――第 54 幕 閉じた円環と終わらないリフレイン――
ブォォォォ……。
エアコンの送風音が、頭蓋骨の中で低く反響している。 フィルターに詰まったカビの胞子と、安っぽい人工甘味料の臭いが混ざり合い、肺の奥に粘着質にへばりつく。
水曜日。 午後五時。 フルーツクラブ、三号室。
壁一面に貼られた防音材。 その表面に開いた無数の小さな穴が、数百個の眼球となって、私たちを監視しているような錯覚。
「……先輩」
声。 スピーカーからの出力ではない。 私の鼓膜を直接震わせる、生身の音波。
「次、入れましたよ」
黒髪の少女が、タブレットを操作している。 液晶の青白い光が、彼女の顔を下から照らし出す。 その輪郭線だけが、この薄暗い密室の中で、異常なほど鮮明に浮き上がっている。
外の世界は、ボケている。
一ヶ月前。 あの日、世界は一度砕け、そして再構成された。 日常は戻った。 大学に行き、講義を受け、早川たちと話す。
だが、ピントが合わない。
早川の笑顔は、解像度の低い画像のように粗く見える。 マユミ先輩の愚痴も、アンナ先輩の小言も、ガラス一枚隔てた向こう側の出来事のように、音がくぐもって聞こえる。
彼らは私を避けているわけではない。 ただ、私がまとっている空気が――あの夜明けの校庭で浴びた「異界の粒子」が――、彼らの生存本能を刺激し、見えない境界線を作っているのだ。
腫れ物。 あるいは、異物。
「……ああ」
私はマイクを握り直した。 右手。 掌には、赤黒いケロイドが残っている。 第53幕で、世界の修復機能(拒絶)を無理やりこじ開けた代償。
痛くはない。 だが、指を曲げるたびに皮膚が突っ張り、そこに「焼き付いた記憶」を再生させる。
モニターを見る。 曲名が表示される。
まただ。 また、この曲だ。
彼女は、毎週水曜日にここへ来て、必ず同じ曲を入れる。 歌詞の一言一句、ブレスのタイミングまで、完璧に記憶しているはずなのに。
「……飽きないな」 「飽きませんよ」
彼女はこちらを見ずに答える。 その口元が、微かに歪んでいる。 笑っているのか、それとも何かに耐えているのか。
彼女の指先が、タブレットの画面をなぞる。 その指は、陶器のように白く、そして物理的にありえないほど冷たい。 あの日、私が引きずり戻した「それ」は、生身の体温を失ったまま、こうして私の隣に定着されている。
イントロが流れる。 安いシンセサイザーの音。
私はマイクを口元に近づけた。 スポンジから、誰かの唾液とタバコの酸化した臭いがする。
歌う。
上手くはない。 音程はズレているし、声量も足りない。 だが、この密室において、私の歌声だけが唯一の物理的な振動源だ。
彼女が、タンバリンを叩く。 シャン、シャン。 そのリズムもまた、ほんの僅かに曲とズレている。
完璧な不協和音。
世界中が私たちを無視しても、否定しても構わない。 この狭い箱の中だけが、私たちの世界の全てだ。 私が彼女を観測し、彼女が私を観測する。 その相互参照のループだけが、私たちをここに存在させている。
「……ふふ」
彼女が笑う。 その笑顔の裏にある、底知れない執着と、暗い喜びを、私だけが知っている。
曲が終わる。 静寂。 エアコンの音だけが戻ってくる。
「……また来週ですね」
彼女が言う。 疑問形ではない。 永遠に繰り返されることへの、呪いのような確認。
「ああ」
私は右手の火傷痕を、左手で強く握りしめた。 突っ張るような違和感。 それが、私が選んだ「現実」の手触りだった。
モニターに、次の曲の予約が表示される。 終わらないリフレイン。 私たちは、この閉じた円環の中で、ズレたままの青春を歌い続ける。
――End of Sequence――
読了、ありがとうございます。 少しだけ、この物語の「楽屋裏」についてお話しさせてください。
本作の根底に流れているのは、私自身の大学時代の青春と、 その底に沈殿していた苦悩を記した「日記」です。
当時、私は本作の冒頭の主人公のように、 安全圏から世界を観測するだけで、 自ら傷つくような行動を起こすことのない人間でした。
叶わぬ恋に対し、正論や常識という現実にただ忖度し、 綺麗で無難な思い出としてすべてを真空パックして、 終わらせてしまったのです。
この『錆と蜜の箱庭』は、そんな臆病だった過去の自分に対する、 私なりの「復讐」です。
もしあの時、綺麗な幻影のまま終わらせることを拒絶し、 泥と錆にまみれてでも自分のエゴを押し通していたら。
周囲の正論という不可視の防壁を、 汚れた靴で踏み越えてでも、彼女に気持ちを告げていたら。
本作は、そんな「もしも」の妄想の果てにたどり着いた、 もうひとつの結末の形です。
物語の終盤で、主人公は観測者の安全圏を捨て、泥沼の現実を選び取りました。
「思い出なんて、クソ食らえだ」 「もっと、揉めたいんだよ」
それは、かつての私が決して言葉にできなかった、 純度100%の我執の叫びでもあります。
決して美しいハッピーエンドではありませんが、 あの不完全で狂った共犯関係こそが、 過去の私が本当に求めていたものだったのかもしれません。
貴重な時間を割いていただき、本当にありがとうございました。
それでは、また次作でお会いしましょう。




