序章2
唐突に自分の名前を呼ばれ、戸惑いながらも、会話が前に進んだことにわずかな安堵を覚えた。
「……そうですが、なぜ……」
「柊木結鶴さんのことで、お話があります」
息子の名前が出た瞬間、胸の奥に喜びと不安が同時に押し寄せた。
喉が詰まり、言葉が出てこない。
ただ、話を続けてほしいという気持ちを込めて、黙ったまま素早く頷いた。
「話す順番が大切だな」
神主の呟きが独り言なのか、こちらに向けたものなのか判断できないまま、彼は構わず続ける。
「あなたと、取引がしたい」
「……取引?」
「まず、このままだと、あなたの息子は目を覚ましません」
「え……どういうことですか?」
あまりに唐突で、理解が追いつかない。
「そのままの意味です」
都合の悪いことを告げられ、反射的にこの人物の信憑性を疑いたくなる。
しかし、神主は淡々と話を続けた。
「だから、取引です」
「取引……」
「こちらのお願いを聞いていただければ、息子さんを救うチャンスを与えます」
「正確に言えば、そのお願いそのものが、あなたにとっての“チャンス”です」
「チャンス……? いや、状況がよく……息子が、目を覚まさない?」
言葉を選ぼうとしても、思考が追いつかない。
「その証拠のようなものは……?」
「ありません」
即答だった。
「予想に近い話ですし、仮に証拠があっても、あなたが信じるかどうかは別の問題です」
「結局、信じるかどうかは、あなた次第ですから」
核心を避ける言い方に不安を覚えつつも、私は小さく謝り、続きを促した。
「まず、私は“違う世界”の管理者です」
頭のどこかで想像していた答えだったが、実際に口にされると、やはり驚きは隠せない。
「……神様のようなもの、ですか?」
「そう理解していただいて構いません」
「別の、世界が……ある?」
正常なら疑っていたはずだ。だが私は、自分が信じたいものを選んでいた。
「本来、あなたたちが認識することはありませんが」
「……それで?」
「管理者の権限で、あなたを別の世界へ移動してもらいます」
「それが、お願い……?」
「ええ。目的は別にありますが」
「目的?」
「それは、追々」
曖昧な答えに引っかかりを覚えつつ、私は最も重要な点を尋ねた。
「戻ってくることは、できますか?」
「条件付きですが、可能です」
「その条件は……?」
「今は話せません」
戻る方法を探すこと自体が、こちらの役目らしい。
「……それで、どうやって息子を助けるんですか?」
「方法そのものは教えられませんが、ヒントはあります」
「向こうの世界には、こちらで言う“魔法”に近い奇跡の技術が存在します」
「魔法……」
「呼び方は違いますが、概念は近いですね」
「それを覚えて、戻ってきて……?」
「こちらの世界では使えませんが、応用できる方法はあるはずです。それを模索してください」
悩みはしたが、強く否定する気にはなれなかった。
仮に詐欺だったとしても、相手に得るものは何もない。
最悪、異世界に行けないだけだ。
意識を失ってから十日。原因不明のまま眠り続ける息子の姿が脳裏をよぎる。
「……それで、何をすれば?」
「おお、受けていただけますか」
「今のところは……」
「では、説明します」
神は少し早口になった。
「肉体そのものを移動させることはできません。向こうで使う“器”を用意します」
私は黙って頷く。
「それはアストラルボディと呼ばれ、あなたの肉体的全盛期を基に構築します」
陸上をしていた、十八から二十歳頃だろうか。
「意識を、そちらへ移します」
「今の体は?」
「ここに安置します。アストラルボディと接続されており、向こうでの状態が反映されます」
つまり、放置しても問題はないらしい。
「……向こうで死んだら?」
「接続が切れ、こちらの体も死にます」
背中に冷たい汗が流れた。
「準備を始めますが、よろしいですか?」
心臓の鼓動が、さらに速くなる。
「……少し、時間をください」
目を閉じる。展開が急すぎて、整理が追いつかない。
だが、もしこれが本当なら、息子を救う唯一の道だ。
騙されていたとしても、失うものは今と変わらない。
むしろ、そんな状態の息子の親に対してそんな悪趣味な企画を仕掛ける方が、
今のご時世では神の存在より非現実的だった。
「念のため聞きます。断ったら?」
「記憶を消し、二度と現れません」
「保留は?」
「この建物を出た時点で、同様です」
「……一つだけ」
「どうぞ」
「どれくらい、時間がかかりますか」
「状況次第ですが、数年は必要でしょう。ただし時間の流れは異なります」
「どれくらい?」
「向こうの五年が、こちらの一週間ほどです」
私は小さく呟き、病院や職場への連絡を考え始めた。
「携帯で連絡は?」
「この空間は切り離されています」
神は続けて言う。
「紙とペンを用意します。届けることは可能です」
私は病院宛に、しばらく来られないこと、息子を頼みたいことを書き残した。
冷静ではなかった。
それでも、この奇跡を手放すという選択だけは、どうしてもできなかった。




