――第 0 幕 錆と蜜の箱庭――
自動ドアが開く。
ウィーン、という間の抜けた電子音と共に、暴力的な暖気が顔面に吹き付けた。
ショッピングモール「フジグラン」。 巨大な直方体の内部は、制御された室温と、過剰な光量で満たされている。
眩しい。
頭上の蛍光灯の列が、白いレーザーとなって網膜を焼く。 鼻の奥を、甘ったるい芳香剤と、焦げたポップコーンの臭いが刺激する。
「付き合いなさいよ」
アンナの声。 彼女は私の腕を離したが、その拘束力は消えていない。 彼女の背中から発せられる「拒絶不可能な引力」が、私を磁石のように引き寄せている。 歩き出す。
コツ、コツ、コツ。
彼女のヒールが、鏡のように磨かれたリノリウムの床を叩く。 その硬質なリズムに合わせて、私のスニーカーがキュッ、キュッ、と情けない摩擦音を立てて追従する。
1階。婦人服売り場。 2階。雑貨売り場。 3階。また婦人服売り場。
おかしい。
エスカレーターに乗ったはずだ。 上昇したという平衡感覚の記憶はある。 だが、目の前を流れるテナントの景色が、さっき見たものと全く同じ配置でリピートされている。
既視感。あるいは、空間のバグ。
「ねえ、どっちがいいと思う?」
彼女が二枚のニットを体に合わせて振り返る。 赤と、青。どちらも同じに見える。 私の色覚機能が低下しているのか、それともこの商品自体に差異データが存在しないのか。
「……どっちでも、いいです」 「はあ? 真面目に見てよ」
彼女の声が、耳の奥で高周波ノイズとなって反響する。
鼓膜が物理的に痛い。
思考が泥のように重い。 早く行かなければならない。カラオケへ。彼女の元へ。 焦燥感が胃の腑で炭酸ガスのように膨れ上がり、食道を圧迫する。
だが、出口が見つからない。
通路の先は、白い光のハレーションでぼやけている。 この建物には、入口はあっても出口という概念が設計されていないのではないか。 店内BGM。 安っぽいシンセサイザーでアレンジされたJ-POPが、壊れたレコードのように同じフレーズを繰り返している。
タララ、ラララ。タララ、ラララ。
時間の感覚が溶ける。 私は腕時計を見た。
ヒュッ。
喉の奥で、空気が凍りついた。
短針の位置。 私の認識では、ここに来てから三十分も経っていないはずだ。 だが、時計の針は、残酷なほどの角度を開いて停止している。
午後、三時。
四時間。
四時間もの時間が、ごっそりと消失している。
ここは牢獄だ。 光と匂いと音で構成された、見えない壁の牢獄。
帰りたい。 だが、出口はまだ、光の向こう側に隠蔽されている。
……ことの始まりは、あの凍てつく一月の夜からだった。




