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令嬢は嗤う  作者: バーン
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夢痕

古い資料室の扉が、ギィ……と、音を立てて閉まる。

アルメリーは、まだ頬の熱が引かないまま、

胸の前で両手をぎゅっと握りしめていた。


「……うぅ……どうしたらいいの……?」


アルベール様の言葉が、何度も何度も頭の中で反芻される。


『正式に私の側室として迎える』


真摯に告げてくる殿下の表情とその言葉を思い出すたび、心臓が跳ねる。

けれど同時に、怖さもある。

自分の身分、家のこと、魔法に関わる秘密、そして……アルベール様の気持ち。


「……考えなきゃ……でも……こんな大事なことなんて……あー!もう、頭がどうにかしちゃいそう!」


そんなふうに、資料室の机に突っ伏して「うーんうーん」と唸っていたところを、校舎を巡回中の教官に見つかり、


「アルメリー君!? まだ残っていたのですか!?もう校舎の施錠時間ですよ、早く寮に戻りなさい!」


と、軽く叱られながら、校舎から追い出されるアルメリーなのだった。




胸の前で両手を組み、帰りの道中も悩みながら、てくてくてく……と歩き続けたのだった。気が付くと、いつの間にか寮の自室の前まで帰って来ていた。


「……別の事考えてても、半年も通えば体が覚えてるものね……あははっ」


ちょっとそれが面白くて、何も考えず部屋の扉を開けると―――


そこには、アンが貼り付けたような笑顔を浮かべ、腕を組んで待っていた。その背後に、まるで炎がメラメラと燃え上がっているような雰囲気(オーラ)を纏っていた。


「お嬢様。帰宅が遅すぎます。明日も朝一から授業があるのでしょう?何度申し上げれば―――」

「アン、ちょっと待って!聞いて!今日、学院で……すごいことがあったの!」


アンの小言を遮るように、アルメリーは勢いよく言葉を放つ。

アンは一瞬だけ驚いたが、すぐにメイドらしい冷静さを取り戻し、


「……す・ご・い・こと、でございますか? まさか、そういって私をたばかるつもりでは―――」

「ちがうのっ!アルベール殿下が……その……わ、私を……”側室”に……って……」


言いながら、顔が真っ赤になる。

アンの目が、ぱちぱちと瞬き―――

次の瞬間。


「――ーお受けしましょう!!」

「えっ!?」

「これは大変な名誉です! いえ、名誉どころではありません!お嬢様の将来が、王家に直結するのですよ!?すぐに旦那様へお手紙を! いえ、私が書きます! 今すぐ!」


アンは机に向かい、紙とペン、インクを用意し、


『拝啓 父上様―――』と、口述しながら代筆して書き始めようとする。


「ちょ、ちょっと待ってアン!!」


アルメリーは慌ててアンの肩を掴む。


「なぜ、止めるのです!? これは男爵家の令嬢であるお嬢様にとって、千載一遇の―――!」

「だからって、そんな急に決められないわよ!リザベルトやティアネット、カロルにも相談してから……!」


アンは「むむむ……」と不満げに唇を尖らせる。


「……お嬢様。友人に相談するのは良いことですが、こういう話は“早い者勝ち”という側面もございます。殿下のお気持ちが変わらぬうちに―――」

「だからって、私の気持ちが追いついてないのよ……!」


その一言に、アンはようやくペンを置いた。


「……お嬢様。怖いのですか?」

「……うん。嬉しいけど……怖い。私なんかが、本当に……殿下の隣に立てるのかなって……」


アンはそっとアルメリーの手を包み込む。


「お嬢様は、立てます。ずっとお嬢様を見てきた私が保証します。ですが―――お嬢様が、“自分でそう思えるようになるまで”が……過程が、大事なのですね?私としては思うところが無いわけではありませんが……お嬢様がそう言われるのであれば、そうですね……。存分に悩み、ご友人方に相談なさって、しっかりと結論をお出しくださいませ」

「……ありがとう、アン」


アンは小さく微笑み、「ただし、相談が終わったらすぐに旦那様に報告を」と、いつもの調子に戻る。


アルメリーは苦笑しながら、


「はいはい……わかったわ。ふふっ」


と明るく返事をする。




                 ◇




10月17日 金曜日ヴァンドルディ


学院の中庭に朝日が差し込み、校舎へと続く石畳には、同じ制服の生徒達が三々五々と校舎の方へ向かっていく緩やかな流れができていた。


(……どうしよう……。なんて言おう……なんて切り出せば……? )


アルメリーは、その流れの中で、 昨日の出来事が頭から離れず、そんな逡巡を繰り返していると―――


少し先に、見慣れた三人の後ろ姿が見えた。


肩まで伸ばした銀色の髪が揺れるリザベルト。

凛とした姿勢のカロル。

軽やかに歩くティアネット。


次の瞬間には、足が動いていた。


「リザベルト! ティアネット! カロル!」


駆け寄ると、三人が振り返る。


「アルメリー……おはよう……」

「あ、アルメリー。あら?何、そのニヤケたその顔、何かいい事でもあった?」

「ほんとだ~。アルメリー様、朝から元気ですね~?」


口々に返ってくる声は、いつも通りで、変わらない。それだけで、少しだけ胸が軽くなる。


「お、おはよう……」


息を整えながら、アルメリーは言葉を探す。

アルメリーは一瞬、手を胸に当て躊躇したが、自分に言い聞かせるように頷き、口を開く―――。


「ねえ、週末なんだけど……」


三人の視線が、自然と集まる。


「王都の……繁華街へ行かない?」

「繁華街、いいですね!週末しか行けないですもんねー!」


ティアネットがうんうんと、楽しげに首を振る。


「いい、ね……!ちょうど……気分転換……した、かった……ところ、よ?」


リザベルトは頷き、


「ええ、私も問題ないわ」


カロルも静かに同意する。

ほとんど間を置かない、二つ返事だった。


「本当!?」


思わず声が弾む。

胸の奥に張りつめていたものが、ふっと緩む。


「ちょっとそこで、相談したいことがあって……」


少しだけ声を落として付け加える。

三人は互いに一瞬だけ視線を交わし、それからアルメリーへと向き直った。


「そういう……こと……なら、……なおさら……ね?」


リザベルトが微笑む。


「行く行く!甘いもの食べたいし!」


ティアネットは元気よく手を挙げる。


「そうね。ティアネットの言う通り、甘いものでも食べながら、ゆっくり話を聞くとしましょうか。重い話でも軽い話でも、場所は大事だからねー?」


カロルも肩をすくめて、アルメリーが何を話すのか、興味津々な様子で返す。


友人達の言葉に、余計な詮索はない。

ただ、“ここにいる”という確かな距離感だけがある。


「……ありがとう」


アルメリーは、小さく息を吐いた。


(よかった……)


アルメリーは胸を撫で下ろす。

まだ何も解決していない。けれど、話せる機会ができた。それだけで、足取りが少しだけ軽くなる。


「じゃあ、放課後に詳しく決めましょうか」

「うん!」


その返事で、アルメリーはさっきまでの迷いが少し軽くなった気がして、ほんの少しだけ前を向いていた。


やがて校舎が見えてくる。

もはや日課となっている、上階へ登る階段に三人は足を向ける。


「ティアネット、また後でね」

「は~い!」


ティアネットへ軽く手を振り、カロルとリザベルトと共に生徒会室へ向かうのだった。







生徒会室の扉を開けると、すでに数名の役員が集まっていた。


「おはようございます、アルメリー嬢」

「あ……おはようございます……♪」


(いつも通りに挨拶を返したつもりだったけど、ちょっと声が少しだけ弾んでしまったかもしれない ……えへへっ。)


”庶務”という役職に割り当てられている、自席につく。

机の上には、処理待ちの書類が整然と積まれている。早速、その書類を進めようと羽ペンを取る。


―――が。


(……“正式に私の側室として迎える”……)


びたり、と手が止まった。数秒。いや、もっと長かったかもしれない。


「……アルメリー嬢?」

「っ、は、はい!?」


名前を呼ばれて、肩が跳ねる。


「いえ、その……少し、ぼんやりされているようでしたので……」

「あ、すみません……すぐやります……!」


慌てて視線を落とし、書類に向き直る。

書類を分類し、問題なさそうな書類の署名欄にペン先を走らせる。


―――インクが滲んだ。


「あ……」


書き損じ。


深呼吸を一つ。


もう一度。


―――アルベール様の端正に整った顔が、脳裏に浮かぶ。


「……っ」


また、線が歪む。紙の上に、小さなため息が落ちた。

部屋の隅で、男子役員達が小声でやり取りしている。


「なあ、今日のアルメリー嬢……」

「うん、全然仕事になってないな」

「だよな。けどさ……」


一人が、ちらりと彼女の方を見る。


「なんか……ちょっと可愛くね?」

「分かる。なんていうか、その……。ほら、頬も、少し赤いし……」

「目も、なんかこう……ぼんやりしてるっていうか、憂いがあるっていうか……」

「たまにドキッとする様な溜息も、あるしな?あれが恋煩いってやつなのかな?」


男子役員達がこちらを見て、抑えた笑いをする。

しかし悪意は感じない。むしろ、かわいらしい小動物を慈しむ時のような、優しい表情を浮かべている。


「……あの、アルメリー嬢?」


別の男子役員が、少し困ったように声をかけてきた。


「はい……?」

「もしかして、体調が優れないのでは……?治療室へ行かれた方が―――」

「い、いえっ、大丈夫です……!」


食い気味に否定する。

自分でも、少し驚くほどの勢いだった。


「すみません、その……ちょっと今日……あっ……。け、今朝、受けようと思っている授業、研究棟の方なので……」


言葉を繋ぎながら、立ち上がる。

その拍子に椅子の脚が引きずる様な音を立てる。が、そんな事は気にせず、


「移動に時間かかるので、そろそろ行きますね。失礼します~!」


……ほとんど逃げるように、荷物を持って扉へ向かう。


「え、あ、はい……お気をつけてー。」


背後から声が掛かるが、振り返る余裕はなかった。


扉を閉め、小走りに廊下を走り、階段の方へ進み角を曲がる。生徒会室からの死角に入ると、即座にその壁に背を付ける。向こうから私の姿が見えなくなったと思えた瞬間。


「はぁ~~~~~~っ。」


長い息がこぼれる。朝の廊下の空気は少し冷たくて、ようやく頭が覚醒してくるような感じがした。


(……なにやってるの、私……)


額に手を当てる。生徒会室での自身の行動を振り返る。


(書類仕事はミスが多くて、受け答えも絶対、変に思われた……よね……)


