第07話 決別と新たな旅路
「早くしろ!」
「はい!」
商業ギルドから、少女が駆け出してくる。
朝は腰まであった髪はばっさり切られ、今はショートカット。
服も古着屋で調達した、村娘風のパンツスタイルだ。
本音を言うと、少女はスカートを穿きたかった。
もう二度と戻れない自宅のクローゼットの中は、スカートばかり。
ズボンを穿くのは、せいぜい学校のジャージくらいだった。
しかし、ユーマはそれを許さなかった。
理由は二つある。
一つは、足を出していては無駄に身体を冷やすから。
もう一つは、草むらや藪に入ったとき、擦り傷を負うからだ。
「いいか?
街の外じゃ、トイレなんてその辺で済ますものだ。今回は特別だぞ」
手すりに掴まり、少女は力を込めてステップを蹴る。
馬車の御者台に跳ね上がり、ユーマの隣に座ると、待っていたのはさらなる叱責だった。
「……はい」
少女はしょんぼりとうなだれた。
商談を終え、街を立つ準備も整った。
だけど、街を出る前にトイレを済ませておきたい。
ユーマが少女を待っていた理由は、それだった。
しかも少女は緊張のせいで時間がかかり、ユーマは結構な時間待たされることになった。
「それじゃあ出発するぞ。
今日は陽が沈んでも進むことになる。覚悟しておけ」
「はい」
ユーマが手綱を振るい、馬が歩き出す。
車輪が回り、石畳の上でカタコトと音を立てた。
******
「これから出るのか。気をつけろよ」
「ありがとうございます」
城門で退場手続きを済ませ、いよいよ馬車は街の外へ出ていく。
五日前、この城門をくぐったとき、少女の胸にあったのは不安だけだった。
だが今は違う。
胸の内には、不安とともに期待もあった。
「あの……。ごめんなさい」
「突然、どうした?」
それと、申し訳なさも。
「だって、本当は昼に出る予定だったんですよね?」
「でも、私……。力ないし……。
まごまごもしていたから、荷物を積むのが遅くなって……。」
理由は、少女自身が今言った通りだ。
麦がぎっしり詰まった、抱え上げるのも一苦労の麻袋。
これまで力仕事をしたことのない少女には、あまりに重すぎた。
一袋目は、よろめきながらも運ぶことができた。
しかし二袋目からは、数を重ねるごとに運ぶ速さが落ちていく。
最後の十五袋目など、一歩歩いては休む始末。
運び終えたときには息も絶え絶えで、その場にへたり込み、しばらく動けなくなった。
「そんなことは承知の上で、お前を買ったんだ。気にするな」
「だけど……。」
その間、ユーマは黙って少女を見ていた。
試していたと言い換えてもいい。
その程度で音を上げるなら、この先は通用しない。
奴隷商から少女を買った代金は無駄になるが、そのときは商業ギルドに預け、街に置いていくつもりだった。
ユーマは少女を高く評価していた。
確かに力はないが、そこは今後に期待だ。
腕ではなく腰で持つコツさえ覚えれば、力がなくても運ぶ速度はぐっと早くなる。
それに、重いからといって大事な商品を一度も引きずらずに運んだこと。
これこそ、商人として大切な素質だった。
「誰だって、最初は上手くいかない。
お前は仕事をちゃんとやった。それで十分だ」
ふと背後で大きな水音が聞こえた。
パシャリ、パシャリ、と続けて、二回。
「そして、旅の予定を決めるのは、俺の仕事だ。
お前が考える必要はない」
少女は思わず、遠ざかっていく街を振り返った。
だがユーマの言葉に、すぐ前を向き直す。
「まあ、少しだけ事情を教えておくと……。
もうすぐ冬になる。雪が降る前に、次の街に着いておきたいんだ」
川沿いの道を、馬車は進んでいく。
少女は、今が晩秋だと初めて知った。
五日前の現代では、春だった。
「次の街まで、どれくらいかかるんですか?」
「真っ直ぐ向かえば七日だ。
だが、途中の村々に寄り道していくから、一ヶ月ほどの旅になる」
「一ヶ月……。長いんですね」
その上、思っていた以上の長旅になると知り、少女はさらに驚いた。
馬車の進みは、それほど速くない。
だから目的地が遠いのか近いのか、今ひとつ見当がつかなかった。
少女にとって、旅行経験は三泊四日が最長だ。
それを思えば、一ヶ月の旅はあまりにも長い。不安が少し膨らむ。
「トイレの場所に拘るなんて、馬鹿らしいのが分かっただろ?」
「……そうですね」
ユーマが鼻で笑った。
少女は納得するしかなかった。
まだ旅は始まったばかりだが、少女は悟った。
街や村で過ごす時間よりも、圧倒的に野外で過ごす時間の方が長いのだろうと。
「今後はトイレのときでも離れるな。草むらに隠れるのも駄目だ」
「ど、どうしてですか!」
しかし、そのあとに続いたユーマの言葉は納得できなかった。
少女は目を見開き、思わず叫んで非難した。
「馬鹿……。襲われる危険が増えるだけだろ?
特にお前は女だ。しゃがむ必要があるんだから致命的だぞ」
ユーマは溜息を深々と漏らした。
「うっ……。」
少女は言葉に詰まり、その至極真っ当な理由に納得せざるを得なかった。
「くっくっくっ……。安心しろ。三日もすれば慣れる」
「……な、慣れたくありません!」
ユーマは肩を揺らして笑い、少女は赤くなった顔をそっぽに向けた。
「えっ!?」
そのときだった。
隣の川を、うつ伏せの人影が馬車より少し速く流れてきた。
「ユ、ユーマさん! ひ、人がっ!?」
「ああ、死体だな」
「し、死体っ!?」
少女は思わず立ち上がろうとした。
だが、馬車の揺れに気づき、腰を落とす。
「街で死ねたやつは、幸せだ。
ああやって流され、魚の餌になり、その魚を人間が食う。
巡り巡って、また人の中に戻ってくる」
ユーマは冷めた目で死体を眺め、ふと眉を跳ねさせた。
「だけど、俺たちは違う。
誰にも知られず、野垂れ死にだ。拾ってくれない」
右足がない。
ズボンは穿いているが、右の裾だけが死体から先に流れている。
その昔、右足を失ったある人物の話を聞いたのは、昨夜のことだ。
偶然だ、とユーマが思った次の瞬間だった。
「あ、あれ! わ、私の学校の制服です!」
もう一人、うつ伏せの人影が川を流れてきた。
少女が指をさして叫ぶ前から、ユーマにとっても見覚えのある制服だった。
スカートは完全に捲れ、やはり見覚えのある赤い下着が露わになっている。
ユーマは息を深く吐き、目を静かに閉じた。
「お前ら、下着も奪われたって言ってただろ?
だったら、奪ったやつが制服を売り払って、誰かがそれを買った。
それだけの話だ」
「そ、そんな……。」
もはや、二人が誰かは間違いない。
昨夜、ユーマが共にした彼女は健康そのものだった。
急死するなど、とても考えられない。
つまり、そういうことだ。
自分に抱かれたことが嫌だったのか。
自分が成功しているのが妬ましかったのか。
それとも、先の見えない苦しい生活に、ただ疲れただけなのか。
自問自答しても、答えは得られない。
それを握っていたはずの彼女は、もういない。
「……おつかれさま。風早さん」
ユーマは少女に聞かれないように、口の中でそっと呟き、遠ざかってゆく二つの死体を見送った。
神は天におらず、すべて世は事もなし。
――第一部、完。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。




