EX肉食獣が記者になるまで
「はぁ……はぁ……」
荒い息遣いが、波音に紛れていた。
白い砂と、紺碧の海。美しいコントラストを持つ海岸には、多くの漂着物が流されてきていた。沖の方で難破でもあったのだろうか。木造船の木材や積荷が散見される。寂しい浜辺に海鳥のみゃあみゃあという鳴き声が響く。蒼碧の空には翼を広げた海鳥がたゆたう。
殆ど薄れかかる景色の中で、男は迫り来る死を覚悟していた。
男は難破した船に乗っていた。水練に自信はあったから、船が沈む前に自ら海に飛び込んだのだ。けれど、波と潮流のある外洋は、故郷の川とはまるで勝手が違った。
抜き手をきって進もうとしても、進めない。沈みゆく船は、道ずれを探し求める旅人のように、やたらめったら手足を振り回していた。海中に引きずりこむ向きに、抗いようのない流れができあがってしまっていた。慣れない海の荒波で、殆ど息継ぎもできていなかった男は、必死の努力の甲斐無く、海に飲まれ意識を失ったのだ。
けれど、男の命運はまだ尽きてはいなかった。
高速で流れる船の残骸に身体中を滅多打ちにされながらも、彼の身体は五体満足で浜にまで流されていたのだ。
身体はボロボロ、意識は朦朧としていたが、男の身体は過酷な状況にも耐えられるように、よく訓練されていた。ズタボロにされたくらいでは死なないし、死ねない。
半ば無意識で、己の身体を安全な洞窟に潜めていた。辛い、しんどい、眠い。口の中が塩辛い。
手近に自生していた植物の葉を噛みながら、男は海を見つめていたのだ。
「罰……」
男の生業は人に誇れる類のものではなく、むしろ業を積み重ねて行くような、罪深い職だった。こんな場所で野垂れ死ぬとしても、天罰だと納得出来てしまいそうな。
道徳的に納得はしても、人間の本能はそう簡単に死を選ぶことはない。
無意識に栄養を求め、食物を口に運ぶ。しがしが、しがしが。味がなくなるまで草を食み、消化のできない食べカスを吐き捨てた。何かを食べると、唾液と一緒にほんの少し元気が湧いてきた。まだ、いける。
男は全身の傷を恐る恐る確認した。
骨折、打撲多数。傷のない部位を探す方が難しい。普通であれば、激痛で動くこともままならないであろうが、男は自らの痛覚を部分的に遮断していた。夜の属性の力である。これがあるからこそ、行動不能に陥らずに済んでいる。
男はふと、喉が焼けるように痛むのを認識した。これはなんだ。
痛覚の遮断には欠点もある。痛みは決して生命にとって、無駄な機能などではない。身体の大事な危機感知機能をわざわざ麻痺させているのだ。早急に手当が必要な障害への気付きと対処はどうしても遅れてしまう。
「み、水を……」
渇水。喉が乾ききっている。心なしか、手足が勝手に震えている気がする。
食料はおろか、水も携帯していない。男は慌てて立ち上がった。重度の立ちくらみ。水を飲まなければ、意識を失うのはあっという間。この状況で眠るということは死
を意味する。
なんとかして飲み水を確保しなければ。
激しい立ちくらみに耐えつつ、洞窟の外に出た。相変わらず、憎い位の晴天と、美しい海岸だ。難破にはまったくふさわしくない。
水、水。
ふらふらと海水に引き寄せられそうになるが、なんとかこらえる。なけなしの理性をかき集め、海岸に背を向けた。陸側はちょっとした林になっていた。植物があるということは、水源があるということだ。川か何かを見つけられればいいのだが。この身体もいつまで保つかは分からないのだ。
折れた足を引きずって、男は林の中に足を踏み入れた。途端に波の音が遠く離れた気がする。事故現場から離れたことで、惨めな自分がより一層意識させられてしまう。
勘で方向を決めて歩き出した。
男の運はやはり良かった。
歩みは遅遅としていたが、そう長く歩かない内に清流を発見した。幸運である。
乾いた心に、喜びが染み渡る。その時ばかりは、足の怪我を忘れて、川に駆け寄った。
――そして、喰われた。
水場に集まる大型獣を捕食する生態を持つ魔獣。気配を潜め、物陰からじっと獲物を狙う。群れを作らないため、魔獣の中でも危険度は低く、武装した集団ならば容易く討ち果たせる魔獣。