何だか考えが、また、まとまらなくなってきた。思考を切り替える為、頭を振って歩き出す。


しかし―――


(……でも……)


と、思考が……また、あの資料室の場面に引き戻されてゆく。


『……どう思う?』


あの声が、離れない。


(……どう思う、って……)


廊下の窓から差し込む光が、やけに眩しい。

アルメリーは目を細めた。

胸の奥で、何かが静かに揺れている。

甘さとも、不安ともつかない()()は、まだ名前を持っていなかった。




                 ◇




階段を降りている最中も、胸の奥のざわめきは収まらないままだった。


(……昨日の殿下の声が……まだ耳に残ってる感じがする……。だめよ……落ち着いて、私。研究棟へ行ったら、授業に集中するのよ…… 。)


足取りは軽い。だけど、どこかふわふわしている感じもある。


冷静になる様に自分に言い聞かせながら、アルメリーは研究棟へと足を進めて行く。


中央校舎から少し離れた場所に建っている研究棟。そこは灰白色の石材で築かれた重厚な建物で、その高さは三階建ての建物に匹敵する……どころか、 実際には 四階建てに匹敵するほどの巨大な箱型構造をしている。正面から見れば横幅も広く、 他の校舎よりも明らかに分厚い。

外壁は淡い灰色の石材で組まれている。この石材は魔法の衝撃に耐えるために加工された特殊な石材らしく、石材の内部には当たった魔力を分散させる効果を持つ鉱石が練り込まれていると、入学当初のころに教官が解説していた。その為、この石材は光の角度によっては表面が微かに青白く光る。

また、建物の屋根の四隅には、 魔力を安定させるための魔法陣が刻まれた小塔が建つ。

建物全体には、今の王都の建物ではあまり見ない古い建築様式を思わせる意匠があちこちにあり、学院創設当時から幾度も増改築を繰り返してきた歴史が窺えた。



建物内に入り、今日の授業が行われる研究室に向かう。その室内はどこか無機質で、薬品と乾燥させた薬草の匂いが混ざっている。


頭を冷やすには、ちょうどいいはずなのに―――


(……側室に……)


だめだ。すぐ例の事が、頭の中でリフレインされる。

軽く頭をふって実験室の扉を開けると、既に数人の生徒が準備を始めていた。教官から指示されたのか、奥の試料室から次々と、教卓台の上に乾燥させた各種の薬草、瓶詰めの鉱粉、琥珀色や翡翠色、瑠璃色 などの色々な色の液体が入った瓶を並べて行く。中央には、班ごとに使う調合台が並んでいる。


「ア、アルメリー……!きゅ、急に……出ていくから……び、びっくりした……の……!」


リザベルトが胸を押さえて言う。


「ほんとだよ。心配したんだから!」


カロルも頬を少し膨らませ、眉を寄せる。


すでにリザベルトとカロルが席を確保しており、いつの間にかティアネットも合流していた。


アルメリーは一瞬だけ視線を泳がせてから、軽く笑った。


「あはは……ごめんね。ちょっと急いでて……」


曖昧に濁す。自分でも分かるくらい、ふわっとした返事だった。

ティアネットは何も言わないが、じっとこちらの様子を見ている。


(……あとで、ちゃんと話さないと……)


そう思ったとき―――


「あ!アルメリー様……!?」


聞き慣れた声がした。

振り向くと、同じ生徒会のマルストンが、今日の授業で使う分厚い学導書きょうかしょを抱えて立っていた。


「マルちゃん!」


ぱっと彼の表情が明るくなる。


「今回、同じ授業とってたんだねー?」


マルストンは少し照れながら微笑む。


「はい。よかったら……今日は、一緒に班を組みませんか?」


カロルは、「はぁっ!?」っと上擦った声を上げ、何だか引きつったような、頭に疑問符の”?”をつけたような、なんとも言えない微妙な表情をしている。


「もちろん!みんなもいい?」


リザベルトたち全員が頷くと、その輪の中へ彼を加える。


「よろしくね、マルちゃん!」


そして、彼を入れた五人で班を作る。


授業開始の鐘が鳴る。


教員が前に立ち、淡々と説明を始めた。


「本日は『初級調合実習』を行います。既存のルセット(レシピ)に拘らず、研究棟に保管されてある備蓄素材を用いて、簡易な応用調合を行いなさい。失敗は成功の母とも言います。なので失敗すること自体は構いませんが―――爆発は例外。減点対象です」


数人が小さく息を呑む。


「班ごとにテーム(テーマ)を決め、試作を行うこと。」


教官の指示に、ざわり…と空気が動いた。


「じゃあ、ウチの班は何を作る?」


カロルが楽しそうに身を乗り出す。


その問いに、アルメリーは少しだけ迷ってから言った。


「携行できる保存食……みたいなのはどう?」

「保存食?」

「うん。“携帯できて、栄養があって、保存もきく食べ物”って作れないかな?」


頭の中に浮かぶのは、前世で好んで食べていた、()()栄養補助食品。


「軽くて、嵩張らなくて……遠出とか、緊急時にも楽に持っていけるような……」


そう語ったアルメリーだったが、頭の中では……実技試験の時に雨宿りしたあの洞窟で、食料集めに苦労した記憶が蘇っていた……。


「新しい保存食ですか。面白い発想ですね!ウチの商会でも騎士団向けの携行食も扱っておりまして。定番の、樽詰め(サール・)(ド・)塩漬け肉(ヴィアンド)に、硬焼き(パン・)パン(ドゥール)、それから旅人(フロマージュ・)(ド・)ーズ(ヴォワイヤージュ) 。あ、乾燥(フェーヴ)(・セー)なんかもあります。」

「どれも遠征で長期間、腐らない・品質も安定してる、と評判なんですよ!傭兵団向けには、もう少し安価な品もあります。粥粉に黒パン、干し魚……まあ、腹に入れば十分という方々ですからね。それでも、ウチの品は“外れがない”と、王都でも評判でして……」


(いつのまにか自分の商会の商品アピールタイムに……あはは(汗)。こうなると熱弁をふるうの、流石、大商人の子よね……)


「騎士団向けの塩漬け肉は樽詰めですしね?あれは個人で持つには重すぎますから、遠征には荷馬車で運ぶのが前提です。その点、旅人チーズや硬焼きパンは軽くて丈夫。 騎士様方も腰袋に一つ二つは必ず入れておられますよ。なるほど……軽くて、嵩張らない携行食ですか。それはいい着眼点ですね!」

「……そうだ、 森などで取れる希少素材を乾燥させたモノを少量混ぜたりすれば、さらに保存性も上がるかもしれませんね!? 」


マルストンが興味深そうに頷き、感心したようにメモを取る。


「いいねそれ!」


カロルが笑う。


「でしょでしょ!? 甘いのとか、チー……じゃなかった、フロマージュ味とか……!形はもちろん、長方形よね!?それが1つの(つつみ)に2個入ってるの!」

「……や、やって……みましょう!」


ティアネットが何か思い出したのか、一人興奮して盛り上がっている。

リザベルトも同意し、班で作るモノの方向性は決まった。


教卓台の上から素材を選び、自分達の班の調合台へ慎重に持ってきて、調合が始まる。用意した材料は以下の通り。


乾燥穀粉。

糖蜜。

魔物や薬草からの抽出液。


試作が始まる。

……素材を刻む。……魔力を流す。……混ぜる。


……のだが。


(アルベール様……今、何してるのかな…… ?)


ぼーっ……。


「アルメリー、そ、それ……ま、混ぜすぎ……!」


リザベルトが慌てて止める。


「あっ……ご、ごめん!これ分量、多すぎたね……(^▽^;)」

「アルメリー、大丈夫?さっきから手元が危なっかしいよ……」


カロルも心配そうにしている。


「だ、大丈夫よ!なんでもないから!」

(※全然なんでもなくないのである)


マルストンも眉をひそめる。


「アルメリー様……今日は少し様子が……」

「へ、平気平気!いけるいける!」


……と言いながら、魔力の流し方を間違えて、調合中のモノが“ぶくぶくっ……”と泡を吹いて膨らんでいく。


「ひゃっ……!」


アルメリーは反射的に一歩下がる。


―――ぼふっ。


小さな音とともに、黒ずんだ塊がゆるく崩れた。

煙は出なかったので、爆発ではない。


「……セーフ、セーフ!!」


ティアネットが少し腰を落とし、両手を2度3度、閉じたり広げたりして、某スポーツの審判のような仕草をする。


「そこの班の人!何を激しく動いているの!周りの調合中の人に当たったら危険でしょう!?授業中ですよ!もっと集中しなさい!!」


教官の一喝で、アルメリー達は肩をびくっと震わせる。実験室が一瞬静まり返る。思わず自分達の班が目立ってしまったみたいだった。


「「「す、すみません……!」」」


(やばい……完全に集中できてないわ……)


一品毎に調合する担当者を順番に変え、調合する素材や分量を変更し、思いつきで新しい素材を教卓台から持ってきては、調合を試して試作品を幾つか作ってゆく……。





やがて、授業終了の予鈴の鐘が鳴る。


私達は机の上に―――幾つかの試作品の中から、教官に提出するモノを三品、選び出した。


・香り()()は美味しそうな、焦げた謎の固形物。

・形()()は記憶にあるものにかなり近い(持とうとすると、柔らか過ぎて形が崩れてしまう)奇妙な味のする栄養ブロックもどき。

()()()()()()()感じの、甘いのかしょっぱいのか分からない、ボロボロと形の崩れ細かいダマ状になった、固形になり損ねたモノ。


それらを見て、マルストンが苦笑する。


「今回は、うまくいきませんでしたね。はは……」


そう言って慰めてくれた彼だが、彼自身は何か手応えがあった様で、メモが何枚にも及んでいた。


「ご、ごめんね……私も実習中、ぼーっとしてた事が多かったから……」


カロルが肩をぽんと叩く。


「次はきっとできるよ。ね?」

「私、この作ったものを教官に提出してきますね~!」


マルストンが棚から出してくれた錫製のプラトー(トレイ)に、ティアネットが試作品達を載せ、「教官~!ウチの班の調合試作品で~す!」と、教官の元へ元気に運んでいく。


リザベルトも優しく微笑む。


「ア、アルメリー……きょ、今日は……ちょっと、変……だった……。何か……あった?」


アルメリーは、胸の奥がきゅっと痛む。


(……調合中も、アルベール様のことで頭の中がすぐいっぱいになって……授業、全然集中できなかった……)


片付けをしながら、アルメリーは小さく息を吐いた。


(……だめだ、このままじゃ……)


