馴れ初め話②
水の領地サランの駐屯地は、直径六キロもある国内最大規模の軍事施設だ。六千名の兵士が訓練を行い、寝泊まりできる兵舎や、医療施設も備わっている。広大な敷地は塀に囲まれており、商人が物資を運ぶための通用口があった。
中でどのようなことが行われているかは、入って見なければ分からない作りになっていた。
カノンは母に連れられて、初めて駐屯地に入った。
母は慣れた足取りで通用口を歩き、カノンも緊張した面持ちで歩いていく。細く灯りもない道を通ると、視界が開けた先に見えたのは、兵士たちの激しい打ち合いだった。
二人一組となって、剣の打ち合いを兵士たちがしている。ガキンと、鈍く重い剣が打ち合う音にカノンはびくっと体を震わせた。
男たちは殺気立ち、声を上げながら剣を振るっていた。相手を殺しそうな覇気にカノンは一歩、後ずさった。
母は後ろに下がらず、立ちすくむカノンの様子を見ている。
「――ハアァァァ!」
一人の兵士が剣を振り上げたところで、カノンは、ひっと小さく声を出して目を瞑る。
ガキンとまた鈍い音がしたので、恐る恐る目を開いた。振り上げた剣は、剣で受け止められていたので、胸を撫で下ろす。
それを見て、母が声をかけてきた。
「カノン。これは訓練ですよ。本当の戦の激しさはこの比ではありません」
厳しい一言にカノンは背筋を伸ばす。
「帰りますか?」
逃げ道を作ってくれる母にカノンは食い下がった。今、ここで帰ったらアレグロのお嫁さんには、なれない。
「……帰らないわ」
見るのは怖いけど、これがアレグロが見る世界だと言うなら、目を開かねば。
「わかったわ……」
母は少しだけ口元に笑みを浮かべて、また兵士の訓練を見つめ出した。カノンも、背筋をぐっと伸ばしてなるべく目を閉じないように見続けた。
その後、医療施設も回った。酷い怪我をした者が脂汗をかきながら苦痛に喘ぐ姿を見たとき、カノンはたまらず口元を押さえて目を逸らした。血の匂いが鼻につき、吐いてしまいそうだ。
どうにか吐き気を堪えて、医療施設を出たとき、平然と立っていた母を見て、カノンは「お母様は平気なの……?」と、声をかけた。
母はいつもと変わらぬ涼やかな微笑みを向けてきた。
「これでも武器商人の妻ですからね。自分達が扱うものの怖さや、惨さは分かってるわよ」
穏やかな母だと思っていたが、強い人なんだなとカノンは思った。
(……お母様のようになれば、アレグロ様のお嫁さんになれるかしら……)
目指すべき道が見えて、カノンの気持ちは上向いた。
カノンはアレグロの世界を知ろうと、その後も駐屯地へ足しげく通った。弟と一緒に武器の勉強も始めた。怖いもの、目を閉じたくなる出来事はたくさんあったが、カノンは目をかっぴらいて見続けた。
そんなカノンの努力にアレグロは、眉根をひそめた。カノンが意気揚々と、駐屯地の出来事を語るたびに、彼は嫌そうに眉間の皺を増やした。
彼が不機嫌になったのを察して、こてんと首を傾げる。
「アレグロ様……どうかしましたか?」
アレグロは、視線を逸らして黙ってしまう。こういう時は、話を始めるまで待つのがいい。カノンは辛抱強く、アレグロの言葉を待った。
「………………カノンは……俺の妻にはできない……」
時間をかけて言われたことは、カノンを傷つけるものだった。すぐにでも「なんでよおお!」と、手が出そうになるのを堪えて、ぎゅっと手のひらを握りしめる。
なぜですか?と低い声で尋ねると、アレグロは呟くように言った。
「……カノンは戦から遠い場所に嫁がせたいって……カノンの父上たちが言っていたのを聞いた……だから……」
カノンは眉根をひそめて、握りしめた手を震えさせた。
「だから……妻にはできないと……そうおっしゃるんですか……?」
アレグロの眉間に皺が増える。そして、真剣な顔で言われてしまう。
「俺に嫁げば、戦に直面する。見たくない光景もたくさん見せる……だから……――っ」
真剣な表情でカノンを見たアレグロの声がつまった。
「そうですか……」
カノンはふふっと笑う。目はちっとも笑っていないが。
「カノ……ン……?」
背筋が凍る笑顔を作るカノンに、アレグロは引け腰になる。
「アレグロ様のお気持ちはわかりました。えぇ、分かりました。わたしを案じているのですね。ありがとうございます」
そう言って、カノンはお辞儀をする。顔を上げた彼女はすっと笑みを消した。アレグロが、びくっと震える。
「ですが、余計なお世話です」
カノンは鋭い眼差しで、アレグロを捕らえる。その瞳には譲れないものを抱えている意思の強さが見えた。
「わたしの人生ですもの。わたしはやりたいことをさせてもらいます。辺境伯爵夫人になるには未熟すぎますが、隣に立つ覚悟だけはあります。わたしのことを思うなら、わたしと向き合って妻にしてください」
強烈な告白に、アレグロの方が言葉を失った。
ひくっと彼の耳が動く。それを見て、カノンはチャンスとばかりに畳み掛けた。
「妻にしてください」
「いや……それは……」
「妻にしないと大声で泣きますよ」