男からは微かに獣の匂いがした。潮水の匂いに混じって、微かに香る。しかも、その足取りは弱々しい。
獲物だ!魔獣はそう判断した。
狙うは水を飲むために獲物が無防備になった瞬間。待つほどもなかった。獲物は油断した。瞬間、その喉笛に食らいついた。
首が驚くほどに伸びて行き、魔獣の牙は獲物の抵抗を許さず、屠る。その、筈だった。
獲物は弱って見えた。しかし、生命の危機に瀕して、最期の力を振り絞ったのだろう。咄嗟に喉を守るために細腕を割り込ませてきた。
鬱陶しい。
魔獣は苛立った。その怒りのまま、腕を食いちぎろうと、獲物の身体を振り回した。
猛烈な勢いで獲物の身体が飛んで行く。腕が千切れてしまったわけではない。噛み方が甘かったのか、すっぽ抜けてしまったのだ。
高く高く飛んだ獲物は、空を飛ぶことも出来ず、落下していった。
まあいい。あの高さから落下しては、助かることもないだろう。じっくり解体すればいい。
水場の隠れ家を捨てて、鈍重な魔獣はのっそりと獲物に近付いた。勝利の確信。魔獣がそれをするには、少しばかり早すぎた。
「なんじゃ、村の者の話では川を禁足地にしておると言っておったのに、人がいるではないか。旅人か?」
魔獣の後ろから、嗄れた声が聞こえてきた。魔獣は振り向く。いや、振り向こうとした。
「悪いな」
老人、だった。魔獣は己を殺した人間の顔を見つめながら、息を引き取った。
男は目を薄く開いた。
まだ、生きている。水を飲もうとした瞬間、猛烈な勢いで宙を飛んだことは覚えている。落下の衝撃で意識を失ってしまったらしく、以降のことは覚えていない。
ここは何処だ。洞窟のようだが、天井も高くかなり上等だ。男が自分で見つけた海岸沿いの洞穴とは段違いの居心地だ。
身体は動かない。当たり前だ。あの高さからの落下。命があったのが不思議だ。もう身体を動かすことは出来ないのだろうか。いや、それ以前にこの怪我では助かるまい。
大人しく諦観に至るには、男はまだ若かった。十八歳。結婚さえ、まだなのだ。
「目覚めたかの?あまり動かぬ方が良い。傷は深かったのじゃから」
「誰だ!?」
必死に首を巡らせて、声の主を視界に収めようとするのだが、できない。男の努力を嘲笑うかのように、向こうの方から姿を見せてくれた。
風格のある老人だ。
「わしか?わしは通りがかった旅人じゃ。名をファーレーンという。魔獣に襲われていたからな、手当をしておいた」
よく見ると己の身体を動かせないのは、神経の断裂とかではなく、外から包帯や添え木で固定されているからだった。これが手当だろう。
「そこに一週間分の水と食糧を置いておく。足りなければ、工夫して自分で集めるがいい。なに、身体が動かない中で、出来ることを探すのも面白いものじゃ」
老人の言うとおり、乾燥食と水が確かに用意されていた。男は訝りながら訪ねた。
「……金は持っていないぞ」
「そのようじゃな。無い袖は振れないからのぅ。別に要らんよ」
老人はニヤリと笑い、踵を返した。
そのまま洞窟を去って行くと見えたので、男は驚いた。
「お、おい!何処に行く!?」
「わしはこう見えて忙しい。路銀を稼ぐために、たまに魔獣退治など請け負ってはおるが、脇道じゃ。本道ではない」
男は足りない情報から推測を積み重ねて、老人――ファーレーンの意図を探ろうとした。
魔獣退治。恐らくは、男を襲った水辺の魔獣のことだ。何処かの集落で討伐してもらうように頼まれたのか。つまり、見た目通りのただの老人ではない。
戦闘力、あるいは狡猾な魔獣を手玉に取れるだけの知恵。とにかく、彼は実力者なのだろう。
旅人など、そう見掛けるものではない。村と村を繋ぐのは小さなキャラバン隊であり、個人の旅人が移動するのは極めて稀だ。魔獣、天候、旅中に遭遇するアクシデントに対応できる者しか、旅人として生き残ることはできない。
つまり、この老人は一角の人物だということだ。そんな人間に身体検査をされた?毒の塗りたくった短刀や、暗器を見られた?