結局、ふわふわした感じが残ったまま、残念な結果と共に、授業は終わったのだった。




                 ◇




昼の鐘が鳴ると同時に、学院の大食堂は一気に息を吹き返す。

高い天井に吊られた燭台が光を散らし、長卓が規則正しく並び、厨房からは焼きたてのパンの香り、肉料理の湯気、スープに浮かぶ香草の匂いが漂ってくる。


下級生の昼休みは、上級生の昼休みが終わった後の時間帯。

すでに上級生達が昼食を終えて退席した後で、広い大食堂には、まだ十分に席が空いている。

ざわざわとした談笑、椅子のきしむ音、食器が触れ合う軽い音が混ざり合う。学院の日常がそこにあった。


その中で、ひときわ目を引く生徒がいる。青い髪を整え、同じ色の瞳は涼やかで知的な光を宿している。

制服の襟には、生徒会役員の証である金色のアンシーニュ(バッジ)。そして、黒革の手袋―――。彼の象徴とも言える装い。


セドリック・フェール・エミリアン。


ザール王国宰相の息子であり、生徒会の書記を務める下級生だ。彼は窓際の席で静かに昼食をとっていた。姿勢は端正で、食事の所作も無駄がない。

周囲の女子生徒がちらちらと視線を送っているが、本人はまるで気づいていないかのように、淡々とポタージュを口に運んでいた。


キュイエール(スプーン)を置いた瞬間、セドリックの眉がわずかに動く。


(……そういえば)


今朝の生徒会室の光景が脳裏に蘇る。


アルメリーの、あの様子。

いつもより頬が赤く、書類を前にしても上の空で、溜息ばかりついていた。


(……明らかに様子がおかしかったな)


彼は冷静な性格だが、観察眼は鋭い。


(あれは、体調不良ではないな……)


ポタージュを飲む手が止まる。


(まさか……会長―――いや、アルベール殿下が、まさか…… )


内心で、短く舌打ちに似た感覚。


(……もう告げたのか!?)


彼の性格は理解しているつもりだった。だが、もう少し、私と話を詰めてから動くと思っていた。いや……むしろ、決めたら動く。どうやら私の考えが甘かったようだ。


(だとすれば……今朝のアルメリー嬢の、あの反応は説明がつく)


フルシェット(フォーク)を再び手に取る。


(厄介だな……)


小さく息を吐く。


(本人は“隠せている”つもりだろうが、あれでは逆に目立つ)


生徒会という場であれば、なおさらだ。気づく者は、気づく。


(放置すれば、余計な憶測を呼ぶ)


そこまで考えて―――結論は、すぐに出た。


(……確認が必要だな)


アルメリー本人に聞くのは違う。

あの状態では、まともな答えは返ってこない。……となれば。


(聞くべきは一人。)


クートー(ナイフ)とフルシェット(フォーク)を揃え、静かに皿の脇へ置く。

食事は、ほぼ終わっていた。


(……放課後だな)


生徒会の業務が終わった後。人目の少ない場所に連れ出す。そして―――


(アルベールを問いただす)


そこに躊躇はない。必要な確認だ。

ただ、それだけのこと。


セドリックは、食器を載せた木製のプラトー(トレイ)を持ち、席を立つ。椅子の脚は、ほとんど音を立てなかった。


周囲の喧騒は相変わらず続いている。 笑い声、談笑、食器の音。その中を、彼は一切の迷いなく歩いていく。青い瞳は、すでに“次”を見据えていた。




                 ◇




生徒会室の空気が、ゆっくりとほどけていく。

書類を束ねる音、椅子を引く音、軽い挨拶。 一日の終わりにしては、どこか弛緩しきらない静けさが残っていた。


役員達はそれぞれ帰り支度を始めていた。

ランセリアも荷物をまとめると、


「それでは会長、お先に失礼いたします。」


と優雅に一礼して退室する。


扉が閉まるのを確認した瞬間―――


「会長」


低く抑えた声が、生徒会室の空気を引き締めた。

セドリックの青い瞳が、真っ直ぐアルベールを射抜く。


「このあと、ちょっと話がある。帰り支度をしたら……“この前の場所”へ。いいか?」


言葉は短い。だが、拒否の余地を与えない響きがある。

アルベールは一瞬だけ目を細めたが、やがて頷いた。


「……ああ。構わない」


その声は落ち着いていたが、どこか覚悟を含んでいる。

アルベールは残っている役員達に向き直り、いつもの調子で声をかける。


「各自、仕事が終わり次第、遅くならないうちに寮へ帰るように」


穏やかな声音。

だが、その内側にあるものを知る者は少ない。 手早く帰り支度を整え、彼は立ち上がる。


すでに準備を終えていたセドリックが、無言で扉の前に立って待っている。

二人は並んで、生徒会室を後にした。




夕暮れの光が差し込む、中央校舎の裏手にある静かな回廊。

ここは、昨日アルベールとセドリックが密談した場所。

殆どの生徒はもう帰途についており、この時間は滅多に生徒が通らない。

風の音だけが響く。


セドリックは周囲を一瞥する。人影はない。気配もない。

確認後、一呼吸分空け、セドリックが口を開く。


「……ここでいい」


二人は歩を止めた。

セドリックの青い瞳が、まっすぐアルベールを射抜いた。


「……急いで彼女に話すなんて、お前らしくない」


声には、明らかな怒りが含まれていた。


「彼女に伝えるのは、もう少し私達で話を詰めてからだと思っていたのだが?」


アルベールは、少しだけ視線を逸らし、バツの悪そうな表情を浮かべた。


「……それは、わかっていた」

「なら、……なぜだ?」


セドリックの問いは鋭い。

アルベールは小さく息を吐き、昨日の出来事を思い返すように語り始めた。


「昨日、生徒会室で……テオドルフがアルメリー嬢をからかっただろう」

「……ああ。それがどうした?」


セドリックは眉をひそめる。

アルベールは続けた。


「その時の……マルストンとヴィルノーの反応を見ただろう?」


セドリックの目がわずかに細くなる。


「……ああ。確かに、あれは……」

「二人とも、彼女に好意を寄せている。特にヴィルノーは……地下下水道での戦いで、あの魔術士―――アデラースが放った魔法、『 (ロシュ・)(マシーヴ)(=カノン)』を真正面から受けた。魔法の発動を……彼女の詠唱を守る為に。常識的に考えて……気合と根性だけで、なんとかなるものなのか、()()は!?……正に、”命懸け”だっただろう。」


アルベールの声に、わずかな嫉妬と焦りが混じる。


「周りが“ヴィルノーはアルメリー嬢のことが好きなんじゃないか”と茶化した時…… 本人も否定しなかった。むしろ……嬉しそうにしていた」


その声には静かな確信があった。

セドリックは腕を組み、アルベールの話を静かに聞いていた。


回廊に、風が吹き抜ける。


「……だから、焦ったのか」


アルベールは、答えない。だが、その沈黙がすべてだった。


「ヴィルノーも、マルストンも―――彼女に好意を持っている事を改めて認識した。……その思い自体は……私も、尊いとは思う。」


アルベールの視線が鋭くなる。


「だが……私は、彼らでは彼女を守れないと思った。アルメリー嬢の魔法(ちから)は……あまりにも危険だ。彼女を守れるのは……この国で最も安全な王宮だけだ。……ならば、私が庇護するのが最善だ」


理屈としては整っている。


そして、ほんの少しだけ苦笑する。


「……ああ、確かに……今思えば、私は()()()のだな?気づけば、メモを書いて……彼女を資料室に呼び出していた」


セドリックは深く息を吐いた。


「……なるほどな。つまり、二人との関係が進んでほしくない……ならば、()()、と考え……私と擦り合わせもせずに先走ったわけだ」

「ああ、そうか……私も、私自身を……完全には制御出来ていなかったらしい、という事か……。フフ……。」


夕光が、二人の間に長い影を落とす。


セドリックはしばらく黙っていたが、

やがて、ゆっくりと口を開いた。


「……会長。あなたの合理性は、理解できる。あなたが彼女を守りたいと思う気持ちも、理解はする。だが―――」


青い瞳が鋭く光る。


「“焦り”で動くのは、王族として最も危険だ」


アルベールは真剣にその言葉を受け止める。

セドリックは続けた。


「済んでしまったことは、もう仕方がない、が……。次からは、必ず私にも相談してくれ。いいな?」


アルベールは、少しだけ表情を緩めた。


「……わかった。すまなかった、セドリック」

「まあ、分かってくれたのならば、それで良い。」


セドリックは肩の力を抜き、ようやく怒気を収めた。


夕暮れの光が、石壁を赤く染めている。静かな回廊に吹き抜ける風だけが、二人の間の沈黙を揺らしていた。


セドリックは腕を組んだまま、アルベールを見据える。


「それで―――アルメリー嬢の反応は、その時点では()()だったのだ?今朝の彼女の態度だけでは判断しづらい。この際、洗いざらい詳しく教えてくれ」


簡単には逃がさない、と言わんばかりの口調だった。

アルベールは一瞬だけ目を伏せ、小さく頷く。


「……ああ、わかった」


目を閉じ、昨日の資料室を思い返す。


古びた机。

薄暗い灯り。

俯いたまま、小さく肩を震わせていた少女。


彼は資料室での出来事を、ゆっくりと語り始める。


「彼女は……、『大事な話だから、返事は少し待って欲しい』……と、言っていた。」


セドリックは静かに頷き、さらに踏み込んだ質問を投げる。


「その時の彼女の様子は?態度、仕草……覚えている限りでいい。細かいところまで教えてくれ」


アルベールは少し考え込み、慎重に言葉を選んだ。


「返答は……震えるような小さな声だった、と思う。」


夕風が、二人の間を抜ける。


「……俯いたままだったから、顔はよく見えなかったが……」


記憶を探るように、視線が少し上へ向く。


「胸に手を当てて、呼吸を整えていたようだったな。暗かったので確信はないが……耳も赤かった気がする」


セドリックの眉がわずかに動く。


(……なるほど そういう事か。)


今朝の様子が、綺麗に繋がる。

ぼんやりした視線に、落ち着かない態度。妙に弾んで柔らかかった受け答え。


そして―――頬の赤み。


(……これはかなり……いや、確実に脈あり、だな)


少なくとも、嫌悪や拒絶ではない。むしろ逆だ。

アルメリーは、あの言葉を真正面から受け止めてしまっている。

だからこそ、あれほど揺れていた。


彼は小さく息を吐き、短く告げた。


「……理解した」


その声音には、先ほどまでの棘が少しだけ薄れている。


「アルメリー嬢との件については、一応納得しておこう」


アルベールの肩から、ほんの僅かに力が抜けた。

セドリックは話題を切り替える。


「ただし、もう一つ、確認しておくべきことがある」


セドリックの目が、再び鋭くなる。


「―――ランセリア様には、いつ伝えるつもりだ?」


その瞬間、アルベールの表情がわずかに曇った。


「……それは……」


珍しく歯切れが悪い。視線が微妙に宙を漂う。

アルベールは一つ咳払いをすると、口を開く。


「アルメリーの返答を待ってからでも、いいのではないかと思ってな」

「……は?」

「私は”急かすつもりはない”と彼女に伝えている。だから……返答がいつになるか分からないが……」


声がどんどん小さくなってゆく。


「……もし……彼女が否定したなら……ランセリアに伝える必要もない話になるだろう?」


その瞬間―――


「……お前なぁ!」


セドリックの声が回廊に響いた!


