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令嬢は嗤う  作者: バーン
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胎動

王都北西部。

港湾にほど近いルイン地区は、朝靄に包まれていた。

薄い霧が路地の上を漂い、夜の名残りがまだ街の隅に貼りついている。


この地区の大部分に貧民街が広がる。大小さまざまな反社組織が根を張り、 行政からほぼ見放された治安の悪い場所。


まだ街が完全に目覚める前の時間帯。

朝靄の中、一人の男がその北側を支配する組織―――エクリプスノワールの中心拠点 「根城」へ歩み寄った。


黒い外套の裾を揺らしながら、 欠伸を噛み殺し、 寝ずの番をしている門番へ その男は片手を軽く上げる。


門番は慌てて背筋を伸ばした。


「……ッス!」


早朝ゆえ、目立たぬよう最低限の挨拶だけ。そのまま扉に手を掛け、出来るだけ音を立てないように扉を開ける。


その男は、そのまま悠然と中へ入っていった。

門番は、彼の背中が奥へ消えるのを確認してから、 ゆっくりと扉を閉める。


扉が完全に閉まった瞬間、 相方が小声で尋ねた。


「……なあ、今入って行ったアイツは誰なんだ?」

「なんだお前、知らねーのかよ!?あの人はウチの幹部だぜ?」


門番は得意げに続ける。


「俺も聞いた話だけどよ──… あの人がここに入る前の話らしいんだが、めっぽう喧嘩が強かったらしい。 向かう所敵なしだったとか?」

「それでウチの首領が気に入ってよ。 呼び出してガチ勝負で鼻っ柱へし折ったらしい。そしたら、その首領の強さに惚れ込んで、向こうからウチに『入れて下さい!』って言ってきたとか?」

「ほえー。お前よく知ってんなー?すげえわ。」

「へへ、まあな……」


褒められて、門番は少し嬉しそうに鼻を鳴らす。


「それにしては、ウチではあまり見かけないよな?」

「……あの人はな、今は朝から晩まで港湾関係の仕事が主らしい。ウチと関係が詮索されねーように気を使って、あまり根城には来ねぇんだと。」


「来るとしても早朝だ。今日みたいにな?」

「お前、あの人を見れたのは幸運かもしれねーぞ?ハハハ。」


相方が笑いながら言う。


「じゃ、今日仕事が終わったら、カードで一勝負だ。負けた方がエール奢りな?」

「いいぜ?後で泣かしてやるよ。」


二人の軽口が、まだ眠る街に小さく響いた。


根城の扉が閉まり、外の喧騒が完全に遮断される。


その向こうでは、先ほどまで門番達が交わしていた小声の会話が、次第に朝靄の向こうへと消えていった。


薄暗い廊下を奥へと進んでいく。 古い木材の軋む音だけが静かに響いていた。


廊下の隅では、夜通し見張りをしていた者が壁にもたれて欠伸を噛み殺している。

この時間は、ここで働く者達にとってはまだ夜の続きだ。


クロヴァンは慣れた足取りで廊下を進む。

階段を上り、二階へ。


上がりきると、廊下に並ぶ幾つかの部屋の内、ある一室へ向かった。


目的の部屋の扉の前に立ち、軽く二度、拳で扉を叩いた。


返事はない。


だが、クロヴァンは気にせず扉を開いた。


部屋の中は、先日の南との全面衝突の時に、南の精鋭部隊の襲撃を受けた跡も、もうすっかり綺麗に清掃・補修されていた。場所によっては真新しい所もある。


壁際には、以前はあった酒瓶の並んでいた棚や食器棚は撤去されて無くなっており、空いたその壁には王都周辺の地図や港湾施設の見取り図が張られており、中央の大きな机には幾つもの書類が並べられている。


その向こうには、すでに二人の男がいた。


一人はブロワール。

もう一人はガストリック。


ガストリックは、眠そうに大きく口をあけて欠伸《あくび》をしていた。


二人ともクロヴァンが姿を現すと、視線を向けた。


「……来たか、クロヴァン」

「ああ」


クロヴァンは短く答えると空いている椅子を引き、腰を下ろす。


その仕草には、先ほど門番達が話していた逸話のような荒々しさはない。

むしろ、港湾の商会を取り仕切る男としての落ち着きがあった。


「この時間に来いってよぉ……。眠くてしゃーねーぜ……ふぁ~あ……」


そう言ってガストリックは、愚痴をこぼす。


「お前は相変わらず、”我が道を行く”って感じだな……フッ。」


クロヴァンが苦笑する。


その彼の視界に、机の上に置かれた一枚の書類が目に入る。

それを取り上げ、ざっと目を通す。


「……それで?」


彼は低い声で尋ねる。


「俺を呼んだ理由は……?」


室内の空気が変わった。


「……ああ、相談したい事と……、ルイン地区について、あ(・)れ(・)以降、何か新しい噂があるか知りたい」

「ああ、なるほど。……それなら面白い話がいくつかあるぞ?まずは……アレだな。この前言ってた、ウチの敵対組織を庇護していた……とかいう某子爵の件でな。屋敷が全焼し、子爵自体は遺体も見つからず行方不明……というのがあっただろう?これに関連した話だ。」

「ほう……」

「その何某(なにがし)子爵が、この地区にお目こぼしをする様に、あちこちに睨みを効かせて………色々と働きかけてたらしいんだ。そいつがいなくなった所為で、……いや、まぁ、それだけじゃねーか。南とのドンパチ、流石に俺らの根城の前に、巨(・)人(・)が(・)通(・)れ(・)そ(・)う(・)な(・)道(・)が出来てしまってるし、これはどうやっても隠しようがねーし、目立つわなぁ……?ちょーっと派手にやりすぎたなぁ……?」

「まぁ、確かに……そうだな」

「……どうやら、この地区の再開発の話まで持ち上がってるらしい。このままほっとくと、エクリプスノワール(おれら)のような反社組織が、根こそぎ、ルイン地区(ここ)から追い出されるかもな?お前さん、もしそうなったらどうするよ?」

「……お前がそういう話をするってこたぁ、何か策があるんだろう?」

「お見通しか……。へへへ。流石、話が早いな。この地区を現状維持したままにする方法が、二つほどある。聞くか?」


先ほどまで眠そうにしてたガストリックが、どうやら興味を引かれたのか、会話に入ってくる。


「もったいぶらねーで、言えや。ほらほら」

「一つは、どこかのお貴族様の傘下に入る、って事だな。ウチと取引きがある宮廷貴族の家で事業に失敗し、損失を出して崖っぷちの子爵家がある。ボロを出したくないんでな、やるとしたら、仲介を挟んでウチと関係をもち、例の行方不明になった何某(なにがし)子爵の後釜に座ってもらう、って案だ。」

「もう一つの案は?」

「……この地区を管轄している地区監督官サマだ。こいつが賭博で大きめの借金を作って首が回らんらしい。大方、某子爵にはめられて、賭博にのめり込んだんだろうな……。それでだ、こいつの借金を一部肩代わりしてやる代わりに、首輪を付けてやるんだ。」

「こっちでその額の分の現金を調達して、同額の借用書を切るだけ。金利や返済期間等の条件を、元々借りていた金貸しより、大分甘くしてやる方向でな?……それで今まで通り、この地区には見て見ぬフリをするように……な。」

「なるほど。……まぁ、俺らが直接”地区監督官”に係わると誰かにバレたら後々マズそうだ。その仲介出来そうなヤツ、俺に心当たりがある。当たってみるわ。」

「おう、よろしく」


クロヴァンが口角を上げ、ニヤリと笑う。


「……それで、相談したい事って……なんだ?」

「ああ、それはだな……」


ブロワールは顔を引き締めると切り出す。


「……週の真ん中あたり……多分、水曜(メルクルティ)辺りに……、例(・)の(・)魔(・)女(・)が来ると思う。この日はとても大事な日になるはずだ。……だからウチの幹部であるお前にも出て欲しいんだ。」

「おいおい……夜に俺を呼ばんで欲しいんだが……。ブロワールよ、お前に全権委任するんじゃ、ダメか?」

「……これから、新しく俺らの首領になるんだ。一度、顔合わせだけでもしておいて欲しい。」

「……」


クロヴァンは机の上で手を組み、その上に額を預けると……しばし黙り込んだ。


そして、徐に顔を上げると人懐っこい表情を浮かべ、口を開く。


「しゃあねえな。ブロワールにそこまで言われちゃ、いくしかねーか。……翌日の港の方の仕事は、部下に全部任せて休みを取るか。」

「悪ぃな……」


クロヴァンは肩をすくめて笑った。


「気にすんな。俺の体にも、たまには休みをやる頃合いだ。ハハ。」


ガストリックが椅子の背にもたれ、大きく伸びをした。


「へぇ……。こりゃあ、水曜は面白くなりそうだな……」


その声音には、 眠気の奥に確かな好奇心が混じっていた。


「……じゃあ、決まりだな。 水曜(メルクルティ)の夜―――全員、根城(ここ)に集合だ。」


クロヴァンは立ち上がり、 外套の襟を整えた。


「了解だ。首領になる“その方”とやら……どんな化け物か、楽しみにしておくよ。」


ガストリックが鼻で笑う。


「お前でもビビるかもな?へへ……」


クロヴァンは軽く手を振り、扉へ向かった。

ブロワールは最後に一言だけ付け加える。


「……一時(いっとき)に比べれば、俺らも掃(・)除(・)して大分減ったんだが……、集団で金品を狙う他所から来た浮浪者が、この周辺にもまだ居るみたいだ。……気をつけて帰れよ。」


クロヴァンは振り返らず、片手をやれやれという風に振り、答えた。


「浮浪者なんざ、どこにでもいるさ。……ここは貧民街だぜ?」

「……まぁ、確かにな?」


扉が開き、廊下へと足音が遠ざかっていく。

部屋には、ブロワールとガストリックだけが残された。


ガストリックが欠伸を一つすると、そのままゴロリと座っているソファーに寝転がる。


「……それにしても、よ。あ(・)の(・)オヤジが死んだなんてよ、未だに信じられねえな。今にもその扉を豪快に開けて、ひょっこり顔を出して飯でも連れてってくれそうな……」


目だけで、チラリとブロワールの様子を見ると……彼の顔が少し暗くなっていた。


「す、すまねえ。悪気があった訳じゃねぇ……。そうだ!俺ぁ眠いし、このまま、ここで寝ていくぜ?」

「ああ、好きにしろ……」


ブロワールは机の上に残された書類へ視線を落とした。

そこには、ルイン地区の地図と、いくつかの走り書き。


座ったまま、彼は顔を窓の方へむける。

窓の外を見ると、いつの間にか朝の光が差し始めていた。

薄暗かったルイン地区の屋根々々を、淡い光がゆっくりと照らし始めていた―――。




                 ◇




ザール王国の王都を囲う、長大な城壁。

幾重にも積み上げられた灰白色の石壁は、王国百五十年の繁栄を象徴する巨大な盾であった。

王都へ至る東・南・北の街道には、それぞれ堅牢な城門が設けられ、旅人や隊商は必ず衛兵による検問を受けなければならない。


一方、西側は事情が異なる。


王都の西を悠然と流れる大河シルヴェーヌ川。 その川幅は広く、対岸の建物や木々の輪郭がうっすらと見えるほどで、 古くから流域一帯を支配するその時代ごとの国家の物流路として活用されてきた。

王都北西部には、その流れに面する港が築かれ、共和国方面からの船舶も数多く寄港する。


街道を行く者も。

船で訪れる者も。

王都へ入る以上、誰もが衛兵の確認を受けることに変わりはない。

門番の衛兵達は、荷物の確認、書類の照合、簡単な質問を繰り返す。 不審な点がなければ、通行を許可するだけの単調な仕事だ。


「次!」


門番の衛兵が声を張り上げる。

旅人は羊皮紙の入都許可証を差し出した。


「出身は?」

「イグニス共和国です。」

「入都の目的は。」

「観光です。」

「滞在予定は?」

「三十日ほど。」


衛兵はわずかに眉を動かした。


「……一か月か。」

「はい。王都を見て回った後は、川を下ってザール王国随一の港街と噂される”ポール・ド・リュミエール”にも観光に寄る予定です。」

「そうか。」


荷物は肩に背負った大きな革袋が一つ。

武器も冒険者として一般的な装備。

問題は見当たらない。


「通ってよし。次!」


次に並んだのも共和国出身。

その次も。

さらにその次も共和国から来たという。

荷の申請が無い(つまり、ここで売る為の商品を持たない)、身なりの良い商人。

裕福そうな夫婦。

彼らに共通するのは、仕事でも商売でもなく、長期間王都へ滞在する予定だということだった。

違法な点は何一つない。

だからこそ、衛兵達は首を傾げながらも通行を許可するしかなかった。


昼を知らせる鐘が鳴る。


「お疲れさん! 交代だ!」


交代要員が現れ、門番達は持ち場を離れる。

繁華街へと続く石畳を歩けば、昼時の喧騒が耳へ飛び込んできた。

香ばしく焼かれる肉。

焼きたてのパン。

煮込み料理の湯気。


どこの店へ入ろうかと同僚と話していると、その中の一人がぽつりと呟く。


「……なあ。」

「ん?」

「最近、共和国(イグニス)から来る奴、多くないか?」

「交易は元々盛んだろ。」

「いや、隊商じゃねぇ。」


年配の衛兵は首を横に振る。


「商売するための荷物も持って来てないから、行商でもねぇ。依頼帰りの冒険者でもねぇ。……身なりの良い旅行者ばかりなんだ。」

「そういや今日も何組か見たな。」

「しかも滞在予定が長い。」

「二十日、一か月……長い奴は二か月なんてのもいた。」


若い衛兵が肩をすくめる。


「共和国(イグニス)で、ザールの王都観光が流行ってるんじゃねぇのか?」

「そうならいいんだが……。儂もこの仕事に就いて十年以上になるが、この時季にここまで共和国(イグニス)の人間が続くのは記憶にねぇな。」


年配の衛兵は顎に手を当てる。


もう一人が腕を組む。


「……そういや、港の連中も似たようなこと言ってたな。」

「港?」

「ああ。昨日、港勤務の知り合いと飲んだんだが、『共和国(イグニス)から来る客船の乗客が妙に増えてる』ってぼやいてた。」

「港もか?」

「ああ。」

「街道だけじゃねぇってことだ。」

「しかも身なりからして、金持ちそうな連中が多いらしい。船賃は馬車より高ぇからな。」

「……確かに。」

「つまり共和国(イグニス)から王都へ来る人数そのものが増えてるってことか。」

「……偶然か?」

「分からん。」


その言葉に、一同は自然と黙り込んだ。

偶然と言われれば、それまで。

しかし、長年門番を務める彼らの勘が、小さな違和感を覚えていた。


やがて年配の衛兵が静かに息を吐くと、口を開いた。


「だが、この仕事を長くやってると、こういう『いつもと違う流れ』ってのは妙に気になる。」

「事件ってほどじゃねぇ。……だが、何も無ぇとも言い切れねぇ。」


若い衛兵も真面目な表情になる。


「そうだな。事件じゃないからと見過ごして、後で『あの時、報告しておけば……』なんてことになっちゃ寝覚めが悪いな。」


「……一応、詰所の隊長には話しておくか?」

「そうだな。何も無ければ、それでいい。」


四人は昼食を取る店へ向かいながらも、その違和感だけは胸のどこかに引っ掛かったままだった。




                 ◇





昼食を終えた衛兵達は、それぞれ持ち場へ戻る準備をしていた。

その中で、年配の衛兵だけが詰所に寄り、その奥にある隊長室の扉を叩く。


「失礼します。」

「入れ。」


執務机に向かっていた隊長が顔を上げた。


「どうした。」


衛兵は姿勢を正し、簡潔に報告する。


「ここ最近の検問にて、イグニス共和国からの入都者が例年より多いと感じています。」

「ほう。」

「街道からの旅行者だけではありません。王都河港へ入港した旅客船でも、共和国からの乗客が増えているとのことです。」


隊長は黙って続きを促す。


「さらに、商人を名乗る者の中には商品を持ち込んでいない者がおり、観光目的と話す者が多数確認されました。滞在期間も二十日から一か月程度と長期の者が目立ちます。」


隊長は腕を組み、しばらく考え込んだ。


「……不審者はいたか?」

「いいえ。」

「偽造書類は?」

「確認されませんでした。」

「武器の持ち込みは?」

「規定の範囲内です。」

「そうか……。」


机を軽く指で叩きながら、隊長は静かに言う。


「現時点で違法性はない。……そうだな?」

「ええ、ですが……。」

「……その方の言いたい事は分かっている。」


隊長は頷いた。


「だからこそ、現場だけで判断する話ではない。」


机の上から定例報告用の羊皮紙を一枚取り出す。


「報告書を作成しろ。」

「はい。」

「判断は上に任せる。」

「我々は、気付いたことを正しく伝える……仕事はそこまでだ。」

「了解しました!」


衛兵は敬礼すると、すぐに報告書の作成へ向かった。



                 ◇




王宮の文官局。

高く積み上げられた羊皮紙の束が、机という机を埋め尽くしていた。

税収報告。

各都市からの陳情。

街道補修の予算申請。

軍の補給要請。

貴族からの嘆願書。

毎日のように運び込まれる膨大な書類を、文官達は黙々と処理していく。

その中の一枚を、一人の中堅文官が手に取った。


『王都衛兵隊 定例報告』


・共和国からの入都者増加。

・滞在期間の長期化。

・商品を持たない商人。

・観光目的と思われる旅行者の増加。

・街道・河港の双方で同様の傾向を確認。


文官は一通り目を通すと、小さく鼻を鳴らした。


(共和国とは友好国だ。)

