の人には申し訳ないけど、バスが来るまでここで待たせてもらおう。
そんなことを思っていると_____
「お兄さん」
背後でドアが開く音がした。俺は自然とそっちの方を振り返っていた。
背の低いおばあさんが、俺を見上げている。白髪を頭上で団子状にまとめたその人は、アニメに出てくるような白と黒のクラシカルなメイド服を着ている。
な……何だこの人。メイドさんなんて生まれて初めて見たぞ。というか、なんでこんなところにメイドさんが?
呆気に取られる俺を前に、おばあさんは口を開く。
「お客さん、よかったら店の中で雨宿りしていきなさいな」
「店の、中?」
俺は慌てて周囲を見回した。どうして気づかなかったんだろう。俺のすぐ傍に「営業中」と書かれた立て看板がある。俺はよりにもよって、店の前で雨宿りをするという、とんでもない営業妨害をかましていたのだ。
「す、すみません! すぐどきます!」
完全に混乱していた。俺は土砂降りの中を飛び出そうとしたが_____
「こんな雨の中、傘もささずに出歩いたら風邪を引いてしまうわよ」
おばあさんは目尻にシワを寄せて笑った。見る人に安心感を与えるような、優しい笑顔だ。
「それとも、お急ぎの用事があるのかしら?」
「いえ。特にはありませんが……」
俺は考える間もなく、そう答えてしまう。
「だったら、店の中で雨宿りしていきなさいな」
窓から店内を覗いてみる。ちょうど昼時のため席は殆ど埋まっているように見える。見た感じ、それほど大きそうなお店には見えない。雨宿りをするためだけに、貴重な一席を潰してもいいんだろうか。
そんな俺の懸念を見透かしたみたいに、
「こんな雨じゃ、今からやってくるお客さんなんていないわ。いいから入りなさい。若い子が遠慮なんてするもんじゃないわよ」
おばあさんは俺に背を向けて店の中へと戻っていった。
俺の腹が音を立てた。あまりにもタイミングがよすぎる。まるで、俺の頭が考えるよりも先に、体がこの場所に留まることを決めているみたいだ。
あと数分ほど待っていればバスは来るだろう。とは言え……。
相変わらずの豪雨と、食べ物を求めてひっきりなしに鳴いている俺の腹。頭の中でぐらぐらと揺れ動く天秤が、やがて結論を出した。
そうだ。雨宿りのために店に入ろうとするから罪悪感があるんだ。ちゃんと客として、店に金を落とせばいいじゃないか。
うん、そうしよう。
俺は意を決して、木で出来た引き戸を開いた。ドアに付けられたベルが、カラカラと乾いた音を鳴らす。
予想通り、テーブル席は全て埋まっていて、空いているのは厨房に近いカウンター席のみだ。
俺はその席に座った。先程俺に話しかけてくれたメイド服のおばあさんは、てきぱきと動いている。長い裾をものともせず、優雅な動きだ。
「菊子さん、ライスのおかわり貰える?」
「菊子ちゃん、オレはビール!」
四方八方からおばあさんを呼び止める声が聞こえてくる。へぇ。あの人、菊子さんって言うのか。お客さんも楽しそうに菊子さんと喋ってるし、俺に雨宿りさせてくれたし、たぶんいい人なんだろうなぁ。
「竜ちゃん、ライス1とビール1、あとチャーハンセット2!」
厨房の奥でフライパンを振るっている若い男の人が「竜ちゃん」なのかな。見たところ、店員は「菊子さん」と「竜さん」の二人しかいないみたいだ。
お店の規模的に、個人経営、それも恐らくは家族経営のお店だろう。
ぐう、と俺の腹の音がまた鳴った。
はいはい。今頼むからそう焦らないでよ。
俺は立てかけられていたメニュー表を取った。透明なフィルムでラミネート加工された1枚の薄い紙だ。メニューは黒いペンで手書きされていて、品数もチェーン店ほど多い感じではない。
ふむふむ。餃子。炒飯。天津飯。麻婆豆腐。回鍋肉。青椒肉絲。酢豚。……って、全部中華料理屋のレパートリーじゃないか!
「……ここ、中華料理屋だったんだ」
メイド服姿の菊子さんは客席の間を踊るように動き回る。そんな菊子さんの格好に驚いている人は、俺以外に一人もいない。
中華料理屋でメイド服って……まあ、そういうこともあるか。あまり深く考えないようにしよっと。
「すみませーん!」
俺は手を挙げて菊子さんを呼び止める。
「天津飯と、あと焼餃子1人前お願いします」
「あら、あなたも注文してくれるの?」
「タダでこのお店に留まるわけにはいきませんから」
「そんなの気にしなくたっていいのに」
「ちょうどお腹が空いてたんですよ」
菊子さんは氷の入ったお冷を俺の前に置くと、「竜さん」に向かって大声で注文を読み上げる。
「もうしばらく待ってちょうだい」
それから、お茶目なウインクを飛ばし、常連客の会話に加わりに行った。
腹の虫を宥めすかして待つこと10分。注文した料理が俺のテーブルに運ばれた。
「うわぁ……すっげえ美味そう……!」
黄金色に光り輝く天津飯に、狐色に焼かれた餃子。立ち昇る湯気と店内に充満する油やニンニクの匂いが俺の食欲をマックスにする。
見ているだけでよだれが出てきた。よし、早く食べちゃおう。
手を合わせて、俺はさっそく箸を手に取り、餃子を口に運んだ。
う、美味い……!