友人としての感情が先に立ち、敬称も吹き飛ぶ。


「アルメリー嬢の返答を待っている間に、他の誰かから妙な噂でもランセリア様の耳に入ってみろ!そうなってからでは遅いんだぞ!」


鋭く指を突きつける!


「お前たちの関係が拗れる可能性だってあるんだ。分かっているのか?」


セドリックはアルベールの肩を力強くつかみ、揺らす。

彼はさらに続ける。


「いいか!?ランセリア様には―――彼女には、できるだけ早く話を通しておけ! 」


回廊の空気がびりつく。


アルベールは押し黙り、やがて観念したように小さく頷いた。


「……わ、わかった……。善処しよう」

「“善処”じゃなくて、やれ」


即座に返したセドリックに対し、アルベールは苦笑していた。

セドリックはそんな友人を見ながら、内心で深く息を吐く。


即断即決できる判断力。

政治感覚。

魔法の才。

幼少時から修めた剣技の実力に裏打ちされた自信・勇気。

戦闘での統率・指揮能力。


戦時であれば全て『王』として必要な才覚だ。そのどれを取っても、アルベールは飛び抜けて優秀だと思う。


―――だが、今は平穏な時代だ。


平時の王に求められるのは、剣でも魔法でもない。

宮廷の思惑を読み、誰も敵に回さずに事を収める調整力。

感情を表に出さず、静かに人心を掌握する器量。

十年先、二十年先を見据えた、揺るがぬ視野。


父上である、現国王―――アンセーヌ・オルタンス・ザール・ヴァレッド陛下が体現する、あの“静かなる老獪さ”を、少しでも見習ってくれれば良いのだが。


(まったく……こいつは他の事は優秀なのに、どうして恋愛絡みになると、ここまで凡庸になるんだ…… )


誠実で実直な所は、好感が持てる所ではある……が。隠し方も雑。段取りも甘い。感情が先走る。……先ほどの焦りなど、その最たるものだ。


恋愛は、王族にとっては政治そのものだというのに。 感情で動けば、周囲は振り回され、国政にまで影響が出る。 その危うさを、こいつはまだ理解しきれていない。


そう思うと、(あき)れのような、何とも言えない感情が込み上げてくる。


―――だが。


セドリックはふっと口元を緩めた。


(まぁ、それが……友人としては面白いところでもあるのだが。フフ……)


戦場なら百人力。 だが、父から聞く宮廷という名の泥沼には、一癖もふた癖もある貴族達が集う。その中では……”真っ直ぐな性格”は、命取りになる……と思う。

それでも―――その真っ直ぐさが、こいつの魅力でもあるのだ。


夕風が、青い髪を揺らす。


(まぁ、私も……人の事は言えたものではない、か……)


青い瞳に、わずかな愉快さが宿り、小さく笑う。


風が木の葉を数枚巻き上げ、通り抜ける。夕暮れの回廊に二人の影が長く伸びていた。




                 ◇




10月18日 土曜日サムディ


生徒会室には、朝の光が静かに差し込んでいた。

アルベールは、机に書類を置きながら、ランセリアの横顔をちらりと伺う。


(……いつ、彼女に言うべきか……。言わねばならん……のだが……。さすがに、生徒会室の真ん中で“側室”の話など、できるわけがない……。)


だが、昨日、セドリックに強く叱られた言葉がまだ耳に残っている。


『いいか!?ランセリア様には―――彼女には、できるだけ早く話を通しておけ!』


アルベールは、ランセリアの様子を探りながら、どのタイミングで呼び出すべきかを考えてはいたが、行動には移せないでいた。




やがて時間の経過と共に、生徒会室に役員が増えてくる。それぞれが挨拶を交わし、自分の席につく。アルメリーもその中にいた。彼女も自分の席につく。昨日と同じようにぼーっとしてる事も多いが、流石に少し落ち着いたのか、昨日よりはその”ぼーっとしている”時間も短くはなっていた。


ランセリアは書類を整えながら、視線だけでアルメリーの動きを追っていた。


(……また、殿下の方を見ているのね)


その胸の奥が、じくり、と熱を帯びる。


嫉妬―――。


そう、この感情に名前を付けるとしたら、それは「嫉妬」というのが正しいのでしょうね。


(私は、公爵家の娘であり、皇太子妃になるべく、王妃様から直接教育を受けている身。感情に振り回されるなど……あってはならない)


そう言い聞かせる。

だが、昨日からのアルメリーの様子は、どう見ても“恋する少女”そのものだった。


そして―――殿下の視線も、度々(たびたび)……彼女に向いている。


(……どうして。どうして、あの子なの!?)


胸の奥が、静かに、しかし確実に軋む。

その痛みを押し殺すように、ランセリアは淡々と仕事を続けた。


しかし―――彼女の心の狂いだした歯車が、すでにその思考・行動を歪め出していた。彼女は与えられた仕事をこなしつつ、思考は……すでに“別の動き”をし始めていた。






生徒会室、午後ーー。


昼の光が机の上に淡く広がり、紙の白さを際立たせていた。

今週の仕事は大体金曜日までに終わらせていたので、今日は仕事もそれほど無い。

アルメリーは午前の授業に出席して単位を取得し、友人とお昼を大食堂で食べてから、いつも通り、生徒会に寄る。

午後からは授業がないので、残っている仕事を早く終わらせられれば、それだけ自由時間が増える。今日もどこか少しふわふわとした状態で落ち着かない彼女も、室内に入った瞬間に違和感を覚え、鞄を抱えたまま立ちつくしていた。


ランセリアは、そんな彼女を横目で捉えた。表情は変わらない。

だが、その沈黙には昨日までとは違う、確かな温度差があった。


朝来た時には、いつもの場所に確かにあった自分の席が、今は見当たらないのだ。

アルメリーがキョロキョロと自分の席を探していると、ランセリアから声が掛かった。


「……アルメリー、そこで何をしているの?」

「あ、ランセリア様すみません。いつもの所に自分の席が無いので……」

「あなたの席ね?今日からあちらに移動させてもらったわ」


示されたのは、アルベールの席から最も遠い、窓際の端。

「え……? あ、あの……理由は……。」

「昨日からあなた、集中できていないようだったから。静かな場所の方が、()()()()()()になるでしょう?」


その声は冷たくもなく、優しくもない。

ただ事務的で、反論の余地を与えない。


(……確かに、言われてみればその通りだわ。仕事に集中できてない自分の落ち度よね。これは、自分の態度が悪かったと思う。アルベール様のお話はかなり衝撃的だったけど、ランセリア様を始め、みんなにも私の態度を見られてるし、生徒会での仕事に向かう意識や態度を改めよう。)


ランセリア様に言われた場所へ移動し、そこに確かにあった机に着席する。手に抱えた鞄を、静かに床に置くと、仕事に手をつけ始めるのだった。




                 ◇




土曜の昼下がり。午前授業を終え、生徒会の仕事も一段落させ、それぞれが暮らす寮の寮長に届け出をした四人は、学院の門の前で集合し、その少し先にある乗合馬車の駅で馬車に乗り込み、王都の繁華街へ向かう。