(昨年も、一昨年も、両国関係に変化はない。)

(交易は順調。国境紛争もなし。)

(現場というものは、少し変わったことがあると何でも報告したがる。)


彼は視線を横へ向けた。

机には、まだ処理を待つ書類が山のように積まれている。

思わず、うんざりしたように小さく息を吐いた。


(今月中に片付けねばならん案件が、まだこれだけ残っている。)

(こんなものに時間を割いている余裕はない。)


羊皮紙を机へ戻す。


「共和国とは友好国だ。」


誰に聞かせるでもなく呟いた。


「交易も盛んであるし、旅行者が多少増えたところで、騒ぐほどの話ではあるまい。」


机の端に置かれた判を手に取る。


【緊急性なし】


乾いた音と共に、そう刻印された赤い印が報告書に押される。

文官はその報告書を"通常業務保管箱"へ放り込む。


そこは緊急案件でも優先案件でもない、いわば「後日処理」の書類を集める保管箱だった。

羊皮紙は他の書類の間へ静かに滑り込み、その姿を埋もれさせる。

それきり誰の手にも取られることはなかった。


国王も。

宰相も。

各大臣も。

王都保安局も。


この報告書の存在を知ることはない。

やがて王都に迫る大きなうねりを、この時点で知る者は、まだ誰一人としていなかった。




                 ◇




翌日。


普段は南方の広大な領地を治め、自領の居城に鎮座している四大貴族の一角、ランソール公爵家、現当主、ジルベリク・ランソール・カルヴァドス公爵が、珍しく王都へ滞在していた。


目的は、彼の娘である次女の婚礼式への出席である。


彼女の嫁ぎ先は、王国内でも有数の勢力を持つ侯爵家。政略結婚ではあるが、両家の結び付きは王国の勢力図にも影響を与える一大慶事であり、多くの貴族が王都へ集まっていた。

婚礼を週末に控えたランソール家の屋敷、その執務室でジルベリクは書類を片手に、執事から報告を受けていた。


「旦那様。」


執事が一礼する。


「何か?」

「王都の近況報告でございます。」

「ほう。聞こう」


執事が姿勢を正し、一礼する。


「……最近、共和国から王都へ入る旅人が例年よりかなり増えている……との事です。」

「東門だけではありません。河港から入る旅人も同様のようです。」


ジルベリクは手を止めた。


「理由は?」

「現在のところ不明です。」


執事はそこで公爵の様子を伺い一拍あけると、先を続ける。


「……商人……冒険者……旅行者。」

「いずれも合法的な入国であり、不審な点は確認されておりません。」


部屋に沈黙が流れる。


やがてジルベリクは静かに窓の外を見た。


「……一見、おかしな所はありませんが……”例年と違う”というのが、私には何やら引っ掛かります」

「……確かに妙だな。」

「はい。」

「共和国は今、何かをしようとしているのか?」


執事は首を横に振る。


「……私には、分かりません。」


その一言だけで十分だった。

ジルベリクは椅子にもたれながら、小さく呟く。


「調べろ。」

「……は?」

「共和国の内情を調べる。いつもの者を使え。」


執事の目が僅かに細くなる。


「承知いたしました。」


彼は深々と一礼すると、そのまま静かに部屋を後にした。

その命令が下された時点では、まだ誰も知らない。


共和国で静かに進行する異変。


それを恐れ、故郷を離れ始めた人々。


そして、その情報を誰よりも早く掴もうと動き出した者がいることを。


王宮では、一枚の報告書が書類の山に埋もれていた。


一方で、ジルベリク公爵は、わずかな違和感を手掛かりに、密偵をすぐさま隣国へ送り出したのだった。


同じ情報を前にしながら、その後の行動は大きく分かれた。

そしてこの判断の差が、一月(ひとつき)、あるいはもう少し先に、王国全体を揺るがす危機の火種となっていくのであった。




                 ◇




市街地より小高い、王宮近くの一等地。

その一角に、この国の四大貴族であるランソール家の屋敷があった。それは一目で四大貴族家の屋敷だと分かる程立派な大豪邸であった。


ジルベリク公爵は、応接室の上座にある精緻な意匠が施された椅子にゆったりと腰掛け、屋敷の応接室の隣室に運び込まれている大量の品々を満足げに眺めていた。


それらは、次女の婚礼式のこの機に、新たに関係を深めたいとの思惑の有る貴族家や、交友のある貴族家などから送られた、豪奢な祝いの品の数々で、梱包や包装から取り出された品々が、所狭しと並べられていた。


「……お忙しいところ、わざわざ足を運んで頂きありがとうございます、お父様。」


ジルベリク公爵は、応接室の入口で挨拶をして入って来た娘の方を向き、その姿を見て満足げに頷いた。


「何、可愛い娘の結婚式だ。そなたの顔も見たかった事であるし、相手も侯爵家である。こちらも礼を尽くさねばな。それに……王都でも色々とやっておきたい事もある。」


娘であるフェルレットは微笑む。


「そうでしたか。流石はお父様ですわね。全く……一挙手一投足に至るまで、行動に無駄がありませんわ。」

「ふふふ……そう褒められると、いかな儂でも調子に乗ってしまいそうだ」

「まぁ、お父様ったら……フフフ。ああ!そうだわ。お父様?」

「なんだ?フェルレット。」

「……お父様がご機嫌なうちに、一つお願い事をしてもいいかしら?」

「何か、欲しい物でもあるのか?」

「そうなのです、お父様。最近、王都には評判の「聖女」と呼ばれている方がいるのですが……。彼(・)女(・)は、テラ・メーラ大神殿に所属する神官の一人だとか。式で是非、この方に祝福をしていただきたいですわ。そのような方に祝福して頂ければ、私達の結婚生活も幸せに過ごせそうですもの。」

「……テラ・メーラ大神殿か。神殿に私の力が及ぼせるか分からぬが……。可愛い娘の頼みだ、一応声を掛けておく。もし、その『聖女』とやらが呼べなくても許してくれるか?」

「うふふ……。私は……お父様のお力を信じていますわ?」

「ハハハ……こやつめ。」


フェルレットは父の性格をよく理解していた。

彼女も、周囲から兄弟姉妹の中では思考や性格が最もジルベリク公爵に近い、と言われてきた。

彼女自身、計算高く、冷静で、上昇志向が強い。


婚期が他の令嬢に比べ、少し遅れたのも―――彼女が「妥(・)協(・)し(・)な(・)か(・)っ(・)た(・)」からだ。


(実際の所、それを進めるにあたって起きた軋(・)轢(・)や多(・)少(・)の(・)問(・)題(・)程(・)度(・)は、家の力でねじ伏せ、何事も無かった事となった。)


(彼女は尊敬する父のように、家の利益にならぬ縁など結びたくなかった。彼女自身も、家の力をさらに高める婚姻を望んでいた。だからこそ、嫁ぐ先の選定に時間がかかったのだ。)



フェルレットは内心でそう思いながら、表情には出さずに話を続けた。


「私の方は特にこれといって問題はありませんが、弟の方には何かお声掛けいたしますの?一応、一族ではありますし、祝いの席ゆえ当日の招待状はすでに学院の方へ送っておりますが……」


ジルベリク公爵は、わずかに眉をひそめた。


「……あやつか。どうやら今は、学院の寮に引きこもっているらしいな。……あやつの執事コンスタンから、そう報告を受けておる……。もう少し出来る奴かと思っておったが……。」


フェルレットは肩をすくめる。


「まぁ、そうだったのですね……。私も在学中は声を掛けに行ったり、手紙を出したりして、弟の様子を時々気に掛けており、その当時は特に問題行動は起こしておりませんでしたが……。じきに私の方は学院の卒業を迎えてしまいましたので、弟のその後の様子は存じておりませんでした……。」


ジルベリクは、軽く手のひらを娘に向けて静止した。


「良い。」


その声には、父としての苛立ちと、当主としての冷徹さが混じっていた。


「……あやつめ。末っ子だからと、甘やかし過ぎたか?せめて魔法学院程度は卒業して貰わねば、四大貴族家の一員としても他家に対し、示しがつかん。」


公爵は深く息を吐く。


「……卒業するまで学費は払ってはやるが……。そうだな……あやつが卒業するまで、儂は一切口をきかん。ヤツには上手い事言っておけ。あやつからの言葉は其方が聞いておけ。儂に報告するもしないも、其方に任す」


フェルレットは、父の決断に微笑を浮かべた。


「……あの子にはその程度で収めるのですね?お父様もお優しい事。フフ……。そういう事であれば、当日、あの子の事は委細お任せくださいませ、お父様。」


ジルベリクは満足げに頷いた。


「……うむ。任せたぞ。」


ジルベリク公爵は再び隣室へ視線を向けた。


豪奢な祝いの品々が整然と並び、そのどれもがランソール家の影響力と、次女フェルレットの婚姻がもたらす新たな縁を象徴していた。


「……ふむ。」


公爵はゆっくりと立ち上がり、窓の外──王都の街並みを見下ろした。


高台にある屋敷からは、王都の大通り、商業区、そして遠く王都を守る城壁。その城壁と城壁を繋ぐように、一定間隔で聳え立つ見張り塔までが一望できる。


(王都は今、動いている。帝国の特使、共和国の旅行者増加、今はさざ波の様な日々だが、ちょっとした何かがあれば、「動(・)く(・)」市場の揺らぎ―――。そして、我が公爵家の新たな同盟。)


フェルレットは父の背中をじっと見つめ、その思考の方向を理解していた。


ジルベリク公爵は静かに言った。


「……フェルレット。この婚礼は、そなたのためだけのものではない。ランソール家がさらに上へ進むための、一つの節目だ。」

「……承知しておりますわ、お父様。」


フェルレットが一瞬目を輝かし、優雅に一礼すると、公爵は満足げに頷いた。


「よい。式典までに、儂は王都で済ませておくべきことがいくつかある。そなたは式の準備に専念せよ。」

「はい、お父様。それでは失礼いたします。」


そう言うとフェルレットが部屋から下がる。公爵は深く息を吐き、ゆっくりと椅子に腰を戻した。


その目には、娘の婚礼の喜びよりも―――


王都で動き始めた政治の流れを読み取る、鋭い光が宿っていた。


(……王都は、今が潮目だ。動くべき時に動く者だけが、次の時代を掴む。)


公爵は指先で肘掛けを軽く叩いた。


そして、王都の空気が静かに揺らぎ始める中、ランソール家の屋敷にもまた、新たな動きが生まれようとしていた。




                 ◇




長大な城壁の外側を流れるシルヴェーヌ川に沿って、王都の北西部にザール王国最大級の河港が広がっている。


昼間の喧騒も、今は少しずつ薄れ始めていた。

夕暮れの空は西から茜色に染まり、河面には細長い光が揺らめいている。荷役を終えた貨物船が静かに停泊する一方、旅客用の船着き場では、今夜の便へ乗り込もうとする者達が行き交っていた。


その一角。


夕闇の迫る河港を、一人の男と、その少し後ろを追従する複数人の剣や革鎧を身につけた男達が、その男を守るように周囲を警戒する素振りをしつつ、歩みを進めていた。


濃い茶色の外套をまとい、つばのある商人帽を目深に被っている。手には革製の書類鞄。外套の下から覗くベストも仕立ての良いものだが、決して派手ではない。

……どこにでもいる、少し羽振りの良さそうな商会の買い付け担当者。


”商会の買い付け担当者が、腕の立つ冒険者を護衛に雇って、どこか目的地へと向かうのだろう ”。少なくとも、傍から見ればそう見えた。

その正体が、ランソール家に仕える諜報員ドナルノーであることを除けば。


彼は周囲を一度見回すと、桟橋の先に停泊している船へ視線を向けた。


大型の貨物船ではない。細身の船体に、浅い喫水。

大量の荷を積んで川を遡る船とは異なり、乗客を乗せて少しでも早く目的地へ到達することを目的とした旅客船だ。


船上では船員達が出航準備に追われている。

船主がその人影に気づくと、近くの船員と一言二言言葉を交わし、桟橋からドナルノーの方へ歩み寄ってきた。船主がドナルノーの隣まで近寄ると、一行は踵《きびす》を返し、船主もそれに同行するように少し離れた建物の陰へと移動する。


「……準備は整ったか?」


船から十分離れた建物の陰で、声を掛けられた船主が、帽子のつばを押さえながら小声で答える。


「ええ、ドナルノー様。滞りなく」


船主は声を潜め、周囲を気にしながら続けた。


「この船はシルヴェーヌ川を遡り、イグニス共和国の山麓にある港町、”ヴァル・ド・ロシュ”へ向かいます。途中で何度か停泊しますが、予定通りなら数日後には到着するでしょう」

「そうか」

「今回、あなた方のお立場は、まず、ドナルノー様が、”荷の買い付けに向かう商会の責任者”であり、まわりの皆様が、”その道中を護衛する冒険者達”、という事になっております。……よろしいですね?」


一同が頷く。


「書類は?」

「問題ありません」


船主が懐から書類を取り出し、周囲からは、自身の背で見えないように注意をしつつ、ドナルノーに渡す。


「こちらに。ザール王国側で必要な許可もすべて取得済みです。記載されている名前も、職業も偽りのものですが、形式上は何の問題もございません」

「共和国側でも、取引目的の商会関係者として問題なく通るよう手配してあります」


ドナルノーは書類へ一瞥をくれただけで、それ以上確認はしなかった。彼は受け取ったそれを、自然体で懐に入れる。この程度の偽装は、彼らにとって珍しいものではない。


それより重要なのは、共和国へ入った後だった。

ドナルノーはゆっくりと背後を振り返る。そこには武器と革鎧を身に着けた数人の男達が立ち、いずれも旅装姿であった。


「……閣下は、共和国からの来訪者が急増していることを、単なる観光客の増加とは考えておられん」


男達の表情が引き締まる。


「ここ最近、イグニス共和国からこの王都へ入ってくる者が増えている。しかも、滞在期間が妙に長い者までいる」


ドナルノーは声を落とした。


「……何かが起きている」


短い沈黙。


「我らの仕事は、それが何なのかを確かめることだ……。」

「承知しております」


部下の一人が答えた。


「そして―――」


ドナルノーは目を細めた。


「他の勢力より一刻でも早く、真実を掴む」


ジルベリク様が欲しているのは、単なる噂ではない。

共和国で何が起きているのか。なぜ、人々がザール王国へ流れ込んでいるのか。

そして、その混乱によって何が生まれようとしているのか。


それを誰より早く知ること。


それが今回の任務だった。


「……では、参りましょう」


船主に促され、ドナルノー達は桟橋へ向かった。

乗船口では、保安を担当する船員が一人ずつ、乗客の出国証明書を確認している。


「証明書を拝見いたします、ご提示を」


ドナルノーが差し出す。

船員は人数分の証明書を受け取り、記載事項と王国の許可印をざっと確認する。


「……ルメラック交易商会のモーリス・レヴァン様と、護衛の冒険者の方々ですね?」

「そうだ」

「共和国への買い付けですか?」

「……ああ、取引先が新しく倉庫を建てると言って来てな……。急に材木が必要になった。ウチの倉庫にある在庫では全く足りないのだ。これでウチが他所の商会で材木を買い付けてみろ、情報が出回ってお得意様を取られる……なんて訳には行かぬし……こういう時は、イグニスで直接買い付けした方が、てっとり早いのだ」


船員は笑顔を浮かべ書類を返した。


「そうでしたか。どうぞ、いい旅を」


ドナルノーは何食わぬ顔で船へ乗り込んだ。

部下達も続く。


誰一人として、彼らがランソール家の命を受けた諜報員であるとは疑っていない。

ましてや、書類に記された名前が偽名であることなど知る由もない。


やがて出航時刻が近づいた。

船上を船員達が忙しなく行き交う。


「乗客の確認、終わりました!」

「船尾、よし!」

「もやいを解け!」

「了解!」


桟橋に繋がれていた綱が外される。

船体がゆっくりと岸から離れた。


停泊中に、冒険者ギルドに貼られていた依頼を受け、小遣い稼ぎに来た魔法使いにより、”灯り”の魔法が付与された、船首に取り付けられたランテルヌの光量が増した光が輝き、薄暗くなり始めた川面を照らす。


夕闇の中、船は静かに向きを変えた。


王都の灯が、少しずつ遠ざかっていく。


ドナルノーは船尾へ歩み、欄干に手を置いた。その視線の先には、夕暮れの空を背負った王都の城壁がある。巨大な城壁も、塔も、そしてその向こうに広がるであろう王都の街並みも、ゆっくりと闇の中へ沈み始めていた。


その景色をしばらく見つめていたドナルノーだったが、やがて視線を前へ戻した。


船はシルヴェーヌ川を上っていく。


この先には、ザール王国とは異なる政治と文化を持つ、イグニス共和国がある。

山々に囲まれた共和国の首都には、豊かな鉱山と莫大な富が眠っている。


だが―――。


今、そこでは何(・)か(・)が起きている。

ドナルノーは懐の内側へ手を入れた。

そこには、彼の忠誠の証であるランソール家の紋章が刻まれた小さな徽章が収められている。それを包み込むように優しく握る。


「……閣下がお望みなのは、利益だけではない」


誰に聞かせるでもなく、呟いた。


「誰より早く、情報を手に入れることだ」


川面を渡る風が、濃い茶色の外套を揺らした。

船は王都を離れ、静かに上流へ進んでいく。

やがて王都の灯は見えなくなり、残ったのは、夕闇の中を淡く照らす真鍮で作られたランテルヌと、ゆるやかに流れるシルヴェーヌ川だけだった。




                 ◇




10月20日・火曜日(マルディ)


昼の鐘が鳴り、大食堂は学生たちの喧騒で満ちていた。

普段なら賑やかな食卓も、今日は珍しく一人だった。

いつもの友人たちは教官に呼ばれ、昼食には少し遅れるという。


アルメリーは、温かいスープを前にしながら、

久しぶりに“考える余裕”があることに気付いた。


(……ここ最近、色々あり過ぎたわ……。)


アルベール様の言葉に舞い上がったり、生徒会の皆からの賞賛。ランセリア様の冷たい態度に落ち込んだり。考える暇もないまま毎日が過ぎ去っていた。


感情が振り回されてばかりだった。


スプーンを口に運びながら、ふと―――地下下水道での出来事が頭をよぎる。


生徒会の皆は口を揃えて言っていた。


『生きて帰れたのは、アルメリーのおかげだ』

『あれほどの魔法は見たことがない。』

『君がいなければ全滅していた。』


と。


だけど。


(……私、見てないのよね。)


アルメリー自身は、戦闘の途中で意識を失った。目が覚めた時には全て終わっていた。……だから、実感が湧かない。


「……今度のお休みに、現場へ行ってみようかな。」


(……その場所を見れば。皆が言っていたことを、少しは理解できるかもしれない……。)


そう思った、その時だった。


頭の奥で。

何かが、かちりと音を立てて噛み合った。


(……待って。)


先日聞きに行った「教授」の話……。

教授が語った「魔王の眷属」の伝承……。

夢の中で出会った魔女「イスティス」……。

生徒会の皆が言う、地下下水道から地上まで魔法で開けられた巨大な穴の話……。


一つ一つが、線になって繋がっていく。


(……生徒会の皆に褒められて、浮かれてたけど。……よく考えたら……地下下水道から地上まで穴を開けたのって……私じゃないけど……)

(……私(・)がや(・)っ(・)た(・)……って、こ(・)と(・)に(・)な(・)る(・)のよね……?)


