交錯
朝の澄んだ空気が、学院の石造りの建物のあいだを静かに流れていた。
校舎の方へと続く広い石畳の道には、登校してくる生徒たちの姿が次々と現れ、眠たげな声や軽い挨拶が交わされている。
その様子を、ランセリアは中庭に面した回廊の欄干にもたれながら、何とはなしに眺めていた。
行き交う制服の色。
朝日にきらめく髪。
楽しげに語らう声。
それらはいつもと変わらぬ学院の朝の光景であり、特別に目を引くものなど何もない。それでも彼女は、しばらくのあいだ視線を下へ落としたまま、考え事に沈んでいた。
(……最近)
ふと、胸の奥に小さな波紋が広がる。
(アルメリーの視線の先が、気になる……)
そう、その視線の先にはアルベール様が……いた。
以前は彼女がアルベール様を見たとしても、この胸がざわめく事はなかった。その視線が気になり出したのは、地下下水道の任務から捕縛班が帰還して以降だった。
アルベール様と、アルメリーのはっきりとした物理的距離感……例えば、彼の側に寄り添う様に彼女が立つ……とか、そういう「近く」という訳ではない。
ほんの些細な視線の向きや、偶然の重なりのようなもの。
だが、そうした小さな断片が重なると、どうにも気になってしまう。
ランセリアはわずかに眉を寄せ、それから自嘲するように小さく息を吐いた。
(……何を考えているの、私は)
馬鹿げている。
そう理性はすぐに告げてくる。
(王国の建国以来、男爵家の令嬢が王妃になった例はない……)
それは王国の歴史書にも記されている、揺るぎない事実だ。
貴族社会の序列というものは、そう簡単に崩れるものではない。
(無いのだけれど……)
そこまで考えたところで、ランセリアの思考はふっと曖昧にほどけた。
視線を上げると、朝の光を受けた学院の庭が穏やかに広がっている。
何事もない、いつも通りの朝。
それでも胸の奥には、説明のつかない小さなざわめきが残っていた。
まるで、まだ形を持たない不安の影のように。
そのときだった。
長く続く石畳の道に、ひときわ整った一団の姿が現れた。
周囲の生徒達が、わずかに道を空ける。
それは誰かに命じられたわけでもない、半ば無意識の動きだった。
学院の生徒会長―――アルベール。
整えられた金の髪を朝日に照らしながら、彼は周りを囲む数人の生徒と短く言葉を交わしつつ、校舎の方へ歩いてくる。
肩肘張った様子はなく、それでいて自然と周囲の視線を集めてしまう。そんな歩き方だった。
ランセリアの視線もまた、知らぬ間にその姿を追っていた。
(……アルベール様)
胸の奥が、わずかに揺れる。
生徒達が挨拶をすると、アルベールはその度に足を止め、穏やかに言葉を返していた。
一人一人に視線を向けるその態度は、王族としての威厳よりも、むしろ学院の生徒会長としての誠実さを感じさせるものだった。だからこそ、皆が彼を慕うのだろう。
ランセリアはその様子を見つめながら、ふと最近の出来事を思い出した。
それは、本当に些細なことだった。
昨夜の大神殿から学院へ帰る帰途。
アルベールの視線が、ふと、ある一点へ向く瞬間がある。その先にいるのは―――
(……アルメリー)
男爵家の令嬢。生徒会の庶務。
特別なことが起きるわけではない。
声をかけるわけでも、立ち止まるわけでもない。
ただ、ほんの一瞬。
視界に入ったとき、わずかに視線を向ける。
それだけだ。けれど、それをランセリアは―――何度か見てしまった。
胸の奥に、小さなざわめきが生まれる。
(……気にするようなことではないわ)
理性がすぐにそう告げる。
だが、同じ言葉がまた、頭をよぎる。
『男爵家の令嬢。王国の序列。』
(気にするようなことでは、無いのだけれど……)
そこまで考えて、ランセリアは思考を止めた。
視線の先では、アルベールが変わらぬ速度で学院の校舎の方へと足を運んでいる。
そのとき彼がふと顔を上げ、回廊の方へ視線を向けた。
一瞬、目が合う。
アルベールはわずかに目を細め、それから穏やかな笑みを浮かべた。
ランセリアは慌てて背筋を正し、軽く会釈する。
ただそれだけのやり取り。
それだけのはずなのに、胸の鼓動がほんの少しだけ速くなる。
(……本当に)
ランセリアは小さく息をついた。
(私は、何を気にしているのかしら)
朝の学院は、いつもと変わらぬ穏やかな光に包まれていた。
それでも彼女の胸の奥では、まだ説明のつかない小さな波紋が、静かに広がり続けていた。
回廊の向こうから、規則正しい足音が近づいてくる。
ランセリアが顔を上げると、階段を上ってくるアルベールの姿が見えた。
先ほど校舎のエントランスに入った彼は、取り巻きの生徒達と別れ、まっすぐこの回廊へ向かってきたらしい。
「おはよう、ランセリア」
落ち着いた声だった。
ランセリアは姿勢を正し、優雅に一礼する。
「おはようございます、アルベール様」
朝の光が回廊の柱のあいだを抜け、二人の足元に長い影を落としている。
アルベールは軽く周囲を見渡し、それからランセリアへ視線を戻した。
「そなたは今日も早いな」
「ええ。私も生徒会副会長として、生徒の模範になるよう常に心がけておりますから……」
そう答えながら、ランセリアはわずかに微笑む。
だが自分でも分かるほど、その笑みはどこか曖昧だった。
アルベールは特に深く詮索する様子もなく、回廊の欄干へ軽く手を置いた。
「学院も、今はまだ静かだな。登校する生徒が増えてくると、じきに騒がしくなるぞ」
「ふふ、確かにそうですわね」
そんな何気ないやり取り。日常の一幕。
寮から校舎へ続く並木道は、朝の光をたっぷり浴びてきらきらと輝いていた。夜の名残をわずかに残す葉の露が、朝日を受けて小さな虹色の粒になり、風が吹くたびにふわりと舞い上がる。
澄んだ空気の中を、学生たちが軽い足取りで歩いていく。友人と笑い合う声、枝の上で目を覚ました小鳥が羽ばたく羽音。並木の影は柔らかく、通り抜ける風は涼やかで心地よい。
寮から校舎へと伸びる整備されたその道を、校舎へ向かう数人の生徒達が笑い声を交わしながら歩いてくるのが見えた。
ランセリアの視線が、何気なくそちらへ向く。
その中に、一人の少女の姿があった。
ゆるふわ系の髪に、赤みがかった金髪を軽やかに揺らし、笑顔を浮かべ落ち着いた足取りで歩いてくる。
(……アルメリー)
男爵家の令嬢であり、今は同じ生徒会の庶務として活動している。
彼女は友人らしい数人の生徒と並びながら、何か楽しげに言葉を交わしながら歩いている。
ごくありふれた登校の光景だった。
そのとき、ふと―――
隣に立つアルベールの視線が、わずかに動いた。
ほんの一瞬。
意識して見ていなければ見逃してしまうほどの、小さな動き。
彼の目が、アルメリーの方へ向けられていた。
が、すぐに視線は戻る。まるで何事もなかったかのように。
だが……。
(……今)
ランセリアの胸の奥が、かすかに波打つ。
見間違いではない。
明らかに、彼女を見る回数が増えている気がする。彼の表情を伺う。
アルベールは何か特別な表情を浮かべているわけではない。
ただ、視界に入ったものへ自然に目を向けただけの様にも見える。
ほんの一瞬の視線。それだけのこと。
それだけのはずなのに―――
(……やっぱり)
胸の奥で、小さなざわめきが広がる。
理性は、それを上書きする様に心に言葉を掛ける。
(気にするようなことではないわ)
まるで、呪いのように脳裏に繰り返される例の言葉。
『男爵家の令嬢。王国の序列。王国の建国以来、男爵家の令嬢が王妃になった例は無い―――』
……それは変わらない。
変わらないはずなのに。
心の奥底から滲み出る様に湧き上がる言葉に出来ない不安感を、意志の力で無理矢理押さえ付けると、彼女は静かに視線を前へ戻した。
朝の学院は、相変わらず穏やかな光に包まれている。
けれど胸の奥には、説明のつかない小さな波紋が残っていた。それはまだ、誰にも知られていない。
やがて彼女たちが回廊の前に差しかかったとき、アルメリーがふと顔を上げた。
その視線が上階の回廊へ向く。
そして―――ランセリアの姿に気づいた。わずかに目を見開き、すぐに足を止める。
「あ……ランセリア様」
小さく呟くように言ってから、姿勢を整えた。
友人達もそれに気づき、慌てて足を止める。
アルメリーは一歩前に出て、丁寧に礼をした。
「おはようございます、アルベール様。ランセリア様」
アルベールは軽く頷き、上階から声を掛ける。
「おはよう。其方達、今朝は早いな」
「はい。本日は講義の準備がありましたので」
落ち着いた返答だった。
アルベールの視線が、ほんの一瞬だけアルメリーへ向けられる。
その視線は短い。
だが、ただの挨拶を返す視線というには、どこか測るような色があった。
地下下水道で見た光景が脳裏に蘇る。
(……あの魔法)
地上まで貫いた激しい光と熱の奔流。
学院の授業では決して教わる事のない、桁違いの威力を持つ魔法。
(あの魔法は一体なんだ……?)
困惑…… 疑念―――。
……そして、わずかな興味。
それらが混ざり合った視線が、アルメリーへと向けられていた。
一方で。
その視線を受けたアルメリーは、わずかに頬を染めていた。
ほんの僅かだが、目を伏せる。
(……私、本当にお姫様みたいに抱き抱えられたんだよね……?)
地下下水道で気絶した後、大神殿からの帰り道で皆から聞いた話。
迫りくる岩盤から私を助ける為に、危険を顧みずアルベール様が咄嗟に私を抱き抱え、躊躇なく汚水の満ちた水路に飛び込んでくれたらしい……。これって命の恩人……って事だよね?