「待て!待つんだ!」
老人は男を秘密を吹聴して周るタイプには見えなかったが、何故か男は必死に呼び止めていた。
「なんじゃ?人恋しいのか?」
「そんな訳があるかッ!貴様、俺の身体を調べただろう?」
「治療のためにな。必要以上のものは手をつけておらぬ」
男は首を左右にした。
「関係ないな。秘密を知られたからには生かしておけぬ!」
男の身体には魔獣の血が混じっていた。再生能力は常人よりも遥かに高い。十分な栄養と休息さえあれば、この位の傷で立ち上がるのもわけはないのだ。
しかし、添え木が邪魔だ。不恰好に起き上がるしかない。羞恥に顔が紅くなる。何をやっているのだ、馬鹿。と、己を叱咤する。
「老い先短い老いぼれじゃ。記録にも残さん。捨て置け」
男を敵意を見てとったのか、老人の声が固くなった。無償の善意で助けてやった人間が、あろうことか牙を剥いているのだ。その理不尽に内心、腸が煮えくりかえっているだろう。
男は昏い笑みを見せた。純粋な善意だけで人を助けるような善人が、同じ世界に居ていい筈がない。善人の心に悪意を植え付けてやった。それは純白の雪を穢す快感。
「助けて欲しいだなんて、頼んでない」
言葉と同時、男は老人に襲いかかった。殺すつもりはなかったし、何より今の自分では返り討ちに合うのが関の山だと悟っていた。しかし――
老人は身を翻し、楽々と攻撃を回避していた。
「忙しいのでな。これで失礼させてもらう」
ただ一言言い残し、老人は機敏な動きで穴倉の外へ。走りに自信のある男も今の状態で、追い付けるとは思えなかった。
空気が抜けた風船のように、その場にへたり込んだ。
諦め、療養に専念する。それしかないだろう。
刹那の泡沫のような、一瞬の出会い。これが辺境の冒険家ファーレーンとの初めての邂逅だった。
男はファーレーンに執着が残っていた。任務成功の報告のために、一刻も早く故郷に戻らなねばならない。それなのに、男は一向に帰還の気配を見せなかった。
近隣の町で、装備と物資を補充した男は、ファーレーンの目撃情報を追い掛け、辺境の奥地へと踏み入って行った。
あの輝きに、もう一度触れたい。あの善なるものの内側を知りたい。渇望に突き動かされ、男は荒れ野を進む。
魔獣の生息域は主に辺境である。人がいない場所には魔が住まう。男は多少の武術の心得はあったものの、それは人間を相手に想定された技法であり、人知を越えた魔獣相手にそのまま通用するなんて甘いことはなかった。
戦えば、敗れる。
それが分かっていたから、男は己の気配を消した。隠形法は彼の最も得意とする技法だ。魔獣相手にも、滅多な相手でなければ見抜かれることはない。戦闘そのものを避けつつ、男は亜人も住まない更なる奥地へ。ここまで来ると、村も町も存在しない。完全なる無人地帯に入ってしまう。当然、ファーレーンの目撃情報も途切れた。彼の足取りを追跡するのは不可能かと思われた。
けれど、偶然とは面白いものだ。
「また会ったな、爺さん。あんたに秘密を暴露されたら困るんでな。ここで始末させてもらう」
出会うまでの高揚。焦がれるような気持ちを上書きするかのように、戦意が身体に満ちる。
ファーレーンを発見したのは、見たことのない遺跡の前だった。山肌をくり抜くようにして残っている蟻の巣穴のようなものを、彼はじっと観察していた。あんなものを見て、何が楽しいのだろうか。
「遥か昔。ここには人が住んでおった。これはその遺構じゃ。観光地と言ってもいいかもしれぬ。これはハズレじゃ」
男の声を聞いて、ゆっくりファーレーンは振り向いた。構えは自然だが、隙は見つからない。油断はしていないようだ。何しろ、男の身体は数週間の療養によってほぼ完治していた。痩せた老人より力は強いし、足も早い。
今戦えば、勝敗の天秤はどちらに傾くか分からない。
威勢のよい男と、あくまで冷静沈着なファーレーンは好対照だった。
「ハズレ?確かにそうだろうな。ここで俺と出会ってしまった不運を嘆くんだな!」
「……来るぞ」
何の脈絡もない、ファーレーンの言葉。
男はこの時ほど、自分の夜属性に感謝したことはなかった。直感で足元の土が盛り上がるのを感じ、咄嗟に真横に跳ねたのだ。
土中から突如姿を現した魔獣は、涎塗れの口蓋を、男の足があった場所で、がぷりと閉じた。
「其奴は地中に隠れる。夜の属性のお主では手に余る相手じゃろう。少し、下がっておれ」
男は抗議する暇もなかった。直前の死の危険。冷や汗を拭うだけで精一杯だったのだ。
細長い芋虫のような魔獣は、再び地中に引っ込んでいた。魔獣が土中に穿った穴だけが真っ暗な口を覗かせている。
無理だ。男がこの魔獣を打倒しようとするのなら、敵が地上に姿を見せた一瞬の隙に、斬るしかない。切れるかも分からないなまくらで。厚さも分からぬ魔獣の表皮を切り裂けるのか?