その瞬間、背筋が凍った。

思わずスプーンを持つ手が止まる。


(それって……。)


(私の中の人……とんでもない魔法を使えるってことじゃない!?)


喉がごくりと鳴る。


(王都の地下下水道を……。あれ、王都のインフラだよね? それを、一人で……ぶっ壊した……って事よ……!?)


じわり……。

冷や汗が額を伝う。


(そ、損害請求とか、……されるのかしら……?王都の下水道って、補修費用どのくらい掛かるのかしら? 何千万円?いや、そんなレベルじゃないわよね……億、いっちゃうかしら……? こっちの通貨に換算したら、えーっと……とにかく修理するにも莫大な予算かかるハズだわ!?)


(もし請求されたら……私じゃ払えないし、お(・)父(・)様(・)に頼んでみる?でも、ウチって男爵家よ!?下級貴族よ!?個人の家の資産で弁償できる金額じゃないわよね !?あわわわわ……)


アルメリーは頭を抱える。


だが、……そこである事実に気付く。


(アルベール様が、生徒会の皆に箝口令を敷いてる……。下水道破壊の犯人を追及できなくしてくれている……行政の人も調べてるのに違いないと思う……のに……)

(……私が犯人なのは確実っぽい……のに……。でも……役人達が逮捕にもこない……、損害賠償請求も……されてない……。それどころか―――アルベール様は……私を側室にって……)


スプーンがカチンと皿に当たる。


(これって……国家賠償レベルの破壊行為を、うやむやにしようとしてくれてる……って事?アルベール様なら立て替えてくれたりするのかしら?……?それとも恩赦とかで許されたりとか……?)

(……「側室」がそんなテロリストなんて話は風聞が悪いから、 私が側室になるなら?王族の力で事件の詳細を握りつぶし、そもそも論で無かったことに……?)

(でも……もし「側室」の話を断ったら……?いや、そんなの考えたくないわ……あはははは……)


乾いた笑いが漏れ、その笑顔が引きつる。

そこから先は考えたくなかった。

アルベール様は優しい。だけど。第一王位継承者……王太子でもある。

もし、その庇護がなくなれば……私は?

王都の地下下水道を吹き飛ばした犯人。


(……それって、下手すれば国家反逆罪級の罪人じゃない?国家に指名手配されてもおかしくないレベルよ!?)


顔から血の気が引く。


(あ、あ、アルベール様の気が変わらない内に、側室の話は受けて庇護下に入るべきよね……ええ、もう、それしかないじゃない……。)


さらに思考は止まらない。


(もしかして……私の中の人って、私の体を使って……いや、正確には私が主導権を握ってるだけで……この体自体は魔女さんのモノなのかもだけど……。)

(他にも、私が知らないだけで、何かやってるのかしら……?)


アルメリーは背筋が冷たくなるのを感じた。


(そういえば、夏休み前の実技試験……巨大蜘蛛「アレニエ・グランド」を倒したのも……もしかして彼女(イスティス)……?)


答えは分からない。 ……でも、そう考えると全て辻褄が合ってしまう。


(誰かに相談するべきかしら?)

(いや、待って。夢の中で彼女(イスティス)は、私の行動や記憶を全部“映像化して見られる”って言ってた……。)

(それに、夢の中では敵意は感じなかったから……友好的な協力関係が結べるといいのだけど……。でも。優しいから安全……そんな保証はどこにもない。)


夢の中で見た、宙に浮かぶ無数の映像。その映像其々(それぞれ)に映し出されていたものは、私の目で見ていた記憶そのものだった。あれは嘘ではなかった。


(私が誰かに相談したら―――。彼女に……全部知られる。 )


ぞくり。


(もし。彼女が……その存在を知られたくない相手だったら?相談した相手を消すのかしら……? あっ、私が側室になった場合、彼女も側室って事になるから、誰も彼女が暴走しても止められないんじゃ……。ああ……もしかして……これ、詰んで無い!?)


そこまで考えて、首を振る。


「そんな……。」


アルメリーは額を押さえた。


「どうしよう……。」


胸の奥が苦しい。

誰かに相談したい。

でもこ(・)れ(・)は、軽々しく相談できない……。


(あっ……そういえば。)


アンが話していた、王都の広場で説法をしている女性の事を思い出す。


『聖女』。


(そんな肩書きがあるくらいなんだから、強い聖なる力を持ってたり……。悪霊とか呪いとか……。そういうのを祓う不思議な力とかで、私の中にいる魔女を何とかできたりしないかしら?)


藁にも縋る思い。


もちろん、そんなに都合よく解決するとは思えない。


それでも―――。


今のアルメリーには、それしか希望らしい希望が思い浮かばなかった。

彼女は冷め始めたスープへ視線を落とし、小さく呟く。


「……今度、会いに行ってみようかな。」


大食堂の喧騒の中で、彼女の席のまわりだけが、ただ静かだった―――。




                 ◇




放課後。

窓の外では西日が傾き始めていた。


生徒会室には穏やかな空気が流れている。

机に向かい書類を処理する者。仕事を終え雑談に興じる者。隣の執行部室からは時折カードを叩く音や、笑い声まで聞こえてくる。


いつもと変わらぬ放課後。

そのはずだった。


アルメリーもまた机に向かい、書類整理を進めていた。

ペン先を走らせながらも、心ここにあらずだった。

ここ数日。

ランセリア様から向けられる視線が痛かった。


何かを疑うような。

何かを探るような―――。


……そんな視線。


そして今日も。静かな声が響く。


「そういえば。」


アルメリーの肩が僅かに震えた。

聞き慣れた声。

振り返らなくても誰か分かる。

ランセリアだった。


「……教官方から、貴女の魔法実技の評価を聞いたわ。」


生徒会室の空気が少しだけ変わる。

近くにいた者達が何となく会話を止めた。

ランセリアは書類を手にしたまま続ける。


「貴女は、希少な二属性持ち……なのですってね?」


その声音は穏やかだった。


怒っているようにも見えない。

笑っているようにも見えない。


「水属性……その中でも、フェルロッテ様と同じ氷系統が得意。」


そこまでは事実だった。


だが。


次の言葉が見えない刃となってアルメリーの胸を刺した。


「……けれど火属性は違う。未だに小さな火球を浮かべる程度。」


ランセリアはそこで一度言葉を切る。


声は静か。

感情の起伏もない。

ただ淡々と、事実を並べるように。


「本当に―――下水道で地上まで貫く魔法を撃ったのは、貴女だったのかしら?」


空気が凍った。

アルメリーの指先が震え、書類を握りしめる。


返事が出来ない。

何を言えばいいのか分からない……。胸の奥を強く握り潰されたようだった。


「……っ。」


紙の上へ落ちた視線は定まらず、

文字が滲んで見えた。

涙のせいだと気づき、慌てて瞬きをする。


泣いてはいけない。

ここで泣いたら駄目だ。

そう思うほど涙が滲む。


(泣いちゃ駄目……泣いちゃ駄目よ……私……。)


生徒会室の空気が、ゆっくりと重く沈んでいく。


ランセリアの胸の奥では、誰にも聞こえない“囁き”が渦巻いていた。


──憎い。

──羨ましい。

──あの男は、お前のもの。

──奪われるな。

―――排除しろ……!


それは感情ではなく、感情を増幅させる“何か”の声。

ランセリア自身も気づかぬまま、その囁きは、彼女の心の奥底に根を張り始めていた。そして、その矛先は―――アルメリーへ向けられていた。


その時だった。


「ランセリア様!」


勇気を振り絞った声が、生徒会室に響いた。


椅子が引かれる音。

立ち上がったのはマルストンだった。


普段は控えめな彼にしては、珍しく声が大きい。


「ここ数日!―――流石にアルメリー様に対して厳し過ぎます!」


ランセリアはゆっくりと彼に視線を向けた。

その視線には、まるで”何も感じていない”ような、空虚な静けさだけがあった。


怒りも。

驚きも。

罪悪感もない。


ただ事実を見ているだけのような、冷たい瞳。

その視線に、マルストンが思わず言葉を詰まらせる。


だが、今度は別の声が続いた。


「私もそう思います!」


発言したのはヴィルノーだった。彼は珍しく眉を顰(しか)めていた。

彼は、じっとアルメリーの方を見る。彼女の目には涙が浮かんでいた。

その涙を見て、さすがに黙ってはいられなかったのだろう。


「疑問を持つのは結構です。」

「ですが、ここ最近の貴女は少々度が過ぎている!」


再度、アルメリーの方を見る。


「アルメリー嬢は……泣いています。 貴女の言葉は、あまりにも目に余ると思います……! 」


彼は言葉を選びながらも、ランセリアの態度に明らかな疑問を向けた。


「……最近の……彼女への一連の指摘は、本当に必要なものなのでしょうか?」


その言葉に周囲もざわつき始める。


しかし、ランセリアは黙っていた。

彼女の胸の奥で、何かが囁く。


違う。私は間違っていない。あの子は何か隠している。


嘘をついている。

確かめなければ…。

確かめなければ……。

確かめなければ………!


誰の声なのか?……自分のモノなのか?……それすら分からない。


ただ。

心の奥底でドス黒い感情だけが膨れ上がっていく。


その光景を見て、アルベールの胸の奥がざわりと揺れた。

次の瞬間には、もう動いていた。


「―――彼女で間違い無い!」


生徒会室の空気が震える。

声を発したのはアルベールだった。


そして次の瞬間、椅子が勢いよく鳴った。

立ち上がるなり二人の間へ歩み出る。


その顔には珍しく苛立ちが浮かんでいた。


「彼女で間違いない!」


はっきりと、再度、誰にも聞こえる声で言う。その声に生徒会室が静まり返る。


「私も、この目で確かに見ている!」

「ランセリア」


アルベールの声が低くなる。


「―――いい加減にしないか!」


普段の穏やかな会長ではない。

明確な叱責だった。


ランセリアも僅かに目を見開く。


生徒会室で……皆の前で。

アルベールがここまで強い口調を使ったことはほとんど無かった。


その光景を見ながら、セドリックは内心で頭を抱える。


(ああもう……。)

(最悪だ。)

(完全に拗れてるじゃないか……!)


セドリックの視線はランセリアへ。そしてアルベールへ。

……さらに涙を堪えているアルメリーへ。


(誰か一人でも冷静になれ。)

(頼むから……!)


そう思う……が。


誰一人として冷静ではなかった。

西日が差し込む生徒会室。

穏やかなはずだった放課後は、気付かぬうちに張り詰めた糸の上へと変わっていた。


生徒会室に重苦しい沈黙が落ちる。

誰も口を開かない。


アルベールも。

ランセリアも。

ヴィルノーも。


その空気を破ったのは、場違いなほど軽やかな声だった。


「はいはいはいはい!」


全員が振り返る。


エルネットだった。

いつの間にか給湯棚の前に移動していた彼女は、なぜか得意げな顔で両手を腰に当てている。


「皆様ー!」


ぴん、と指を立てる。


「そんな怖い顔をしていると、せっかくのお茶が美味しくなくなりますよー?」


誰も反応しない。

しかしエルネットは気にしない。

まるで気付いていないかのように続ける。


「というわけで!」

「本日のエルネット特製、おやつ休憩のお時間です!」


どこから持ち出したのか、綺麗な木箱を机へ置いた。

蓋を開く。

中には焼き菓子がぎっしり詰まっていた。

甘い香りが広がる。


「王都南区に新しく出来たお店で買ってきたのです!」

「三時間並んだそうです!」

「褒めてください!」

「……。」


誰も何も言わない。


だが。


数秒後。

テオドルフが額を押さえながら呟いた。


「お前が並んだわけじゃないだろ?なんでそんなに誇らしげなんだ……」

「当然です!並んだのはウチの子ですから!」


エルネットは胸を張る。


「それに!」

「人気店を舐めてはいけません!」

「むしろ三時間で済んだのは奇跡です!」


その力説に、何人かが思わず吹き出した。

マルストンも肩の力を抜く。

ヴィルノーは呆れたように姉を見る。


「姉上。」

「何です?」

「ウチの子、というと……侍女のクレマノンを買いに行かせたのですか?そこまでして買う価値が?」

「あります。」


即答だった。


「あります!」


二回言った。


「人生には時として、三時間並ぶ価値のあるお菓子が存在するのです。」

「意味が分からない。」

「……それは、貴方がまだ若いからです。」

「一歳しか違わないでしょう!?」


そんなやり取りに、ついにアルベールまで苦笑した。

張り詰めていた空気が少しずつ解けていく。


エルネットは満足そうに頷くと、いつの間に淹れたのか分からないが、テイエール(ポット)から紅茶を注ぎ始めた。

琥珀色の液体が白磁のタス(ティーカップ)を満たしていく。

ふわりと立ち上る香り。

静かな午後の匂いだった。


「はい、アルメリーちゃん。」


一番最初に差し出されたタス(ティーカップ)。

アルメリーは少し驚いた後、小さく微笑んだ。


「……ありがとうございます。」

「どういたしまして。」


エルネットはいつもの笑顔を浮かべる。

それ以上は何も言わない。


慰めもしない。

励ましもしない。

ただ温かい紅茶を渡しただけだった。


けれど。


それだけで十分だった。


アルメリーはタス(ティーカップ)を両手で包む。……ほんのりとした熱が指先へ伝わる。


少しだけ。

本当に少しだけ。

胸の奥の苦しさが和らいだ気がした。


窓の外では夕日が傾き始めている。

生徒会室に流れる空気も、いつもの穏やかな放課後へ戻りつつあった。


もっとも。

誰も気付いてはいなかった。

表面上は元に戻ったように見えても、今日交わされた言葉は、それぞれの胸の奥に小さな棘として残り続けることを。




                 ◇




放課後をとうに過ぎ、夕暮れの気配が学院を包み始めていた。

夕方の柔らかな光が、寮の廊下を淡く染めている。

授業を終えた学生たちの声が遠くに聞こえる中、 エルヴランは静かに教室を出ると、帰途に就く。




学生寮 ”ル・パレ・デ・エトワール”。


エルヴランは階段を登ると、静かに自室の扉を開けた。


「お帰りなさいませ、エルヴラン様。」


控えていた執事コンスタンが、丁寧に一礼する。


「……ああ、ただいま。」


エルヴランが、どこか疲れた声で部屋へ入っていく。

以前ならば、必要最低限の授業のみを受講し終えると教室の誰とも顔を合わせず、一刻も早く寮へ戻ると、そのまま自室に閉じ籠もっていた。


だが、今では違う。

授業にも真面目に出るようになり、 周囲から驚かれるほど他の生徒への対応と、生活態度が改善した。


そして何より。


彼には、彼女……サントノーレという下級生の少女がいる。

その存在を思い浮かべるだけで、自然と口元が緩みそうになる。


もっとも。


その関係を、学院内で大っぴらにするつもりはなかった。


サントノーレは男爵家の令嬢。

対して自分は、四大貴族の一角を担うランソール家の三男。

この身分差を、そのままにしておくわけにはいかない。いずれ彼女をランソール家の力によって然るべき家へ養子に迎えさせる。

そして、自分と正式に釣り合う家格を得た上で。

その時になって初めて、この関係を公にする。

彼は、そう考えていた。


靴を脱ぎながら、そんなことをぼんやり考えていると、


「エルヴラン様」


声を掛けられた。視線を向ける。

それを了承と受け取ったコンスタンが一歩近づき、手にした封筒を差し出した。


「エルヴラン様、手紙が届いております。」


そう言って差し出された封筒を見て、エルヴランの足が止まった。

封蝋……そこに刻まれている紋章。

見慣れたものだった。


ランソール家(うち)の家紋。


「……家から?」

「はい」


エルヴランは封筒を受け取った。


彼は一瞬だけまばたきをし、 ふと、一月ほど前に届いた姉からの手紙の事を思い出した。


”来月、王都で挙式する。”……そんな知らせだった。


当時の自分は、まだ部屋に閉じ籠もりがちだった。

何をするにも億劫で。人と顔を合わせることすら避けていた頃。


姉からの手紙にも、


『式には来てくれると嬉しい』……という旨が書かれていた。


それに対して自分が返したのは、


『考えておきます』……という、なんとも曖昧な返事だった。


今思えば、姉に申し訳ないことをしたと思う。


「……そういえば」


エルヴランが小さく呟く。


「もう、姉上の結婚式……か。」

「左様でございます。……いかがなさいますか?」


コンスタンが静かに答え、主の返答を待つ。

エルヴランは手紙を裏返す。

封蝋を傷つけないよう、懐から小さなナイフを取り出した。

『オーヴル・レトル』……手紙を開封するためだけに作られた細身のナイフだ。


刃先を封の隙間へ滑り込ませる。

スッ、と蝋が切れた。

その間に、コンスタンは主人が脱いだコートを受け取る。

皺を残さぬよう手早く整え、丁寧に畳み、アルモワール (クローゼット)へと向かう。


エルヴランは便箋を取り出して広げると、 姉フェルレットの整った筆跡が目に飛び込んできた。


『エルヴランへ』

『今週末、いよいよ式を挙げることになりました。』

『お父様も、すでに王都のお屋敷へ到着しています。』

『あなたも、時間があれば一度くらい顔を見せに来なさいな。』

『……できれば、そのまま式にも出てくれると嬉しいのだけれど。』

『せっかく家族が王都に揃うのですもの。』


最後には、姉らしい少し砕けた調子の追伸まであった。

エルヴランは、しばらく便箋を見つめる。


「……今週末、か」


以前ならば、『面倒だ』『行きたくない』そんな言葉が真っ先に浮かんでいただろう。


だが、読み終えた瞬間、エルヴランの胸にひとつの考えが浮かんだ。


(……姉上に相談してみるか。)