アレグロが動揺して、後ずさる。カノンはめげなかった。ずいっと、真顔で近づき、彼にトドメを刺す。
「脇目もふらずに泣きますからね」
「っ……! やめろっ!」
大声を出されて、カノンの口の端が持ち上がる。それを見て「冗談を言うな」と、アレグロが吐き捨てるように言った。
カノンはまた真顔になり「冗談ではないですよ」という。
「初恋が破れるんです。泣きわめきますよ」
そう言うと、アレグロは顔を赤くして口元を手でおさえた。耳は当然、ひくついている。それを見て、カノンは笑顔になった。
「ちゃんと考えてくださいね。わたしは、アレグロ様が大好きですよ」
返事はなかった。
でも、アレグロの耳は赤くなり、激しく動いていた。
その後、カノンは諦めるどころかアレグロの妻になるしかないと腹をくくった。
そんなカノンを見て、辺境伯爵夫人は「肝が座っている」と真顔で褒め、アレグロの返事がないまま、辺境伯爵夫人となるための指導を受けていく。
アレグロは「待ってください!」と動揺したが、無視された。むしろ、「さっさとプロポーズせぬか」と真顔で母に問い詰められる始末。
無言になるアレグロをフォローしたのは、カノンの方だった。
「アレグロ様は考えてくださっているんですよ。アレグロ様は、優しい方ですから」
彼が自分のことを心底、嫌っていないとカノンは思っていた。ただ、彼は口下手で、不器用で、頑固なだけだ。嫌っていたら、もっとそっけなくされているはずだし、耳も動かないだろう。
だから、カノンはアレグロの意志が固まるまで、いつまでも待つつもりだった。
アレグロはカノンとの関係を明確にしないまま、十五歳の時に、見聞を広めるために王都の学園に入った。
これは、マグリット家では伝統的なならわしであった。王太子も同じ学園に入り、今のうちから交流を深めておくという目的もある。離れることは決まっていたし、覚悟もしていた。しかし……
カノンはアレグロの旅立つ日、号泣していた。目元をハンカチーフでおさえて、鼻水まででてきたので遠慮なく鼻をかむ。好きな人の別れを全身で伝えていた。
「い〝 っでらっじゃいまぜ……」
あまりに泣きすぎて、言葉にならない。
そんなカノンに、アレグロは顔を強ばらせ耳を動かしながら、少々、上ずった声で告げた。
「…………帰ってきたら…………その……俺の……」
これはまさか、プロポーズか!と、カノンの期待値が上がる。
しかしそこは、やはりアレグロである。結局、俺のからの先は赤面するばかりで聞けず、馬車に乗る時間になってしまう。
馬車に乗り込むときに、何か言いたげに眉間に皺を寄せるアレグロに、カノンは満面の笑顔になる。
「お帰りをお待ちしています」
「あぁ……」
「もし、向こうで浮気したら、家の武器を全部持って、乗り込みにいきますからね」
「…………」
アレグロに限ってそんなことはないとは思うが、二年間の別れである。
健康な男子がはめを外すこともあるだろう。
カノンは花のように朗らかに笑って、アレグロに釘を指した。
「わたしを人殺しにしないでくださいね」
その言葉に、アレグロは無言だった。
耳も止まっていた。
こうして、二年の別れはあったが、カノンは寂しさを堪えて、辺境伯爵夫人の元、勉強を続けた。
別れの期間の間は手紙のやり取りを続けた。手紙を出す量は、圧倒的にカノンが多かったが、アレグロもまめに手紙を送ってきた。
元気にしている。
と一行の手紙だったが、必ず季節の花が一輪、添えられていた。
押し花にされたそれは、思いの塊のようで、彼がどんな表情で、それを封筒に入れたのか、想像するだけでカノンの頬は緩んだ。
そして、二年後。
学園を卒業して領地に戻ってきたアレグロは、元々厳しかった顔立ちを、さらに凛々しくさせていた。
それにカノンの胸は高鳴る。
今すぐにでも抱擁して、かぶりつきたい気持ちになるが、二年間のうちに辺境伯爵夫人によって、忍耐を鍛えられたカノンはぐっと我慢した。
「お帰りなさいませ……」
感極まって泣きそうになるのを堪えながら告げると、アレグロは真剣な面持ちで「大事な話がある」と告げた。
カノンは、ついにきた!と頬を真っ赤に火照らせた。
二人は子供の頃からよく遊んだ辺境伯爵邸の中庭に向かい、お互いを見つめあう。
アレグロは全身を硬直させて、カノンはすでに目を爛々と輝かせている。
その状態で、一時間経過。
そして、緊張しきったアレグロがやっと口を開く。
「カノン……」
「はい」
「……カノン……」
「はい」
「……………」
「……………」
「…………………………」
「…………………………」
それから、さらに一時間後。
相変わらず二人は佇んでいた。
「カノン……俺の……その……」
アレグロが「妻になってくれ」と言うまで、さらに一時間。合計三時間かかってカノンはやっと聞きたい言葉を手にした。
プロポーズを受けてトントン拍子に結婚をした二人は、立て続けに三人の男児にも恵まれた。
カノンが迫ったわけではない。アレグロが夜は雄弁だっただけである。
子育てと夫人としての教育を受けながら、カノンは忙しい日々を送っていくのだった。