実力が足りない。そして何より情報が足りなかった。こんな魔獣知らない。故郷の山にはいなかった!
ファーレーンは空を飛んだ。宙で真下を眺めつつ、まるで地中の魔獣の位置がわかっているかのように、狙いを定める。
「<灼火>」
広げた手の先から光が迸る。ファーレーンが伸ばした光の槍は、一発で地中の魔獣を捉えていた。光線は魔獣を貫き、魔獣の体液を瞬く間に蒸発させた。一本釣りのように、土中から引き上げられた魔獣は、見間違いようもなく、絶命していた。
干からびた死体は、黒焦げになっており、ほんの少しそよ風が吹いただけで、ボロボロと崩れて跡形もなく消えてしまった。
地上に着地したファーレーンは、肩を叩いて疲労を見せつつも、取り乱したりはしていなかった。この大活劇のような魔獣退治も、彼にとっては日常の一コマだとでも言うつもりだろうか。
男は慄いた。そして、同時に光の輝きに魅せられていた。
「爺さん、何者だ?」
「前に名乗らなんだか?ファーレーンじゃよ」
「それはもう知っている。辺境の村をふらふらと彷徨う謎の老人だともな。ある村では、風のようにふらりと訪れる貴様を神の化身だと崇めていたぞ」
「ふむ。光栄なことじゃが、恐れ多いことでもある。わしはむしろ神に敵対する者じゃろうからな」
「神に敵対?それが、貴様が絶大なる力を持つ理由か!?」
「うーむ。まあ、よいか。丁度時間もできた。たまには語りに徹するも悪くなかろう」
男はファーレーンの目的と、力の理由を聞いた。長い話だった。だが、興味深い話でもあった。
一日がかりの話は夜を跨いで行われた。
故郷から殆ど出たことのない男にとっては、ファーレーンの語る全てが新鮮だった。男はいつしか老人の話にのめり込んで行った。
「つまり、あんたはこの世界の”根源”を探すために旅をしているのか」
「当て所無い話じゃがな。しかし、徒労と笑われようとも、止める気はないよ。沿岸で、陸が見える位置までしか船を出さないのは、確かに安全じゃ。しかし、それだけでは、目の前にある当たり前すら見過ごしてしまう。気まぐれで命知らずの漁師が、陸から離れた外洋に船を出さなければ、南洋国家との交易が始まることはなかったようにな」
「ふん。夢のような話だ」
「夢のない世界で生きるよりは、マシな生き方じゃと思うがなあ」
「それでその年まで所帯も持たず、放浪してるんだから、諦めろよ。夢はとっくに破れてるだろ」
最初は些細な好奇心だった。しかし今感じるのは強い羨望の気持ちだった。彼の知る世界は、あまりにも広大だ。その世界をもっと知りたい。探険してみたい。
屈折した気持ちが憎まれ口となって飛び出した。
「まだ分からんよ」
ファーレーンの横顔に寂寥が過ったのは気のせいか。
男はファーレーンに別れを告げた。彼を殺そうという気持ちはとっくに萎えていた。
もっと世界を知りたい、広い世界を知りたい。男の中にあるのは、この知的欲求だけだ。
男は故郷に戻らなかった。過去の自分は、あの海に沈んでしまったのだ、と思い定めた。
たったそれだけ。一つのことを決心しただけで、男は自由になれた。しがらみから解放された。
芸は身を助ける。男は故郷で習得した隠密技能や戦闘技術を駆使して、辺境での生存に慣れて行った。危険な魔獣は避けて、より安全な道を選ぶ。
そうやって一年間生き延びた男は、一端の冒険者になっていた。
責任がない気楽な一人旅を満喫していた男は、次第に不満を感じるようになっていた。最初は楽しかった。慣れない荒野の生活。水を確保するだけでも一苦労で、いつ野垂れ死するのかビクビクしていた。今思い返せば、そんな苦労も素晴らしい思い出のように思える。
しかし荒野の生活にも慣れてしまった。安定した生活は望むところではあったが、世界の広さを感じられる機会は稀になった。惰性で放浪しているようなものだ。
それでもごくたまに、素晴らしい体験ができる。それは大自然の雄大さであったり、古代人の巨大遺構であったり、様々だ。
今の男は天から気紛れに滴る甘露を、大口を開けて待っているだけの存在だ。男は飢えていた。渇いていた。
男はごく自然に、あの輝きとの再会を心待ちにしていた。
空を切り裂く獄炎と、刻まれた皺の一つ一つに宿る叡智。