サントノーレのことを。

男爵家の令嬢である彼女を、自分の妻として迎えるために必要なこと。

家格の問題。

養子縁組の問題。


そして何より。


ランソール家の人間として、どうすれば彼女を守れるのか。

父上に直接相談する……という手もある。

今週末には姉の婚礼があり、そのため父上は丁度今、王都にいる。

だが、いきなり父に話を持ち込むより、まず姉上に相談しておく方がいいだろう。

姉上は父に似て、 計算高く、冷静で、判断力がある。


(姉上には幼い頃はいじめられてたと兄上達から聞いたこともあるが、物心がついた頃には、私の事をよく可愛がってくれてくれていた記憶があるし、姉上が在学中には、私の事もよく気にかけてくれていた。……それに姉上なら、家から離れて寮生活している自分よりも、家の事情をよく知っているハズだ。姉上なら……何か良い案を出してくれるかもしれない。)


エルヴランの表情に、少しの微笑と決意が浮かんだ。


「コンスタン」

「はっ」

「すぐに返事を書く。紙とペンを」

「畏まりました」

「それから……」


エルヴランは、手にしていた姉からの手紙へ視線を落とす。


「書き終わったら、返事を屋敷まで届けてきてくれるか?」

「もちろんでございます」

「……そうだ、もう一通書く。そちらはエミリアーヌ女子寮に届けておいてくれ。後、学級(クラース)でよく耳にする、繁華街の例の店『グロワール』という店なんだが分かるか?週末に使いたい。予約をしておいてくれ。」

「畏まりました。調べて予約を入れておきます。」


コンスタンは深く 一礼した。


エルヴランは、静かに机へ向かい椅子へ腰を下ろした。

机の上に置かれた便箋。

その隣には、これから書くための新しい紙が用意される。

羽根ペンを手に取る。

そして、最初の一文字を書こうとして、エルヴランは一度だけ、窓の外を見た。


夕暮れの光に照らされ、学院の敷地に広がる木々が、赤や黄に染まっている。

遠くには、木々の隙間から学院を囲む外壁が僅かに見えた。

王都の喧騒は、ここまでは届かない。

聞こえるのは、秋の風が木々を揺らす音だけだった。

エルヴランは小さく息を吐く。


―――今までなら。


家から届いた手紙など、できれば見たくもなかった。


けれど今は。


その手紙が、思いがけず自分の未来を動かす切っ掛けになろうとしていた。

エルヴランはペン先を紙へ下ろす。


新たな手紙が、書き始められた。





                 ◇





10月21日・水曜日《メルクルティ》


王宮の中心に位置する謁見の間は、高い天井と巨大な柱が並ぶ、荘厳な空間だった。

壁には歴代国王の肖像画が掛けられ、床には王国の紋章を織り込んだ深紅の絨毯が敷かれている。

玉座は三段ほど高い壇上に置かれ、その背後には王国の旗が静かに垂れ下がっていた。

空気は張り詰め、まるでこの場の一言が国の命運を左右するかのような緊張が漂っている。


玉座にはザール王国国王。

その傍らには宰相。

左右には各省の重鎮が並ぶ。

「財務大臣」「外務大臣」「内務大臣」「軍務大臣」「農政大臣」「法務大臣」「魔導大臣」……。


さらに後列には、近衛騎士団団長 レリアール・ラファル・ベルトラン伯爵、宮廷魔導師団団長 ヨーム・マルターヴ・モーリュック伯爵。

そして各省の高級文官達が整然と列席していた。


宰相が一歩前へ進み出る。


「これより定例朝議を執り行う。」


謁見の間は静寂に包まれ、重厚な会議が始まった。

宰相が室内に朗々と響くような声で、議題を所管する大臣を指名する。


「農政大臣、今年度の報告を。」


農政大臣が前へ進み、深く一礼する。


「北部および中部の穀倉地帯において、冷夏の影響により減収が確認されました。例年より収穫量は減少しております。王国全体で、税収として見込まれるものは例年の八割程度でしょう。詳細な数字につきましては、既に報告を上げております」


文官達がざわめく。


「ただし―――王国の備蓄は当面問題ございません。市場価格はやや上昇しておりますが、急騰するには至っておりません。ご安心ください」


「では次に財務大臣、財政報告を。」


財務大臣が腕を組んで軽く持ち上げて前へ進み、一礼する。


「……先日発生しました、想定外の……原因不明の王都地下水路の破損に伴う地下水路復旧事業につきましては、現在見積もりの段階ではございますが、アルブル金貨四百二十枚を見込んでおります。こちらに対しては臨時予算を割くことになり、国庫に負担が掛かっております。このままでは国庫が傾く恐れが……とは大袈裟ですが、健全ではなくなってきているのも事実。現時点では国債発行の必要はありませんが……国庫の早期健全化には、多少の増税のご検討もやむなしかと……。その為、今年は財政運営も慎重に行う必要がある、と申し上げます……。」


軍務大臣が驚いた顔をして口を開く。


「たかが穴一つで、そこまで掛かるのか?」


宮廷魔導師団団長が、財務大臣の発言を補強する。


「下水道の天井だけでなく、竪穴となったその外周部分が『光の柱』によって焼き固められております。これは表面的なもので、縦穴自体が硬いわけではありません。武器による打撃、あるいは魔法による衝撃など、外部からの影響があれば一部、もしくは大部分が直ぐにでも崩れるでしょう。」

「また、他の魔法の影響か、穴周囲の地盤そのものも脆くなっている恐れがあり、補修では済まず、脆弱化した一部区画の土砂の搬出、その後、地盤の補強工事などの措置が必要だと思われます」


宰相が咳ばらいをすると、軍務大臣も宮廷魔導師団団長も口を閉じ、姿勢を正す。


「では次の議題に移ります。 」

「……先日、帝国特使と行われた会議における、ノルデン帝国特使タルコラス殿より提示された要求への回答について、審議を開始いたします。外務大臣、報告を。 」


外務大臣が前へ進み、一礼する。


「では私から。帝国の要求を申し上げます。」


謁見の間の空気がわずかに緊張する。


「帝国の要求は以下の二つです。」

「一つ──帝国へ輸出される食糧価格の三割引き。」

「二つ──それに伴う農作物を取り扱う商会への、市場との価格差補填の為の補助金支給、であります。」


文官達がざわめき、財務大臣が即座に反応する。


「王都地下水路補修だけでも予算は逼迫しております。補助金など到底出せません。」


財務大臣は明らかに反対の様子だった。


「帝国との関係悪化は避けるべきです。業腹ですが、私は特使の提案を呑む方が良いと思います……」


額に汗を浮かべながら、外務大臣が発言する。


「民に戦乱をもたらす可能性がある以上、一定の譲歩も必要でしょう。」


と、発言する慎重派の内務大臣。

その内務大臣の発言を、強硬派の軍務大臣は鼻で笑った。


「ザール王国がここで帝国の要求を呑めば、来年は四割、再来年は五割を求めてくる事でしょう!」


「補助金とは国民の税で帝国を助けることになります。ザール王国の国民は、納得するでしょうか!?」


財務大臣が語気強く発言する。


「法的観点から申し上げる。市場価格へ国家介入する悪しき前例になります。それには私は反対を申し上げる。」


……冷静に淡々と発言する法務大臣。


「冷夏による減収を考慮すれば賛成しかねます。」


農政大臣は、現場視点から反対意見を述べる。


「魔導省として申し上げることはございません。」


そう言うと、魔導大臣は静かに腕を組んだまま、議論を見守っていた。




議論がひと段落すると、全員の視線が玉座の国王へ向けられる。


国王は俯き、しばしの間、深く考え込んだ。

謁見の間の空気が張り詰める。


やがて―――国王は顔を上げた。


「帝国との関係は、現状のまま維持したい。」


外務大臣が少し安心した表情を見せる。


しかし。


「……だが。」


その一言で、謁見の間の空気が一変した。


国王は静かに、しかし揺るぎない声で続ける。


「特使の提案してきた要求は、ザール王国としては受け入れる事はできぬ。」


静まり返る謁見の間。


「今年は冷夏。」

「食料価格を国が強権で介入し、故意に変動させれば市場は混乱する。……さらに補助金に充てられるのは、元は我が王国、国民の税である。余は、帝国の民のために、我がザール王国の民へ負担を強いることはできぬ。」


国王は最後に、静かに命じた。


「ただし―――この回答を特使に伝えた結果、先方に引き続き交易継続の気があるのならば、帝国との交易は継続する事とする。」

「また、価格交渉の席は閉ざさぬ。……と、その旨を回答せよ。」

「御意。」


宰相は王に対し一礼し、外務大臣も深く一礼した。

外務大臣は内心では反対であったが、王命である以上従うしかない。


「……陛下、では次の議題に移ります。 」


国王は頷く。

謁見の間には一瞬だけ静かな空気が流れた。


「陛下。ご報告申し上げます。先日、北部国境を預かるシャルール辺境伯家より、急使が参りました。帝国側の国境付近において、帝国軍が大規模な軍事演習を開始したとのことであります。」


宰相が語ったその報告に、財務大臣が肩を竦めた。


「やれやれ……また今年も帝国による威嚇行動が始まりましたか。」


農政大臣も苦笑する。


「ここ数年、この時期になると……帝国は毎年のように国境で演習をしておりますな。」


内務大臣が小さく笑う。


「毎年恒例ですな。」


農政大臣も釣られて軽く笑う。


「もはや、秋の風物詩と言ってもよいでしょう。」


軍務大臣はその発言に同調し、続ける。


「兵の訓練が重要なのは理解できますが、あれほど大規模な演習を例年行えば、兵糧も相当消費するでしょう。」


財務大臣が皮肉を込めて言う。


「そうです。演習で、毎回多くの兵員を動員し、国民が飢えるほど兵糧を食い潰しておきながら、我が国へ食糧を安く売れと脅迫めいて言うのですからな?軍事演習も単なる脅しでしょう。だから毎年、我が国から大量の小麦を買い付ける羽目になるのです。」


その言葉に数名の大臣達から笑い声が漏れる。


「しかり!」

「ははははは!」

「そのとおり!」

「違いない!」


その大臣達の言葉に、列席している文官達からも、小さな笑いがあちこちで起こる。


張り詰めていた空気が一瞬だけ和らいだ。


しかし、その空気を断ち切るように―――


コンッ―――!


国王が王笏で床を打つ。


乾いた音が玉座の間へ響き渡った。


「鎮まれ。」


国王の威厳ある声に、室内は一瞬で静まり返る。


国王は宰相へ視線を向けた。


「シャルール辺境伯からの報告は、それだけか?」


宰相は姿勢を正し、声を張る。


「……いえ、陛下。続きがあります。」

「続けよ。」

「はっ!」

「シャルール辺境伯家現当主、セレスタン・シャルール・マディラン辺境伯からの書状によれば、偵察隊の報告では、本年の帝国軍演習は例年と比較し、およそ一・五倍程度の規模と推定されるとのことです。」


先ほどまで笑っていた大臣達の表情が変わる。

今度は誰一人として笑わなかった。


列席する者達から、笑顔が消えた。

先ほどまでの軽口が、急に場違いなものに感じられる。


軍務大臣が腕を組み、外務大臣も静かに眉をひそめる。

国王はゆっくりと一人の男へ視線を向けた。


「レリアール。」


近衛騎士団団長、レリアール・ラファル・ベルトランが一歩前へ進み出る。


「は。」

「そちはどう見る。」

「忌憚なく申せ。」


レリアールは一礼し、一歩前へ進み出ると、静かに口を開いた。


「陛下に恐れながら申し上げます。」

「まず、本年の演習規模が、例年より明らかに拡大している点。」

「さらに、今年に限って帝国より特使タルコラスが来訪しております。」

「この二点が、どうにも気に掛かります。」

「偶然かもしれません。……しかし、偶然ではない可能性も否定できません。」


謁見の間に重い沈黙が落ちる。


軍務大臣は腕を組んだまま、今までの態度を崩さず鼻で笑った。


「ただの虚仮威しでしょう。帝国の常套手段です。」


その言葉には、“帝国は脅しだけで実際には動かない”……という長年の経験からくる油断が滲んでいた。


外務大臣は、少し声を弱めて反論する。


「……とはいえ、警戒は必要かもしれません。」


帝国特使との交渉を統括している彼は、演習規模の拡大が“ただの脅し”ではない可能性を感じ取っていた。


国王は静かに頷く。


「何か手を打つべきか。」

「は。」


レリアールが答えようとしたその時。


宰相が一歩前へ出た。


「陛下。一案がございます。」

「申してみよ。」

「シャルール辺境伯領の居城へ、王都直結の転移門を設置してはいかがでしょう?平時は閉鎖し、有事の際のみ開門いたします。そうすれば王都より近衛騎士団、さらには宮廷魔導師団・魔法兵団を速やかに送り込むことが可能となります。」


その提案に、列席していた重臣達は静かに顔を見合わせる。謁見の間がざわめく。

王都と北方最前線を瞬時に結ぶ転移門。

これは王国としては大きな決断だ。


国王は静かに玉座の肘掛けへ手を添え、思案する。


「……ふむ。」


玉座の間は再び静寂に包まれた。誰もが、国王の次の言葉を待っていた。


宮廷魔導師団団長である、ヨーム・マルターヴ・モーリュック伯爵が、初めて口を開いた。


「陛下。発言をよろしいでしょうか?」

「うむ。申して見よ」

「はっ。では、申し上げます。……転移門の設置自体は可能でございます。」


全員が振り向く。


「ただし──転移門の維持には、ある程度の人数の術者の常駐が必要になります。」

「宮廷魔導師団から優秀な人員を割くことになり、王都の守りに若干の不安がありますが……」


少し考える素振りを見せると、近衛騎士団団長のレリアールが口を開く。


「王都の守りは我々にお任せください。その為に近衛騎士団がいるのです。」

「分かりました……レリアール卿。宰相殿の提案、国家防衛を考えれば妥当でしょう。宮廷魔導師団としても、陛下のご命令があれば、直ぐに取り掛かる様、手配いたします。」


国王は静かに頷いた。


「準備を進めよ。」


宰相が深く一礼する。宮廷魔導師団団長ヨームも頭を下げた。


「「御意。」」


謁見の間には、先ほどまでとは違う、“戦の影”が静かに漂い始めていた。


「……では次の議題に移ります。 先日の夜間、王都で観測された『光の柱』について……宮廷魔導師団長ヨーム・マルターヴ・モーリュック伯爵。ご報告を。」


「はっ。現在、『光の柱』については調査中です。それによって地下下水道から地上まで竪穴が出来上がったことについては、皆様ご存じの通りかと思います。」

「……現状の調査で分かっている事は、地下下水道で戦闘があり、幾つかの魔法が行使された形跡があったという事が分かっています。」

「行使された幾つかの魔法については、現在使われている魔法体系にある魔法だった事が調査により分かっているのですが、『光の柱』については、現在知られているどの魔法体系にも存在しないモノだと思われます。現代でも……集団儀式魔法ならば、同じような威力を持つ魔法を撃てる可能性があるとは思いますが……。地下下水道では、そもそも集団儀式魔法を使う為の人数が展開できるだけの空間がありません 」


謁見の間がざわつく。


国王が口を開く。


「……それは、かつてあったとされる”神代魔法”……である、と思うか?」

「……現状なんとも言えませんが……。その可能性は否定できません。」


会議室は重苦しい空気に包まれる。


「陛下、最後に一件、ご報告申し上げたき儀がございます。」


宮廷魔導師団団長ヨームが一礼すると、会議の場に集う重臣達をゆっくりと見渡した。


「よかろう。申せ」

「ありがとうございます。」

「では……。皆様は、”神晶石(エーテリオン)”という遺物をご存知でしょうか。」


聞き慣れぬ名に、何人かの文官が小さく顔を見合わせる。


「神代の時代に存在した、魔法王国において製作されていたと伝えられる、魔力を内包する結晶でございます。」

「現在でも稀に古代遺跡から発見されることがございますが、その価値は極めて高く、一つ見つかれば……まぁ、内包される魔力量にもよりますが、数枚から何十枚ものアルブル金貨で取引されると言われる、我ら魔導師にとっては垂涎の至宝でございます。」