王都の繁華街は、平日とは違う熱を持っている。

学院の授業が午前で終わる日ともなれば、なおさらだった。

石畳の大通りには人の流れが絶えず、露店からは香辛料の匂い、焼き菓子の甘い香りが漂ってくる。


大道芸人の声。

商人の呼び込み。

馬車の車輪の音。


繁華街の大通りに軒を連ねる店の、呼び込みの声が混ざり合う。そんな喧騒の中を、アルメリーたちは四人並んで歩いていた。


「結構、人多いね〜!」


カロルが目を輝かせながら、楽しそうに辺りを見回す。


「土曜の……午後は……いつも、こんな……感じ……よね……」


リザベルトが微笑む。


「休日ですもの。皆、羽を伸ばしたいのでしょうね」


と、私が言うと、すかさずカロルが返す。


「まずは、座れる場所を確保した方がいいわよね?」


その意見に全員が頷くと、ティアネットがキョロキョロと辺りを見回す。すると、何かを見つけたのか、ティアネットが指を差して嬉しそうに声を上げる。


「あっ、あそこ!“月影亭”!ずっと気になってたんだよね!」


その店は、繁華街の一角にあった。石造りの外壁に月をイメージした意匠の紋章が掲げられた喫茶店。

前世ではショッピングモールなどでは良く見かけたけど、この中世的な世界ではまだ珍しい、“茶葉のブレンド”を売りにした人気店だ。

扉を開けると、焙煎した茶葉の香りと、花の香りがふわりと混ざり合い、鼻腔をくすぐる。

店内は落ち着いた薄明かりに包まれていた。磨かれた木のテーブルが並び、壁には月と星を模した銀装飾が洒落た配置で並べられ、店内に柔らかな光の気配を添えていた。


昼時を少し過ぎていたこともあり、幸い席には余裕があった。

四人は窓際のテーブル席に座り、飲み物を注文した。


リザベルトは、深紅のベリーティーと、皆の為に焼き菓子の詰め合わせをいくつか。

ティアネットは、蜂蜜入りミルクティー。

カロルは、メニューに、”月光を思わせる白い花の香り”との言葉が添えられていた、フルール・ド・セレーヌティー。

アルメリーは、緊張してたのか、ここでもボーっとしてたのか、注文を取りに来た給仕に対し、メニューの一覧から適当に指差したモノを頼んだのだった。


注文を終え、一息ついたところで―――カロルが、にやりと笑った。


「……さて、と。」


その目が、完全に獲物をマークしたモノになる。


「アルメリーの“相談したいこと”っていうのも気になるけどさー?」


アルメリーの方へ身を乗り出す。


「……その前に、研究棟での“マルちゃん”呼びについて聞きたいんだけど?」

「っ!?」


アルメリーの肩がびくりと跳ねた。


「えっ、そ、そこ!?」

「だって、気になるでしょ?」


カロルは即答した。


「同じ生徒会の役員に私達はなったけどさー。()()()()()()、先任の会計役職付きの人を、“マルちゃん”だよ? 距離感どうなってるの!?」

「わ、私も……前から……気に、なって……いました……」


リザベルトも、紅茶のカップを手にしながら穏やかに続ける。


「ただ……。何と、なく……聞く、機会を……逃して……いただけ……で……」


ティアネットは静かに視線を向ける。


「私もー、あの呼び方、気になってたかもー!?」


短いけど、“説明しろ”という圧は十分だった。

アルメリーは観念したように、小さく肩を落とす。


「……そんな大した話じゃないわよ?」


だが三人とも、完全に“聞く態勢”だった。”逃げられない”と悟ったアルメリーは観念して口を開く。


「えっと……最初は、精霊祭の実行委員の時だったの」


アルメリーは少し照れくさそうに話し始める。


「私、委員会では連絡係だったから、生徒会に予算申請とか、資材の相談とかをしに行くことが多くて……」

「ああ……なるほど……。」


リザベルトが頷く。

王立魔法学院の精霊祭は規模が大きい。(王都にこられそうな)余裕のある生徒の家族も招待され、かなり盛大に行われた行事だった。実行委員と生徒会の接触は避けられない。


「最初は普通に“マルストン”って名前で呼んでたんだけど……」


アルメリーは少し笑った。


「何回も顔合わせてるうちに、向こうが『そんなに固くしなくてもいいですよ』って、言ってくれて」

「へぇー?」


カロルの目が輝く。

完全に面白がっている。


「それで?」

「それで……その……」


アルメリーは視線を逸らした。


「“マルストン”って長いなって思って……」

「思って?」

「……“マルちゃん”って呼ぶ事にしたの」


一瞬。

卓の空気が止まった。

次の瞬間。


「ふふっ」


最初に吹き出したのはリザベルトだった。


「なるほど。……確かに……あなた、らしい……わ」

「いや待って、それ受け入れたの!? あの生徒会会計が!?」


カロルが笑いながら机を叩く。

アルメリーは慌てて手を振った。


「ち、違うの! 言ってみたら、彼も嫌がってなかったから……。見た目的にも、夏休み前までは、ちょっとぽっちゃりしてたでしょ?ちゃん付けのほうがなんかしっくりくる感じだったのよ! 」」

「……あー、たしかに。なんか分かる気がするー」


ティアネットが真顔で返す。


「で、何回か呼んでたら……その……」

「その呼び方が定着した、と?」

「……うん」


アルメリーは小さく頷いた。


「それからは普通に話すようになって……精霊祭が終わったあとも、廊下とかで会ったら話したりしてる感じ」

「へぇー……」


カロルが頬杖をつきながら、にやにやしている。


「じゃあ結構長い付き合いなんだ?」

「そうかも?」


リザベルトも納得したように頷く。


「……でも……休み明け、以降……豊満……寄りの体型……が、ちょっと……痩せた?……よね?」

「確かに……!なんか前より、ちょっとシュッとしてましたね!?」


ティアネットは紅茶を飲みながら言った。


「つまり、“生徒会の先輩”というより、“祭り仲間”に近い?」

「あっ、そうかも!」


アルメリーの顔がぱっと明るくなる。


「精霊祭の時、すごく助けてもらったし……」

「それってもしかして、実行委員の申請の書類が、締め切り日に間に合わなくて、助けてもらった事……なんてのもあるんじゃない?」


カロルが茶化す。


「うぅ……。なんで分かるのよ……」


アルメリーが、存在しない小さな白旗を振る手振りをする。

その反応に、三人が笑った。


給仕が運んできた菓子皿から、甘い香りが立ちのぼる。

窓の外では、人々の喧騒が絶えず流れている。

けれど、この卓だけは、どこか穏やかだった。

カロルはそんな空気の中で、静かにアルメリーを見る。


(……自然に笑っている)


研究棟での不安定さが、今は少し薄れていた。


(少なくとも、この場には彼女を落ち着かせる力があるのね。よかった。)


「そうそう!話変わるけどさー。今日の生徒会で、私、びっくりしたのよ」


と、カロルがちょっと大袈裟な仕草と共に口を開く。


「え、何かあったんですか!?」


ティアネットが、興味深々な感じで話に食いついてくる。


「朝は何ともなかったのに、昼休みの後に生徒会室に行ったら、アルメリーの席が窓際の方に変えられてて……」

「私……も、びっくり……した、わ」

「あはははは……」


アルメリーは困ったように笑う。


「私も、浮かれてて仕事が手に付かなかったし、……あれは仕方ないわ。あ、でも、あそこは静かだし、集中出来そうで、今の私にはピッタリかも……あはは……。」


カロルは、紅茶の表面に映る揺らぎを見つめた。


「浮かれてた原因、それ、何か教えなさいよ〜。うりうり」


そう言ってカロルは、アルメリーの頬を指でぐりぐりと押す。


「も、もう。やめてよ〜カロルってば〜!」


アルメリーはそれがくすぐったいのか、ちょっと困ったように笑う。


飲み物が運ばれてきたところで、リザベルトが、そっと口を開いた。


「ア、アルメリー……。そう、いえば……きょ、今日は……そ、その……“そうだん”が……あるんでしょ……?」


ティアネットとカロルも、心配そうに身を乗り出す。

アルメリーは、カップを両手で包み込みながら、深呼吸をする。 


「……そう、そうなの。……あの……。相談したい事って言うのはね……?浮かれていた事と、関係があるの。」


そこで一度口を閉じると、一呼吸空け、再度話し始める。


「実は……ね?あ、アルベール様……殿下から……“側室として迎えたい”って……言われたのょぉ……」


顔を真っ赤にして、最後の方は消え入りそうな声だったが、なんとか絞り切るように言い切ったのだった。


三人の反応は、見事に三者三様だった。


「……っ!そ、それは……と、とても……じゅ、重大な……い、意味を……持つわ……。あ、アルメリー?……か、軽い……気持ちで……きめちゃ……だ、だめよ……?」


彼女はとても驚きつつも、辺境伯の令嬢として、すでに“政治の盤面”を読み始めている。


「えっ、側室!?側室って何!?それ、わかんないんだけど、アルメリー様、恋愛的にはどう思ってるの!?アルベール様のこと、好きなの!?()()になると、幸せになれそうなの!?」


ティアネットは、例の“魔法の件”と、そもそも“側室”の意味が分からないため、純粋に恋愛の相手として心配している。


「アルメリー……。驚いたけど……まずは、あなたの気持ちが一番大事だよ。怖いなら、怖いって言っていいんだよ?なんてったって、相手は将来、この国で一番偉い人になる訳だし……。」


カロルは、アルメリーの“心”を最優先に見ている。三人の視線を受け、アルメリーは胸の奥の言葉をゆっくりと吐き出す。


「……嬉しいの。殿下が、私をそんなふうに思ってくれて……本当に、嬉しかった。でも……怖いのも本当。私なんかが、殿下の隣に立っていいのかなって……」


ティアネットが手を握る。


「アルメリー様はアルメリー様だよ。アルベール様は“あなた”を()()の相手に選んだのよね!?」


そこまで言うとカロルに対し、「側室の意味って何~!?教えて~!」と半泣き状態で頼んでいた。カロルも呆れながら、「側室っていうのはね……」と、声を小さくしてティアネットに教えていく。


リザベルトは頷きつつも、現実的に言う。


「で、でも……そ、側室……って……か、簡単じゃ……ないわ……。あ、あなたの……い、家のこと……そ、それに……お、王家の……い、意図……とか……」


ティアネットに要約したことを教えたカロルは、すぐさまこちらの会話に戻り、


「でも、決めるのはアルメリーだよ。私たちは、貴女のどんな選択でも支えるから」


優しく微笑むカロルの顔を見たアルメリーの目に、じんわり涙が滲む。


(……ああ、相談してよかった……)


リザベルトは、ベリーティーのカップをそっと置き、指先を胸元で組みながら、慎重に言葉を選ぶ。


「ア、アルメリー……。わ、私……お、思うの……。こ、今回の……殿下の……“そ、側室”の……お、申し出……。そ、それは……貴女……には……“恋心”だと、……思うの、だけど……。せ、“政治”の……い、意味も……大きい……と、思うの……」


彼女は視線を落とし、続ける。


「私も……良くは……知らないの……だけど、だ、男爵家の……令嬢では、お、王族の……側室には……なれないと、思うの……だけど……。そ、それに……ついては……何か……せ、説明は……あったの……?」

「そうなの!?」


(自由恋愛が常識だった)カロルが驚く。


「アルベール様からは、“王家の側室にするためには……君の身分を引き上げなければならない”と……言われたわ。他にも確か、”今のままでは”家格”が足りない。信頼できる上級貴族家に、君を養女として迎え入れてもらうつもりだ。 その上で、正式に私の側室として迎える”と、言われてたと思うわ。」


と、リザベルトの質問にアルメリーが応える。


「……あ、貴女の……み、身分を……あ、上げるって……事は……。アルベール様、の……“王族としての意志(ほんき)”が……は、はっきり……し、してる……証拠……」


アルメリーは息を呑み、リザベルトは、さらに踏み込む。


「だ、だから……“よい話”に……み、見えるけど……あ、貴女の……家……そ、それに……“養女”に……な、なる……って……か、簡単じゃ……ない……わ……?」


ティアネットが「養女?」と首をかしげるが、リザベルトはあえて説明をぼかした様に言う。


「ア、アルメリー……。あ、貴女が……“ど、どんな未来”を……え、選びたいか……そ、それを……い、一番……だ、大事に……して……!」


最後は、吃音が少し強くなりながらも、真剣な眼差しで言い切った。


「“こ、怖い”と……思うのは……あ、当たり前……よ……。で、でも……に、逃げずに……考え、られる……あ、貴女なら……大丈夫……だから……。」


アルメリーの胸に、じんわり温かいものが広がる。


ティアネットは、蜂蜜入りミルクティーを勢いよく飲み干し、机に身を乗り出す。


「ねえアルメリー様?政治とか家格とか……私には、よくわかんないけど!そういうのは、……確かに、大事なんだろうけどさ!?一番大事なことって、たった一つじゃん……!」