男は、ファーレーンとの再会を求めて、各地の遺跡を訪った。
王国にも行った。南洋国家にも行った。もちろん、帝国にも。
故郷の里から、追手が差し向けられた時は驚いた。男は里の急所である秘術の術式を習得していた、秘密を漏らすことは里の掟で禁じられている。縁切りをしたとはいえ、男の口はそこまで軽くはない。秘密を誰にも話したことはなかったが、向こうも問答無用だった。裏切り者の男の根拠の無い保証よりも、死人に口なしという、絶対の真理の方が信じられるということだろう。追手は顔見知りだったが、自己保存の為に容赦なく殺害した。正当防衛だ。責められるいわれはない。
命を狙われたとはいえ、知り合いだ。墓を作り、遺体は埋めてやった。
いやな出会いだった。けれど、男の運は生来いいらしい。
悪い再会の次にやってきたのは、良い再会だった。
偶然と出会いの神は、男の味方をした。さらに一年の後、男はファーレーンに再会した。二年前と寸分変わらぬ姿。男は老人への挨拶もそこそこに、頭を下げた。
「ファーレーン!!頼む。俺を弟子にしてくれ!」
「……突然じゃなぁ。わしは弟子を取るような器ではないよ」
ファーレーンは目を幾度か瞬かせた。
「無理は承知の上で、だ!あんたの見ている世界を俺にもっと見せてくれ」
「いや、しかし、わしに教えられることなど、殆どないぞ?この力については話したと思うが、教えられる類のものではないしのぅ」
「なんだったら、弟子でなくても、供という形でもいい。雑用でもなんでも引き受ける」
「旅の道ずれというわけか」
「頼む。あんた以外に頼れる奴はいないんだ」
「……頼むにはそれなりの礼がいるじゃろうに。無礼者の供など願い下げじゃ」
「す、すまん――いや、申し訳ない、です。たの、お、お願いするっす。拙者をファーレーンさんの弟子にしてくださいッ!」
両膝を土に付け、腰を落とす。両手と頭を揃えて地につける。男の故郷に伝わる深い礼節の姿勢だった。
「ふむ。そこまで言うのなら、無下に断ることもあるまい。一週間、試しについて来るがいい。それで得るものがないと判断したのなら、どことなりと行くが良い。引き留めはせぬから」
「あ、ありがとうございます!」
弟子ではなく、道ずれ。当初望んだ形とは違ったが、男はファーレーンの同行者となった。
ファーレーンは人の目の届かぬ辺境を出入りしていた。古代の遺跡を探し求め、まだ荒らされていない辺境に活路を求めたのだ。
辺境には亜人の住まう村々が点在している。補給のために、ファーレーンたちは定期的に村を訪れた。
辺境の亜人村は、純血を守るために排他的な傾向が強い。なのに、ファーレーンだけは、彼らにさえ歓迎された。
辺境の魔獣を屠る腕っ節と、あらゆる問題を解決する叡智。ファーレーンは辺境の住人から、純粋な尊敬の念を集めていたのだ。
いく先々で歓待されるファーレーンの後ろ姿を、男は見つめ続けていた。ファーレーンが積み上げてきた物の大きさを目の当たりにして、己の通って来た人生の轍をふと振り返るのだ。
轍に残るのは、轢き殺された人々の血痕だけ。血塗られた轍は、彼自身が望んで来たものではない。罪悪感もあまりない。
けれど、こうして栄光の輝きに満ちたファーレーンの背中に広がる豊穣を見ていると、どうしても比べてしまうのだ。
破壊するだけで、何物も生み出さない己の矮小さを、自覚させられるのだ。
男が意気消沈しているのは明らかだったにも関わらず、ファーレーンは何も言わなかった。
ファーレーンは男に対して何も語らない。行動で示すだけだ。
後に賢者と呼ばれる老人の後ろ姿に、男はいつの間にか魅了されていた。
一週間が経っても、一ヶ月が経っても。男はファーレーンの下から離れようとしなかった。そうしていつの間にか、男の姿がファーレーンの後ろにある光景は当然のことになっていた。
数年間、男はファーレーンとともに旅を続けた。各地の遺跡を巡り、時には驚異的なアーティファクトを発見し、時には幻想種との交渉に立ち会ったりもした。
充実した日々だった。新鮮な毎日。こんな楽しい日々がずっと続けばいいのに。
ある日のこと。各地に観測地点を設けることで、エーテル濃度の分布を計測していた大賢者は、確信を持って呟いた。
