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序章1

 妻が亡くなって、三年が経った。


 悲しみが癒えたわけではない。ただ、それと共に生きることには、随分と慣れてしまったように思う。


 妻が遺してくれた忘れ形見――息子は、母の顔を知らないまま、三つ年を重ねた。


 もし息子の顔が妻に似ていたなら、彼を見るたびに最期の姿を思い出し、もっと深く悲しみに沈んでいたかもしれない。


 けれど、周囲が口を揃えて言うように、彼は昔の私にそっくりだった。


 目を閉じたまま、動かない息子の姿を見つめる時間を過ごし、私は病院を後にした。


 よほどの理由がない限り、面会時間の延長はできないらしい。

 納得はできないが、騒いでも意味がないことは分かっていた。


 病院は家からそれほど離れておらず、歩いて帰れる距離にある。

 ただ、家に戻っても落ち着かない。


 そこで私は、昔に何度か訪れたことのある、今は誰にも管理されていない小さな神社へ向かった。

 四日前に買い、神社に置きっぱなしにしている掃除道具を使い、境内を掃除するためだ。


 意味のない行為なのだろう。

 何かあったときにしか神の存在を意識しない、そんな普通の人間が、今さら特別なことをしたところで、奇跡が起きるはずもない。


 それでも私は、どれほど小さな希望であっても、縋らずにはいられなかった。


 十日前、仕事中に突然、保育園から連絡が入った。


結鶴(ゆづる)くんの意識がありません。今、所長が近くの大学病院に連れて行っています」


 動揺を隠しきれない保育士の言葉を聞き、上司に事情を伝えて、すぐに病院へ向かった。


 最初の三日間は病室に泊まり込んだが、息子は目を覚まさないものの、容体は良くも悪くも安定しているとのことで、半ば強制的に帰宅させられた。


 何もできない。


 それでも、

 何かをしなければならなかった。


 意味がなくても、「息子のために何かをしている」という事実

 それがなければ、自分を許せない気がした。


 そんなとき、病院と家の間に、昔よく遊んだ小さな神社があったことを思い出した。


 忙しさに追われていた日々が嘘のように、今は家に帰ってもやることがない。

 せめて神様に祈ろうと、不揃いで苔むした石段を登り、何年も手入れされていないであろう境内の奥へ進む。


 ぼろぼろではあるが、かろうじて原型を留めている本殿の前で、私はただ手を合わせ、目を閉じた。


 賽銭箱も鈴もない場所だった。


 それから、病院の帰りに近くのホームセンターで買った掃除道具を使い、荒れ果てた神社を掃除するのが日課になった。


 いつ訪れても、昨日とまったく同じ場所に置かれている道具を見て、この神社には本当に誰も来ていないのだと実感する。


 神社に通い始めて七日目。風の強い日のことだった。


 いつものように石段を登り、右に緩やかにカーブした、木々の葉が両側から張り出した道を少し進む。

 そして、かつて本殿だったであろう建物の脇に置いてある掃除道具へ向かった。


 屈んだ、その瞬間だった。


 ――風が、止んでいる。


 あれほど強かった風を、まったく感じない。


「……いや、違う」


 すぐに気づく。

 風が止んだわけではない。

 周囲の木々は、

 確かに葉を揺らしている。


 掃除道具を元の場所に戻し、私は本殿の正面へ回った。

 そこへ移動する間も、やはり風を感じない。


 正面の扉を見て、初めて気づく。意識していなかったが、当然、建物の”中”がある。


 気づいた時には、無意識にぼろぼろの段差を慎重に上り、扉に手をかけていた。

 もしもう少し綺麗な神社だったなら、神聖な場所として、こんな行動は取らなかったかもしれない。


 横開きの木の扉は、思った以上にあっさりと開いた。

 力を込めすぎたせいで、バシン、と乾いた音が響く。

 新しい襖を開けたような感触にも驚いたが、それ以上に

 ――目の前の光景が、その驚きを消し去った。


 ――人が、いる。


 神主のような装束を身に着けた人物が、こちらに向かって座っていた。

 中が思ったよりも広く、外より少しだけ綺麗であることには、その時は気づかなかった。


「すみません。人がいるとは思わなくて」


 奇妙な光景に似つかわしくない、ありふれた言葉が口をついて出る。


 数秒経っても、相手は何も言わず、ただ真っ直ぐにこちらを見ていた。

 表情からは、感情を読み取れない。

 沈黙に耐えきれず、私は言葉を重ねる。


「ここの神主さん、でしょうか?」


 普段なら、恐怖と気まずさから逃げ出していたはずだ。

 だが、この場所に何かを期待して通っていた私には、この人物から目を背けることができなかった。


 やがて、唐突にその口が動いた。音のない口の動きを追っていると、すぐに声が届く。


柊木 連(ひいらぎ れん)さんですね」

 聞き慣れたはずの、自分の名前だった。

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