そう言うと、ヨームは懐から、大切そうに包まれた深い濃紺のビロードを取り出した。


ヨームは慎重な手つきで高級感のある布を広げる。

中から現れたのは、親指ほどの大きさに磨き上げられた透明な水晶。

その内部では淡い蒼白い光がゆらりと揺れ、まるで小さな星を閉じ込めたかのように静かに輝いていた。


「「「おおっ……!」」」


その神秘的な美しさに、場内から感嘆の声が漏れる。

魔導大臣でさえ、思わず前のめりになる程だった。


宮廷魔導師団長ヨームは静かに続ける。


「我々宮廷魔導師団魔法研究局は、この”神晶石(エーテリオン)”の解析を長年続けて参りました。」

「そしてこの度……完全な再現には至らぬものの……魔力を蓄え、必要な時に取り出すという機能を再現した人工結晶の製造に成功いたしました。」


謁見の間がざわめく。


宮廷魔導師団長ヨームは一拍置き、静かに宣言した。


「名称を──”魔導晶(エーテライト)”と定めました。」

「以前より開発中であった、良質な水晶の中に魔力を充填し、任意の時にその魔力を取り出す技術でございます。」

「しかしながら、性能は神代や古代魔法王国で作られていたとされる、神晶石(エーテリオン)には遠く及びません。」

「神晶石(エーテリオン)は百年、千年という時を経ても魔力の減衰が確認されておりません。」

「一方、この魔導晶(エーテライト)は数日ほどで内部の魔力が自然散逸いたします。……原因は封印術式の完成度にあるものと考えております。」

「この保持時間の問題につきましては、より長い間、魔力を保持できるように、今後も封印術式の研究を継続する所存でございます。」


「見事であった!古代の遺産を解析し、新たな技術へ昇華させた功績、誠に大である。」


王の賛辞に、宮廷魔導師団団長のヨームは深く一礼する。


「はっ。有り難きお言葉、恐悦至極に存じます。」


そして、顔を上げると……静かに、しかし強い意志を込めて言った。


「陛下。この”魔導晶(エーテライト)”は、一人の魔導師を強くする道具ではございません。」

「王国全体の魔力運用そのものを変える―――礎となる技術でございます。」

「ですが、現在”魔導晶(エーテライト)”に関しての研究予算は尽きかけております。今ここで研究を止めれば、神代の魔法王国技術へ至る道は、再び閉ざされましょう。」

「……どうか、今しばらくのお力添えを賜りたく存じます。」


国王は値踏みをするように宮廷魔導師団団長を見ると、口を開く。


「ふむ。……他にも何か言いたそうな顔をしておるな?許す。発言を続けよ。」

「はっ。では……私が考えている”魔導晶(エーテライト)”の運用面について、ご報告申し上げます。」


重臣達の視線がヨームへ集中する。


ヨームは淡々と、しかし重みのある声で説明を始めた。


「まず、我々宮廷魔導師団が運用する”転移門”についてでございます。」

「”転移門”を開くには―――転移元と転移先、両方の魔法陣を同時に起動させる必要があります。」


文官達が頷く。


「また、両方の魔法陣を同期させるため、決められた時刻に合わせて魔力を流し、門を開く必要がございます。」


ヨームは手を組み、静かに続けた。


「しかし―――起動時に膨大な魔力が必要です。そのため、転移元と転移先の両方に、多数の術師を常駐させねばなりません。」


軍務大臣が眉をひそめる。


「確かに術師の固定配置は、常に悩みの種であるな……」


ヨームは頷き、

懐から魔導晶(エーテライト)を再び掲げた。


「それが―――この魔導晶(エーテライト)があれば!」


謁見の間の空気が変わる。


「術師の代わりに、起動時・及び運用時の魔力消費を代用できるのです。」

「つまり……”転移門”の運用に必要な術師の配置を、大幅に削減できる事になります。」

「また、術師それぞれに持たせることで、個々の魔導師の魔力容量に係わらず、戦力の平均化が出来ます。これにより魔導師の作戦運用計画の策定が容易となり、さらに戦場での魔導師の継戦能力を伸ばすことができます。」


魔導大臣も息を呑む。


「……宮廷魔導師団・魔法兵団の負担が減る……!」


さらにヨームは続ける。


「他にも、王宮の夜間照明について。」

「現在は王宮の何の変哲もない照明器具に、術師が毎日夕方から数時間おきに見回り、定期的に光魔法を付与しております。」


財務大臣が頷く。


「宮廷魔導師団も、そのような雑事に使う人件費が馬鹿にならぬな……」


ヨームは魔導晶を掲げた。


「これを照明魔道具に組み込めば―――数日に一度、魔導晶(エーテライト)を交換するだけで済むようになります。」

「術師の労力を大幅に減らし、その人員を他の業務へ割り当てることで、生産性向上が見込めます。将来的には王都の夜間照明を王宮周辺から順次交換してゆけば、ゆくゆくは王都全域での生産性向上が見込めます。夜間の王都が明るくなれば、犯罪の件数も減り、治安改善にも効果が見込めるのではないかと。」


内務大臣が驚きの声を漏らす。


「行政効率が……桁違いに改善される……!」


農政大臣も興奮気味に言う。


「街道にその魔道具が普及すれば、農作物の流通にも応用できる可能性があるのでは……?」


法務大臣でさえ、珍しく前のめりになる。


「宮廷魔導師団魔法研究局の技術が、国家運営そのものを変える……!!」


国王は静かに宮廷魔導師団団長を見つめ、深く頷いた。


「……”魔導晶(エーテライト)”は、王国の未来を左右する技術となるであろう。」

「褒めて遣わす」


宮廷魔導師団団長ヨームは深く一礼する。


「はっ。恐悦至極に存じます。」


大臣たちが一斉にざわめく。

財務大臣でさえ、興奮気味に言った。


「これは……国策とすべきです!」


内務大臣、軍務大臣、農政大臣、法務大臣も次々に賛同する。


「王国の魔導技術が新たな段階へ入る……!」

「帝国に対する抑止力にもなる!」

「魔導師団、魔法兵団の運用が変わるぞ!」

「これは歴史的発明だ!」


謁見の間は、先ほどまでの重苦しさとは違う、“新時代の予感”に満ちた熱気に包まれた。


国王は揺るぎない声で宣言する。


「宮廷魔導師団団長ヨーム・マルターヴ・モーリュック伯爵よ。宮廷魔導師団魔法研究局に、来年度の予算支給までのつなぎの資金として予自(みず)から、アルブル金貨三百枚を与える!」

「はは―――っ!ありがたき幸せ!」

「財務大臣。宮廷魔導師団魔法研究局に、来年度予算では、前回の二倍……いや三倍の予算を付けよ!」

「御意!」


財務大臣が深々と頭を下げる。

その声が謁見の間に響き渡ると、しばしの間、誰も口を開かなかった。

先ほどまで帝国との緊張や、王国を取り巻く様々な問題について議論していた重臣達の顔には、今や一様に新たな期待が浮かんでいる。


古代の魔法王国が残した技術。

それを現代のザール王国が、ほんの僅かながらも再び手にした。


魔導晶(エーテライト)。


それが本当に王国の未来を変えるのか。

それとも、まだ夢物語に過ぎないのか。

その答えを知る者は、この場には誰もいなかった。


ただ一人。

ヨーム・マルターヴ・モーリュック伯爵だけは、手の中にある小さな結晶を静かに見つめていた。


その淡い光は、彼の手の中で揺らめいている。


「……では、本日の議題は以上とする。」


国王の声が響く。


ざわめいていた重臣達が、一斉に姿勢を正した。


「本日はこれにて散会とする。各自、それぞれの職務へ戻るがよい。」

「「「はっ!」」」


大臣達、高級文官達が一斉に一度、頭を下げる。

国王が玉座から立ち上がる。


それを合図に、宰相を始めとする重臣達、高級文官達は姿勢を正して臣下の礼を行い、その姿勢のまま”謁見の間”から移動してゆく国王を待つ。衛兵が国王の退出を宣言し、大扉の開閉音が室内に響くと全員が姿勢を戻し、作法に則り、大臣から順に高位の階級・役職順に退室を始めてゆく。


その中で。


ヨームは自分の順番が訪れるまで、手の中の魔導晶(エーテライト)を見つめていた。

小さな結晶の中で、淡い光が静かに揺れている。


それは、千年以上前に失われた時代へ続く、細く、かすかな光だった。




                 ◇




テラ・メーラ大神殿。


王都において最も荘厳な建築物の一つに数えられるその大聖堂の奥深くに、夕刻の光が差し込む。重厚な扉の向こうにある神殿長の執務室は、静寂と香木の匂いに満ちていた。


壁には古い聖典が並び、重厚な机の上には寄進の帳簿や儀式の予定表が整然と積まれている。

その机の向こう側に、神殿長が座っていた。

彼は内心、少し落ち着かぬ様子であったが、そんな様子は億尾にも出さず静かに指を組んでいた。


向かいには、白い法衣を纏ったエルミーユが静かに立っている。

テラ・メーラ大神殿に仕える神官であり、そして現在、ただ一人の「聖女」の称号を与えられた若き女性。


彼女の周囲だけ、空気が澄み切っているような―――

あるいは、張り詰めているような―――


……説明しがたい気配が漂っていた。

神殿長は喉を鳴らし、慎重に口を開いた。


「……エルミーユよ。今週末、四大貴族家のランソール家の次女、フェルレット様の婚礼が執り行われる」


エルミーユは静かに頷く。

神殿長は続けた。


「先ほど、ランソール家の使いが来られてな。その式に―――其方に指名があったのだ。」


言葉を選びながら、神殿長はエルミーユの表情を探るように視線を向ける。


彼女はただ、穏やかに微笑んでいた。

その微笑みは、優しさとも、無垢とも、あるいは―――底知れぬ何かとも取れるものだった。


神殿長は一度息を飲み、慎重に言葉を続けた。


「その式に、其方を招きたいとのことだ」

「私を……ですか?」

「うむ」

「私はそこで、何をすればよろしいのでしょう?」

「フェルレット様と、その御相手の門出を祝福してほしいそうだ。……ああ、もちろんその際には神殿に多額の寄付をしていただける、とのことだ。」


机の上の帳簿に視線を落としながら、神殿長は声を潜める。


「その寄付があれば、古くなった見習いの宿舎の修繕や、神殿の敷地外にある孤児院の改修にも、手を回せるだろう ……。どうだろうか?」


エルミーユはしばらく黙って考えていた。


その脳裏に、大神殿の敷地内にある古くなった建物の姿が浮かぶ。

冬になると冷え込む部屋。毛布を重ねても寒そうに身を縮める見習いの子たち。


……もうすぐ冬が来る。


彼女は、少しだけ目を細めた。


「……たしかに、それは助かりますね。」


彼女は静かに言葉を紡ぐ。


「寒くなって参りましたし、見習いのあの子達には、隙間風などが無い建物で、冬は暖かく過ごしてもらいたいですもの。」

「……それに最近も王都では、謎の『光の柱』の件や、北西にある貧民街での反社会組織同士の抗争の噂……などが、この私の耳にまで入っております……。」

「……その影響だとは思いますが、家や親を失った子供の数も増えているようです。孤児院が今の大きさのままでは、……新たに子供達を受け入れることが出来ないと思います。被害に合ったその子供達にも、雨風をしのげる場所が必要です。」


その声は優しく、まるで本当に子供達の姿が見えているかのようだった。


「そのご寄付で……宿舎だけでなく、本当に孤児院の改修までできるのですか……?」


神殿長は大きく頷く。


「う、うむ……その通りだ。……たしかに今の孤児院の大きさでは、新たな受け入れは困難だな。よ、よし。今の施設の増改築、もしくは……中古の手頃な物件を購入して、孤児院自体の数を増やす事も検討しよう……」


エルミーユは胸の前で両手を重ね、微笑んだ。


「私が式に出席し、祝福をするだけでその寄付をいただけるなら―――喜んで。」


「は―――。」


神殿長は思いきり息を吐いた。

安堵 のあまり、肩が一気に落ちる。


「神殿長?」

「いや、何でもない」


 神殿長は慌てて咳払いをして姿勢を正す。


「何しろ相手はランソール公爵家だ。この国の四大貴族家の一つ。その依頼を、其方にもし反対でもされようモノなら……儂はどうしたものかと ……」


額の汗を拭いながら、神殿長は心底ほっとした様子で言った。


「肝が冷えたわ……。では、其方の式への参加と祝福の儀式の旨、先方に返答しておく。準備のための日数はもう少ないが、其方の方は、これから式での歌唱や読み上げる祝詞の暗記、必要な装備や衣装の用意に取り掛かるように。」

「また、そちらの作業に集中できるように、式までの数日の間、神殿内の其方の「務め」は、代行できるモノはできるだけ他の神官達に任せる様、私から通達を出しておく。」


「お心遣い感謝いたします」


そう述べると、エルミーユはそこで少し考える様子を取り、一拍おいて、口を開く。


「神殿長、先ほどのご様子……もしかして、私が断ると思われたのですか?」

「いや、それは……」


神殿長は言葉を濁した。


当然だ。

彼には分かっている。


目の前の乙女に、権力や家格をちらつかせて無理を通そうとすることが、どれほど危険なのか。かつて、それを実際にやった。……そして、自分はその報いを受けかけた。


あの時。

この部屋で。

彼女が静かに歌い始めた時―――。


自分は、死というものがこれほど身近に感じられるものなのかと思い知らされた。

あの歌声を、今でも忘れられない。何かが身体から抜けていくような感覚。

それが何なのか理解した瞬間、自分は泣きながら許しを乞うた。


そして、それ以来。

彼はエルミーユに対して、決して強い態度を取らなくなった。


話を切り替える様に、神殿長は彼女に告げる。


「……相手はこの国の四大貴族家の一つだ。くれぐれも細心の注意を払って任に当たってくれ。儂からは以上だ。」


エルミーユは静かに一礼した。


「はい。女神の御心のままに。」


その言葉は、祈りのようであり―――

どこか、底知れぬモノを感じさせるようでもあった。


神殿長はその声を聞きながら、胸の奥に小さな震えを覚えた。

彼女が微笑むたびに、部屋の空気がわずかに揺らぐような気がする。


(……懸念の一つが解消されて、本当に良かったわい……。)


神殿長は心の中でそう呟きながら、深く、深く息を吐いたのだった。




                 ◇




放課後。

王立魔法学院、生徒会室。


窓の外では、傾き始めた陽が校舎の壁を橙色に染めていた。

いつもなら、放課後の生徒会室にはもう少し賑やかな空気がある。

提出された書類を整理する音。誰かが小さく交わす雑談。時折、隣の執行部から聞こえてくる笑い声。


だが、今日は違った。


静かだった。


いや、静かすぎた。


アルメリーは自分の席で、黙々と書類を整理していた。

紙を一枚取り、内容を確認する。


日付。

担当者。

必要事項。


間違いがないことを確認して、次の書類へ。

ただ、それだけの作業。


なのに。

どうにも落ち着かなかった。


ここ数日。


生徒会室の空気が変わっている。


原因は、分かっていた。副会長であるランセリア様。

彼女は相変わらず、仕事に関しては完璧だった。

書類の確認も早い。

指示も的確。

他の役員達への態度も、以前と変わらない。


だからこそ。


アルメリーは余計に居心地が悪かった。


自分にだけ向けられる、あの冷たい視線。

そして、それを見ている周囲の生徒達。

最近では、業務に関係のないことで話しかけてくる者はほとんどいない。


以前なら、休憩の合間にちょっとした雑談をすることもあった。

学院の授業のこと。食堂の新しい料理のこと。週末の休みに出かけた、繁華街で見かけたものについて……そんな他愛もない話。


今では、それすらない。

アルメリーは小さく息を吐いた。


その時だった。


「……そういえば」


生徒会室の一角で、女子役員達が小声で話している。


「昨日のことなんだけど……」

「うん」

「殿下、かなり強く言ってたよね」

「うん……。あんな殿下、初めて見たかも」

「しかも、アルメリーのことを……」


そこで声が小さくなる。

アルメリーの手が、ぴたりと止まった。

聞こえないふりをする。

そうしようと思った。


けれど。耳は勝手に声を拾ってしまう。


「……『私もこの目で見た』って」

「そうそう」

「つまり……」

「……ねぇ」


二人の少女が顔を見合わせる。

そして……その視線が、ちらりとアルメリーへ向けられた。

アルメリーは慌てて書類へ目を落とした。

見られている。……そう思っただけで、胸の奥がざわついた。


「でも、殿下って……」

「うん」

「前からアルメリー嬢に、結構……」

「やっぱり、そうなのかな?」

「分からないけど……」


声を潜めているつもりなのだろう。

しかし、静かな室内では、その会話は嫌でも耳に入ってくる。


やがて。


その好奇心が限界まで膨らんだのか。

一人の女子役員が、意を決したように椅子から立ち上がった。


向かった先は、ランセリアの席。彼女は机に向かい、何事もなかったかのように書類へ目を通している。

女子役員は、その横まで来ると、周囲を気にするように一度だけ視線を巡らせた。


「……ランセリア様」

「何かしら?」


ランセリアは顔を上げない。


「あの……少し、お聞きしてもよろしいでしょうか?」

「ええ」

「その……」


少女の頬が少し赤くなる。

声も自然と小さくなった。


「最近……アルメリー嬢と殿下って……その……」


そこで言葉が途切れる。


何を聞きたいのか。ランセリアには、分かっていた。

アルメリーも。そして、周囲の女子役員達も。


誰もが息を潜める。


ランセリアは一枚の書類を揃えた。端を机に軽く打ちつけ、紙の束を整える。


それから。


ようやく口を開いた。


「そう見えるのなら……」


淡々とした声だった。


「……そうなのでしょうね」

「…………」


女子役員の目が見開かれる。


「え……」


ランセリアは、それ以上何も言わない。

否定しない。肯定もしない。ただ、次の書類へ手を伸ばす。

それだけだった。


しかし、その一言だけで十分だった。


「そ、そう……ですか」


女子役員は小さく頭を下げ、自分の席へ戻っていく。

その途中。彼女は仲間達と目を合わせた。言葉は交わさない。


それでも。


何を思ったのかは、互いに分かった。

アルメリーの背中に、視線が集まる。


一つ。

二つ。

やがて、幾つもの視線が。


まるで答え合わせをするように、彼女へ向けられていく。


「……っ」


アルメリーは俯いた。


違う!