「ここじゃ、竜の渓谷。ここになんらかの神秘がある。もしかすると、それはわしが探し求めていたものかもしれぬ」
「”根源”……ッスか?」
「然り」
ファーレーンの瞳は子供のように輝いていた。それを見た男は、祝いの言葉を述べた。ファーレーンの喜びが我が事のように嬉しかったのである。
エーテル濃度は普遍的に存在する性質上、偏りが出ることは滅多にない。少なくとも人為的に手を加えない限りは。
トリニティとして夜の属性を持つファーレーンはエーテル濃度の偏りを感知することができる。
十数年に渡る観測データの集積から導き出される異常濃度ポイント。最強の幻想が住まうと言われる竜の渓谷には、人為的エーテル操作の痕跡があるようだ。
ファーレーンが行くと決めたのならば、男に否応はなかった。
「何処までも、ついていくッス」
まだ見たことのないものを見るために。男はファーレーンの背中を追っていた。なんの疑いもなく、栄光と勝利を信じて。
しかし、現実は非情だった。
渓谷は確かにファーレーンの目当ての場所だったらしい。目的地に近づくにつれて、エーテル濃度が異常な域にまで達し、身体機能に不都合を及ぼすほどになる。
男はエーテルを消し去る秘術を使い、なんとか異常な空間を耐え忍んでいた。ファーレーンはといえば、都合三つの属性を同時に行使することで、エーテルの消費量と供給量を拮抗させていた。原理としては男の秘術と同じなのだが、練度と持久力が段違いだった。
小一時間しないうちに、男の精神力は尽きていた。秘術が維持できなくなり、その場に倒れこむ。エーテルが身体を侵食し、痛みすら感じるほどだ。
「おい、大丈夫か!?」
振り返ったファーレーンが、駆け寄ってくる。男はうつ伏せの姿勢で、なんとか顔を上げた。
「大丈夫ッス……。でも、これ以上は進めないみたいッス。身体がもう、動かないんス」
「むぅ……。引き返す……か?」
ファーレーンは男の体調を確認し、これ以上の悪化はないと判断した。絶え間無くエーテルを消費しながら、残念そうに言った。
幾ら症状が悪化しないといっても、男は立って歩くとこさえできない。探索をここで断念するという判断は至極真っ当なものであった。
男は苦しみに悶えながら、ふとファーレーンの顔を見上げた。
男を気遣う顔色の中に、未練を見つけた瞬間、反射的に男は叫んでいた。
「い、行ってください!一人で!」
「なんじゃと?」
「こんな所で、爺さんの夢が潰える光景なんて見たくないんスよ。しかもそれが拙者の未熟のせいだなんて」
「しかし、じゃな」
「行って!拙者はここで帰りを待ってるッスから」
ファーレーンはしばらく逡巡していた。ここで一度出直すこと。そのまま強行して奥地へ踏み込むこと。その選択肢を吟味して、彼は選んだ。
己の渇望に素直になることを。
「分かった。少し様子を探ってから戻ってくる。それまで気を確かにの」
魔獣の姿は見当たらなかったが、念ために男の身体を物陰に隠してからファーレーンは、一人で竜の渓谷に踏み入って行った。
その後ろ姿を見守る。
だんだんと遠くなる背中を見つめる。ファーレーンは振り返らない。竜が住まうと噂される魔境に、たった一人で挑むつもりなのだ。
自然と涙がこぼれてきた。
自分でも何故だかは分からない。けれど、我慢出来なかったのだ。
痺れた腕で、不器用に目元を拭った。
せめて自分の足が動けばいいのに。あまりにも不甲斐ない。
ファーレーンの姿は完全に見えなくなり、荒野には寂しい風が吹いていた。
男を襲う体調不良は、普通のものとは全く原理が異なる。休んでいても回復の兆しは無かった。
一刻、二刻。時間は過ぎて行く。ふと男の全身の毛が逆立った。動物的直感。彼の内に眠る魔獣の本能が、究極の幻想の存在を感じ取ったのだ。
「え?ど、ドラゴン?」
確かにここは竜が住まうという伝説の渓谷だ。だが、所詮は伝説。確認したものは誰一人いない出処不明の法螺話だとばかり思っていた。
突如出現した強烈な命の波動。単なる魔獣では断じてない。これだけ離れていても、本能が警告するだけの圧倒的脅威といえば、究極の幻想に他ならない。
俄かにドラゴンの存在が現実味を帯びてくる。