それを思い出すだけで、胸が妙に落ち着かない。
(だ、だめ……)
胸の鼓動が少し早くなる。
(ランセリア様がすぐ隣にいらっしゃるのに……)
アルメリーはすぐに姿勢を整え、再び礼をした。
「では、失礼いたします」
そう言って、小走りで校舎のエントランスに入ってゆく。
「あ、まってよ~!」
「待って……」
「おね、あっ、アルメリー様ぁ~~?」
いきなり小走りになったアルメリーを、友人たちが追いかけてゆく。
その姿を、アルベールはもう一度だけ視線で追った。
その様子を―――ランセリアは隣で静かに見ていた。
(……今の視線)
アルベール様がアルメリーを見るとき。
あれは本当に、ただの視線なのだろうか。
地下下水道での件は、生徒会役員の間でも話題になっていた。
凄まじい魔法をアルメリーが放った、と。
もしそれを気にしているのなら、王族として当然のことだ。
(……でも)
それだけだろうか。
アルメリーが顔を上げたとき、頬がわずかに赤くなっていた。
そしてアルベールの視線も、ほんの一瞬だけ彼女を追った。
(……私の考え過ぎ、よね)
アルメリー達の姿が見えなくなると、アルベールはゆっくりと回廊を歩き出した。
「行くぞ、ランセリア」
「はい、会長」
二人は並んで校舎の回廊を進む。朝の学院はまだ人影もまばらで、石造りの回廊には靴音だけが静かに響いていた。階段を上がり、廊下を少し進むと生徒会室の扉が見えてくる。
扉を開けると、すでに数人の生徒会役員が集まっていた。
「おはようございます、会長」
「副会長も、おはようございます」
机の上には処理が終わってない書類の束と、朝に新しく置かれた何枚かの書類が並んでいる。
地下下水道の任務から戻ってまだ、一眠り程度の時間しか経っていない。その為、室内にはどこか落ち着かない空気が漂っていた。
アルベールは軽く皆を見回して頷き、奥の会長席に腰を下ろす。
続いて役員達も席に着く。
すると、一人の男子役員が、口を開く。
「しかし、昨晩の任務は凄かったですね!今思い出しても震えが出ます!」
彼は椅子に座ったまま姿勢だけを正し、続ける。まだ興奮は覚めあらぬようだった。
「特にアルメリー嬢の魔法。あれは本当に驚きましたよ!」
その言葉がきっかけとなって皆、昨晩の戦闘を思い出し興奮が再燃したのか、部屋の空気が動く。
「いや、あれは本当に桁が違う威力だった!」
「正直、あんな威力の魔法を個人で使える人なんて、宮廷魔導師団の中にもいないんじゃないか?」
口々に昂揚した言葉が重なる。
自分の戦いの自慢話をする者もいれば、興奮気味に現場で見た魔法の話をする者もいる。
その中で、ランセリアだけが静かに耳を傾けていた。
彼女は地下の下水道には行っていない。
だから、彼女が知っている事は、あくまで帰り道の道中で聞いた伝聞だけだった。
「……本当に、そこまでの威力でしたの?」
ふと、ランセリアが問いかける。
部屋の視線が少し集まる。
「ええ、副会長」
一人の役員が頷いた。
「誇張ではありません。私も現場で見ました」
「正直、あの場にいた全員が呆然としました……」
静かな言葉だったが、その重みは十分だった。
「それに、彼女のあの魔法がなければ、あそこにいた我々皆が、アデラースの放った魔法によって生き埋めとなり、こうやって再び顔を突き合わす事は無かったでしょう……」
その言葉に、皆が賛同し頷く。
ランセリアはその様子を見て、小さく息をつく。
(そこまで……)
確かに話は聞いていた。
武勇伝は、自分達の功績をより大きく見せるために内容が盛られる事がよくある。だが、ここまでの話とは思っていなかった。
視線が、自然とアルベールへ向く。
彼はその場の誰よりも近くで、その魔法を見ているはずだった。
アルベールはしばらく沈黙していた。
やがて静かに口を開く。
「……事実だ」
短い言葉だった。
部屋の空気が少し引き締まる。
「あの魔法は、学院の授業で扱う範囲のものではない」
淡々と続ける。
「……少なくとも、私の知る限りではな」
役員たちは互いに顔を見合わせる。
誰かが小さく言った。
「では……どこで覚えたのでしょう?」
その問いに、すぐ答えられる者はいない。
アルベールは机の上で指を組んだ。
視線が窓の外へ向く。
(……彼女は何者なのだ)
脳裏に浮かんだ彼女に関する記憶……。セドリックの誕生日パーティーでの妖艶な告白。地下下水道で見た彼女の鬼気迫る怒り。そのどれもが、普段の彼女とはまるで別人のようだった。
そして―――今でも目に焼き付いて離れない、あの異常なまでに強烈な魔法。
アルベールは椅子の背に身を預け、ゆっくりと息を吐く。指先が無意識に机を叩き、かすかな音が室内に響いた。
(確かにあの魔法が無ければ、彼の言った通り我々はあそこで生き埋めになり、死んでいただろう。だが、学院に入学して一年にも満たない少女が……それも個人が、扱っていい魔法では無い……。)
思考を振り払うように、アルベールは手を口元へ当てる。
視線は机の上の書類を捉えているが、その内容はほとんど頭に入らない。それどころか、また、思考の海へと潜航してゆく……。
(だが、これからの彼女の扱いはどうする?……危険人物として王宮に差し出すのか?)
指先がわずかに強く食い込み、彼は眉を寄せた。
(あの魔法の術者であると王宮に知られたら、牢獄に監禁されてしまわないか?いや、牢獄などあの魔法の前ではあっても無くても、もはや何も変わらないだろう。逆に不当な扱いを受けたと思われれば、その牙が王国に向けられるのでは?それこそ王家や国にとって危機になりかねない。……やはり王宮に情報がいくのは……彼女と、あの魔法が関連付けられるのは……危険だな。)
あちこちで話が弾んでいる生徒会室。
だが、その話声は思考に集中しているアルベールの耳には、一切届かなかった。
アルベールはゆっくりと指を解き、組み直す。
思考の方向を変える。
(王国最強の秘密兵器として、利用する……か?)
視線が鋭くなる。
(例えば、例の魔法の術者だと、私から宮廷魔法師団に推薦するとしよう。私の推薦ならば、それは信用に値するだろう。あの魔法もあるゆえ、魔法師団の戦力は格段に上昇するはずだ。絶えず魔法師団の監視下に置き、運用する方向で進めれば……どうだ?)
彼は軽く顎に手を当てる。
思考は、より現実的な形を帯び始めていた。
(普通に考えると魔法師団に入団となれば、ザール王国の臣民として、それは華々しい栄光への一歩だろう。師団内で将来の栄達は確実、またそうでなくとも彼女が「強力な魔法・魔力を持つ」との情報はすぐに広まるだろう。そうなれば、その者の血を入れて家の血統を強化したいと考える貴族達からの求婚も、引く手あまただろう。その場合、彼女の方が嫁ぎ先を選ぶ側になる。彼女が立身出世を目指すのであれば、これ以上ない条件と言える、か?)
だが―――
アルベールはわずかに目を細める。机に落ちた自分の影を見つめるように。
(……だが、彼女は普通の令嬢達とは考え方が違うような……)
昨日の光景が、再び脳裏に蘇る。
彼女の躊躇い、そしてアジューターへの反論。
『……でも!相手は人間です!何か事情があってこんなことをしているかもしれないのに……殺す必要なんてどこにもありません!』
『……それでも……無闇に命を奪うなんて間違ってる……!』
……あれは、単なる優しさや甘さではない。
むしろ、何か別の規範に従っているかのようだった。
だが、その規範が何なのか―――アルベールには見当もつかない。 理解には至らぬまま、その違和だけが、妙に心に残った。
(そう、あまりそれを望まない節もある……。)
静かに、指先が止まる。
(それは、より高い地位の貴族家へ嫁ぐ為に自身の魔力・魔法を誇示し、その身に流れる血の価値を、令息達に売り込む事を至上命題とする他の令嬢達と、彼女は明らかに考え方が違うように思えた。)
長い沈黙が落ちる。
窓の外から、かすかに風が入り込み、書類の端を揺らした。
アルベールはゆっくりと顔を上げる。
(ふむ……ならば、私から提供でき、彼女が喜ぶであろう最良の提案とは、なんだ……?)
……その問いだけが、 頭の中を駆け巡る。
そこまで思案して、ふっと我に返ると、視線を室内へ戻す。いつの間にか室内は静かになっており、皆の視線が自身に集まっていた。その事に気づくと、直ぐに思考を切り替える。
「一つ言っておく」
アルベールの声が室内に落ちる。
「この件は、生徒会の外に口外する事を禁止する」
役員達はすぐに頷く。
「はっ」
「了解です」
「……不用意な噂は、要らぬ混乱を招くからな」
アルベールは室内の役員達を眼だけで流し見る。
その言葉は静かだったが、重みは明確だった。
部屋は再び静かになる。
その沈黙の中で、ランセリアは考えていた。
(アルベール様は……)
アルメリーのことを、どう見ているのだろう。
ただの生徒なのか。
それとも―――
彼女はふと、先ほど回廊で見た光景を思い出す。
アルメリーの頬の赤み。
そして、彼の視線。
(……。)
胸の奥で、また小さな波紋が広がった。
講義の準備があるとかで、今日は彼女が生徒会室に寄らず、直接教室の方へ向かった事が……今、ここに居ない事が、なぜか一つの救いのように思えた。
暫くすると、先程アルベールによって口外禁止とされた為に、我慢しきれないのか、ここで喋っておこうと思った誰かが、また話し始める。それが段々と興奮した様子になってゆく。
「ほんと凄かったんですよ。下水道の天井どころじゃない。地下から地上までぶち抜いたんですよ!」
「すげー迫力だったよなぁ!?」
その言葉を聞いた瞬間だった。
ランセリアの思考が、ふと止まる。
(……地上まで?)
胸の奥で、何かが引っかかった。昨晩の夜の光景が、不意に蘇る。
学院の女生徒を害した”老魔法使い”が率いる、不穏な集団の捕縛任務が始まった夜。
彼女の率いる班は、アルベール達とは別の行動―――行方不明になったヤニクとレナルイの探索任務に就いていた。その後、行方不明になっていたヤニクとレナルイを発見して無事保護、馬を留めている場所へと戻り、前もって決められていた通りにそこで待機していると、アルベールが率いる捕縛班から、負傷し後退してきた者達が一路、そこを目指して一人……また一人と帰ってきた。
彼らを保護した後、傷の手当をしながらじりじりと焦燥にかられながら、皆が帰ってくるのを待っていた。
そこは戦闘が予定されていた地点よりさらに後方。警戒の為、少し離れた四方に班員を立たせて安全を二重に確保しているため、危険はないと分かってはいるが、胸の奥は少しも落ち着かなかった。
アルベール様と、他の者達の無事な帰還をただ待つだけの時間の方が、ずっと長く感じ、心が苦しかった。
その時だった。夜空を切り裂くように、眩い光が走った!