歯を軽く立てただけで、ジュワッと滲み出た油が口の中いっぱいに広がって、ジューシーだ。
これ、一気に全部食べるのもったいないな。先に天津飯にも手を付けちゃおっと。
すぐさま蓮華を取って天津飯を一口。口の中に入れただけで溶けてしまいそうなほどにふわふわの卵が、濃厚なあんや熱々の白米と絡み合って胃の中にすとんと落ちていく。こっちも絶品だ。
熱い、口の中を火傷しちゃいそうだ。でも、食べるのをやめられない……!
俺はあっという間に全部を平らげてしまった。
「_____あら、雨も止んだみたいね」
その声にハッとなって顔をあげる。ちょうど目の前にあった壁掛け時計が、この店に入ってから30分過ぎた地点を指している。
窓の外は、先程までの曇り空が嘘のようにカラッと晴れ渡っていた。ほんの気まぐれの雨だったみたいだ。
「また降り出しても困るし、オレはそろそろ帰るかな」
「菊子ちゃん、会見お願い」
常連達は次々と店を後にする。残ったのは俺を含めて数人だけになった。
さーて。俺もそろそろ帰るか。……ってあれ、俺の伝票は?
机の上や下を見てみるも、それらしきものは見当たらない。
俺が探しものをしていることに気がついたのか、
「お兄さん、お代は結構よ」
レジで、手元のお金を整理しながら、菊子さんは当然のように言う。
「私が無理を言って店に入れたんだから、お代をいただくわけにはいかないわ」
でも、こんなに素晴らしい料理をタダでご馳走になるだなんて、俺のプライドが許せない。
払います! 喉元までそう出かかったものの、俺は財布を鞄から出せなかった。
このお金が、自分が働いて出したものではないと思い出してしまったから。
……はあ。早く職場見つけないとな。
「元気、出してね?」
え?
「お兄さん、酷く落ち込んでいるみたいだったから」
俺は思わず自分の顔を触ってしまう。
「俺、そんなに分かりやすい顔してました?」
「どうかしら。でも、職業柄、そういう人を見たらピンと来るのよ」
菊子さんは、ぱちっとウインクをしてみせる。
「疲れた時は、とにかくご飯を食べるのが一番! また何かあったらうちにいらっしゃいな。うんとサービスしてあげるわよ」
菊子さん……なんていい人なんだ……ッ!
目頭が熱くなる。俺の視界はみるみるうちに滲んでいく。
「か、神様……!」
神様は、いたんだ。俺を見放してなんかいなかった。あの時雨が降ったのは、俺がこの店に来ることに鳴ったのは、運命だったんだ!
目尻に滲んだ涙を拭い、俺は頭を下げる。
「ご馳走様でした! 今日食べたご飯、本当に美味しかったです。絶対にまた来ます! ありがとうございました!」
菊子さんに手を振られ、俺は店を出た。
数歩歩き、一度背後を振り返る。
店の屋根に、
「煌竜」
と書かれた看板があった。それがこの店の名前らしい。
ありがとう、煌竜。ありがとう、料理を作ってくれたお兄さん。ありがとう、菊子さん。
中華料理屋なのにメイド服を着ていた理由は結局分からなかったけど、とにかくありがとう。
*
_____ピコン。
バスを降りると同時に、チャットアプリの通知がやってくる。
琴音さんからだ。今日は担当編集と打ち合わせがあるって言ってたけど、もう終わったのかな。
『面接でお疲れのはーくんに、ウチからのご褒美やで! はーくんが家に帰ってくるの、ええ子にして待っとるからな!』
画像……、嫌な予感しかしないけど、一応見ておこう。可愛い猫ちゃんの画像とかかもしれないし。
猫、いつか飼いたいんだよなぁ。でも、そんなことを言ったら琴音さんが……いや、今は考えるのをやめておこう。
軽く深呼吸をして、周りに誰もいないことを確認してから画像を薄目で確認する。
「……!」
俺の親指は素早くチャットアプリを閉じていた。
琴音さんったら、また変な格好して……!
