番外編:ジェスアルド
めまいも耳鳴りも、寝不足のせいではない。
二、三日まともに寝なかったことは今までに何度もあるが、こんなにも苦しんだことはなかった。
ジェスアルドは込み上げてくる吐き気を堪え、近衛隊長のサイラスの報告に耳を傾けていた。
リリスが攫われてから三日。
皇宮内には絶望的な空気が流れていたが、ジェスアルドにはリリスはまだ生きていると確信があった。
なぜかはわからない。
しかし、不思議とリリスの存在を感じられるのだ。
ただ早く救い出さなければ、そんな曖昧な感覚さえ消えてしまう。
ジェスアルドは焦燥感に駆られながらも、立場上自ら探すこともできず、執務室から指揮を執るしかなかった。
そのとき、覚えのある感覚にジェスアルドの全身が反応した。
誰かが潜んでいるような気配を感じ、顔を上げて壁際を見つめる。
この執務室に抜け道はなく、密偵などが忍ぶことはできないはずだった。
(だが、この感覚は結婚前の……)
勝手に決められた同盟のための婚姻。
抗議のために皇帝の執務室に押しかけ感じた気配は、後に現実夢を見ていたリリスのものだとわかった。
だとすれば、今もリリスはここにいるのかもしれない。
ひょっとして目の前で、自分の居場所を伝えようとしているのかもしれないのだ。
間違いなくリリスは生きている。
そう確信したジェスアルドは、今すぐ執務室から飛び出したくなる気持ちを抑えるために、一度視線を外して呼吸を整えた。
「リリスは――妃はまだ皇宮内にいる」
「何か手がかりがつかめたのですか!?」
「いや、ただの勘だ」
このときサイラスに答えた言葉は情けないものではあったが、やはり間違いではなかった。
その日の夕方、一般配達に紛れて届いたリリスの手紙に書かれていたことが、ジェスアルドの勘が正しかったことを証明していたのだ。
リリスにしてはあり得ないほどに嘆き悲しむ言葉が並ぶ中で、『今こそ結婚式前日の約束を果たしたい』と書かれていたのだから。
この言葉を忘れるわけがない。
どうか無事でいてくれと、無事でいてくれるならこれから毎日尖塔のてっぺんから馬鹿だと叫んでくれていいとジェスアルドは祈った。
二度もリリスを攫われてしまうなど、実際に愚かなのだから。
尖塔の隠し部屋に辿り着いたとき、コンラードの腕に囚われていたとはいえ、どれだけほっとしただろう。
しかし、いつまでも安心してはおられず助けようとジェスアルドは手を伸ばした。
それなのに手が届かない。
リリスはジェスアルドからどんどん遠ざかり、崖へと向かっていく。
絶望のあまりジェスアルドが喘いだとき、はっと目が覚めた。
そして薄闇の中で気配を探り、安堵の吐息を漏らす。
リリスは無事だった。
しかもあの事件は一年以上も前のことなのだ。
もちろん、夢を見た原因はわかっている。
ベッドの端、今にも落ちそうな場所で眠るリリスを見て、ジェスアルドは苦笑した。
おそらく寝ながら転がっていくリリスを止めようと、ジェスアルドは無意識に手を伸ばしたのだろう。
(いっそのこと、もっと狭いベッドに眠れば……いや、それは間違いなく落ちるな)
リリスの吐息を確かめ、現実夢は見ていないようだと判断してベッド中央に戻しながら、ジェスアルドは対策を考えた。――が、すぐに諦める。
結局、リリスを腕にしっかり抱いて、ジェスアルドはもう少し眠るために目を閉じた。
* * *
「こんにちは、殿下」
「ああ……」
午前の執務を終わらせたジェスアルドは、リリスとエミリオの支度ができたとの連絡を受けて私室に戻ってきていた。
できる限り昼食は家族一緒にとると決めているのだ。
ここのところは特に何も問題もなく、リリスたちと過ごす時間も増えていた。
そしてリリスはいつも元気なのだが、今日はいつも以上に元気に見える。
「今日はご機嫌なんだな」
「リオですか?」
「いや、リリスのことだ」
ジェスアルドはリリスの膝の上で両手を伸ばすエミリオを抱き上げながら答えた。
するとエミリオは嬉しそうな声を上げ、リリスは不満そうに唇を尖らす。
「その言い方は子供相手みたいです」
「……すまない」
最近はうっかり言葉選びを間違ってしまう。
一度フリオに「あんよ」と言ってしまってから気をつけていたのだが失敗してしまった。
嬉しそうなエミリオに蹴りを入れられながら神妙に謝罪したジェスアルドを見て、リリスは慌てた。
「ほ、本当は怒ってなんていませんよ? 『あんよ』とか可愛いですから」
「……聞いたのか」
「い、いえ! 聞いたっていうか、聞こえたっていうか、〝紅の死神〟が『あんよ』とかギャップがたまらんですし、人気急上昇中らしいです!」
「そうか……」
