――第 2 幕 春の回想と文字のバグ――
記憶のテープを巻き戻す。ノイズの走る映像の先にあるのは、四月の、あの不快なほどに鮮やかな午後だ。
安っぽいブルーシートの臭い。新入生を勧誘する拡声器のハウリングと、過剰な期待に浮ついた嬌声が、粘度のある大気となって肌に張り付いている。
サークル勧誘テントの列。私はその隅にあるパイプ椅子に腰掛け、死んだ魚のような目で、通り過ぎる群衆を眺めていた。
「新文化部」。実態のない幽霊サークル。私の仕事は、机の上に置かれた名簿という名の空白を守ることだけだ。
頭上からは、桜の花びらがパラパラと落ちてくる。アスファルトにへばりつき、靴底で踏み潰されて黒いシミになっていく、植物の死骸たち。
不快だ。世界中が発情しているような、この熱気が。
私は親指の爪の付け根を、白くなるまで押し込んだ。痛みで意識を覚醒させ、この低俗な現実から自分を切り離す。
その時。
視界の端で、色が消失した。
喧騒の波が、そこだけ不自然に切り取られている。一人の少女が、私の目の前で足を止めていた。
腰まで届く、漆黒の髪。肌は陶器のように白く、毛穴という生物的ノイズが完全に欠落している。顔の中央には、赤い縁の眼鏡。
精巧に作られた、日本人形。あるいは、高解像度のホログラム。
彼女は周囲の雑踏とは違うフレームレートで動いているように見えた。ゆっくりと、私の前のパイプ椅子に座る。
ギィ。
錆びた蝶番が上げる悲鳴が、鼓膜を刺す。彼女の質量によって、パイプ椅子が歪んだ音だ。
「……入部を、希望します。です」
語尾に奇妙なノイズが混じる。声質はクリアだが、抑揚がない。自動音声のアナウンスに近い、無機質な響き。
私は無言で、机の上のボールペンと入部届を滑らせた。彼女の細い指が、ペンの軸を握る。
その瞬間。
世界に亀裂が入った。
彼女の整った外見からは想像もつかない、暴力的な挙動。ペンの先端が、紙の繊維を食い破るほどの筆圧で押し付けられる。
ガリッ、ガリガリッ。
黒板を爪で引っ掻くような、生理的な拒絶を誘発する摩擦音。背筋に冷たいものが走り、胃の腑が縮み上がる。
彼女の手は震えているのではない。脳からの電気信号が、筋肉に正しく伝達されず、ショートを繰り返しているような動き。
やがて、ペンが止まった。彼女は顔を上げ、少しだけ唇を歪めた。笑顔、のつもりなのだろうか。
私は手元に引き寄せられた紙片へ視線を落とす。
息が止まった。
そこに書かれていたのは、文字ではない。のたうち回るミミズの死骸。あるいは、呪詛によって焼け焦げた神経の痕跡。
『 黒 川 』
判読不能な線の集合体。「川」の字の縦線が、互いに交差し、ねじ切れ、インクだまりを作って紙を汚している。右利きの人間が、麻酔を打たれた左手で無理やり書いたような、平衡感覚の崩壊。
汚い。吐き気を催すほどに、醜悪だ。
だが。
ドクン。
肋骨の内側で、心臓が奇妙なリズムで跳ねた。喉の奥が乾き、指先が熱を帯びる。
完璧な容姿。作り物のような美しさ。その内側に、これほどまでにグロテスクで、制御不能な混沌が渦巻いている。
バグだ。この完璧に管理された世界において、彼女だけが処理落ちを起こしている。
その事実が、私の歪んだ自尊心を猛烈に刺激する。
彼女は、壊れている。ならば、誰かが観測してやらねばならない。
「……綺麗な字ですね」
口をついて出たのは、正反対の嘘。いや、私にとっては真実だ。この汚れこそが、彼女の存在証明なのだから。
彼女は一瞬、眼鏡の奥で瞬きを止めた。レンズが白く光り、表情を隠す。
「……ありがとう、ございます。です」
風が吹いた。机の上のミミズ文字が、パタパタと音を立てて暴れる。舞い落ちた桜の花びらが、インクの乾いていない紙の上に落ち、黒く染まっていく。
私は確信した。この春、私はとんでもない異物を手に入れたのだと。
指先の震えを隠すように、私は再び親指の爪を強く押し込んだ。