ファーレーンは無事なのか。不安に押しつぶされそうになる。今から向かった所で、到底間に合わない。体も動かない状態なのに、どうすればいいのか。彼を救えるのか。
空に咆哮が轟いた。草木がざわめき、小動物が一斉に逃げだして行った。哀れにも身動きの出来ない草木だけがここに残った。男はゴクリと唾を飲み込んだ。救うなどと、思い上がりも甚だしい。今できることは、ただ祈ること。それだけなのに。
ここでファーレーンがドラゴンに食われてしまっていては、物語は始まってすらいなかった。
男の不安を他所に、その日のうちにファーレーンは怪我一つなく、無事に帰ってきた。まだ空は明るい。意外と時間は経っていないのかもしれない。
帰ってきたファーレーンは、無言で男を抱きかかえると、竜の渓谷から離れて行った。
「ドラゴンは、大丈夫だったんスか?」
ファーレーンの表情はかつて見たことがないほどに険しく、おずおずと訊くことしかできなかった。
だが、勇気を出した質問にさえファーレーンは答えるつもりはないようだ。ただひたすらに歩いて行き、竜の渓谷が見えなくなる場所まで移動した。
「……体調はどうじゃ?」
「ん、ここまで離れれば何の影響もないッス」
ファーレーンの腕から解放された男は、手足の調子を確認するために、屈伸をしていた。あれほどきつかった身体の痺れが嘘のように消えている。
やはり、竜の渓谷がエーテル異常の発生源だったらしい。
「それは重畳。二度と近づくべきではないな。あそこは。あまりにも危険じゃ」
「やっぱり、ドラゴンがいた?」
「……いや、そうではない。そうではないが……ふむ。あそこには根源があった。わしが探し求めていた全ての源があった」
「……」
男は神妙にして、ファーレーンの言葉を待った。人生の目標、宿願が果たされたというのに、ファーレーンの表情は土砂降りの雨の日のように暗かった。
「……あれは、見ない方がいい。お主。ミックと言ったな」
「はい!ミック・ジャガー・タスケ、ッス」
「お主には貸しがある。今それを返してもらおうか。この場所のことは絶対に喋ってはならぬ。秘密を胸に秘めて、墓場まで待って行け。この場所は、人類には早過ぎる場所じゃ」
敬愛するファーレーンに言われたのだ。命じられて、拒否するつもりはもとよりなかったが、理由くらいは聞かせてくれてもいいものを。
そう思ってファーレーンの瞳をじっと見つめていたが、彼はそれ以上を語らなかった。
無言のまま、ファーレーンは竜の渓谷を離れていった。一度も振り返ることなく。まるで、道を歩いていて犬の糞をうっかり踏んづけてしまった時のように渋い顔で。
竜の渓谷から離れると、大気のエーテル濃度は正常値に戻っていた。そのせいで木っ端の魔獣も堂々と闊歩するようになっていた。襲いかかってくる魔獣を、ファーレーンは瞬殺した。その鬼気迫る様子に、ミックは声をかけざるを得なかった。
「どうしたんスか?いつもなら、魔獣に遭遇しないようにこういう水場は避けて歩くことにしてるのに」
「……そうじゃな」
人が変わったみたいだった。別にファーレーンは殺戮を楽しんでいた訳ではない。そうではないのだが、鬱憤をぶつけるかのような乱暴な行動であったことは確かだ。
ミックの知る限り、ファーレーンがこのような自棄になったことはない。やはり、竜の渓谷で何かがあったのだろうか。
その日の夜、夜営の準備をするミックにファーレーンが話しかけてきた。
なんとなくそんな空気になっていたのを察していたミックは、神妙に正座して話を聞くことにした。彼の故郷に伝わる古式ゆかしい礼節の姿勢である。
「昼間はすまぬ。お主が直言してくれなければ、危地に飛び込んでいたやもしれぬ。あの時のわしは冷静ではなかった……」
いつも通りのファーレーンだ。少し安心した。
「いや、従者なんだからそれも当然ッスよ」
「そのことなのじゃが……。ミックよ。わしはお主と別れようと思う」
「え……?」
とっさにその言葉を飲み込むことはできなかった。脳が理解を拒む。
「な、なんで……!?」