スーパーで手早く買い物を済ませ、琴音さんの待っているマンションに戻る。鍵穴に鍵を差し込むと、廊下の奥からパタパタと足音が駆け寄ってくるのが聞こえた。
ドアを開ける前に一度目を閉じ、呼吸を整える。
ドアの先に待っているのは、結婚して半年の愛しい妻……であることに間違いはないのだけど、それだけじゃない。
働く人にとって職場が戦場であるように、専業主夫の俺にとっては家の中が戦場なんだ。
だけど、敵は奥さんではない。己の理性との戦いだ。
……よし、出陣!
ドアノブを引いてドアを開けた。その途端、奥に控えていた「その人」が、飛びつく勢いで俺に抱きついてきた。
「はーくん、お帰りなさい!」
「うわ!」
尻餅をついて、琴音さんを抱き留める。
ノースリーブのベスト。太腿が見えるほどの短いスカート。両手に握りしめた黄色いボンボン。
作業や食事をする時以外は下ろしている金髪を、今はポニーテールの形に括っている。
俺は琴音さんにしばらくの間見惚れ……そして、ここが屋外であることを思い出す。
「琴音さん、あなたはなんって格好をしてるんですか!」
先程送られてきた画像を見た時からこうなる予感はしていたけど、やっぱり心臓に悪い。
「ウチ、高校ん時チアリーディング部の助っ人やったことがあってん。ちょっとサイズが不安やったけど、案外今でも入るもんやなあ!」
琴音さんはその場でくるっと一回転した。長いスカートと髪がふわっと揺れる。
いつもは髪の下に隠れているうなじを見ると、何だかドキドキして……ってドキドキしてる場合じゃないんだよ!
「どう? ウチのこの格好。ドキドキした?」
「……色々な意味で。人に見られたらどうしようかと思いましたよ」
視線が吸い寄せられるように、青い服の下の強調された胸元に向かおうとする。
カムバック、理性。ゴーアウェイ、野生。落ち着け、落ち着くんだ時雨覇王。先程バスで乗った時に見た、おじさんの黒子に生えていた産毛を思い出しながら、素数を数え、深呼吸をするんだ。
……はあ。ちょっと落ち着いてきた。
琴音さんは、俺にはもったいないくらい可愛い。だからと言って、その可愛さに飲み込まれてはいけない。琴音さんの誘いにうっかり乗ってしまったが最後、たとえそれが朝であろうと昼であろうと、彼女は「お構いなし」なんだ。
「ウチはな、頑張って面接に行ったはーくんを、少しだけでも元気付けてあげたいんや」
「そのお心遣いだけで十分です……」
「いーや、ダメや。はーくんにはもっと元気になってもらわなあかん! それが妻としてのウチの務めなんや!」
いや、ほんと、こんな不甲斐ない俺を養ってくれてるだけでもう十分なんで、それ以上は望んでないんだけどな!
「あの、晩ご飯も作らないといけないし」
「そんなん後でええ。ウチはまだお腹空いとらん」
俺が空いてるんだけど……。
「お、俺、今帰ってきたばかりで汗臭いし」
「はーくん。『続きは帰ってから』って、ウチに言ったやんな。約束を破るのはよくないで」
琴音さんは青い目をキランと光らせ、舌なめずりをした。
「ほら、脱げ、脱げーーーーッ!」
「イヤーーーーーーッ!!!!!!」
*
「うう。俺、もうお婿には行けません……」
「何言うとるんや。はーくん、もうウチと結婚しとるやん」
そうだけど、そうだけど!
何で仕事してる琴音さんの方が元気なんですか!
俺はベッドの上でさめざめと泣いた。琴音さんはチアリーダーの制服をベッドの上に脱ぎ捨て、
「ほな、原稿の続きをやりますか」
と言って、鼻歌を歌いながら寝室を出ていった。
*
俺が琴音さんと結婚したのは半年前のことだ。琴音さんは某月刊誌で漫画を連載している漫画家で、対する俺は、短期バイトで細々と生計を立てるしがないフリーターだった。
そして、琴音さんの住むマンションに転がり込むような形で結婚してからの半年間、俺は全く働いていない。
琴音さんは今ではそれなりに名の知れた漫画家で、俺を養うには充分の貯金があるため、当面の生活は保証されているのだ。
でも、一緒に暮らすことで、漫画家はいつ体を壊してもおかしくない職業だということを俺は実感した。仕事部屋に何日も籠り、寝食を忘れて仕事に没頭する琴音さんを見ていると、心配で仕方なかった。だから、琴音さんに何があってもいいように、少しでも安定した収入を得るべきだと考え、俺は就活を始めたのだった。
……というのは、ちょっとばかり脚色した綺麗な本音だ。実はもうひとつ、俺が外に出なければならない理由がある。
他人が聞いたら、ただの惚気だと思うかもしれない。しかしそれは俺にとって切実な悩みでもあるのだ。
彼女と一緒にいると体力がもたない。
そう。俺は、己の体力のために、そして健全な生活を確保するために、何としてでも働かなければならないのだ!