振り向くと、そこには白く輝く光の柱がまっすぐ夜空へ向かって立ち昇っており、煌々と闇を照らしていた。光が完全に消え去るまで、数十秒あまり。
だが、夜の街ではあまりにも目立つ光景だった。
彼女の周囲を囲む生徒会役員達も、皆光の柱を見上げていた。
『……な、何だ、あれは!?』
『あそこ辺りは確か、平民が多く住む区画の方じゃないか?』
誰も事情は分からなかった。
ただ、何かが起きていることだけは確かだった。
そして―――今。
生徒会室で聞いた言葉。
『地上まで貫いた』
その言葉と、あの光景が、ゆっくりと繋がる。
(……まさか)
ランセリアの視線がわずかに揺れた。
(あの光の柱は……)
胸の奥で、理解が形を取る。
(アルメリーが行使した魔法……!?)
背筋に、かすかな寒気が走った。
あの光の柱。
異様な存在感。
もしそれが、たった一人の生徒が放った魔法だったとしたら……!?
ランセリアは思わずアルベールへ視線を向けると、アルベールがセドリックの肩を軽く叩き、笑みを浮かべていた。
「セドリック、ちょっとこの後いいか?」
「このあとは、”応用魔法理論”の授業だが……フッ。どうした?何か悪巧みか?」
「いや、少し教えて欲しい事があってな。途中まで一緒に行こう。」
「まあ、構わないが?」
二人は並んで歩き出す。肩が触れるほどの距離で、声を潜めて何かを話し始める。その親密さに、ランセリアは思わず後を追おうと一歩踏み出した。
だが、その腕をそっと取ったのはエルネットだった。
「ランセリア様。殿方の“秘密の話”に、淑女はあまり首を突っ込むものではなくてよ?ふふっ♪」
くすり、と含みのある笑み。
「え……でも、アルベール様が……」
「それよりも、ちょうど良い講義がありますわ。“魔法倫理と王国法規”。卒業に必要な単位でしょう? 今から行けば間に合いますわよ」
視線がもう一度だけ、遠ざかっていく二人の背を追う。
ランセリアは一瞬迷ったが、確かにその授業は落とせなかった。
やがて、小さく息を吐いた。
「……そうね。今は、そちらを優先するべきね 」
「ええ、それでこそ淑女ですわ♪」
満足げに微笑むエルネットに手を引かれ、二人に続いて生徒会室から外の廊下へと歩いてゆく。先に室内から出た二人の進む先と、私達二人の向かう先は、緩やかに分かれていった。
◇
石造りの回廊から外れ、二人の足取りは次第に人の気配を遠ざけていく。
授業へ向かう生徒たちのざわめきは背後へと薄れ、やがて聞こえるのは二人の靴音だけになった。
中庭に面した通路。
セドリックは眉をひそめた。
この道は、次の授業が行われる教室へと向かう経路ではない。むしろ、わざわざ人目を避けるような方向だ。アルベールはさらに奥へと進み、中央校舎の裏手に近い、滅多に生徒が通らない静かな回廊でようやく足を止めた。
セドリックは半ば諦めたように息を吐き、口を開く。
「……こんな所に連れてきて、一体何の話があるんだ?」
半ば呆れたように振り返る視線を受け、アルベールはしばし沈黙した。
その様子に、セドリックはただならぬ気配を感じ取る。
やがて、アルベールは言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開く。
「……側室について教えて欲しいのだが」
「……は?」
一瞬、空気が止まる。
セドリックは一瞬、聞き間違いかと思った。
だが、アルベールの真剣な表情を見て、冗談ではないと悟る。
「お前が言うのなら……王族の“側室”の話、という事だな?」
「ああ」
短い肯定。
セドリックは腕を組み、軽く息を吐いた。
「……で、具体的に何が知りたいんだ?」
「”側室”に男爵家の令嬢を迎えるのは可能か?」
「お前……それ!?」
セドリックは思わず声を上げた。
だがすぐに周囲へ視線を走らせ、誰もいないことを確認すると、低く押し殺した声に戻した。
「……まぁ、誰のことか、聞くまでもないな」
アルベールは答えなかった。
だが、その沈黙が答えだった。
「セドリック、お前も昨晩、見ただろう。彼女が尋常ならざる威力の魔法を発動・行使したのを……」
「ああ……確かに見たな」
セドリックは腕を組み、視線を落とす。
彼自身も、あの瞬間のアルメリーの変貌には説明のつかない違和感を覚えていた。
「……その魔法の事もだが、その時の彼女の態度……普段と比べ、少しおかしくなかったか?」
「たしかに。アジュ―ターに向かって激高していた彼女の姿は、普段の彼女からは想像もできない。……まるで別人のようだった」
風が通り抜け、二人の間にわずかな沈黙が落ちる。
セドリックは顎に手を当て、考え込むように目を細めた。
何か引っかかっている―――そんな仕草だ。
明らかに、続けるように促されているのが分かる。
それを感じ、アルベールは視線をわずかに逸らしながら言う。
「彼女には何か秘密がある。……と、私は睨んでいる。それにあの異常な威力の魔法。これは王都、ひいては国家に対する脅威だ。野に放っていい存在では無い。私の目の届く範囲に置いて保護・監視する必要がある……と私は思っている」
「……だから、『側室』か」
「そうだ」
短い応答。
セドリックは小さく息を吐き、天井を仰いだ。アルベールの言葉は冷静で、政治的判断として筋が通っている。だが、その奥に微かな焦りのようなものも感じられた。
「……まぁ、ザール王国の建国以来、男爵家の娘が王の側室になったという話は、俺の読んだ文献には無かったな」
だが、と言葉を切り替える。
「だからと言って方法が無いわけじゃない。要は、アルメリー嬢の“格”を引き上げてやれば良い」
アルベールは感心したように「ほう……」と言葉をこぼす。
「まず一つは……“功績による昇爵”だな。アルメリー嬢本人が、国家のために大きな功績を立てれば、男爵から子爵、あるいは伯爵へと引き上げることは可能だ」
「功績……か。だが、どのような?」
「昨夜の魔法だよ。あれほどの威力なら、王都防衛や魔物討伐、あるいは災害救助などで“国家貢献”として扱える。ただし……あれを公にすれば、彼女は一気に注目の的になる。良くも悪くも、な」
アルベールは眉を寄せる。
彼女を守りたい気持ちと、国家のために利用される危険性が交錯する。
「二つ目、アルメリー嬢の家―――キャメリア男爵家そのものを取り立てる方法だ。家格を上げれば、彼女の身分も自動的に上がる」
「だが、家格の昇爵は王の専権事項だ。今の私には……」
「そうだ。だからこれは“即位後”を前提にした案だな。ただし、摂政である父上や、王太子の特例権限を使えば、完全に不可能というわけでもない……」
アルベールは小さく息を呑む。
“王太子としての責務”と”貴族間の力学関係”の変化が、どのような反応を示し、それが国にとって不安定化を招かないかを悩み、揺れる。
「三つ目の案は……“王家直属の特務魔導師”として任命することだ。これは身分ではなく“地位”を与える形だが、王族に近い扱いになる」
「……そんな制度があったのか?」
「古い文献に少しだけ記述がある。建国の際に、とても貢献したとされる非凡な才を持った魔術士がいた。その者を他国に逃がさぬよう、”王家そのものを守護する者”として任じ、力ある魔術士を囲い込むための制度だ。当時は今と違い宮廷魔導師団はなかったそうだしな?“側室”……ではないが、法を新たに作る訳ではない。制度上あるのだ。それを利用して、”王族の庇護下に置く”という意味では使えると思うぞ?」
アルベールは目を伏せる。
それは“保護”としては一見正しいかもしれない。“彼女を側に置く”という事もできるだろう、とも思う。だが、宮廷でずっと、彼女は見世物を見るような好奇に満ちた冷ややかな視線にさらされ続けるかもしれない。……それでは精神的には彼女を守っていると、言えないのではないのか?
セドリックはさらに続ける。
「四つ目は……“高位の貴族家に養女として一旦迎えた上で側室入り”という手もある。王族の側室なら……最低伯爵家以上の家格は必要だろうな。これなら、前例が全く無いわけではない」
「……養女、か」
「そうすれば、彼女は王族の側室に迎えても問題ない条件を持つ存在になれる。ただし……この案にも二つ、懸念事項がある。」
セドリックはそこで一瞬口を閉じると、アルベールの目を覗き込むように真摯に見つめ、続ける。
「一つは、それを受け入れた貴族家の発言力が大きくなる事だ。『王族』が、その家に対して借りを作ることになるからな?王や、お前が進めたい政策や改革など、その家の意向次第で横から口が入り、停滞や骨抜きにされる恐れもある。どこの家に頼むか、慎重に選べよ?」
そこまで言うと、彼は表情を緩めて続ける。
「もう一つの懸念だが……“側室”という事は、ランセリアとの関係が心配だが……。彼女の合意は得られそうなのか?」
「今の所……私が見ている限り、ランセリアとアルメリー嬢の関係は良好なように見える。他の令嬢ならいざ知らず、アルメリー嬢ならば大丈夫なのではないだろうか?」
そう言って、アルベールは苦笑する。
淡々と並べられた現実的な手段。
だが少し考えたアルベールは、静かに首を振った。
「……セドリック。悪いが、一つ目の案は採用できない」
「何故だ?」
「……彼女の使用したあの魔法の件、あれを公にしたくはない。公になれば、あの威力だ。他国も目を付けるだろう。そうなれば、誘拐され奪い去られる可能性もある……。」
「確かに……その可能性は失念していたな……」
アルベールは話を続ける。
「……だが、王宮にも知られたくは無い。もし知られれば、彼女は”危険”という理由を持って牢獄に監禁される判断が下されてしまうかもしれない。もし、たとえ彼女がそれに大人しく従い、投獄されたとしても、あの魔法があれば、どんなに強固な牢獄でもあっけなく崩れ去り、いつでも彼女は自由にそこから出られるだろう。逆に不当な扱いを受けたと彼女に受けとられ、王国への反逆者になられでもしては……それこそ王家や国にとって危機になりかねない。」
アルベールのその瞳には、周囲の風景など映っておらず、どこか遠くを見つめていた。
その様子を見たセドリックが口を開こうとしたが、アルベールは彼の方に手を向けてセドリックを制止し、申し訳なさそうな顔をして話を続ける。
「色々案を上げてもらったが……。もちろん、どれも参考にはさせてもらう。だが、それらのどの案も実行したあと、今の私には責任が取れそうに無い。そう、何かが起きても今の私には、抑え込めるだけの実権や権限が無いのだ……。私が即位できれば、話は別だろうが……。」
アルベールの言葉が途切れた瞬間、学院中に響く予鈴が、静かな回廊の空気を震わせた。
二人は同時に顔を上げる。
「……しまった。授業の時間だ」
セドリックが苦笑しながら背筋を伸ばす。
「お前が回り道するからだろうが。ほら、急ぐぞ!」
「いや、これは必要な話だった。だが……続きはまた後だな」
アルベールはそう言いながらも、まだどこか思案の色を残していた。
