表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

55/55

――第 54 幕 閉じた円環と終わらないリフレイン――

 ブォォォォ……。

 エアコンの送風音が、頭蓋骨の中で低く反響している。 フィルターに詰まったカビの胞子と、安っぽい人工甘味料シロップの臭いが混ざり合い、肺の奥に粘着質にへばりつく。

 水曜日。 午後五時。 フルーツクラブ、三号室。

 壁一面に貼られた防音材。 その表面に開いた無数の小さな穴が、数百個の眼球(レンズ)となって、私たちを監視しているような錯覚。

「……先輩」

 声。 スピーカーからの出力ではない。 私の鼓膜を直接震わせる、生身の音波。

「次、入れましたよ」

 黒髪の少女が、タブレットを操作している。 液晶の青白い光が、彼女の顔を下から照らし出す。 その輪郭線だけが、この薄暗い密室の中で、異常なほど鮮明(ハイレゾ)に浮き上がっている。

 外の世界は、ボケている。

 一ヶ月前。 あの日、世界は一度砕け、そして再構成された。 日常は戻った。 大学に行き、講義を受け、早川たちと話す。

 だが、ピントが合わない。

 早川の笑顔は、解像度の低い画像のように粗く見える。 マユミ先輩の愚痴も、アンナ先輩の小言も、ガラス一枚隔てた向こう側の出来事のように、音がくぐもって聞こえる。

 彼らは私を避けているわけではない。 ただ、私がまとっている空気が――あの夜明けの校庭で浴びた「異界の粒子」が――、彼らの生存本能を刺激し、見えない境界線(バリア)を作っているのだ。

 腫れ物。 あるいは、異物(エラー)

「……ああ」

 私はマイクを握り直した。 右手。 掌には、赤黒いケロイド(火傷痕)が残っている。 第53幕で、世界の修復機能(拒絶)を無理やりこじ開けた代償。

 痛くはない。 だが、指を曲げるたびに皮膚が突っ張り、そこに「焼き付いた記憶」を再生させる。

 モニターを見る。 曲名が表示される。

 まただ。 また、この曲だ。

 彼女は、毎週水曜日にここへ来て、必ず同じ曲を入れる。 歌詞の一言一句、ブレスのタイミングまで、完璧に記憶しているはずなのに。

「……飽きないな」 「飽きませんよ」

 彼女はこちらを見ずに答える。 その口元が、微かに歪んでいる。 笑っているのか、それとも何かに耐えているのか。

 彼女の指先が、タブレットの画面をなぞる。 その指は、陶器のように白く、そして物理的にありえないほど冷たい。 あの日、私が引きずり戻した「それ」は、生身の体温を失ったまま、こうして私の隣に定着(フィックス)されている。

 イントロが流れる。 安いシンセサイザーの音。

 私はマイクを口元に近づけた。 スポンジから、誰かの唾液とタバコの酸化した臭いがする。

 歌う。

 上手くはない。 音程はズレているし、声量も足りない。 だが、この密室において、私の歌声だけが唯一の物理的な振動源だ。

 彼女が、タンバリンを叩く。 シャン、シャン。 そのリズムもまた、ほんの僅かに曲とズレている。

 完璧な不協和音。

 世界中が私たちを無視しても、否定しても構わない。 この狭い箱の中だけが、私たちの世界の全てだ。 私が彼女を観測し、彼女が私を観測する。 その相互参照のループだけが、私たちをここに存在させている。

「……ふふ」

 彼女が笑う。 その笑顔の裏にある、底知れない執着と、暗い喜びを、私だけが知っている。

 曲が終わる。 静寂。 エアコンの音だけが戻ってくる。

「……また来週ですね」

 彼女が言う。 疑問形ではない。 永遠に繰り返されることへの、呪いのような確認。

「ああ」

 私は右手の火傷痕を、左手で強く握りしめた。 突っ張るような違和感。 それが、私が選んだ「現実」の手触りだった。

 モニターに、次の曲の予約が表示される。 終わらないリフレイン。 私たちは、この閉じた円環の中で、ズレたままの青春を歌い続ける。

 ――End of Sequence――

 読了、ありがとうございます。 少しだけ、この物語の「楽屋裏」についてお話しさせてください。

 本作の根底に流れているのは、私自身の大学時代の青春と、 その底に沈殿(ヘドロ)していた苦悩を記した「日記」です。

 当時、私は本作の冒頭の主人公のように、 安全圏から世界を観測(モニタ)するだけで、 自ら傷つくような行動を起こすことのない人間でした。

 叶わぬ恋に対し、正論や常識という現実にただ忖度(そんたく)し、 綺麗で無難な思い出としてすべてを真空(しんくう)パックして、 終わらせてしまったのです。

 この『錆と蜜の箱庭』は、そんな臆病だった過去の自分に対する、 私なりの「復讐」です。

 もしあの時、綺麗な幻影のまま終わらせることを拒絶(リジェクト)し、 泥と錆にまみれてでも自分のエゴを押し通していたら。

 周囲の正論という不可視の防壁(バリケード)を、 汚れた靴で踏み越えてでも、彼女に気持ちを告げていたら。

 本作は、そんな「もしも」の妄想の果てにたどり着いた、 もうひとつの結末の形です。

 物語の終盤で、主人公は観測者の安全圏を捨て、泥沼の現実を選び取りました。

「思い出なんて、クソ食らえだ」 「もっと、揉めたいんだよ」

 それは、かつての私が決して言葉にできなかった、 純度100%の我執(エゴ)の叫びでもあります。

 決して美しいハッピーエンドではありませんが、 あの不完全で狂った共犯関係こそが、 過去の私が本当に求めていたものだったのかもしれません。

 貴重な時間を割いていただき、本当にありがとうございました。

 それでは、また次作でお会いしましょう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