彼女は、まっすぐな瞳で言う。


「アルメリー様は……アルベール様のこと、好きなの!?」


その問いは、政治でも身分でもなく、“アルメリー自身”に向けられたものだった。アルメリーは、言葉に詰まる。


ティアネットは続ける。


「だってさ。側室って……制度としてはあるんだろうけど……“幸せになれるかどうか”は別問題だよ?」


彼女は、現代日本の価値観を持つ少女らしく、率直に、遠慮なく言う。


「アルベール様がどれだけ優しくても、王宮って、ドラマとかでよく見たけど、貴族間のドロドロした色んなしがらみとかがあるんでしょ?それに巻き込まれてアルメリー様が泣く未来なんて、絶対イヤだよ!?」


その言葉は、アルメリーの胸にまっすぐ刺さる。


「だからさ。“アルベール様がどう思ってるか”じゃなくて、“アルメリー様がどうしたいか”を考えてよ。恋愛って、そういうものでしょ?」


ティアネットは、にっと笑う。


「もしアルベール様の事が好きなら……ちゃんと向き合えばいい。好きじゃないなら……断ればいい。それだけだよ」


単純で、でも本質的な言葉だった。


カロルは、花の香りのブレンドティーをそっと置き、アルメリーの手を優しく包み込む。


「アルメリー……。私ね、あなたが“嬉しい”と“怖い”って言ったとき……すごく、胸がぎゅってなったの」


彼女は、幼馴染としての優しさをにじませながら続ける。


「殿下の気持ちがどうとか、家のことがどうとか……もちろん大事だけど……」


カロルは、アルメリーの目をまっすぐ見つめる。


「アルメリーが“幸せになれる未来”を選んでほしいの」


その声は、静かで、温かくて、どこまでも誠実だった。


「殿下のそばにいる未来が、あなたを笑顔にしてくれるなら……私は応援するよ。でも……もし、あなたが“自分を見失う”ような未来なら……私は止めるからね?」


アルメリーの目に涙が浮かぶ。

カロルは、そっと微笑む。


「どんな選択でも……私は、あなたの味方だから」


その言葉は、アルメリーの心の奥深くに届いた。


三人の言葉が、それぞれ違う角度からアルメリーの心を照らす。

政治、恋愛、心の支え。三つの視点が揃ったことで、アルメリーはようやく――


「……ちゃんと、考えなきゃ」


そう思えるようになった。




長い話し合いがひと段落し、月影亭のテーブルには、温かい茶の香りだけが静かに漂っていた。

ティアネットが最後の方で、


「……アルメリー様が泣く未来なんて、絶対イヤだよ」


と強く言い切ったその中で、彼女が口にした“ドラマ”という単語に、リザベルトは小さく首を傾げていた。


―――聞いたことのない言葉。


けれど、今は話の流れを止めるべきではないと判断し、疑問を胸にしまい込んでいた。……やがてティアネットが席を立ち、


「リザベルト様、ちょっと付き合って。ドレッサールーム行こ?」


と声をかける。

リザベルトは残る二人に軽く会釈し、ティアネットの後に続いた。


二人が店の奥へ向かって歩き出すと、ティアネットの背中を見ながら、リザベルトはそっと口を開いた。


「ね……ティアネット。……さっき……言っていた……“どらま”…というのは……なに……かしら?」


ティアネットは足を止めかけ、「あっ」と小さく声を漏らした。


振り返った彼女は、少しだけ頬をかきながら困ったように笑う。


「えっとね……“ドラマ”って、その……お話? みたいなやつで……」

「お話……?」

「そうそう。なんか、こう……人がいっぱい出てきて、いろいろあって……泣いたり怒ったり、恋したり……そういうのを、みんなで見る……やつ」


説明しながら、自分でも何を言っているのか分からなくなってきて、ティアネットは曖昧に手を振った。


「と、とにかく!王宮とか貴族とかが出てきて、すっごく人間関係がドロドロしてる……そういう“お話”のこと!」


リザベルトはぱちぱちと瞬きをし、


「……なるほど……劇場で公演される“演劇”のようなもの……かしら……?」


と、慎重に言葉を選んだ。


ティアネットは「う、うん!多分、そんな感じ!」と勢いよく頷く。


(……全然うまく説明できてないけど……まぁ、いっか)


そんな彼女の内心を知ってか知らずか、


リザベルトは「面白そうね……」と小さく微笑んだ。二人はそのまま歩き出し、月影亭の奥にあるドレッサールームへと向かっていった。


テーブルに残されたのは、アルメリーとカロルだけ。窓際の光が、紅茶の表面を静かに揺らしていた。




二人の姿が見えなくなると、カロルがぽつりと呟く。


「恋愛、かぁ……。」


先ほどまでの軽い調子とは少し違う声音(こわね)だった。


「なんか、アルメリー見てるとさ?」


頬杖をつく。


「そういうの、ちゃんと“今”を生きてる感じするよね」

「え?」


アルメリーが目を瞬かせる。

カロルは苦笑した。


「いや、なんていうか……」


視線が、窓の外へ流れる。

行き交う人々。

知らない街。

知らない世界。


「私も、恋愛結婚だったからさ……子供たちに、会いたいなって……」


ふと。息がこぼれるみたいに、その言葉が落ちた。


「……っ」


アルメリーの表情が、一瞬だけ固まる。

カロル自身も、口にしてから気づいたように目を伏せた。


「あ……」


小さく、気まずそうな声。周囲には他の客もいる。幸い、ざわめきに紛れて聞かれてはいないようだった。アルメリーは、そっと声を落とす。


「……カロル」


その呼び方には、叱責よりも先に心配があった。


「二人きりの時ならいいけど……人がいる場所で、そういう話は気をつけた方がいいわ」


カロルが、少し肩をすくめる。


「……ごめん」


アルメリーは小さく息を吐いた。


「この世界って、私達がいた場所にほんより……そういう部分、ずっと厳しいと思うの」


声は静かだった。だが、言葉は現実的だ。


「結婚とか、家柄とか……特に貴族社会は、伴侶に対する“貞淑さ”をすごく重視してる気がするわ」


カロルも、それは理解している。だからこそ、表情が少し曇った。


「“子供がいる”なんて、誤解されるような噂が立ったら……」


アルメリーは言葉を選びながら続ける。


「……取り返しがつかなくなるかもしれない」


窓の外を見つめる。


「元の世界へ戻る方法なんて、まだ全然分からないでしょう?」

「……うん」

「だから、とりあえずは」


アルメリーは真っ直ぐカロルを見た。


「この世界で、ちゃんと生きていくために、慎重になるべきだと思うの。」


その声音には、どこか切実さが混じっていた。

カロルの瞳が少し揺れる。


「一度変な噂が広がったら、それを消すのって本当に大変よ?」


アルメリーは、自身の経験を思い出しながら小さく息を吐き、 困ったように両手を胸の横で上げた。


「せっかく、いい成績とって生徒会にも入れたんだから……カロルも、きっと良い条件の相手が見つかるハズなの。それを、噂一つで棒に振るなんて……もったいないわ」


そして最後に、少しだけ柔らかく言う。


「もし、あなたが自分の不注意でそんなことになったら……私、すごく悲しいわ」


カロルはしばらく黙っていた。

それから、小さく笑う。


「……うん」


今度は、ちゃんと反省した声だった。


「……気をつけるわ」


アルメリーも、そこでようやく少し肩の力を抜いた。卓の上では、紅茶の湯気がまだ細く揺れている。

けれどその奥で。二人とも、一瞬だけ―――元の世界を思い出していた。




                 ◇




10月19日 日曜日ディマンシュ


薄い朝陽が、白いカーテン越しに静かに差し込んでいる。

ランセリアの入居する女子寮。その一室。


整えられた寝室の中央で、ランセリアはゆっくりと目を開けた。

規則正しい生活習慣は、休日でも変わらない。

鐘が鳴るより少し前に、自然と意識が浮上する。


枕元で身を起こした瞬間、 胸の奥に、昨日から続く重たい感情がふっと蘇る。


(……昨日の私は、少し……やりすぎたかもしれない)


アルメリーに対して向けた、あの棘のある態度。

自分でも理由が分からないまま、感情が先走った。

怒りでも、嫌悪でもない。

もっと別の……。


考えようとすると、胸の奥がざわつく。


(不快だった?)


違う。


(警戒? それとも焦り?)


どれも近いのに、決定的に違う気がする。


胸の奥にある感情。昨日は、はっきりと認識した気がするのだけど……。今は輪郭がぼやけている。だけど、心の隅にこびり付いた消しきれない何かが、確かにそこにあった。


そんな思考の渦に沈んでいた時、部屋の扉に、控えめなノック音が響いた。


「ランセリア様、失礼いたします。朝食をお持ちしました」

「ええ、どうぞ」


その声に応え、扉が開く。


扉が開いた瞬間、焼きたてのパンと温かなスープの香りが寝室までふわりと広がる。侍女のオネット・ランシールが見慣れたメイド服姿で、手には朝食を載せた、装飾もお洒落な金属製の(プラトー)を抱えて立っていた。

長い茶髪を後ろで束ね、落ち着いた黒い瞳をこちらへ向ける。


「……オネット。もうそんな時間なのね」

「はい。日曜日ですが、ランセリア様はいつも通りお目覚めになると思いまして。 厨房をお借りして、軽いものを用意してまいりました」


オネットは慣れた手つきで居間のテーブルに朝食を並べる。 ランセリアはようやくベッドから降り、ゆっくりと居間の方へ移動すると、テーブルの方へ近づく。


焼きたての小さなパン。

卵料理。

温かなスープ。


「……良い香りね。……ありがとう。いただくわ」


オネットは目を瞑り、軽く会釈とカーテシーを行い、一歩後ろへ控え、テーブルに備え付けの椅子を軽く曳いた。 ランセリアはその椅子へ腰掛ける。


だが、キュイエール(スプーン)を手に取る直前。

オネットがふと、こちらを見た。


「……昨夜は、あまりよく眠れませんでしたか?」


その言葉に、ランセリアの手が一瞬止まる。


「……そんなに分かりやすかったかしら?」

「長くお仕えしていますから、何かあったかぐらいは分かりますよ。無理はなさらないでくださいね?」


オネットはそう言って、控えめに微笑んだ。

さすが長い付き合いね、とランセリアは内心で苦笑した。


「お嬢様は、感情を抑えるのは上手ですが……身内には案外、隠しきれておりません」


ランセリアは少しだけ目を細めた。


「貴女、最近少し遠慮がなくなってきていません?」

「気のせいです」


即答だった。その返しに、ランセリアは小さく笑ってしまう。


ほんの少しだけ。


胸の中の霧が薄れた気がした。


ランセリアはスープを一口飲む。


(……今日は、少し落ち着いて考えないといけないわね)


そう思いながら、静かに朝食を口に運んだ。

日曜日の穏やかな朝は、彼女の心を整えるには、ちょうどいい時間だった。




                 ◇




寮の窓から差し込む秋の淡い陽光が 、アルメリーのまぶたをそっと照らした。


「……ん……」


薄く目を開ける。だが、目覚めは重い。

昨夜、眠れなかったわけではない。けれど、浅かった。

夢と現実の境界を何度も浮き沈みしていた気がする。


ベッドの上でぼんやり天井を見つめる。


(……昨日)


胸の奥が、また少しだけざわついた。


《月影亭》での相談。


リザベルトたちは、真剣に話を聞いてくれた。否定せず、笑わず、ちゃんと向き合ってくれた。嬉しかった。本当に。


(……でも)


指先が、無意識にシーツを握る。


一昨日までは、もっと単純だった。


アルベール様から想いを告げられて。驚いて。 照れて。胸がいっぱいになって。

ただ、それだけだった。


けれど昨日。


友人(リザベルト)は、そこに“政治”を見ていた。


王家。

側室。

貴族社会。

立場。


アルメリーは小さく息を吐く。


(そんなに、大事(おおごと)なことになるの……?)