彼の胸中には、政治的判断と個人的な感情が複雑に絡まり、簡単にはほどけない。
セドリックはそんな友の横顔を一瞥し、軽く肩を叩く。
「考えすぎて転ぶなよ、王太子殿下?」
「……お前こそ、だ!また放課後、生徒会室で!」
「ああ!」
軽口を交わした次の瞬間、二人は同時に駆け出した。石畳を叩く靴音が、静まり返った回廊に響き渡る。
さっきまでの重苦しい密談が嘘のように、学院のいつもの喧騒へと戻っていく。
だが―――。
アルベールの胸の奥には、セドリックの提案と、“彼女をどう守るか”という重い問いが、確かに残っていた。
そしてその答えは、まだ見つかっていない。
◇
王都のとある区画。
朝の通りにまだ人影がまばらな頃、一人の男が慌てた様子で衛兵の詰所へ駆け込んだ。
「おい、衛兵さん!大変だ、うちの近くの建物が!……いや、建物どころじゃねぇ、道もだ!とにかくでかい穴が空いてるんだ!いいから来てくれ!」
衛兵たちは顔を見合わせたが、男のただならぬ様子にすぐ数名が現地へ向かった。
そして―――
現場を見た瞬間、彼らは言葉を失った。
通りの中央に、巨大な穴が穿たれていた。直径はおよそ3カンヌ。(約9メートル程)
だがそれは、陥没などではない。縁は不自然なほど円形に近く、崩れ落ちたというより、まるで地面が焼き抜かれたように穿たれている。
石畳の断面はところどころ黒く焦げ、露出した石材は高温で溶けたように歪んでいた。溶けて固まった石が黒曜石のような冷たい艶を帯びている箇所さえある。
周囲の集合住宅も無事ではない。
壁の一部が吹き飛び、窓枠がひしゃげ、建物そのものが弧を描く様に遮断され削り取られた跡、屋根瓦が至る所に散乱していた。
その光景を見た衛兵の一人が低く呟いた。
「ははは……こいつは、ただ事じゃないな……。」
様子を見に来ていた平民達が、口々に話をする。
「あ、あれよ!昨日の晩、光の柱があがってたヤツよ!あれに違いないわ!アレはここだったのね!?」
「ああ、俺も見た!夜中に眩しい光の柱が……!」
その周辺では集まった人々が口々に話し出し、あっという間に噂になっていた。
現場から帰った部下から報告を受けた上司は、急ぎ王宮へ報告を出すと、上からの返答を待たず部下達に即座に周辺区画の封鎖を命じた。穴の周辺には縄が張られ、待機中の衛兵が歩哨として何人か配置された。近くを通りがかった 通行人や近隣住民達へ、配置された衛兵が「ここから先に、大きな穴が開いたため大変危険です。事故防止のため只今、通行を禁止しています。あちら側へ迂回し、周辺には決して近づかぬように!」と声を張り上げ、誘導するのだった。
王宮、宰相執務室。
宰相は届けられた報告書を読み終え、静かに息を吐いた。
「……ベルヴィル区の居住地域に、直径3カンヌ(約9メートル程)もの穴、だと!?」
しかも穴の縁の石材が溶解し、黒曜石の様に光沢を帯びているという。
宰相は書類を机に置き、指先でこめかみを押さえた。
(地下下水道の損傷か……)
王都の地下に張り巡らされた下水網は、都市機能の重要な基盤だ。
そこに大きな被害が出ていれば、修繕費用は莫大になる。
地上部にある建物なども、多少は被害が出ているだろうが、それの再建費用は下水網の修繕に比べれば、実に些細な物だ。
想定外の大きな支出が発生する事態が起きた事に、宰相はため息をついた。
だがすぐに顔を上げる。
「現地調査を行う。調査には行政官も複数人同行させよ、被害の状況と範囲を確定させた情報が無ければ、官僚達も試算ができぬ」
補佐官へ視線を向け、続けた。
「宮廷魔導師団にも同行を要請する。大方、魔法による戦闘があったのだろう、現場に残された戦闘跡から、どの様な魔法が使用されたか、残留魔力の確認をすればある程度何かが分かるかも知れん。残滓が残っている内に、早急に確認が必要だ」
もし魔法が関与しているなら、放置できる問題ではない。
宰相はさらに付け加えた。
「調査が終わり次第、その報告書を関係部署に回せ。復旧費用の見積もりを――概算で構わん、出来るだけ早急に持って来させろ」
補佐官が一礼し、執務室を出ていった。
宰相は再び報告書へ目を落とす。
「……王都の地下で、一体何が起きた?」
国王の入室を告げる衛兵の声が執務室に響き、重厚な扉が開くと、そこには国王が立っていた。
「何じゃ、朝から難しい顔をしておるのぅ、ヴィクトルよ」
「これは陛下。実は……」
と、宰相は国王に向けて昨晩王都で起きた事件に関連した、緊急で上がってきた報告書についての概要を伝えた。
国王はその報告を聞き終わると、わずかに眉をひそめた。
「……王都の地下で、何者かが動いておる……という訳だな」
「御意」
宰相はそう言うと、一度頭を下げる。姿勢を戻すと廊下で待機している衛兵に向けて指を鳴らすと、やがて重い扉が静かに閉じてゆく。
執務室には二人だけが残った。
そのまま、王と宰相の密やかな協議が始まっていく―――。
◇
一刻後。
封鎖された現場へ、王宮からの調査隊が到着した。
行政官、書記官、護衛の衛兵達。
―――そして黒衣のローブを身に纏う者達の一団。
それは宮廷魔導師団から調査の為に派遣された数名の魔導師達である。
現地の封鎖を実行指揮している衛兵隊の隊長が敬礼した。
「お待ちしておりました。こちらが問題の現場です」
示された先には、巨大な穴が口を開けている。
魔導師団の魔導師達は縁まで歩み寄り、断面を静かに観察した。
「魔法によるもの、でしょうか?」
「それ以外にありえんだろう……が、我々はさらに詳しく痕跡を調べる為に現場に来ている」
若い魔導師の質問に、そう返答すると彼は掌を掲げ、詠唱を唱え始める。
『流れし力は虚空に消えず、理の網に応え 顕現せよ、遺せし力の痕―――。 魔痕探査』
淡い光が空気へ溶け、周囲を静かに漂う。
やがて彼の眉がわずかに動いた。
「……この魔力の痕跡は……。火属性ではあるが、並の精霊の力ではないぞ?これは……古参の私ですら見たことも無い痕跡……だと!?ならば、この痕跡は……かなり上位の精霊の力という事か!?」
「「「上位精霊の力!?」」」
魔導師団の同僚達も思わず叫んだ。
「王国で一般的に使われる火属性の魔法では、どう頑張っても岩石の表面が焦げる程度だ。こうはならない……いうなれば、これは超高熱を発生させ得る魔法だ。この岩石の断面とその周辺の差を見てみろ」
彼は石材を指差し、低く呟く。
岩石は明らかに溶けた跡を示しており、黒く光る滑らかな層をつくっていた。
「岩石の表面に、艶があって綺麗ですね?穴の周辺の木材等は真っ黒に焦げていますが、これが何か?」
どういうことなのか、若い魔導師が再確認する。
「……その綺麗な表面状態は、高熱による溶融痕だ。効果範囲内の直径3カンヌ(約9メートル程度)は岩石の表面が溶ける程の超高温が通過した証。普通に考えたら、そんな高温が発生したら、その周辺の木材はその熱で一瞬で燃え上がってしまい、周辺は大火災に見舞われた事だろう。だが、実際は外周部が炭化しているだけで、火災らしい状況はほとんど無く済んでいる。どういう事か分かるか?」
古参の魔導師はチラリと若い魔導師の反応をみて、口を開く。
「恐らく、強固な結界……であろうな。こんな岩石をも溶かす熱量が発生する魔法など、何も無ければ発動させた術者すら危険だ。本来なら拡散・放射されてしまう炎の熱量を、何重もの結界で円筒状に包み込み内部に収束・圧縮させて、一方向しか開口部のない形で構築し指向性を持たせた上で、直線上の効果範囲全てをその光と化した超高圧・超高熱による問答無用の激流で貫く……」
そこで一度、口元に手を添え、視線を穴の縁へと移す。少しの間沈黙し、考えを纏めた彼は、再び口を開く。
「……多分、こんな所だろう。その強力な結界のおかげで、効果範囲外の物や術者は守られているのだろう。……だが、多数の術者による集団儀式魔法でならありえるかもしれん威力だが、地下からだぞ!?そもそも集団儀式魔法を使う為の人数が展開できるだけの空間がない!……なら、少数……あるいは個人の放った魔法か?……ありえん!!長年、宮廷魔法師団に仕えてきたが、儂はそんな恐ろしい魔法、見たことも聞いた事も無いッ!」
「「「……。」」」
魔導師達の空気が重くなる。
その間にも役人達は被害状況を記録していく。破損した住宅の数、崩れた壁、立ち入り禁止区域の範囲。
やがて、地上の調査が終わった。
衛兵達が穴の縁に太い杭を打ち込み、そこへ編み縄で作られた縄梯子をしっかりと結びつける。 穴の中へそれを放り投げると、縄が軋み、木製の踏み板が空中へと垂れ下がっていった。
残るは地下調査である。
宮廷魔導師団の調査員達は、穴の奥を見下ろした。
暗い底から、湿った空気が立ち上ってくる。
「……降りて見るしかないな」
彼は短く呟く。
その言葉を受け、調査員の中の一人、風属性の魔導師が一歩前へ出ると、静かに詠唱を紡いだ。
『天と地の狭間にて 風の腕に我が身を委ねよ 墜ちるにあらず、緩やかに地へ至れ 重きは地へと還り、その戒めを解き放て 風抱緩降』
詠唱が唱えられ、魔法が結びを迎えた瞬間、足元に淡い光が灯る。
薄く描かれた魔法陣が静かに展開し、その紋様は水面の波紋のように広がった。
次の瞬間、調査員達の身体を、見えぬ何かがそっと包み込む。
風だ。
だが吹き荒れるものではない。
柔らかな腕のように、確かな意思をもって彼らを支えている。
衣がふわりと持ち上がり、髪が下ではなく横へと流れる。
彼らはそのまま、暗く広がる穴の中へと、ゆっくり足を踏み入れる。
本来は重力に引かれて急落下するはずの身体が、まるで別の理に従っているかのように、軽い。
―――落ちているのではない。
ゆっくりと、“降ろされている”。
彼らの足元に浮かぶ光の紋が淡く明滅し、その導きに従うように、身体は滑らかに高度を下げていく。
螺旋を描くように流れる風が、姿勢を崩すことなく進路を整え、地下へと続く空間を導いた。
やがて視界の先、暗がりの底に、目的地―――地下下水道の石床が見えてくる。
やがて足が、地下の通路へとたどり着く。
そこは王都の地下に張り巡らされた下水道だった。
だが、普段の石造りの通路は見る影もない。
壁はところどころ黒く焼け、通路の一部には斜め四方から岩盤が飛び出して何かを閉じ込めた様な跡、本来なら整然と綺麗に舗装されているはずの床の至る所の石材が、無理やり下から突き上げられ、剥がされ土が露出し盛り上がったままの場所もあり、歪んでいた。
用水路の両脇の通路には焦げた破片が散乱し、熱で割れた石材が転がっていた。
まるで巨大な火槍が通り抜けた跡のようだった。
魔導師団の調査員はゆっくりと頭上を見上げた。
上方に残る光は小さく円を描き、遠い天蓋のように見えた。
地下から、その円を通して空が見えている。
調査員達が思わず呟く。
「始めて来たが、ここが……王都の地下に張り巡らされているという、例の地下下水道か……」
「ここから地上まで、撃ち抜かれたのか?そんな事ができるのか……!?」