まったくのフォローになっていないリリスの言葉に頷いて、ジェスアルドはエミリオを専用の椅子に座らせた。
あのときはフリオ以外にも政務官がいたなと思い出す。
ひとまず悪評ではないようなので放置していても大丈夫だろうと判断して、その噂については流すことにした。
以前は気にならなかった悪評も、エミリオが知れば傷つくのではないかと今から心配しているのだ。
そんな父親の心配をよそに、エミリオはご飯だと察して可愛らしい声を上げている。
「それで、何か嬉しいことでもあったのか?」
「へ?」
気を取り直したジェスアルドの質問に、その話はすっかり終わったと思っていたリリスは間抜けな返事をしてしまった。
しかし、すぐににんまり笑う。
「秘密です」
「うん?」
「今は秘密なんです」
「そうか……」
何があったのか知りたくもあったが、リリスが楽しそうなのでジェスアルドも楽しみに待つことにした。
今は、ということは後で教えてくれるのだろう。
ジェスアルドはリリスと二人でエミリオの食事を助けながら会話を楽しみ、昼食を終えて午後からの執務に戻った。
その夜――。
寝室に入ったジェスアルドはリリスがもうすでに寝ていることにがっかりしてしまった。
もちろん無理して起きていてほしいわけではないが、今夜は昼間の秘密を教えてくれるのではないかと思っていたのだ。
リリスはまたベッドから落ちそうなほど端で眠っている。
ジェスアルドは小さく笑いながら、リリスを中央に戻そうと抱えた。
すると、リリスがぱちりと目を覚ます。
「すまない、起こしてしまったな」
「――いいえ、起きることができてよかったです」
いつもは簡単には起きないリリスだが、今夜は意識もはっきりしており、ジェスアルドは驚いた。
そんなジェスアルドを見上げて、リリスはにっこり笑う。
「ジェドに大切な話があるんです」
「うん?」
「実は今日の午後にはっきりしたんですけど、二人目の赤ちゃんができました!」
「……は?」
「ベルドマが言うには、予定日は来年の夏らしいです!」
腕のなかで嬉しそうに告げるリリスを、ジェスアルドは呆然として見下ろした。
大切な話というのは昼間の秘密のことだろうと予想はついたが、その内容は想像もしていなかったことだったのだ。
しかし頭が理解した瞬間、ジェスアルドはリリスを抱きしめた。
「ジェド?」
「嬉しい」
「はい?」
「すごく嬉しいんだ。言葉では言い表せないほどに。だが、怖くもある」
リリスを腕に抱いたまま、ジェスアルドは喜びと不安の入り混じった気持ちを正直に語った。
するとリリスはジェスアルドの背に腕を回し、宥めるように優しくさする。
「大丈夫です。私は大丈夫ですから、ジェドは素直に喜んでください」
「だが――」
反論しかけたジェスアルドの口をリリスは片手で塞いだ。
しかしその顔には笑みが浮かんでいる。
「リオのときだって、妊娠経過は順調だったでしょう? 確かに出産時には色々あって、私も弱音を吐きましたが、二人目ですからね。そのうち三人、四人と産んで今に肝っ玉母さんになってみせますから」
「肝っ玉母さんか……」
「はい。任せてください」
二人とも色々あった出産時のことを思い出してはいたが、口には出さなかった。
リリスとジェスアルドには大切な家族がいて、幸せな未来があるのだ。
「――ありがとう、リリス」
「こちらこそ、ありがとうございます」
静かな時間の中で、二人は穏やかに微笑んだ。
ジェスアルドにとってかけがえのない宝が、幸せが増えていく。
ベッドに横になり、あっという間に寝息を立て始めたリリスをじっと眺め、ジェスアルドは再び微笑んだ。
そしてふと思う。
(やはり離せないな)
以前から寝相の悪いリリスはジェスアルドをよく蹴ったりしていた。
ジェスアルドとしてはまったくかまわないのだが、あまりにリリスが気にするので最近は離れる気配がしてもできるだけ好きにさせていたのだ。
しかし今のままではいつベッドから落ちるかわからない。
対策としては、もっと広いベッドにするか、柵をするか、ジェスアルドが抱えるか。
となると、答えは決まっている。
ジェスアルドがリリスの頭と枕の間にそっと腕を差し入れると、さっそく蹴りが入った。
必死に笑いを抑えたジェスアルドは、気持ちよさそうに眠るリリスを再び抱き寄せた。
そして目を閉じる。
すると聞こえてきたのはリリスと子供たちの明るい笑い声。
まるで現実夢のようにはっきりとした夢は、ジェスアルドを幸せな眠りへと誘ったのだった。
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