怖い―――。


その感情を……上辺の言葉だけでなく、ようやく自覚し始めていた。

アルベールの言葉は優しかった。ちゃんと、自分の意思を尊重しようとしてくれていた。それは分かる。


でも。


(もし、私が……)


考えようとすると、胸が重くなる。

自分一人の問題では済まない。周囲を巻き込み、立場を変え、未来を変える。

それが、少しずつ現実味を帯び始めていた。


「……こわい……」


ぽつり、と漏れる。


その声は、静かな部屋に小さく沈んだ。


コンコン、と控えめなノック。


「お嬢様。起きておられますか?」


アンの声だった。

アルメリーは慌てて身体を起こす。


「う、うん……起きてるわ……」

「失礼いたします」


返事をすると、扉が静かに開き、 アンが朝の光を背にして入ってきた。

手には持ち手に綺麗な装飾が施され表面が鏡のように磨かれた金属の(プラトー)。その盆の上には、湯気の立つティーポット、焼き菓子と、軽食が載っていた。部屋に、ハーブティーの優しい甘い香りが広がった。


「おはようございます、アルメリーお嬢様」


アンは淡々とした口調で言いながら、枕元の小机の方へ盆を持って近づいてくる。


アルメリーは慌てて上体を起こし、 寝癖のついた髪を手で押さえた。


「昨夜、あまり眠れていないご様子でしたので……」

「あー。……ちょっとね、寝つきが悪かっただけで……」


アンはすぐに察したように、 ふっと優しい笑みを浮かべる。


「お(なか)に負担の少ないものをご用意しました」


アルメリーは少し目を丸くする。


「……分かったの?」

「ふふ。長い付き合いですので。」


即答だった。


「お嬢様は、悩み事があると寝返りの回数が増えます」

「えっ」

「昨夜は三回ほど物音がしました」

「や、やめて、恥ずかしい……!」


アルメリーが布団を引き寄せる。

アンはほんの少しだけ口元を緩めた。

からかっているわけではない。 空気を軽くしようとしているのだ。


それが分かるから、アルメリーも少しだけ肩の力を抜く。


アンは、持ってきた金属の盆をそっと枕元の小机に置き、カップに紅茶を注ぎながら、静かに言った。


「不安ですか?」


その問いに、アルメリーはすぐ答えられなかった。


窓の外を見る。


休日の寮は静かだ。誰も急いでいない。世界だけが穏やかで、自分だけ取り残されている気がする。


「……うん」


ようやく、小さく頷く。


「なんか……昨日、みんなと話してたら……急に、現実っぽくなっちゃって……」


アンは否定しない。ただ、静かに聞いている。

紅茶を淹れたカップをアルメリーの方へ静かに差し出す。


「嬉しい、だけじゃ駄目なんだなって……」


アルメリーは、差し出されたカップを受け取り、両手で包み込む。

温かさがじんわりと指先に広がる。


温かい。


けれど、胸の奥の冷たさはまだ消えない。


「……私、ちゃんとできるのかな」


弱々しい声だった。


アンは数秒黙っていた。それから、穏やかに言う。


「“ちゃんとできるか”を最初から分かっている方など、おりません」


アルメリーが顔を上げる。


「皆、悩みながら決めるものです」


アンは視線を逸らさず続けた。


「……ですので、お嬢様も、今は悩んでよろしいのです」


静かな声。だが、不思議と落ち着く響きだった。


「殿下も、“急かすつもりはない”と仰ったのでしょう?」

「……うん」

「ならば、焦る必要はございません」


(そう、よね……。 アンもこう言ってくれた。昨日は、みんなが話を聞いてくれた。 大丈夫。……少しだけ、うん。少しだけだけど、前に進めるはず)


そう自分に言い聞かせながら、 アルメリーはゆっくりとハーブティーを口に運んだ。


窓から、柔らかな朝の光が差し込む。

その静けさの中でアルメリーは、ようやく少しだけ深く息を吐いた。


日曜日の静かな朝は、 彼女の揺れる心を整えるために、 そっと寄り添ってくれているようだった。




                 ◇




男子学生寮”レジダンス・ドヌール”の上階。

王族や高位貴族の子息が多く入るその男子寮は、休日の昼前だというのに静けさが保たれていた。

長い廊下には深い紅色の絨毯が敷かれ、等間隔に並ぶ窓から、秋の淡い陽光が差し込んでいる。十月中旬の風は既に冷たく、開けられた窓の隙間から入り込む空気には、乾いた木の葉の匂いが混じっていた。


この格式高い男子寮の上階にあるセドリックの部屋は、間取り自体は他の生徒の部屋と殆ど同じ……だが、一般生徒のものと比べれば遥かに広い。


整然とした居間。 壁際へ積まれた書物。 寝台の置かれた寝室。そして書類棚や筆記用具、制服や鞄などが整然と並ぶ収納部屋。ここは未だ、静けさに包まれていた。


セドリックは居間の長椅子に腰掛けたまま、手にしていた書類から視線を外す。ふと、昨日の生徒会室での出来事が脳裏を掠めた。


―――ランセリアの様子が、少し妙だった。


そう思った理由を問われれば、上手く説明できない程度の違和感。

だが、妙に引っ掛かる。


静かな息を吐き、セドリックは窓の外へ視線を向けた。


昨日。


生徒会室では、ランセリアが男子役員達へ指示を出し、室内の机の配置を変更させていた。その最たるものが、庶務の補佐であるアルメリーの机の位置だった。


窓際へ移された机。


アルメリー自身も戸惑っていた。本人には知らされていなかったのだろう。


『え……? あ、あの……理由は……』


その問いに対し、ランセリアは淡々と答えていた。


『昨日からあなた、集中できていないようだったから。静かな場所の方が、あなたのためになるでしょう?』


冷たくもなく。優しくもなく。ただ事務的な声音。


それは間違いなく、普段通りのランセリアだった。

理由ももっともだったし、アルメリーも最終的には納得したのか、それ以上は何も言わなかった。

その場にいたアルベールも、特に気に留めた様子がなかった。


その時の私の卓上には、処理すべき書類が残っていたため、二人の様子は時々伺っていたが、特にそちらに意識を集中して向ける必要を感じなかった。


……だが今になって、胸の奥に何かが引っかかる。


(……机の配置を動かす……?)


セドリックは僅かに眉を寄せる。


(……机の配置は、皆が効率よく動けるようにと、大半はランセリア様が提案したものだったはずだ)


その本人が、そんな理由だけで配置を変えるだろうか?


昨日の生徒会室。机の配置変更。……それだけなら、何も間違った事は彼女は言っていない。理屈は通る。


(……だが、あれは……どう見ても“気にしている顔”ではなかったか?)


ランセリア様は普段、感情を表に出す事は少ない。 だが昨日は、アルメリーを見る目がどこか硬かった気がする。 それに、あれではまるで……“普段通りに振る舞うことを意識している”……ような、不自然さ。


「……考え過ぎ、か?」


考えれば考えるほど、 昨日のランセリアの横顔が脳裏に浮かび、 妙な違和感だけが残った。


そこまで考えた時、遠くで鐘が鳴った。昼を告げる鐘。重なり合う低い音が、寮棟の石壁に反響する。

セドリックは思考を切り替えるように小さく息を吐いた。


(……考えていても仕方ないか)


立ち上がり、侍従に声を掛ける。


「出かける。外套を出して来てくれ」

「畏まりました」


侍従が収納部屋から、外套を用意してくる。


「では、どうぞ」


侍従が恭しく差し出してきた外套を、手に取り頷く。


(何か食べに街に出よう。どうせなら殿下アルベールも誘うか。)


そう思いたつと、侍従に「夕方までには帰る」と告げ、部屋を後にした。




数分後。アルベールの部屋の扉が叩かれる。


「アルベール殿下。いらっしゃいますか?」

「どうぞ」


入室を許可する侍従の声を受け、セドリックは扉を開いた。

アルベールは読んでいた本を優雅に閉じて、視線を向ける。


「セドリックか。どうした? 」

「昼だし、どこか食べに行かないか?寮の食堂も学院の大食堂も、日曜の昼はやってないしな」

「そうだな。行こう」


アルベールは微かに笑った。


「では、ご準備を」

「ああ、頼む」


侍従が外套を用意してきて、アルベールに羽織らせる。


「行ってらっしゃいませ、アルベール様」

「……護衛達には、私達から少し離れて警護につくよう言っておいてくれ」

「畏まりました」


ほどなくして、二人は部屋を出た。


二人は並んで廊下を歩き、寮の玄関へ向かう。

階段を降りる途中、セドリックがふと思い出したように言った。


「……そうだ、アルベール」

「ん?」

「昨日のランセリア様の様子……少し変だったと思わないか?」


アルベールの足がわずかに止まる。


「そうか?普段と変わりないように思えたが……?」


(彼女の変化に気づいていないのか……。これは、ランセリア様の方が一枚上手だったか?)