「わからん……が、見ての通りだ。常識の範囲では語れん。」
とだけ、古参の魔導師は同僚に告げた。 そして彼は焼け焦げた石壁に手を触れてわずかに目を細め、その石壁をじっと見つめると、低く呟いた。
「……これほどの魔法を王都で行使できる存在……少数、もしくは個人……がいる事を、宮廷魔導師団が把握していないのは由々しき事態だ」
同僚が古参の魔導師に話しかけようとすると、上の方から声がかかった。
『下の様子はぁぁ……どうですかぁぁ……!』
先に下へ降りた宮廷魔導師団の調査員に向け、上で待機していた衛兵が声を掛けてきたのだ。
「……ああ、こちらは異常無し!慎重におりてくるように!」
その応答を受け取ると、衛兵は梯子へしっかりと足をかける。
縄梯子は深い闇へと吸い込まれるように垂れ下がり、衛兵の体重を受けてわずかに揺れた。
彼は慎重に足を運び、一段づつ闇の中へと降下していく。
次いで二人目、三人目と続いてゆく。縄梯子は人数の増加に応じて大きく揺れ、そのたびに乾いた音が空洞に反響した。
地上には数人の見張りを残して護衛の為の衛兵が全て降りると、役人達も顔を引き締め、行政官、書記官が後に続いて縄梯子を使って降りてゆく。
上から差し込む光が徐々に遠ざかり、 穴の内側は薄暗さを増していく。
縄梯子は彼らの動きに合わせて揺れ、 そのたびに木の横桟がかすかに軋んだ。
湿った空気が肌にまとわりつき、地下から吹き上がる冷たい空気が頬を撫で、地下特有の冷気がじわりと忍び寄った。
やがて先行した衛兵の足が、石の床へと到達する。その後、後続も次々と降りてくる。
後続のため、場所をあけるように魔導師団の調査員達はその場から少し離れると、小声で軽く相談をする。
「これからどうしますか?」
「ここでの調査が終わり次第、すぐに師団長に報告する。……あとはあの人が判断してくれるだろう」
「わかりました」
その話が行われている同じ頃、調査隊の隊長が到着する。彼は、さっそく行政官、書記官達へ指示を出し始めた。
「では、予定通り調査を開始する。記録係は準備を。宮廷魔導師団の方々は調査の為、各班にそれぞれ付いて頂き、”明かりの魔法”などをお願いします」
「了承した」
短い指示が飛ぶと、彼らはそれぞれが役割に従い、地下下水道に調査隊員達の足音が広がり動き始めた。
記録、測定、痕跡の確認―――。
地下空間に、規則正しい作業の気配が満ちていく。
その頃―――別の場所でも、動きがあった。
◇
現在は帝国使節団の宿舎となっている宿泊施設。
特使タルコラスは、朝食を食べ終わり、手にした上質な給仕布で口元を軽く拭うと、ゆったりとした動作で席を立った。 銀の食器が並ぶ卓の上には、まだ温もりを残す茶器と皿が置かれている。
そのとき、廊下の向こうから慌ただしい足音が聞こえてきた。
石床を打つ靴音が壁越しに近づき―――
扉の前で止まった。
カツン、と踵を合わせる音。
続いて控えめなノック。
「ご起床でしょうか、タルコラス様!」
特使はその姿勢のまま、ゆっくりと視線を扉へ向けた。
「うんむ。」
一拍置く。
「許可する。入りたまえ」
「はっ! 失礼いたします!」
扉が開き、部下の一人が室内へ足を踏み入れた。
彼の顔には、明らかな緊張が浮かんでいる。
「申し上げます。昨晩、王都にて―――光の柱が確認されました」
タルコラスの眉が、わずかに動く。
部下はそのまま報告を続ける。
「夜半、王都の平民の多く住む住宅街の方向で、空へ向かい光の筋が立ち上ったのをご存じですか?」
「ほう?」
「夜中に急に光ったもので、思わず自分も部屋の窓から確認しました……同僚達も多数、その光景を見ております」
特使は椅子に座り直し、背もたれに体を預け、静かに指を組んだ。
昨晩は早めに床に就いたため、その光景を目にしていない。
だが。
その情報を聞いた瞬間、彼の口元がゆっくりと歪んだ。
(……何かの事件か?王国の秘密の実験か?はたまた魔法によるものか?……なんにせよ、これは使える可能性があるな)
その顔に薄い笑みが浮かぶ。
「……直接現場の方へ見に行った者が誰かいるか、聞いているか?」
「私の方には何も……」
「では、それが発生した場所に誰かを向かわせろ。日常ではありえない、夜中に起きた珍しい案件だ。噂になっておるであろう。周辺で聞き込みをすれば、おのずと現場を特定できよう」
「はっ!」
敬礼し、早速出ていこうとする部下に手のひらを向けて制止すると、タルコラスは少し思案する。
「……そういえば先日の交渉から、そろそろ三日ほど経つな?先方から回答は来ておるか?」
部下は軽く頭を下げ、首を降る。
「こちらには未だ、なんの返答もございません」
不満げに、フンッ!と鼻を鳴らしたタルコラスは立ち上がった。
「王宮へ前触れを出せ」
そして静かに言う。
「私も用意を整えて、すぐに登殿する」
部下は背筋を伸ばした。
「はっ!」
部屋を出ていく足音を聞きながら、タルコラスは窓の外へ視線を向けた。
王都の空は、穏やかな朝の色をしている。
だが彼の唇には、野心的な暗い笑みが浮かんでいた。
―――王宮。
伝令官の一人が廊下を小走りに進んでいた。
腕に抱えた書類が揺れる。
やがて彼は、重厚な装飾が施された大きな扉の前へ辿り着いた。
ここは王宮の高官達が使用する、広い執務室である。
彼は扉の前の衛兵達に「急ぎである!早く開けんか!」と怒鳴る。
左右に控えていた衛兵が表情一つ変えずその扉を動かし始める。人が一人が通れるほど空くと、伝令官は完全に空くのを待っていられない様子で、室内に飛び込む様に入ってゆく。
扉が開ききる前に伝令官が執務室へ入ってしまったので、左右の衛兵達は事務的・機械的に扉を再び閉めてゆく。
「こちらでしたか、宰相閣下!」
伝令官はまず宰相専用の執務室の方へ伺ったが、宰相本人がそこにいなかったので、彼は王宮内を探していたのだ。
この広い執務室では、数名の大臣達が官僚達と共に書類と格闘していた。その中央で、宰相が顔を上げる。
「どうしたのだ。そんなに血相を変えて」
伝令官は引き攣った表情で答えた。
「帝国の特使から、”前触れ”がありました―――!」
執務室の空気が凍りつき、官僚達が一瞬だけ手を止める 。
書類から顔を上げた大臣の一人が思わず声を漏らす。
「なっ!?」
宰相はゆっくりと椅子にもたれ、天井を仰いだ。
「……今日は虚無の日か?」※1
彼は胃の辺りを押さえ、深く息を吐いた。
「はぁ。何という日だ、まったく……」
宰相の嘆息が、重たい空気の中へ沈んでいく。
その余韻を破るように、扉の外で規律正しい足音が止まった。
一拍の静寂。
「国王陛下、ご入室―――!」
衛兵の張り上げた声が、執務室に鋭く響く。
重厚な扉が軋みを上げて再び開かれた。
差し込んだ光が室内をわずかに照らし、居並ぶ大臣達の影が長く床へと伸びる。
その光の中へ、ゆったりとした足取りで一人の人物が歩み入った。
空気が変わる。
張り詰めていた緊張はそのままに、しかし質が変わる。
場の中心が、自然と移ろう。
大臣達は一斉に立ち上がり、深く頭を垂れた。
宰相もまた椅子から身を起こし、礼を取る。
足音は迷いなく進み、宰相の執務机の前で止まった。
宰相は国王に静かに語りかける。
「帝国よりの特使、まもなく到着との報がございました。 」
「……左様か。」
宰相が一礼した。
国王はわずかに頷く。
「ならば―――私が対応しよう」
大臣達が一斉に顔を上げた。
「よ、よろしいのですか!?」
居並ぶ大臣の一人が声を上げると、国王は穏やかな笑みを浮かべた。
「構わぬ」
そして静かに続ける。
「其方らは、其方らの務めを全うせよ。国の問題を放置するわけにはいかぬからな」
大臣達は深く頭を下げた。
「「「はは―――っ!」」」
大臣達の礼を受け、国王は静かに歩み出した。
しばらく後。
帝国の特使タルコラスは、黒塗りの豪奢な馬車で王宮へ到着した。
帝国様式の装飾が施されたその車体は、王都の通りでもひときわ目立つ。
城門の前でゆっくりと馬車が止まる。
扉が開き、タルコラスがゆったりと余裕をもって馬車から降り立った。続いて中から護衛騎士が一人。
タルコラスが周囲を一瞥して、悠然と門をくぐってゆく。
その先で待機していた役人が、案内役として失礼の無いように先導し、王宮内を進んでいく。
やがて豪華な応接室の扉が開かれた。
部屋は長方形で、玉座の間ほどの荘厳さはないものの、天井は高すぎず低すぎず、
声がよく響くように計算された造りになっている。
壁には王国の紋章を織り込んだタペストリーが掛けられ、深い紅と金糸の模様が、訪れる者に静かな威圧感を与える。
床は磨き上げられた濃い木材で、歩くたびに靴底が軽く音を立てる。
その音が、沈黙の中では妙に大きく感じられるほど、
部屋全体が張り詰めた空気に包まれている。
部屋の奥には、玉座ほどではないが、
背もたれが高く、彫刻が施された重厚な椅子が置かれていた。
椅子の背後には、王国の象徴である獅子の紋章が描かれた布が垂れ、
王の存在をより大きく見せている。
そこには既に、ザール王国の国王が待っていた。
王は穏やかに微笑む。
「……よくぞ参られた、タルコラス特使殿。丘を登って来られた道のり、さぞお疲れであろう。さあ、そちらの椅子へ掛けられ楽にされよ。」
王が手の平で指し示した所には、王の席から少し離れた位置に、対面する形で特別仕様の椅子が一脚だけ置かれていた。それは王の椅子よりも一段低く、装飾も控えめ。外交上は対等だが、
“ここは王国の領土であり、主導権は王にある”
という無言のメッセージが込められていた。
椅子の横には小さな卓があり、水差しと銀の杯が置かれている。
部屋の隅には、侍従が二名、護衛の騎士が二名控えている。彼らは一切口を開かず、ただ王と特使のやり取りを見守っている。特使が少しでも無礼な素振りを見せれば、すぐにでも動けるような気配を漂わせている。タルコラスの護衛騎士は、室外にて待機させられていた。
大きな窓から差し込む光が、部屋の中央に置かれた長机の表面を照らし、木目が柔らかく輝いている。
しかしその光とは裏腹に、空気はどこか冷たく、言葉の一つひとつが重く沈むような緊張感があった。
タルコラスは礼を返す。
「お気遣い、痛み入ります」
王は続けた。
「王都にはしばらく滞在されていると聞いておる。 我が国の都の印象はいかがであったかな」
特使は肩をすくめた。
「帝都と比べれば、多少見劣りする点は否めませぬが……」
わずかに笑う。
「市井には活気があり、街路も清潔。 総じて良い都であると感じました」
王は頷いた。
「それは何よりである」
タルコラスは少しの間をあけ、口を開いた。
「……先日の交渉から、三日が経ちましたな」
王はゆっくり頷いた。
「……確かに、そうであるな」
王は少し考えるような素振りをしてから、口を開く。
「あの日、やむを得ぬ事情が重なり、会議の栄えある席に影すら落とせなかったこと……特使殿には、さぞや物足りなく映ったことであろう」
(……こ、こいつッ!話を逸らす気か!?)