そう言いたかった。


でも。

何が違うのか、自分でも上手く説明できない。


アルベール様から向けられた言葉。自分に向けられた、あの特別な態度。

それを思い出すだけで、顔が熱くなる。


だからこそ。


今ここで、


「違います!」


と声を上げることもできなかった。


アルメリーは黙って書類を見つめる。

文字がぼやけて妙に読みづらい。


その時。


「……アルメリー嬢」


セドリックの声がした。アルメリーが顔を上げる。


「はい?」

「悪い。ちょっと手伝ってほしい仕事がある」

「……私が、ですか?」

「ああ。すぐ終わる仕事なんだが、どうにも人手が足りなくてな」


セドリックはそう言いながら、机の上にあった適当な書類を一枚取り上げる。

実際には、今すぐ彼女の手を借りなければならないような仕事ではない。


だが、ここに彼女を居続けさせるわけにはいかなかった。


「ええ……分かりました」


アルメリーは立ち上がる。

その時、セドリックはちらりと室内を見回した。


ランセリア。

女子役員達。

そして、アルメリー。


数日前から続いている、この妙な空気。

これ以上悪化させるわけにはいかない。


特に。リザベルトはアルメリーと仲が良い。二人の仲がこれ以上険悪になれば、たとえ相手がランセリアであろうとも、きっと彼女(アルメリー)を守るために立ち上がるだろう。

もし、リザベルトまでこの争いに巻き込まれれば、事態はもっと面倒になる。


「じゃあ、行こう」

「はい」


二人が生徒会室を出ていく。


扉が閉まる―――その瞬間。

セドリックは心の中で盛大に叫んだ。


―――アルベール!

―――頼むから、早く何とかしてくれ!

―――このままじゃ、本当にアルメリー嬢が生徒会で孤立するぞ!


だが。


その声が外へ漏れることはない。

廊下を歩くアルメリーは、俯いたままだった。


「……あの」

「ん?」

「私……何か、しましたでしょうか?」


セドリックは一瞬、答えに詰まった。


「いや。アルメリー嬢は何も悪くない……だ。」

「……え、いま、最後、何て言ったのですか?」

「何でもない。忘れてくれ」

「分かりました……」


それだけ言って、アルメリーは黙り込んだ。




一方、生徒会室では。

ランセリアが再び書類へ目を落としていた。


その横顔に、怒りはない。

嫉妬もない。


ましてや、誰かを傷つけようとしているような表情もない。


ただ、淡々と。いつも通りに仕事を続けている。


その姿を見ながら、誰もランセリアへ何かを言おうとはしなかった。


カロルも。

他の役員達も。


ランセリアの機嫌を損ねることを恐れている。


エルネットは、いつものように我関せずといった様子で自分の仕事を続けていた。ヴィルノーが何かされたわけではない。ならば、自分が口を挟む理由もない。


生徒会室には、再び紙をめくる音だけが響く。


静かで。冷たい。―――張り詰めた空気。


誰も彼女を追い出そうとはしていない。

誰も彼女に「出ていけ」と言ったわけでもない。


それなのに。


少しずつ。

少しずつ。


アルメリーの周囲から、人が離れていく。


ランセリアは、ただ仕事を続けている。

何も言わない。何も説明しない。ただ、噂を否定しなかった。


それだけだった。


けれど。

その「何もしなかったこと」が、アルメリーにとっては、何よりも重いものになり始めていた。




                 ◇




そこは―――、明るくもなく、暗くもない世界だった。


暑くもなく、寒くもない。

風はなく、音もない。



時間が流れているようにも思えれば、最初から存在していないようにも思える。

風景は存在せず、しかし意思次第でいくらでも形を変えられる。


その中心にいる人影が、ゆっくりと指を鳴らした。


すると、周囲の空間がゆらりと揺れ、 半球状の巨大な“仮想空間”が形成される。

頂点は漆黒。


そこから下へ向かうほど、黒が薄れ、半透明になっていく。 まるで夜空が溶けていくような、不思議な空間。

床と呼ぶべきものも、壁と呼ぶべきものもない。

ただ「そこにある」と認識することで、そこに存在する。


その奇妙な空間の中央に、ひとつの巨大なソファーようなものを創り出す。

ふかふかとした、身体を預ければ二度と立ち上がりたくなくなるようなソファー。


そこへ、ひとりの少女が寝そべっていた。


長い菫色(すみれいろ)の髪を無造作に流し、頬杖をつきながら、指先を軽く振ると、 宙にいくつものスクリーンが浮かび上がる。……それはアルメリーの記憶。


最近の出来事が、鮮明な映像として映し出されていた。


―――魔女(イスティス)。


彼女の周囲には、大小様々な映像が浮かんでいた。―――それは、アルメリーが見てきた、ここ最近の出来事。


教室での会話。大食堂での食事。学院の廊下ですれ違う知り合いとの挨拶。


笑いあっている同級生。友人達との会話。授業で講義する教官。


生徒会室。生徒会役員達の掛け合い。


校舎から寮までの、登下校に通う並木道。……すれ違う学院の生徒達。


学生寮。自室。アンとの会話。


繁華街。


そのスクリーンの一つに、 見覚えのある……見目麗しい男子生徒が映し出されていた。


辺りは大分暗くなっている。時間帯は夕暮れ時……だろうか?学院のとある古臭さが漂う一室。アルメリーの前で、真剣な表情を浮かべる美しい金髪の男子。

そして、その口から告げられた言葉。


イスティスはしばらく黙って映像を眺めていた。


やがて―――


「……あら」


口元が、ゆっくりと弧を描いた。


「まあまあ……ウフフ」


くすくすと笑う。

その目には、どこか懐かしさを含んでいた。


「……あ(・)の(・)時(・)、一度は私(・)を振ったのに……。」

「今度は、貴方の方から求めてくるだなんて……ね?」


イスティスはソファーへ身体を沈めながら、楽しそうに目を細める。


「……随分と面白いことになったものねぇ?ウフフ。」


スクリーンの中では、アルメリーの話す言葉が慌てふためいて滑稽だった。

それを眺める彼女の表情は、まるで舞台の続きを楽しみにしている観客のようだった。


「……側室、ねぇ……。」


その言葉を、舌の上で転がすように呟く。


「まあ……最初は、それでもいいかしら?」


人差し指を顎へ添える。


「……後で正室になってしまえば……いいわけだし?」


その声音はとても甘く響き、 表情は微笑を湛えている。


そして、ふと視線を別のスクリーンへ向ける。

そこに映っていたのは、生徒会室。

アルメリーと、ランセリア。

イスティスの目が、ほんの僅かに細くなった。


「あの子には……」


そこで言葉を切る。何かを思い出したように、イスティスは別の映像を呼び出した。


ランセリアの姿。……その内包するであろう魔力。


そして、その背後に絡みつくように存在する、本人すら気付いていない何か。


「……あのお方の器に、なってもらわなければ、ね」


その声音には、先ほどまでの軽さとは違う響きがあった。

だが、それ以上は語らない。


イスティスは再びアルメリーの記憶へ視線を戻した。


別のスクリーンには、地下下水道が映し出されていた。


それが切っ掛けとなり、ふと思い出した。

彼女の操る魔法の中で、彼女(イスティス)が放った、最強の威力を誇る火属性魔法。

その魔法が石造りの天井を一瞬で貫き、その後に地上へと伸びる巨大な穴ができた。


「こういうの、何て言ったかしら?……ああ、そうだわ。ウフフ♪」


何かを閃いたような喜色が顔に浮かぶ。


「たしか……『精霊のいたずらは福を呼ぶ』……だったかしら?」


そして、目をつむると、頭の中を探るように、しばし思いに耽(ふけ)る。

探していた何かを見つけたのか、ぱちりと目を開いた。


「ああ、そうそう……」


小さく笑った。


「昼の私(ジュルネ)の記憶に……ぴったりの言葉があるわ。『棚からぼた餅』っていうのかしら?『ぼた餅』って、なんなのかしらね?」


ウフフ、と楽しげな笑い声が、誰もいない夢の世界へ響く。

スクリーンの映像が、次々と切り替わっていく。


学院。

 地下下水道。

   ランセリア。

     アルベール。


スクリーンの光が彼女の白い肌を照らし、 その笑みはどこか妖しく輝いていた。


指先を軽く振るたびに、 無数に浮かんでいたスクリーンが一つ、また一つと閉じていく。


最後のスクリーンが消えると……仮想空間がゆっくりと溶け始める。


「そろそろ私(・)の(・)時(・)間(・)ね……?おはよう、私(ジュルネ)。アハハハハ……!」


彼女は徐にソファから立ち上がり、黒い背景の中へ静かに歩き去っていった……。





「……ん……」


薄暗い部屋の中で、少女は小さく身じろぎした。

ゆっくりと瞼を開く。


見慣れた天井。

ベッドから起き上がる。


いつものように主人であるアルメリーが起きた気配を察知したアンも、続いてベッドで上半身を起こし、目を軽くこする。


「……お嬢様、どうされましたか?」


アンが心配して、ネグリジェの少女に声をかける。


「……寝付けないのですか?……必要なら、ハーブティーでも、お持ちいたしましょうか?」


声を掛けられた彼女は、ぼんやりと窓へ目を向ける。

カーテンの隙間から差し込む淡い月明かり。


いつもの様に彼女は指を鳴らした。その瞬間、アンの目は虚ろになり、意識のない言われたまま動く傀儡人形と化す。


「アン、例の箱を出して頂戴。たしか腕輪もあったわよね?一緒の場所にあるのかしら?あったらそれもね?」

「……かしこまりました」


と無感情に応えるアンは、プラカール(クローゼット)を開けて、その奥をごそごそと探し始める。

暫くして、アンはプラカールの奥から芸術的価値の高い精巧な彫刻が施された小さな箱を取り出してきた。アンの動作はまるで糸で操られる人形のようだった。

その小箱と腕輪を手渡された彼女は、 微笑を浮かべる。


アンから手渡された腕輪には何の魔力も残っておらず、既に只の腕輪に戻っていた。


「ふぅ。また、例の魔法を掛けなおさないといけないわね……。」


愚痴とも取れる独り言を口にすると、腕輪を横に置き、小箱を開ける。

その中には、職人技を思わせる水晶で出来た白薔薇の意匠が付いた鮮やかな深紅の仮面があった。

彼女は小箱から、それを取り出す。そして壁に備え付けてある鏡の前まで行くと、己の姿を見ながら装着し、アンの方へ振り向く。


「ウフフ…… やっぱりこの仮面いいわよね。アンもそう思うでしょう?」

「お似合いでございます」


と、無感情に応えるアン。


「……あの職人に、こ(・)れ(・)もついでに譲ってもらおうかしら?」


アンが何も反応を返さないので、少し頬を膨らませて別の命令を下す。


「これから外出するわ。服と外套の用意を」

「……かしこまりました、お嬢様」


アンに服の用意を指せている間、彼女は呪文を唱え、腕輪に幻術の魔法を付与すると、徐にその腕輪を装着する。―――その瞬間、幻術が発動し、彼女の髪の毛が長く伸び、菫《すみれ》色に変わった。目元に菫色のアイシャドウが施され、唇に深紅の口紅が引かれる。


暫くすると服を用意したアンが戻って来た。アンに私の服を着替えさせ終わると、ベッドへ戻って寝るように指示する。


アンがベッドに戻るのを確認し、バルコニーに出て周囲を見渡す。誰にも見られていない事を確認してから魔法を唱え、彼女はバルコニーから夜の闇に紛れるように暗い夜空へと飛び立つのだった。




                 ◇




星明かりを背に、静かに彼女は“工房(アトリエ)”へ舞い降りた。十月も半ばに入り、夜はもう寒い。彼女の身は、下級貴族が主に着る若干厚みのある少し高級な外出用の服と外套で包まれていた。


目元に装着した、豪華な深紅の仮面。左目の目元にあしらわれた純白の薔薇が特徴的で、その水晶で形作られた薔薇が、星の光を反射して輝いていた。


門番が彼女に気付いて中に声をかけ、扉を開けてすぐに脇へ避ける。彼女が工房の入口をくぐると、バルナタンがすぐに出迎えに来た。


「姐さん、ご苦労様です……。」

「バル……。この前の抗争は大変だったみたいね……?」

「……はい、マジで大変でした……。」

「上の人からの命令が来たので、俺らも戦えるヤツを四つの班に分け、俺が直接率いる第一班と、一緒にオーレッドさんの稽古を受けたモーリストを第二班の班長に任命し、集まるように言われた「根城」に出撃しました。他の班のやつらには、俺らの拠点を守るよう命令して。」


彼女は静かに彼の言葉を聞いていた。


「……ブロワールさんに招集された大小様々な集団の人らと共に、広場から皆で、南の組織のナワバリに向かって堂々と進軍して行きました。皆、やる気にあふれてて。俺ら『ファイエルブレーズ』も、最初は班ごとに固まり、行動してたんです。道中、幾つか敵の拠点を落として……正直これなら余裕だと思ってました。ホント、最初のうちはこっちが圧勝だったんです……」

「だけど、途中から……どっちが勝ってるのかわかんねー状態になったんですよ。それから、戦ってる内に敵の伝令が”ウチの首領が死んだ”ってあちこちで叫んで回ってからは、戦場は大混乱になって……。自分らの班も皆バラバラに……。」

「全てが終わってから……、こ(・)こ(・)に戻ってこれた奴は……出撃した奴らの半分以下でした。……第二班の班長モーリストも……戻って来ませんでした。」

「後日、せめて墓でも作ってやろうと……。俺らは戻ってこなかったあいつらを弔う為に、抗争が激しかった所を中心に亡骸を探しに行き、そこで……ヤツの遺体を見つけました。体中傷だらけで……。うぅ……」


そう言い、思い出したようにバルナタンは嗚咽と共に悔し涙を零す。


「……そう。それは悲しかったわね……」


彼はすぐ袖で涙を拭うと、強がるように背筋を伸ばした。


「そ、それで……今日はどのような御用でしょうか……?」


声は普段より少しだけ高く、無理に平気を装っているのが痛いほど分かった。


声は普段より少し高い。

無理に平静を装っているのが、痛いほど分かる。

彼女は、そんな彼をしばらく黙って見つめていた。


「……そうね」


やがて、静かに頷く。


「今日は確かに、あなた達に用(・)があって来たの」

「用……ですか?」

「ええ。」


イスティスは答えながら、ふとバルナタンの顔を見上げた。


そして―――


「…………」

「…………?」


何故か、そのまま黙り込む。

バルナタンが怪訝そうに眉を寄せた。


「……なんスか?」

「別に」

「いや、絶対なんかあるでしょう?」

「…………」


イスティスはほんの少しだけ顎を上げた。


深紅の仮面。

左目の目元にあしらわれた純白の薔薇が、室内の明かりを受けて淡く輝く。


―――ほら。


……これ。


―――この仮面よ。


……気付きなさいよね。


だが、バルナタンは気付かない。

イスティスはもう一度、少しだけ顔の向きを変えた。

それでも彼は気付かない。


「…………」

「……姐さん?」

「なに?」

「なんでさっきから俺のこと、じーっと見てるんです?」

「あなたが、いつまで経っても気付かないからでしょう?」

「……何に?」

「…………」


イスティスは仮面の下で、ほんの少し眉を寄せた。

そして、自分の顔を指先で軽く叩く。


「これ」

「……仮面?」

「そう」

「それがどうかしたんスか?」

「……見覚えない?」


バルナタンは、ようやく仮面をまじまじと見た。


「…………」


しばらく沈黙する。


「……どっかで見たような気はするんだけどなぁ?」


イスティスの目が僅かに輝く。


「……そうでしょう?」

「いや、待ってください。今思い出しますから!」


バルナタンは腕を組み、唸りながら記憶を辿った。


「深紅の仮面……左目に白い薔薇……」

「…………」

「…………ん?」


その顔から、少しずつ表情が消えていく。


「……まさか」

「ふふっ」


イスティスの口元が、仮面の下で僅かに緩んだ。


「……あの時の、仮面……?」

「正解」

「マジかよ……!」


バルナタンが目を見開く。


「これ、あの時のやつだったのか……だったのですか!?」

「ええ」

「じゃあ……」


バルナタンは、目の前の少女を改めて見た。

小柄な身体。厚手の外套に包まれた細い肩。その顔にある、あの深紅の仮面。

記憶の中にある光景が重なった。


エクリプスノワールの主力が前線で敗北し、自分達は命辛々(いのちからがら)撤退し、最後の抗戦をするべく負傷した仲間達と共に「根城」前の広場で展開していた。ここで死ぬ……そんな予感すらあった。