「お前にはそう見えたのか。なら、仕方ない。……だが、俺には、ランセリア様の様子が少し変だった様にみえたが……な?」

「セドリック……何が言いたいのだ?」

「側室の告白の件だよ。あの件以降、アルメリー嬢は生徒会室でも、あきらかに集中力を欠いてしまっているし、それを”怠慢”と見とがめたランセリア様が、今回、彼女の机を移動させた訳だ。違うか?」


セドリックは軽く肩をすくめ、 わざと軽い調子で続けた。


側室の件の事(ああいうの)は先に、お前の口からランセリア様の……本人の耳に入れておかないと、後で拗れるぞ?再度、忠告はしたからな?」


セドリックは僅かに口元を緩める。

アルベールは小さく息を吐き、「ああ、分かっている」とだけ返す。


一階に降りた二人は寮長に挨拶をすると、その玄関を抜ける。学院の敷地から外に出るため、門の方へと向かって歩いてゆく。秋風が通り抜け、色づき始めた並木が静かに揺れる。


二人はそのまま、王都の繁華街へと続く石畳の道を歩いていくのだった。




                 ◇




10月20日 月曜日ランディ


王立魔法学院、生徒会室。

窓の外では、十月半ばの風に揺れた木々が、乾いた葉擦れの音を立てていた。

秋の陽光は柔らかいが、室内へ差し込む空気には既に冷たさが混じっている。

室内では、生徒会役員達が各々の仕事に追われていた。


紙をめくる音。

羽根ペンの走る音。

時折交わされる短い報告。


その中で、アルメリーは纏め終えた書類を抱え、小さく息を整える。


「……失礼します」


少し緊張した声でそう言い、ランセリアの机へ書類を差し出した。

ランセリアは椅子へ腰掛けたまま、それを受け取る。

ぱら、と紙をめくる音。

静かな生徒会室に、その音だけが妙にはっきり響いた。


一枚。

二枚。

三枚。


そして―――


ランセリアの目が、ほんの僅かに細められる。


「……これは、受理できないわね」


アルメリーの肩が小さく揺れた。


「えっ……ど、どこが……?」


ランセリアは無言のまま、書類の端を指先で軽く叩く。


「ここ。インクが、少し滲んでいるわ」


「え……」


アルメリーが慌てて身を寄せる。

確かに。

文字の端が、少々滲んでいる……ようにも見える。


「そ、それは……読めますし、内容には……」

「“読める”では不十分よ」


淡々とした声音だった。


責め立てる訳でもない。怒ることもない。ただ事務的に、事実を述べる声。


「生徒会の書類は、完璧であるべきでしょう?」


さらに一枚、ページをめくる。


「それに……この単語」


指先が一箇所を示す。


「綴りが微妙に違うわ。“微妙”でも、誤りは誤りよ」


アルメリーの表情が曇り、小さく唇を噛む。


「……っ」

「やり直して」


ランセリアは静かに書類を突き返した。


「あなたの提出物だけ、基準を下げる訳にはいかないもの」


それは正論だった。


ランセリアが書類を突き返した理由は、 表面上は“正しい”。 インクの滲み、綴りの誤り―――どれも、生徒会の基準としては確かに問題だ。


アルメリーは小さく肩を落とし、


「……はい」


とだけ答えて書類を抱え直す。


アルメリーが肩を落として席へ戻るのを、アルベールは無意識にその光景を目で追っていた。


(……また、だ)


昨日、セドリックに言われた言葉が胸の奥で重く響く。


『昨日のランセリア様の様子……少し変だったと思わないか?』


その時は、軽口半分の忠告だと思っていた。


だが。


(……あれほど些細な部分まで、指摘する必要があるのか?)


アルベールの視線は、再びランセリアへ向く。


彼女は普段通りだった。


表情も。

口調も。

仕事ぶりも。


むしろ、生徒会副会長としては正しい。


書類の不備を見逃さない。

規律を守る。

妥協しない。


それだけだ。……それだけ、のはずなのに。


だが今、目の前で起きていることは── “普段のランセリア”……より少々、手厳しい気がする。


(……机の配置を変えたのも、今日のこれも……偶然か?)


アルメリーは席へ戻った後も、どこか集中し切れていない様子だった。


書類を持つ手。

視線。

小さな溜息。


それらが妙に目につく。胸の奥がざわつく。


(……私の所為、なのか?アルメリー嬢に、側室の話をした所為で……彼女の集中力が、こんなに下がってしまい、”過ち”を誘発する様になってしまった……のか?)


不安が、じわりと広がる。

だが同時に、理性がそれを押しとどめる。


(……いや、まだ決めつけるべきではない。彼女たちの行動を。……特にランセリアが、そんな感情的な行動を取る事は……彼女の性格上、考えにくい……)


そう思いたかった。だが、セドリックの言葉が再び蘇る。


『“側室の件の事(ああいうの)”は先に本人の耳に入れておかないと、後で拗れるぞ?』


(……拗れ始めている、のか?もう、すでに……)


アルベールは無意識に拳を握りしめた。


しかし―――


行動には移れない。

今ここでランセリアに問いただすことも、アルメリーに声をかけることもできない。生徒会長としての立場が、軽率な行動を許さなかった。


(……落ち着け。今は、状況を見極めるべきだ)


そう自分に言い聞かせ、アルベールは視線を机へ戻した。

だが、胸の奥のざわつきは、消えるどころか、ゆっくりと、確実に広がっていった。




書類を抱えて席へ戻るアルメリーの足取りは、自分でも驚くほど重かった。

アルメリーは自席へ戻ると、抱えていた書類を机へ置いた。


窓際へ移された席。以前より少しだけ周囲から離れたその場所は、確かに静かだった。人の動きも少なく、窓から入る秋風の音まで聞こえる。


(……また、突き返された)


インクの滲み。綴りの“微妙な”誤り。

どれも、確かにミスはミスだ。


ランセリア様が指摘するのは正しい。正しい……はずなのに。

胸の奥が、ひどくざわついていた。


(どうして……こんなに、胸が痛いの……?)


席に腰を下ろし、書類を机に置いた瞬間、ふっと半年前の記憶が蘇る。


―――練兵場脇の林の奥。


清水の湧き()でる清く澄んだ泉の縁で、二人きりのピクニック。

ランセリア様が、少し照れたように言った言葉。


『……あなたが私の友達になる事を許可してあげるわ 』


その瞬間を、あの時の嬉しさを、アルメリーは今でも鮮明に思い出せる。

学院中の誰もが一歩引いて接する、四大貴族家の令嬢。生徒会副会長。

アルベール様の婚約者。あまりにも高嶺の花のような存在。


そんな彼女から、“友人”と認められた。

孤高の存在だったランセリア様が、自分を“友人”と呼んでくれた。


その後も―――


「アルクアンシエル 」を探してほしいと頼まれ、アルメリーは動いた。

商品名しか分からない、正体不明の品。


だが、ランセリア様に頼られた事が、嬉しかった。


知人に聞き回り、週末の(たび)に王都の繁華街を歩き回った。

色々な店を訪ね、知識の無さ、甘い考えから、怪しげな店にまで足を踏み入れようとした。

そんな無謀な私を止めてくれた、あの傭兵の人。とある件から知り合いになった彼を頼り、彼の持つ知識を借りる事で、正体不明の品「アルクアンシエル 」に私はやっと繋がる事が出来た。

彼の伝手で冒険者を雇い、最後には、治安の悪い区域にまで足を踏み入れた。


正直、怖かった。


薄暗い路地。ゴロツキ達に囲まれ襲われた時は、本気で死ぬかと思った。学院で習得したハズの魔法は、この時、怖くて一発も撃てなかった。 雇った傭兵達がいなければ、今こうして学院へ戻れていたかも分からない。


それでも。それでも自分は、ランセリア様のためなら、と頑張れた。

あの品を手に入れた。それは高額だった。危険と隣り合わせだった。


そして、手に入れた品物を渡す事ができた泉での一時ひとときは、ランセリア様は珍しく機嫌が良く、終始嬉しそうに微笑んでいた。その時の詳細を聞かれたので、私はできるだけ詳しく話した。

彼女は面白そうに目を細めながら、私の話を聞いてくれた。


あの時の冒険譚を彼女に語る私。聞き終わった彼女の、


『また、何か頼むことや頼ることがあるかも知れないわ。その時はよろしくね?もちろん、貴女も何かあれば言ってちょうだい?できる限り便宜を図るわ』


その語りかけてくれた言葉が、どれほど誇らしかったか。


学院の生徒達が遠巻きに眺めるだけの存在と、自分は違う。自分はランセリア様に認められている。そんな優越感があった。誇りもあった。“特別”だと思っていた。


思わず机へ伏せそうになるのを堪える。胸の奥がぎゅっと締めつけられるような感じ。


だけど、ここ数日のランセリア様は―――まるで別人のようだった。


冷たくはない。ただ、淡々と、事務的に。まるで“他人”に接するように。


(なんで……?なんで、ランセリア様が……急にこんな……冷淡な態度を……?)


でも今は―――その“特別”が、砂のように指の間からこぼれ落ちていく感覚すらある。


(私……嫌われたのかな…… 何か、してしまったのかな ……?)


その時ふと、以前に例の泉で、二人で秘密を打ち明けあった時に、ランセリア様から聞かされた話を思い出した。


『それに最近、同じような悪夢を見るようになったわ……。顔は不鮮明で朧気だけど、ある令嬢がアルベール様に言い寄り……それをあの方が受け入れてしまうの。夢の中で私は嫉妬に狂い、その令嬢にあの方への想いを諦めるように警告し、陰湿ないじめを始めるの。その子を快く思ってない令嬢達をまとめ上げて……。でもその令嬢は屈すること無く気丈に振る舞い耐え続けるの。その後とうとういじめの現場をあの方に目撃され、怒りに満ちた顔で婚約破棄を宣言され、そこでいつも飛び起き目が覚めるの……』


アルメリーは、はっと顔を上げた。


「……まさか」


思わず漏れた声は小さかった。


だが次の瞬間には、自分でその考えを打ち消す。


「ち、違うわよね……」


そんなはずがない。夢は夢だ。そんなこと、あるわけがない。


でも―――


否定しようとするほど、胸の奥のざわつきは強くなる。


(だって……だって、今のランセリア様は……まるで……打ち明けてくれた夢の中の“()()()()()”ランセリア様みたいで……)


少し開けていた窓から吹き込む秋風が、書類の端を揺らした。


アルメリーは無意識に視線を上げる。


部屋の奥。生徒会の会長席近く。副会長のランセリア様はいつも通りの表情で、役員達から上がってきた書類へ目を通していた。


何も変わらない。

何一つ変わらない。


そう見えるのに。なぜか今日は、その姿がひどく遠く感じられた。

アルメリーは机の上でそっと拳を握る。

考えても答えは出ない。ただ、胸の奥に小さな痛みが残るだけ。


(……ランセリア様……どうして……?)


答えは、どこにもなかった―――。


胸の奥で広がる不安を抱えたまま、静かに目を伏せる。


生徒会室には紙をめくる音だけが静かに響いていた。


窓の外では、色づき始めた木々の葉が、秋風に吹かれて一枚、また一枚と舞い落ちていく。風が静かに木々を揺らしていた。 その音だけが、やけに遠く感じられたのだった。


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