そこまで語ると、王は少し間を置き話を続ける。
「……とはいえ、あの議題は互いの国の利害が交錯する繊細な重き議題であるゆえ、多くの意見が自由に飛び交うことこそ肝要。闊達な議論を促すためにも、まずは臣下に場を委ねるのが最も賢明であろうと考えたのだ」
「左様でございましたか。陛下のご高察、まことに恐れ入ります。」
特使は内心に湧き上がる感情を一切表に出すことなく、あくまで平静を装い、片方の眉毛をピクリと上げると、再度口を開く。
「ところで陛下。王都にて少々気になる噂を耳にいたしまして……昨晩、平民街の一角で、夜空を照らす光の柱が立ち上ったとか。何かの祭礼か、あるいは学術的な実験でもございましたか?」
と、あくまで「王都の治安を気遣う外交官」という体裁で質問する。だがその目は探るような目つきで、王を見つめている。だが、王の表情は変わらない。
「……ほう、光の柱とな。王都では日々さまざまな出来事が起こるゆえ、民が多少大げさに語ることも珍しくはないが……市井では、その様な事があったのか。そうした報告は、まだ私の元へ届いておらぬな。」
と、王も静かに応える。
タルコラスは外交官特有の作り笑顔を顔に張りつけたまま、王の話に耳を傾ける。
「もしそれが事件などに繋がるのならば、宰相をはじめ、関係の官僚達が調査に当たるであろう。じきに何らかの報告が上がってくるやもしれんな」
穏やかな声だった。
だがそこには、まったく隙がない。このままのらりくらりとかわされては、何も情報を得られないまま登殿したこと自体が無駄足になってしまう。
「左様でございますか……」
しばし沈黙。静寂がその場を支配する。
やがて王が口を開く。
「もし、それが祭礼であれば神殿の管轄、学術であれば宮廷魔導師団の所掌だが……いずれにせよ、王宮に上がるほどの事案ではあるまい。」
「左様でございますか。しかし、目撃した者の話では、地面……いえ、“地の底より天へ貫くような光”であったとか。帝国でも、臣民が噂するほどの現象は滅多に……」
特使は「魔法では?」と直接は言わないが、連想させる語彙で揺さぶりをかけた。
「ふむ、帝国の学術水準をもってしても珍しいほどの光か。ならばなおのこと、民の見間違いであろうな。」
王は動じない。むしろ「そんな大げさなものではない」と、鷹揚に特使の推測を“過剰反応”扱いする。
「王国はまだ若いが、王都の地下は古い遺構が多い。時折、地脈が揺らぎ、光や音を発する事もあると聞く。」
王はあくまで“自然現象”という要素を提示し、魔法の可能性を薄めようとする。
「なるほど……地脈の揺らぎ、でございますか。しかし、もし仮に―――仮にですが―――何らかの高度な”術式”の暴走であったとすれば、王都の安全にも関わりましょう?」
さらに、わざと“術式”という単語を用い、王の反応を観察した。
「特使殿、王都の治安と安寧を守っていく事は、この国の王たる私の責務。もし危険があるならば、すでに然るべき対処を命じておる。貴国にご心配をおかけするような事態ではない。どうかご安心なされよ。」
王は、特使の推測を“外交上の越権”としてやんわり牽制する。“これ以上踏み込むな”という意図を込めて。
「……左様でございましたか。陛下のお言葉を賜り、胸のつかえが晴れました。王都の安寧が保たれているのであれば、これ以上の詮索は無用でございましょうな。」
タルコラスは心中で毒づく。
(この妖猾め……!)※2
王は鷹揚に頷くと、切り出す。
「……さて、先ほど質問された会議の件について、の進捗であるが。……貴国のご提案については、我が国としても慎重に検討を進めておる。国政に深く関わる議ゆえ、拙速な結論は下せぬ。もうしばし猶予を賜りたい。」
「本日の来訪、まことにご苦労であった。私もこれより政務を控えておるゆえ、続きは改めての席にて話すとしよう。特使殿、今しばらく我が国にゆるりと滞在されよ。」
特使の眉がわずかに吊り上がり、声色が冷たくなる。
「承知いたしました、陛下。……ただし、帝国は、無為な時間を最も嫌う国でしてな?次にお目にかかる折には、何らかの進展を期待しております。……どうか、賢明なご判断を。」
タルコラスは席から立ち上がると、カープ(マント)を翻して王に背を向ける。王からはその表情は見えなくなった。彼は苦虫を噛み潰したような顔で応接室を出ていく。
重厚な扉が閉まり、特使タルコラスの足音が遠ざかっていった。
◇
特使が退出していったその扉を、王はしばらく眺めていたが、やがて軽く息をついた。
「これはなんぞ、嵐の前触れかのぅ?フフフ……。」
静かになったその部屋の中で、王は一人そう呟くと、少しの間目を瞑る。そして目をあけると立ち上がり、大臣らが忙しくしている執務室を目指すため、椅子からゆっくりと立ち上がる。
王の動きに合わせて扉が開かれると、外に控えていた近衛兵達が一斉に姿勢を正す。
王は軽く顎を引くだけで応え、言葉を発することなく歩き出した。
石造りの回廊はひんやりとしている。
足音が規則正しく反響し、その後ろを近衛兵達が静かに追従する。
すれ違う侍従や文官たちは、王の姿を認めるや否や足を止め、深く頭を垂れた。
だが王はそれらに目もくれず、ただ前だけを見据えて進む。
やがて、遠くからざわめきが聞こえ始める。
紙をめくる音、低く交わされる指示、忙しなく行き交う足音――
執務室の気配だ。
扉の前で直立不動の姿勢だった衛兵が、王が近づいてくると小気味よい動きで王の進路上を空けるように横に移動し、声を張る。
「国王陛下、ご入室――!」
重厚な扉が押し開かれた瞬間、室内のざわめきが一斉に引き締まる。
空気が張り詰め、視線が王へと集まった。
王は一歩、室内へ踏み入れる。
室内に控えていた宰相が一歩進み出る。
「陛下。特使との会談はどうでしたか?」
「……さすがに帝国も、何か嗅ぎつけたようだな?」
宰相は頷く。
「光の柱の件、昨夜かなり広範囲から確認されたようです。王都中で噂が立ち始めております」
王は腕を組んだ。
「調査の進捗は?」
「現地は封鎖済みです。行政官を中心とする調査隊と、宮廷魔導師団から何名かの調査員が、調査に入りました」
宰相は続ける。
「報告によれば―――」
一拍置き、続ける。
「地下から地上へ向けて、強力な魔法が放たれた痕跡がある、とのこと。」
王の目がわずかに細まる。
「地下から……か」
「はい。下水道の天井を貫き、地上まで一直線に」
宰相の声は低い。
「石材が溶解しているそうです。通常の魔法では考えにくい威力です」
王はしばし黙った。やがて静かに口を開く。
「この王都で、そのような術を使える者がいるとはな……」
宰相は慎重に言葉を選んだ。
「可能性は三つほど考えられます」
指を一本立てる。
「一つ、国外から潜入した魔術士」
もう一本。
「二つ、王国内の魔術士によるもの」
そして最後。
「三つ―――」
宰相は声を落とした。
「……我々の知らぬ存在」
王は窓辺へ歩いた。窓の桟に手をつき、外を眺める。
丘の上に建つ王宮からは、王都の街並みが広く見渡せる。
窓の外を見つめたまま、短く笑った。
「……それは、愉快ではないな?」
宰相も苦笑する。
「まったくです」
王は振り返った。
「……帝国の特使には曖昧に返答しておいた……が。」
「さすがでございます、陛下……」
「だが、余は国政を預かる者として詳細を知る必要がある。調査を急がせよ。だが―――」
少し声を低くする。
「……できるだけ、騒ぎは大きくするな」
「しかし陛下、現場周辺では既に噂が広がりつつあります……このままでは憶測が独り歩きいたしましょう。民心の動揺を鎮めるため、王宮より何らかの見解を示されるべきかと存じます」
王は宰相に背を向け、再び窓の外を見た。
王都の空には、穏やかな雲が流れている。
「そうか……。ならば仕方がない、か。……そなたに任せる、よきに計らえ」
「はっ!」
宰相は深く頭を下げると、王は踵を返し扉の方へ向かってゆく。執務室から王が退室するまでのそう長くはない間、彼はその姿勢のまま不動でいた。
扉が閉まる重い音が室内に響くと、ゆっくりと頭を上げる。
そして、宰相は近くの政務官に尋ねた。
「……私の決裁を要する案件は、以上で良いな?」
「は、……はっ!今の所、以上であります!」
「皆は引き続き、このまま作業を進めてくれ。私はこれより自分の執務室へ下がる。以降、私の決裁が必要な書類や、何か急ぎの案件が起きたら伝令官をよこしてくれ」
「「「はっ!」」」
官僚達は宰相の指示に声をそろえて応える。
(さて……。どうしたものか……)
宰相はそう小さく心の中で呟くと、自分の執務室へとむかう。
官僚達の執務机には、まだ大量に書類の束が残っていた。その中を悠然と立ち去ってゆく背を、憧憬の目で見つめる新任の官僚が呟く。
「宰相様の実務処理能力、凄いですね、先輩……。」
「ああ、俺ら政務官が束になっても、あの人には敵わないだろうな」