やがてフォコン・オブスキュールの主力部隊がそこへ到着し、二方向から一気に襲い掛かって来た。


―――敵の最前線部隊へ炸裂する数多くの火球。それに続く「工房(アトリエ)」近くでも見た大爆発。……最後に放たれた輝く極太の光線!それは数多くの敵兵を一瞬で蒸発させ、その光線が通った跡には、そ(・)こ(・)に建っていた数十の建物が消滅し、何もない直線状の空間ができていた。


怒号と悲鳴、混乱に包まれた戦場。


そして―――。


その宙に現れた、10カンヌ(約30m)を超えそうな、緋(あか)い粒子で模(かたど)られた巨大な女性の像。


その顔にあった、今、彼女が装着しているものと同じ意匠の仮面。


「……あのデカい幻影……」

「そうよ」

「……姐さんだったのか」


「だから、そう言っているでしょう!?」


彼女は少し得意げに胸を張った。

バルナタンは苦笑する。


「いやぁ……そりゃ、すぐには分かりませんって」

「どうしてよ?」

「だって俺があん時見たのは、貧民街の建物よりデカい姿だったんですよ?」

「…………」

「それが今じゃ、俺より頭一つ分くらい小さい姐さんが、同じ仮面着けて立ってるんですから。そりゃ、分かんねぇって。ハハハ……。」

「…………」


彼女は黙り込んだ。


「……姐さん?」

「誰が小さいのかしら?」

「…………」


バルナタンの顔が固まる。


「いや、その……」

「ウフフ……。」


彼女は楽しそうに微笑む。

先ほどまで涙を流していた男の顔にも、少しだけいつもの表情が戻っている。

それを見て、満足した様子の彼女。


「まあ、いいわ」

「助かった……。」

「これくらいは大目に見てあげる」

「へへ……あざっす」


バルナタンは照れ臭そうに笑う。だが、すぐにその表情を改めた。


「それで……本当に、今日は何の用なんです?」

「そうね」


彼女は、少しだけ考えるように首を傾けた。


「ファイエルブレーズの戦える連中を四つの戦闘班に分けたって、さっき言っていたわよね?」

「ええ、そうですが?」


彼女は「工房(アトリエ)」の奥へ目を向ける。


「その四つの戦闘班。その隊長達を、全員呼んでちょうだい?」

「四人とも、ですかい?」

「ええ。全員。あ、でも……第二班の班長は、亡くなったのだったかしら?……今は、どうなっているの?」

「それなら、俺の第一班の副長をしていたグラシアンを、第二班の班長に任命しました。こいつも一緒にオーレッドさんの稽古を受けた一人で、あの戦いを無事に生き残った、実力のあるヤツです。」

「……なら、よかったわ」

「……何かあったんですか?」

「別に」

「いや、別にじゃねぇでしょう?」

「フフッ」


彼女は笑う。


「心配しなくてもいいわ。悪い話ではないから」

「……そう言われると、余計気になるんですが?」

「それなら、なおさら楽しみにしていればいいわ……ンフッ♪」

「……?」


バルナタンは首を傾げた。

だが、彼女はそれ以上何も言わない。


「それと、準備ができたら私に知らせて」

「へい。……って、え?どこかへ行くんですか?」

「ええ」

「どこへ?」

「それは―――」


彼女は、くすりと笑った。


「……着いてからのお楽しみ、ね?」

「…………」


バルナタンはしばらく彼女の顔を見つめた。

だが、深紅の仮面に遮られて、その表情を読むことはできない。


「……姐さん、たまに意地悪ですよね」

「そうかしら?」

「そうですよ」

「フフッ。さあ、早く呼んできてちょうだい」

「へいへい。分かりましたよ」


バルナタンは頭を掻きながら、工房の奥へ向かう。

その背中を見送りながら、彼女は仮面の下で小さく笑った。


―――さて。……皆、どんな顔をするのかしら?クスクス。


その顔を想像しながら、彼女は彼らの準備が整うのを楽しそうに待つのだった。




                 ◇




夜の貧民街。

冷たい夜気の中を、五人の人影が歩いていた。


先頭を行くのは、深紅の仮面を着けた少女。

その後ろを、バルナタンと四人の戦闘班長が続いている。


工房(アトリエ)を出てから、イスティスは未だに目的地を告げていない。


「……姐さん」


しばらく歩いたところで、バルナタンが痺れを切らしたように声をかける。


「なに?」

「俺達、どこへ向かってるんスか?」

「もうすぐ着くわ」

「いや、それは分かるんスけど……」


バルナタンが後ろを振り返る。

四人の班長達も、揃って困惑した顔をしていた。


「何の話をするのかくらい、教えてもらっても……」

「駄目」

「即答っスか」

「着いてからのお楽しみ。ね?」

「…………」


バルナタンは諦めたように肩を落とした。


「……姐さん、こういう時だけ妙に楽しそうなんスよね」

「そうかしら?」

「そうっスよ」


そんなやり取りをしているうちに、目的地が見えてきた。


エクリプスノワールの「根城」。


先日の襲撃によって荒らされた建物だったが、外から見れば既にかなり修復されている。

門前には見張りが立っていた。

だが、深紅の仮面を見た瞬間、その男は何も尋ねなかった。


「……ッス!」

「こんばんは」


イスティスが片手を上げて挨拶すると、門番は姿勢を正して直立不動となり、


「へい。どうぞッ!」


という声と共に、重い門を開ける。

もはや顔パスだった。

というより、仮面を着けて堂々とここへ来る人間など、他にはまずいない。

彼女はそのまま門をくぐり、バルナタン達も続く。


建物の中へ入ったところで、イスティスはふと足を止める。

広めの一階のロビーには、いつもならば、数人の構成員がいる程度だ。


だが、今夜は違った。


ロビーには、すでに大勢の者達が集まっている。

エクリプスノワールの傘下にある、中規模から小規模の集団。その中でも、それぞれの集団を束ねる立場にある者達や、その補佐を務める者達が、あちらこちらに固まっていた。


ざわめきは低く、誰もが周囲の様子を窺っている。

呼び出された理由を、彼らはまだ知らされていない。

ただ、普段とは明らかに違う規模で人を集められたことだけは、誰の目にも明らかだった。


「……随分と集まっているわね」


彼女が小さく呟く。

その声に、ロビーにいた者達の視線が一斉に集まった。


深紅の仮面。

左目に咲く、純白の水晶の薔薇。


そして、その後ろに従うバルナタン達。


ざわめきが、さらに小さくなる。

誰もが、目の前に現れた少女が何者なのかを知っていた。


だが今夜、彼女が何のためにここへ来たのか。

それだけは、まだ誰も知らなかった。


彼女が口を開く。


「バルナタン」

「ウッス」

「貴方達は、ここで待っていて」

「……え?」

「私だけ二階(さき)へ行ってくるわ」

「俺達は?」


イスティスは、ほんの僅かに目を細めた。


「…… こ(・)こ(・)で、待っていて」


声は穏やかだった。

なのに、その一言には有無を言わせぬ圧力があった。


「……りょ、了解っス」


イスティスは颯爽と階段へ向かう。

バルナタン達は、その背中を見送った。


「……何なんだ?」

「さあ……」

「まさか、俺達なんかやらかしました?」

「お前、何かやったのかよ……」

「やってねぇっスよ!」


小声でそんなやり取りを交わす四人の班長達を尻目に、彼女(イスティス)は二階へ上がっていった。




二階の応接室。

扉を開けると、三人の男が既にソファーへ腰掛けていた。


ブロワール。

ガストリック。

クロヴァン。


三人とも、イスティスが来ることは承知している。


「来たか」


ブロワールが立ち上がった。


「ええ。待たせたかしら?」

「いや。問題ない。こちらも準備は出来ている」


イスティスが向かいのソファーへ腰を下ろす。

三人もそれぞれの席へ戻った。


しばしの沈黙。


最初に口を開いたのはブロワールだった。


「では、始めよう」


机の上には、幾つかの書類が置かれている。


「今日の議題は、先日の抗争後における組織の再編。そういう認識でいいな?」

「ええ」

「なら、最初の確認だ」


ブロワールが視線を落とす。そして目を上げると、イスティスの目を凝視するように発言する。


「俺らは『エクリプスノワール』の看板を降ろし、組織名を『ファイエルブレーズ』へ変更する!」


「俺としては異存はない」


クロヴァンも続ける。


「名前が変わったところで、俺達がこれまでやってきた事まで消えるわけじゃないからな。……俺も別に構わねぇ」


そう言い、ガストリックは欠伸を一つする。


「では、組織名を今から『ファイエルブレーズ』へ変更する」


ブロワールが決定を皆に確認する。

イスティスは小さく頷いた。


「そして、もう一つ重要な話だ」


ブロワールの声が少しだけ低くなる。


「組織名が変わる以上、肩書も整理する必要がある」

「そうね」

「ディナルドに代わり、貴女が肩書上、組織の頭……『首領』になる」

「ええ。」


ブロワールは、しばらく彼女を見つめた。

この少女が何を考えているのか。

そこだけは、未だに完全には読めない。


俺が『ファイエルブレーズに』欲しい……と言われた。

さらに、『簡単な方法があるわ……組織の名前を変えればいいのよ……』とも、言われた。


実際に、こ(・)れ(・)を行う段になった時、俺は何をされるか分からないという不安を、確かに抱いていた。……ここまで話を進めてから手のひらを返され、さらに大きな要求を突きつけられる。

内心では、そんな危惧も捨てきれなかった。


だが。


「……実質、俺の役職や、残った幹部の扱いはどうなる?」


と、慎重に尋ねる。


イスティスは少し考えるように首を傾げ、やがて静かに答えた。


「貴方には『特別顧問』もしくは『副官(ルヴナン)』の役職を。他の幹部には『特別顧問』もしくは『軍事顧問』の役職を用意するわ。普段は貴方に組織の運営をそのままやってもらいたい、と思っているから、権限や報酬もほぼそのままでいいわ?」

「私の予想だけど、そ(・)こ(・)辺りは実質、貴方が管理してたのでしょう?『エクリプスノワール』だった頃と変わる事は、少ないと思うわ?」


ブロワールは目を細めた。


「……よく分かっているな」

「まぁ、私も昔……色々とヤンチャしてたし、ね。ウフフ……。そのくらいは予想の範囲内よ?」


ガストリックがつぶやく。


「おいおい、昔……ってなんだ?どう見ても、あんた……見た目、十代ぐらいだろ……!?」

「ンフフ……内緒。秘密は……女を美しくするのよ?」


隣でそんな会話が交わされている中、その声が耳に入らないほど集中したブロワールはその明晰な頭脳で考えていた。


……彼女の意思は、『自分達の権限を奪うつもりはない。』という事だ。……少なくとも、今のところは。


「それなら、俺に異存はない」

「俺もだ」


クロヴァンが頷く。


「港の仕事も、これまで通り任せてもらえるなら問題ない」

「俺も面倒な書類仕事なんかが増えなきゃ、何でもいい」


ガストリックも同意した。


「なら、決まりね?」


彼女(イスティス)は満足そうに微笑んだ。


「では、次は私から聞くわね?」

「構わない、何でも聞いてくれ」

「今、空いている幹部の役職はあるかしら?」


ブロワールが少し考える。


「ああ、……ある」

「どの役職かしら?」

「護衛者(エスコートール)の隊長だ」


彼女(イスティス)は頷いた。

「……なるほど」

「先日の抗争で、我々は護衛者(エスコートール)の隊長を失っている」

「そうだったわね」


護衛者(エスコートール)。

組織の中の首領直属の戦闘部隊。主な任務はその『首領』の身辺警護。また、首領の命によって組織の為に、その実力を行使する事もある。……そう。貧民街で、エクリプスノワールが恐れられている、力の象徴である。


だが南側のフォコン・オブスキュールとの抗争によって、その戦力は大きく削られていた。

現在、生き残っている者は十人にも満たない。

彼女はしばらく考えたのち、あっさりと告げる。


「じゃあ、その席をバルナタンに」

「……バルナタンに、か?」


ブロワールが聞き返す。


「ええ」

「元ファイエルブレーズの頭目の男だな」

「そう」


クロヴァンが顎へ手を当てる。


「なるほど。俺はそいつを知らんが、ブロワールの主力にいたんだろ、そいつ?そこは激戦だったとブロワールから聞いてる。そこで生き残ったのか。すげえすげえ!ハハハ!」


「本人にはまだ何も言っていないけれど。バルナタンの部下もそこに入れればいいわ?」


ガストリックがぼそりと言った。


「……本人に言わずに決めるのか?」

「驚かせたいもの」

「あんた、そういうの好きだな。」

「ええ。」


彼女は楽しそうに笑った。

ブロワールは苦笑する。

だが、反対する理由もない。


「実力については、まぁ、これから鍛えればいい、か。」

「でしょう?」

「それに、元ファイエルブレーズの連中を護衛者(エスコートール)へまとめて入れるなら、隊長がバルナタンというのは悪くないかもな。それに、生き残った護衛者(エスコートール)に、彼らの訓練を任せるのも有りだな」

「そういうこと」


彼女は微笑を浮かべ、軽く頷いた。


「まあ、バルナタンに関しては、当面は名前だけのお飾りでいいわ。実力は、追い追い付けてもらうわ?今は、重要な事を通達する会議に参(・)加(・)で(・)き(・)る(・)・あるいはし(・)た(・)、という体裁があれば、組織内でのお披露目には充分でしょう?」

「……分かった」


ブロワールが頷いた。


「では、バルナタンを護衛者(エスコートール)隊長として幹部に加える」


こうして幹部の席は、三つから四つへ増えることになった。


「……それと、組織のお金。」


イスティスが何気なく切り出す。


「私のものだから、これから自由に使うわね?」

「…………」


三人が沈黙する。


「しっかり稼いでね?」

「……首領として、随分と率直だな」


ブロワールが苦笑した。


「だって私の組織なのでしょう?」

「まあ、それはそうだが……」


彼女は楽しそうに笑う。


ガストリックが小さく呟いた。


「……思ったより金遣いが荒そうだな」

「必要なところに使うだけよ?」

「その『必要』の基準が怖ぇんだよ」


クロヴァンが笑う。


「まあ、稼ぐ方は任せてもらおう」

「頼んだわね。ウフフ。まぁ、手を出してくるヤツらがいれば、今まで通り、私が直接挨(・)拶(・)に行ってあげてもいいわよ?」

「あ、それから!」


彼女(イスティス)は思い出したように言う。


「幹部に昇進するバルナタンだけど、まともな服を持ってないから新調するわね?」


ブロワールは少し考えた。


「ああ、組織の幹部がみすぼらしい服着てたりすると、外の組織に示しがつかねえからな。ウチが舐められる訳にはいかねえ……その件はわかった。こっちで何着か用意しよう。あとでバルナタンを借りるぞ?」

「ええ」

「俺のお気に入りの服飾工房がある。腕は確かだ。そこで仕立てさせよう」

「お願いするわ」


ブロワールは、頭の中で予定を組み始めた。


「あと、護衛者(エスコートール)について。」

「まだあるのか?」

「ええ」


彼女は当然のように続けた。


「護衛者(エスコートール)の全員分、鎧を新調しておいてね?」

「全員分?」

「そう。組織のお金で注文しておいてね?」

「分かった」


ブロワールが頷く。


「現在の生き残りだけじゃなく、元ファイエルブレーズからの人員を入れた合計人数分……だな?」

「ええ、それでいいわ」

「鎧の仕様は、これまで通り黒か?」

「いいえ。全身、紅蓮に染めてね」


彼女は即答した。


「…………」


三人が黙った。


「紅?今まで黒だったが……」

「もう黒はやめるの♪」


そう、彼女(イスティス)は楽しそうに答えた。


「これからは紅で統一するわ?だってファイエルブレーズの首領は……なんたって、『紅蓮の魔女』なんですものね?その親衛隊である護衛者(エスコートール)も紅蓮に染めなきゃ、ね?」