「自分も、あの方を目指して仕事をバリバリこなせる政務官になりたいものです」
「……ふふっ。そうか。あの方は私の目標でもある。お前も頑張れよ」
先輩の政務官は、気合いを入れる様に後輩の背を叩く。後輩はその衝撃に一瞬目を瞑る。抗議しようと先輩の方を向くと、彼が浮かべているその表情は、とても優しいものだった。
◇
放課後の生徒会室は、まだ陽の残る窓から柔らかな光が差し込み、机の上に積まれた書類の影を長く伸ばしていた。昼間の喧騒が去った学院の中で、ここだけが妙に活気づいている。
その理由は明白だった。
生徒会室の一か所に、数人の役員が集まって会話が弾んでいた。その集団の中心にいたのが、アルメリーだった。
「……だから言っただろう、あの下水道で放った魔法だよ!大量の土砂を一気に吹き飛ばしたやつ!眩しくて直視できなかったぜ!」
「それにしても……あんな強力で激しい魔法、授業でも聞いたことないぞ!?」
「いや、あれは見事だった。あんな長い詠唱……よくあの状況で通したものだ」
「そうそう。しかも途中で一度も噛まなかっただろ?普通あんな状況なら、途中で精神集中が乱れて術式が崩れるって。俺ならたとえあの魔法が使えたとしても、絶対途中で詠唱噛んで発動なんて、とてもとても……はははっ!」
「そもそも、あれだけ長い詠唱の魔法を実戦で使うなんてな……一体どこであんな術式習ったんだ!?」
次々と飛び交う言葉。
机を囲む役員達が身を乗り出し、まるで珍しい魔導書でも覗き込むような勢いで目を輝かせ、質問を浴びせている。
アルメリーは両手を軽く上げ、困ったように笑った。
「ま、待ってください……!あのっ、一斉に話されると、誰の質問に答えればいいのか、分からないわ……!」
その声に、部屋のあちこちから小さな笑いが起きる。
一方、少し離れた窓際では、別の役員達がその様子を眺めながら、のんびりとした調子で言葉を交わしていた。
「それにしても、敵の老魔術士……アデラースと言ったか」
腕を組んだ男子役員が、眉をひそめる。
「あれは相当だったな。正直、まともな精神状態とは思えなかった」
「もはや狂人だった。いや、元々狂ってたのかもな?」
「たしかにな~。ははっ」
別の役員が肩を竦める。
「私は、あの地下下水道のひどい臭いの方が印象に残っているが……」
「……それは否定出来ない」
小さな笑いが交わされた。
「だが、まあ……」
その中の一人が、窓の外をちらりと見て言う。
「皆、無事に帰還出来て何よりだ」
「そうだな」
その言葉には、どこか静かな安堵が混じっていた。
そこに、甲高い声が室内に響く。
「わたくしも、そちらの班に参加したかったですわ、アルベール様!」
縦に巻かれたプラチナブロンドの髪を揺らし、フェルロッテがその豊満な胸を張る。
「学院の風紀を預かる執行部として、危険な任務を看過するわけには参りませんもの!オーッホッホッホッ!」
高らかな笑い声が、生徒会室に響き渡る。
彼女から少し離れた所で役員達に囲まれているアルメリーは、その声を聞きながら役員達の質問攻めを、可愛く「秘密です♡」と答えたり、曖昧に暈したり濁しつつ、返答していく。一通りその対応が終わると、ふと視線を横へ向けた。その先にいたのは、アルベールだった。
落ち着いた佇まいで椅子に腰掛け、先ほどから皆の会話を静かに聞いている。
アルメリーはほんの一瞬、彼の様子を窺うように視線を向けた。
その小さな動きを、彼の隣に立っていたランセリアが見逃すはずもない。
彼女はわずかに眉を寄せた。
「……ふぅん」
小さく呟く。
そして、その時。
アルメリーと、アルベールの視線が合った。
「アルメリー」
穏やかな声だった。
「どうした?私の顔に、何か付いているのか?」
彼は首を少し傾げる。
「えっ……?」
突然名を呼ばれ、アルメリーは慌てて首を振る。
「い、いえ!そういうわけでは……!」
そのやり取りを、机の端に腰掛けていた男が面白そうに眺めていた。
紫の髪に、赤い瞳。
制服は規則ぎりぎりのところまで着崩されている。
ザール王国の第二王子であり、生徒会では広報担当のテオドルフである。
彼は頬杖をつきながら、くっくっと喉を鳴らして笑い、わざとらしく言う。
「へぇ~……そんなに兄貴の顔が気になるのか?」
「ち、違います!」
アルメリーが慌てて否定すると、テオドルフは肩を揺らして笑う。
「別に隠さなくてもいいだろ。皆、大好きな”青春”ってヤツだ!だが兄貴には、ランセリア嬢がいるからなー?やっぱ、俺にしとけって。な?」
「テオドルフ様?」
「卿、貴様……!?」
テオドルフの言葉に、動揺して制止する様に声が上がる。マルストンと、ヴィルノーだ。
二人の声が上がった後、ほんの少し間を置いて別の声が上がる。
「……テオドルフ様?」
聞いた者がゾクリとするような、凍りつくような声の主に皆の視線が集中する。
声の主はフェルロッテだった。
釣り上がった瞳が、王子をじっと見据えている。
「淑女をからかうなど、王族……いえ、それ以前に生徒の模範である生徒会役員として、いかがなものかしら?」
にっこりと笑う。
しかしその笑顔の奥では、押し殺した怒気が静かに揺らめいていた。
「……テオドルフ様、アルメリーはわたくしの友人ですのよ?」
室内の空気が一瞬にして静まった。
テオドルフはその視線を受け、普段の飄々とした仮面が外れたのか、思わず引いてしまった。
「すまん、軽口が過ぎた。許せフェルロッテ……、な?」
テオドルフは一歩近づき、伸ばしかけた手を一瞬だけ止めた。
彼女の視線を正面から受け止め、ためらいののち、そっと手の甲へ触れる。
「……そんな怖い顔をするな。君の顔が曇るのは、俺の本意じゃない」
フェルロッテは一瞬だけ眉を寄せ、触れられた手を見下ろした。
そのまま振り払うかと思われたが―――ほんのわずか、力が抜ける。
「……べ、別に。怒ってなどいませんわ。ただ……度が過ぎますのよ、あなたは」
テオドルフは小さく笑い、指先で彼女の手を包むように軽く撫でた。
「なら、これで機嫌を直してくれるか?」
「っ……勝手に触れないでくださいまし」
そう言いながらも、フェルロッテの声は先ほどより柔らかい。
触れられた手の温もりに、フェルロッテの頬がわずかに赤みを帯びている。
「……もう。次はありませんわよ、テオドルフ様」
その言葉に、テオドルフは満足げに微笑んだ。
そして彼女はアルメリーの方へ振り向くと、機嫌が治ったのか、いつもの調子で話しかけてくる。
「アルメリー。この方は、口だけは達者ですけれど、中身は案外小さいのですから」
「おい、そりゃねーだろぉ?」
テオドルフが苦笑する。
そのやり取りに、周囲の役員達から再び笑いが漏れた。
放課後の生徒会室は、普段よりも熱気があり賑やかだった。
生徒会役員達の大半の者が関わった、昨晩の「地下下水道の一件」の話題が、まだ熱を帯びていたからだ。
「いやー、道中敵の魔法使いの魔法が出現させた岩盤を登っていた時、俺、登るのに失敗して下水道の汚水の中に落ちたんだよ。鼻や口から汚水が入ってきて、あれは本当に死ぬかと思ったぞ……」
「あなたが先を急いで勝手に突っ込むからでしょう?」
「一番槍ってのは、男子にとって名誉な事なんだぞぅ?」
「はいはい。わかったわよ」
「でも、アルメリー嬢の魔法を唱える時間を稼ぐ為に、あのアデラースって魔法使いの魔法『重岩砲』の直撃を正面から受け、持ちこたえてその岩の砲丸をいなしたヴィルノー卿の活躍もすごかったよな……!リザベルト様の防御魔法があったとはいえ、俺なら盾で受けた瞬間に吹っ飛んでたわ……あっ、アレか?ヴィルノー卿ってアルメリー嬢の事が、好きなんだろうか?ほら、良く言うじゃん。好きな人の為なら、信じられないほどの力が出るって……」
その話を近くで聞いていたヴィルノーは、照れ臭そうに頬をぽりぽりと掻く。
マルストンの方は、自身が活躍らしい活躍が出来てないという思い込みからか、ショックを受け、少し涙を浮かべて落ち込んでる。
そんな雑談があちこちで飛び交い、紙の束が机に散らばる。椅子がきしむ音が混じる。生徒会室らしい喧噪。その中で、アルメリーは自分の机に腰掛け、友人たちと軽く談笑していた。
そこへ―――
アルベールが、何気ない足取りで通り過ぎる。本当に“ただ通り過ぎただけ”に見えた。
だが、彼の指先が机の端に触れた一瞬を、アルメリーは見逃さなかった。
小さく折り畳まれた紙片が、そこに置かれている。
「……?」
周囲はまだ賑やかだ。誰も気づいていない。
アルメリーはそっと紙片を手に取り、その手の中で開いた。
そこには、短い、しかし気になる言葉が並んでいた。
〝生徒会の仕事が終わった後、話がある。この校舎の端に古い資料室がある。
そこへ来てほしい。他言無用で頼む。”
(……会長が、わざわざ私を?)
思わず声が漏れそうになり、慌てて口元を押さえる。
胸がざわつく。
生徒会の皆が話している、昨晩の話が頭をよぎる。
(やっぱり昨日の件で、何かに気づいて……!?)
生徒会の仕事が終わる頃には、心臓の鼓動が落ち着くどころか、むしろ速くなっていた。
やがて、仕事が一段落した者から日常的な別れの挨拶を交わし、一人、二人と帰ってゆく。リザベルトも同じように帰り支度を済ませ、声を掛けてきた。
「アルメリー、……一緒に……帰ろう……?」
カロルも声を掛けてくる。
「今日、寄り道しない?」
「もー、一体……。どこに、寄るつもり……なの?……週末は……数日先……だよ?」
「あははー。まぁそうだよねぇ~」
友人たちが声をかけてくる。
いつもなら笑ってツッコミを入れるところだ。
だが今日は―――。
「ごめんなさい。ちょっと……用事があって。先に帰ってて?」
「え、珍しいね?」
「大丈夫……?なにか……手伝える……事があれ、ば……手伝う……よ?」
「本当に大丈夫!心配してくれてありがとう。」
笑顔で返しながらも、胸の奥は落ち着かない。
友人たちが去っていくのを軽く手を振って見届けた後、怪しまれないように、帰宅する他の役員に混じって生徒会室を出る。廊下を少し進み、階段を下まで降りたあとは皆とは別の方向、中庭の方へ進路を向ける。
中庭に出ると、そこは嘘のように静まり返っていた。
アルメリーは深く息を吸い、気合を入れるため、小さく息を吐いた。
下校を勧める様に、辺りには学院の鐘が鳴り響く。
アルメリーは夕暮れの中を一人、古い資料室へ向かって歩き出した。
その足取りは、迷いと緊張と、ほんの少しの恐れを含んでいた。
◇
中庭から中央校舎に戻ると、廊下には夕暮れの光が細長く伸びていた。
窓の外は橙から群青へと移り変わる途中で、校舎全体がゆっくりと夜に沈んでいくようだった。
(会長が、私に“話がある”、なんて……)
胸の奥が、落ち着かない。
不安とも期待ともつかない感情が、波のように押し寄せては引いていく。
足音だけが、廊下に規則正しく響いた。
普段なら気にも留めない音が、今日はやけに大きく感じられる。
(昨日の……私の記憶が無い時の事?それとも、皆に暈した魔法の事について、何か追及されるのかしら……)
考えれば考えるほど、答えは霧の中に沈んでいく。
会長の表情を思い出そうとしても、混乱と緊張が邪魔をして、うまく思い出せない。
さっきまで、一緒の部屋にいたのに―――。
校舎の端へ向かうほど、廊下の照明はまばらになり、影が濃くなっていく。
人の気配もなく、静寂が支配する空間。
(……こんなところに資料室なんて、あったかしら)
中央校舎には、普段使われない部屋も多い。その一つが、会長の指定した“古い資料室”なのだろう。
角を曲がると、薄暗い廊下の奥に、古びた木の扉が見えた。金属の取っ手は鈍く光り、扉の隙間からは埃っぽい空気が漏れている。
アルメリーは喉を鳴らし、そっと扉に手を伸ばした。
ギィ……。
扉は驚くほど軽く開き、室内の空気が流れ出す。
薄暗い。窓は小さく、棚には古い書類や巻物が積まれ、埃が軽く舞い上がる。
(……誰もいない)
会長はまだ来ていないらしい。
安堵と緊張が同時に胸に広がる。一人で待つ時間ができたことで、かえって心臓の鼓動が速くなる。
(どうしよう……。私、何を言われるのかしら……?)
資料室の中央に置かれた古い机に手を添え、アルメリーは深く息を吸った。
静寂が耳に痛いほどだ。
そのとき―――
廊下の向こうから、ゆっくりとした足音が近づいてくる。規則正しく、迷いのない足取り。
この学園で、その歩き方をする人物。
アルメリーの背筋が、自然と伸びた。
扉の前で足音が止まる。
そして、静かに扉が叩かれた。
扉が静かに開く。
夕暮れの残光を背に、アルベールが姿を現す。
その表情は、いつもの冷静さを保ちながらも、どこか決意を秘めていた。
声色は低く、落ち着いているのに、妙に胸に響く。
「……待たせたな、アルメリー嬢」
その一言だけで、アルメリーの心臓は跳ね上がった。
資料室の薄暗さが、彼の輪郭をより鋭く見せる。
アルベールは扉を閉め、ゆっくりと彼女の前まで歩み寄る。
机を挟んで向かい合うと、短く息を整えた。
その表情は、いつもの冷静さの奥に、言葉を選ぶ慎重さが滲んでいる。
「……まず、昨晩のことだ」
声は低く、静かだが、どこか張り詰めていた。
「地下下水道で放たれた“あの魔法”。あれは……あまりにも強力すぎる。宮廷魔術師団でも、扱える者はほとんどいないだろう」
アルメリーの肩がわずかに震える。
彼は続けた。
「今の所、生徒会役員以外に、あの魔法を放った人物は知られていない。だが……もし、あれが君だと知られれば……」
一拍置き、彼は目を伏せた。
「君は“危険人物”として拘束される可能性がある。最悪、投獄だ」
アルメリーの喉が、おびえる様にゴクッと鳴る。
アルベールは、彼女の反応を見て、少しだけ声を和らげた。
「もちろん私は、君が好き勝手にアレを放つような危険な術士だとは、微塵も疑っていない。だが……君の身に危険が迫る可能性は、現実として存在する」
資料室の薄暗さが、二人の間に重い影を落とす。
アルベールは視線を上げ、まっすぐに彼女を見つめた。
「だから……君を保護したい」
その言葉は、政治的な響きを持ちながらも、どこか個人的な温度を帯びていた。
「……ただの庇護では足りない。君を“王家の庇護下”に置く必要がある。そのためには……君の身分を引き上げなければならない」
アルメリーは息を呑む。
彼は、ほんのわずかに躊躇した。そして―――決意を込めて言った。
「単刀直入に言う。君に……“側室”になってほしい。」
空気が止まった。
アルメリーの頭が真っ白になる。
頬が一気に熱を帯び、視界が揺れる。
「そ、そく……しつ……?」
声が震え、言葉にならない。
(えっ……えっ……?あっ……、アレの事―――!?)
アルベールは続ける。
その声音には、政治的な冷静さと、どこか個人的な迷いが混じっていた。
「もちろん、君が今のままでは”家格”が足りない。そこで、信頼できる上級貴族家に、君を養女として迎え入れてもらうつもりだ。 その上で、正式に私の側室として迎える」
淡々とした説明の裏に、彼の焦りと不器用な誠意が滲む。
「これは政治的判断でもある。だが……君の意思を無視するつもりはない。君自身は……どう思う?」
アルメリーは、もう限界だった。
胸が熱く、頭が真っ白で、目はぐるぐる回り、顔は真っ赤だった。殿下の顔を見ることすらできない。
「わ、わたし……っ」
声が震え、言葉が続かない。
殿下が真剣な眼差しで私を見ていると思うと、余計に胸が締めつけられる。
(こんな大事な話……すぐに返事なんて……できない……)
震える唇で、ようやく絞り出した。
「……だ、だいじな……お話ですので…… 返事は……少し……待っていただけませんか……?」
アルベールは、静かに頷いた。
「……ああ。もちろんだ。急かすつもりはない。君の家のこともある。ゆっくり考えてくれればいい」
その声は、どこか安堵を含んでいた。
アルメリーが俯いたまま、胸に手を当てて呼吸を整えていると、 アルベールはそっと視線を外し、静かに言った。
「……今日は先に失礼する。其方も……あまり遅くならない様に……な?」
それだけ言うと、彼は机から一歩下がり、扉へ向かう。
足音は静かで、急ぐ様子はない。 安心したような落ち着いた歩みだった。
ギィ……。
殿下は何も言わず、静かに扉を開けた。 外の廊下の光が差し込み、彼の影が伸びる。
……そして扉がゆっくりと閉まると、室内に静寂が戻る。 アルメリーはその場に立ち尽くし、胸に手を当てたまま動けない。
殿下の言葉が、何度も頭の中で反芻される。あまりの事に……現実感がない……。
(私も今は貴族の娘だし、恋愛結婚は無理でも、いつかは……と、軽く思っていた。でも、まさか……そのお相手が殿下だなんて……どうしよう……本当に……。私、どうしたら…… )
アルメリーは薄暗い資料室で、「うーんうーん……」と悩み続けるのだった……。
……二人の距離は、確かに変わり始めていた。
◇
夕方、王都の各区それぞれにある広場に、城から伝令官の一行が到着する。伝令官は布告台に登壇すると、手を後ろに組み、背筋を伸ばして高らかに声を張り上げる。
「昨夜、王都にて確認された光の柱について布告する!」
伝令官は市民の反応を伺う様に目の前を見渡すと、次の言葉を続ける。
「あれは、宮廷魔導師団による地下施設での魔導試験に伴うものである!ザール王国建国より以前の、旧王国時代の魔導設備に起因する、想定外の魔力放出が一部あった!だが、既に制御は完了しており、周辺への危険は一切存在しない!」
後ろで組んだ手を解放し、伝令官は両手を広げ宣言する。
「王都の安全は確保されている!民は無用の不安を抱かず、平時の生活を続けるように!また、現在”立入禁止区域”に指定されている区域も、安全確認のためであり、数日以内に解除される予定である!だが落下の危険がある!近い内に穴を塞ぐ復旧工事が開始されるであろう!その為、”立ち入り禁止区域”の指定解除後も、穴の周辺には工事が完了するまで、近づかない様に!以上だ!」
伝令官は同じ内容の旨を何度か告げると、後ろに控えていた他の役人達が立札を広場に打ち立ててゆく。
「布告の詳細はこの立札に記してある!この場に居合わせぬ者にも、必ず周知徹底せよ!混乱を避け、平時の営みを続けよ!王都の安寧は、諸君一人ひとりの冷静な行動にかかっている―――以上だ!」
そう宣言すると、伝令官は壇上から降り、一行は城の方向へ戻っていくのであった。
それを聞いた広場で出店を開いていた商人が「なんだ、試験か」と肩の力を抜く。
母親と共に広場に来ていた子供が、母親に「光、きれいだったね~!」と無邪気に笑う。
だが一人、フードを目深に被った男が鼻で笑う。
「……地下で、試験だと?」
随分と都合のいい“物語”だ。
だが、あの場にいた者にとっては、それはあまりにも軽すぎた。
視線がわずかに細まる。
(あれは……そんなものではない……!)
結論だけが、静かに胸中へ沈む。
男は音もなく歩き出し、その姿は人の波に溶けて消えた。
王都は何も知らぬまま、穏やかな夕刻を迎えるのだった―――。
※1
虚無の日
(『 厄日 』を意味する、この世界の言葉。この日は天の加護が空となり、軽挙妄動を慎むべき日とされている。)
※2
クルルグリム
(狸の様な愛嬌がある野生動物。目が琥珀色で、瞳孔が縦長。耳は大きく、背中に走る黒い縞模様がある。尻尾は太く長い。)
この世界の童話・寓話等で「歳を経たクルルグリムは、幻影魔法を使い人間を騙したり、とぼけて相手を出し抜く、狡猾で腹芸が得意な知恵のある動物」……と、よく描かれている。
妖猾…… “妖しく狡い”。 動物名を使わずにクルルグリムを指す隠語的蔑称としても使われる。
例文)「この、妖猾め……!」