「隊長も?」

「隊長だけは黒」

「……なるほど」


クロヴァンが口元に笑みを浮かべる。


「隊長が黒で、他が紅か」

「ええ。護衛者(エスコートール)の伝統色は、隊長に残すの。その方が生き残った護衛者(エスコートール)も納得できるでしょう?」

「合理的……なのか?」


ブロワールが呟く。

彼女(イスティス)は深紅の仮面を少しだけ上向けた。


「格好いいでしょう?」

「……まあ、悪くはない」

「だな?」


クロヴァンも頷く。

ガストリックだけが、欠伸をしながら呟いた。


「……目立つだろうな」

「それがいいのよ♪」


どうやらこれは、完全に彼女(イスティス)の趣味だった。


「では、今度はこちらから要望がある」


ブロワールが口を開く。


「なにかしら?」

「前から信用できる金庫番が欲しかった」


彼女が首を傾げる。


「金庫番?」

「ああ。頭のキレがよく、組織の金を懐にいれたりしない、きっちり管理できる奴が欲しい。それに、俺の補佐ができるヤツが欲しい」

「なるほど……」


彼女(イスティス)は少し考えると、一人の男の子を頭に思い浮かべる。


「……フフッ。にいい子がいるわ。きっと補佐にピッタリだわ!」

「ほう?」

「カルクールって名前なのだけど。」


ブロワールの目が細くなる。


「……カルクールか」

「ええ。あの子なら任せられるわ。しっかりしてるもの。」


しばらく考えた後、ブロワールは頷いた。


「なら、そいつも服を新調したほうがいいな。俺の下で働く事になるわけだし。今度連れてきてくれ」

「分かったわ。バルナタンに連れてこさせるわね」

「頼む」


また一人。元(・)ファイエルブレーズから新たな人材が、組織の中枢へ加わることになった。




そして。最後の話題となる。


彼女(イスティス)は応接室を見回した。


「……この『根城』、ボロボロじゃない?」

「……まあな」


修復はされている。

掃除も済んでいる。

家具も以前とは違うものが、新しく購入されている。


だが、染みついたものまで完全に消えるわけではない。


「この前の襲撃の跡は、掃除も修復もされたみたいだけど、血の匂いは簡単には取れないわよ?」


ブロワールは苦笑する。


「それは認める」

「新しい物件に引っ越ししない?」

「そうは言ってもな……」


ブロワールは腕を組む。


「貧民街に、こ(・)こ(・)と同等の物件なんて、そうそう無いぞ?」

「……ふーん」


彼女(イスティス)は少し考える。


「じゃ、代わりに……今のバルナタン達が居住している「工房(アトリエ)」が、手狭になって来たから、もっと広い建物に引っ越しさせたいわ?」

「…………」

「探しておいてね?」


ブロワールはしばらく黙っていた。

やがて、諦めたように息を吐く。


「……それなら、善処しよう」

「お願いね?」


彼女(イスティス)は満足そうに頷くと、ひとまず話は終わった。


そこでブロワールが徐に立ち上がると、芝居がかった様子で、口角を上げ、大袈裟に手を振り優雅に会釈をするブロワール。


「……では、今決まった事を、集まってもらった皆に公表しよう。さあ、ガストリック、クロヴァン。……そして我らの新たなる『首領』よ。共に1階へ降りようではないか!」


その呼び掛けをきっかけに、全員ソファーから立ち上がり、イスティスを先頭にして応接室から出て行くのであった。




                 ◇




『根城』一階。


普段ならば、構成員が数人行き交う程度のロビーが、今夜は異様なほどの人で埋まっていた。

エクリプスノワールの傘下にある、中規模から小規模の集団。

それぞれの頭目や副頭目、あるいはそれに準ずる立場の者達が、あちこちに集まっている。

誰も、詳しい事情までは知らされていなかった。


ただ、上から「根城へ来い」とだけ、告げられていた。

それだけで、何か重大な話があることくらいは察せられる。


「……何の話だ?」

「さあな。俺達まで呼ぶなんざ、よっぽどデカい話なんだろ」

「この前の抗争絡みじゃねぇのか?」

「だったら、なおさら嫌な話だな……」


そんな囁きが、ロビーのそこかしこから漏れている。

その一角では、バルナタンと四人の班長達も待っていた。


「……長ぇな」


腕を組んだバルナタンが、階段へ目を向ける。


「何の話してるんですかねー。」

「知らねぇよ……」

「でも、幹部三人が揃って上にいるんでしょう?」

「だから知らねぇって」


その時だった。

階段から、足音が響いた。

ロビーのざわめきが、次第に小さくなっていく。

何人かが振り返る。


そして。


深紅の仮面を着けた少女が、階段を下りてきた。

その後ろには、ブロワール、クロヴァン、ガストリック。

エクリプスノワールの幹部三人が揃っている。

先程までロビーで思い思いの話をしていた者達が、一斉に姿勢を正した。


仮面の少女は何も言わず、ゆっくりと階段を下りてくる。

その姿を見た者達の間から、低いざわめきが生まれた。


「あれが……」

「この前の……」

「やっぱり、あの仮面……」


抗争の最中、突然現れた少女。

圧倒的な力を見せつけ、敵味方の双方を震え上がらせた存在。


だが。


ここにいる者達の多くにとって、本当に忘れられないのは、その後だった。


抗争の最終局面。


『根城』の前にある広場。

夜空を覆うようにして現れた、巨大な人影。

十カンヌ(約三十メートル)を超えそうなほどの巨体。

緋(あか)い魔法の粒子によって形作られた、巨大な女性の幻像。


そして、その幻像が発した言葉。


誰もが思い出す。


 ―あの声を。

  ――あの威圧を。

   ―――あの宣告を。


『―――私は『ファイエルブレーズ』の主、イスティス……。今この時をもって、この地に新たな秩序を築く。抵抗は無意味である。』

『ただ、私の前に頭を垂れ、ひれ伏しなさい。逆らう者には平等に死を与え。我が意に従うのなら、その命に情けを与え。助けましょう……。』



あの夜、広場にいた者達の脳裏へ、その言葉が鮮明に蘇る。


目の前にいる少女と……


……あの巨大な幻像が。


ようやく、一つに繋がった。


そして、仮面の少女と幹部達がロビーの中央へ歩み出たところで、ブロワールが彼女の一歩前へ進み出た。


彼は集まった者達を一瞥する。

ざわめきが、わずかに静まった。


やがてブロワールは、仮面の少女へ向き直る。


そして、恭しく片手を差し出し、その存在を紹介するような姿勢を取った。


「今日からエクリプスノワールは、この名を捨て、新しい組織名に変更する」


低く、よく通る声がロビーに響く。


一呼吸。


ブロワールは、集まった者達を真っ直ぐに見据えた。


「その新しい組織名は―――」

「『ファイエルブレーズ』である!」


「ふ、ファイエルブレーズだとぉ!?」


誰かが叫んだ。


次の瞬間。

ロビーが一気に騒がしくなった。


「ファイエルブレーズって、あの時の!?」

「じゃあ、あの巨大な女は……!」

「この女が……?」

「待て、まさか……!」

「本当に、あいつが新しいシェフ(ボス)なのか!?」


驚愕と動揺が入り混じり、あちらこちらから声が上がる。

中には、思わず一歩後退する者までいた。

ブロワールは、それを黙って見渡していた。

そして、ざわめきが収まらない中。

再び口を開く。


「そして、彼女が―――」


差し出していた手を、仮面の少女の方へと向ける。


「今日から我が『ファイエルブレーズ』の首領となる―――『イスティス』様である!」


その名を、はっきりと告げた瞬間。


ロビーが、しんと静まり返った。


誰もがイスティスを見る。


深紅の仮面。

左目に咲く、純白の水晶の薔薇。


あの夜、十カンヌ(約三十メートル)を超える巨大な幻像となって、自分達の前に立った存在。


それが―――今。


自分達の目の前にいる。


イスティスは、集まった者達を静かに見回した。


彼女はほんの僅かに、口元を緩めた。

その笑みは、あの巨大な幻像とは似ても似つかないほど穏やかだった。


だが。


それを見て、誰もが理解していた。

あの夜の言葉は、脅しではなかった。


この少女は、本当に……この組織の主に……『頂点』に立ったのだ。


やがてイスティスは、待っていたバルナタン達へ視線を向ける。


「それじゃあ、話をしましょう」


その言葉を合図に―――

新たな組織の、最初の夜が始まった。


ロビーにいた者達が、息を呑む。


彼女の一挙手一投足に、皆の目が離せない。


「バルナタン」

「へ、へい!」


突然名を呼ばれ、バルナタンの背筋が伸びる。


イスティスが数歩、バルナタンへ近づく。


「今日から貴方は、護衛者(エスコートール)の隊長様よ?」

「…………」


……沈黙。

バルナタンの目が丸くなる。


「…………は?」

「護衛者(エスコートール)隊長。」

「…………」

「いわゆる、……幹部ね?」


「………………はぁ!?」


バルナタンの素っ頓狂な声が、ロビーいっぱいに響き渡った!


「ちょ、ちょっと待ってください姐さん!俺が!?護衛者(エスコートール)の隊長!?」

「そうよ?」

「いやいやいや!俺、そんな話聞いてねぇっスよ!?」

「だから今、教えているじゃないの。」

「そういう問題じゃねぇっス!」


四人の班長達も騒然となる。


「か、頭が幹部……?」

「出世しすぎだろ……」


周囲からも、驚きの声が次々と上がった。


バルナタンは頭を抱える。


「俺、こないだまでただのチンピラだったんスよ!?」

「知ってるわ」

「教育だってロクに受けてねぇ!」

「でしょうね?」

「そんな俺が、いきなり幹部って……!」


彼女は、そんなバルナタンを見て微笑んだ。


「大丈夫よ」

「何が大丈夫なんスか!?」

「実力は、これからつければいいわ」

「…………」

「それに、貴方だけではないから安心してね?」


彼女が、後ろにいる四人を見る。


「元(・)ファイエルブレーズの戦闘班は、全員護衛者(エスコートール)へ組み込むわ」


「俺達も……?」

「ええ。」

「じゃあ……」


バルナタンが呆然と呟く。


「俺達、みんなで護衛者(エスコートール)になるってことっスか?」

「そういうことよ?」


彼女は頷いた。


「今残っている護衛者(エスコートール)の人達に稽古をつけてもらいなさい。貴方達はこれから、その人達と一緒に、私(・)と、こ(・)の(・)組(・)織(・)を守るのよ?」


バルナタンは、しばらく黙っていた。


やがて。

ゆっくりと拳を握る。


「……へい」


彼は顔を上げる。

そこには、先ほどまでの困惑とは違う……”決意”の色があった。


「分かりました、姐さん」


一度、深く息を吐き、思い切り息を吸う。


そして、しっかりと前を向いた。


「これからは、護衛者(エスコートール)として、姐さんの組織を守ります」

「ええ。期待しているわ?」


彼女(イスティス)は満足そうに頷く。


その横で、ブロワールが口を開いた。


「それと、バルナタン」

「へ、へい?」

「明日、お前を連れて行くところがある。ここへ来い」

「……どこへ行くんで?」

「服を仕立てに行く。」

「…………」


バルナタンが固まった。


「……服?」

「幹部がそんな格好では、示しがつかんからな」

「いや、俺、服なんて――」

「問答無用だ」

「マジっスか……」


クロヴァンが笑う。


「幹部就任初日から大変だな?ハハッ!」


ガストリックも欠伸を噛み殺しながら、口角を上げ、


「……似合う服、選んでもらえ」


と、笑みを浮かべた。

バルナタンは頭を掻きながら、深く息を吐いた。


「……分かりましたよ」


そして、イスティスを見る。


「姐さん」

「なに?」

「俺、ちゃんとやりますから」

「フフッ。」


彼女(イスティス)は微笑む。


その微笑に、バルナタンは小さく頷いた。


そして彼女(イスティス)は、改めてロビーに集まった者達へ視線を向ける。

今、この場にいるのは元ファイエルブレーズの五人だけではない。

エクリプスノワールの傘下に連なる、様々な集団の頭目達、及びその副官達。


その全員が、深紅の仮面をつけた少女を見つめていた。


貧民街の北側で長くその名を轟かせてきた『エクリプスノワール』は、今日をもってその名を変える。


首領となった少女。

新たに加わった幹部。

再編される護衛者(エスコートール)。


そして、深紅へと染められていく新たな組織。


その名は。


―――ファイエルブレーズ。


深紅の仮面を着けた少女は、その中心で静かに微笑んでいた。




                 ◇




10月22日・木曜日(ジュディ)


イグニス共和国。


ザール王国の王都から、遠く離れた東方。

切り立つ山々に囲まれた山岳国家、イグニス共和国。

古くから豊富な鉱脈に恵まれ、鉄鉱石や貴金属、宝石の原石を産出することで栄えてきた商業国家である。

その共和国に今、静かな陰りが差し始めていた。


石畳の大通り―――。


いつもなら鉱石を積んだ荷馬車が絶え間なく行き交う通りも、どこか活気がない。

商人達は足早に通り過ぎ、露店の主人達も客足を気にするように空を見上げている。


「また鉱山が止まったらしいぞ。」

「本当か?」

「北の坑道だ。」

「昨日も人が戻らなかったって話だ。」

「……嫌な噂ばかり増えるな。」


そんな会話が、酒場や市場のあちらこちらで交わされていた。

誰も確かなことは知らない。


だが、不安だけは確実に広がっていた。


一方、共和国を治める六人の最高指導者、『賢人(サージュ)』達による合議も、連日のように開かれていた。


「鉱山を閉鎖すべきだ。」

「いや、経済が止まる。反対だ」

「兵を増派しろ。」

「前回送り込んだ兵はどうなっておる!誰も情報を持ち帰っていないのか!?」

「原因を究明するのが先だ。」

「原因を究明するも何も、情報が帰ってこんではないか!」

「誰か!有力な冒険者を送れないのか!」

「そのような恥を晒すような真似ができるか!」

「その間にも物流は滞っている!いいから工夫を鉱山に入れろ!」


互いの主張は正面からぶつかり合い、結論は出ない。

一人ひとりの判断は決して間違ってはいない。

しかし、誰一人として全体を動かす決断を下せずにいた。

合議制という共和国の誇りは、この非常時において、自らを縛る鎖となり始めていた。


そして、その様子を冷めた目で見つめる一人の老人がいた。


六賢人の一人。

共和国有数の大商会を率いる老商人”ローラン・ヴェルシェール”。


若き日より幾度もの不況や飢饉を乗り越え、商人としてだけではなく、一人の為政者として共和国を支えてきた人物である。


彼は最後まで諦めたくなかった。

鉱山の調査を提案した。

物流網の再編も提案した。

各都市の備蓄を共同で管理する案も示した。

隣国との追加貿易についても議題に上げた。


しかし、その度に他の賢人達は首を横に振る。


「我が商会の利益が損なわれる。」

「その案では時間が掛かる。」

「それは、商会同士の利害の調整が難しい案件だな?もう少し話し合って……。」


……決まって最後には、こうだ。


「―――もっと優先すべき案件がある。」


誰も共和国を滅ぼそうとしているわけではない。

誰もが共和国を守ろうとしている。……はずだ。


(反対するならば、儂よりもっと良い案を出せ……!問題を先送りするだけでは何も解決せぬ……!)


意見はまとまらず、いたずらに時だけが過ぎていった。


……ある日。


一通の報告書がローランの机へ届けられる。

地方都市からの報告だった。

鉱石輸送の停止。

商隊の失踪。

都市間物流の遅延。


そして、半月ほどの時が流れた。……遂に、彼が見たくなかった事態が、報告書という形を成(な)して「賢人(ここ)」まで上がって来た。


「資産を持つ平民及び小規模商人の国外流出、増加。」


と記された国境の検問所からの報告書。


ローランは静かに目を閉じた。

長い沈黙。

やがて、小さく息を吐く。


「……もう、全て……遅いのか……。」


その日の夜。

ヴェルシェール家の屋敷。

家族と、商会の幹部達が集められていた。


誰も口を開かない。

ローランは一人ひとりの顔を見渡した。

長年苦楽を共にしてきた部下。

幼い頃から見守ってきた孫達。

家族。

皆、不安そうな表情を浮かべている。


やがて、一人の娘が恐る恐る口を開いた。


「お父様……。」

「本当に共和国(イグニス)を離れるのですか?」


部屋が静まり返る。

ローランは窓の外を見つめた。

幼い頃から見続けてきた共和国の街並み。

若き日に夢を抱き、商いを学び、多くの仲間と笑い合った故郷。

彼は、静かに語り始める。


「私は最後まで、この国を信じていた。」

「必ず立て直せると。」

「何度危機が訪れても、この国は必ず乗り越えてきた。」


少しだけ笑みを浮かべる。


「だから今回も、……と、そう信じていた。」


その笑みは、すぐに消えた。


「だが……。」

「もう、この国は私の知る共和国(イグニス)ではない。」


誰も言葉を返せなかった。

ローランはゆっくりと振り返る。


「一族全員に伝えよ。」

「共和国(イグニス)を出る!」

「持ち運べる資産は全て運び出す。……商会の帳簿。契約書。権利書。宝石。貴金属。現金……」

「……全てだ。」


「まぁ、出ていく分には、他家も邪魔はすまいよ……。」


疲れた表情を浮かべる主人に、執事が深く頭を下げた。


「……承知いたしました。」


翌朝。

ヴェルシェール家の屋敷の門が大きく開かれる。

荷馬車が一台、また一台と屋敷を後にしていく。

護衛騎士。

使用人。

職人。

家族。


その列は途切れることなく続いた。

共和国(イグニス)でも指折りの大商会。

その全てが動いていた。

街の人々は立ち止まり、その光景を見つめる。


「ヴェルシェール家だ……。」

「あれだけの荷車……。」

「どこへ行くんだ?」

「まさか……。」


誰も答えを知らない。

長大なキャラバンは共和国の首都の城門を抜け、ゆっくりと国境への街道を進んでいく。


数日後。


イグニス共和国とザール王国を結ぶ国境。


共和国側の検問所。

兵士は差し出された通行許可証に目を落とし、思わず目を見開いた。


「これは……。」


そこに記されていた名は、この国で知らぬ者はいない。

兵士は恐る恐る豪奢な馬車へ歩み寄る。


「ヴェルシェール様……。」

「本当に……国外へ出られるのですか?」


馬車の窓が静かに開く。

ローランは、祖国の山並みをしばらく見つめていた。

やがて穏やかな声で答える。


「商人は利益を追うものだと、人は言う。」


短い沈黙。


「だが、本当に価値あるものは、利益ではない。」


兵士は黙って耳を傾ける。


「信用を失うばかりの国では、真っ当な商いなどはできぬ……。」


兵士はその言葉に対し、何か発言しようとして口を開けるが……何も言えなかった。


ローランは、そんな兵士を静かに見つめた。


「……これ以上、語ることはない」


それだけを告げると、彼はゆっくりと馬車の窓を閉じた。


御者が手綱を握り直す。

やがて馬車はゆっくりと動き出した。……キャラバンもそれに続く様に、少しづつ動き始める。

厚い窓越しに、祖国の山並みが遠ざかっていく。



その日、一人の男が祖国を後にした。


共和国最高評議会。六賢人(サージュ)。


その一人、ローラン・ヴェルシェール。


彼は祖国を捨てたのだった。


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アルブル金貨1枚=100,000円相当で換算してください。


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