「……別におかしな事ではあるまい。もともと無理を言ってついてきたのはお主の方じゃ。見たい世界があるというから、同行を許した。その心意気に心打たれてな。じゃが、それももう終わりじゃ。わしではお主の要求には応じられぬ。旅は終わりじゃ。ここで解散しよう」
ミックの言動の何かが気に障ったという感じではなかった。ファーレーンがこんなことを言い出した原因は明らかに他のところにあった。
「”根源”で、何かあったんスか?明らかに普通じゃないッスよ」
「……ああ。そうじゃ。あそこには”何か”があった。そしてそれは、人類が触れていいものでは無かった。わしはこの秘密を誰にも打ち明けるつもりはない」
「じゃあ!それと旅をやめることとどんな関係がっ!」
「わしの目的は始めから同じじゃ。”根源”を見つけること。今にして思えば、なんとも愚かしくくだらない動機じゃ。なんにせよ目的が達成されたのじゃ。あてどない旅を続けるつもりはない。人はいつか帰るべき場所に帰らねばならぬ」
ミックはファーレーンの言葉に衝撃を受けていた。彼は半生をかけて”根源”なるものを探求してきたのだ。それが実際に見つかって、がっかりする所まではいい。渇望していた宝物も、手に入れてしまえば、拍子抜けするほどにつまらないものだったことはよくある。
だが何も今までの自身の歩みさえ否定することはないだろう。
何よりも尊い、彼の人生を。
ファーレーンが居なければ辺境で病に倒れた亜人がいた。魔術をうまく扱えず、夜盗に堕ちようとしていた二流の魔術師がいた。そして、水辺の魔獣に食われかけていた暗殺者がいた。
彼はその道を歩む過程で、多くの人々を救ってきた。彼がその歩みを否定することは、救いの否定にも繋がる。救われたと自覚するミックにとって、その言葉は裏切りにも聞こえていた。
「そんな……嘘ッスよね……?」
「いや嘘ではない。根無し草の旅はやめるつもりじゃ。思えば馬鹿らしい」
「あっ……あっ……じゃ、じゃあ拙者もついていくッス!!お供させてください」
「もう旅はせぬぞ?お主の見たかったものは見られぬ」
「ま、まだ、昔の話を聞いていないッス!冒険譚はまだまだあるんスよね!?」
咄嗟に思いついた言い訳だ。効果があるとも思っていなかったが、
「まぁ、それなりに面白い話もあるが」
「じゃあ!!拙者はファーレーンさんの半生記を書くッス!実はいつの日かのために、少しづつ書き溜めておいたんスよ」
ミックは必死だった。こんな所で、何にもわからないまま、別れるのは嫌だ。こじつけでもなんでもいいから。ファーレーンと離れたくない。
「そんなことをやっておったのか、油断も隙もないのぅ。こっぱずかしいからやめろ、と言っても聞かぬのじゃろうな……。ならば、約束をしよう。お主はそのまま旅を続けるが良い。わしはいずこかに定住するつもりじゃ。落ち着いてから住処は知らせるから、定期的に会いにきておくれ」
一筋の光。ファーレーンから別れ話を切り出された心情のミックは、その希望と可能性にしがみついていた。
気がついた時には、連絡の手段や手順を決めたりしていた。そもそもファーレーンと別離しないという選択肢はなかったものか。今となってはわからない。
分からないが、ともかく。ミックはファーレーンと約束をした。彼の半生を綴った記録を記すために、取材を行うと。
この日、暗殺者は記者に鞍替えした。
辺境の荒野で二人は別れた。二人共生き抜く知恵と力は十分持った人間だ。野たれ死ぬ心配は、両方共していなかった。
それからしばらくして、ミックは帝国に招聘されたファーレーンの噂を耳にした。
帝国には在野の賢人を取り立てて、皇帝直属の相談役に抜擢する制度があった。しがらみなく優秀な個人を抜擢できるのが利点のその制度は、功利よりも問題点の方が多く、制度の存在は有名無実化していた。だというのに、ファーレーンは諮問団筆頭の大賢者として、皇帝に取り立てられたのだ。
彼の魔術的才能。三重属性という世にも珍しい体質と、辺境を一人旅できるほどの実力を兼ね備えたファーレーンならば、帝国に高給で召し抱えられてもおかしくはないと思っていた。しかしそれらを考慮に入れてもこれは大変な抜擢である。位人臣を極めたといっていい。
日陰者のミックとしては、気後れしてしまう。荒野を共に旅し、助け合った仲間が今は遠いところにいる。光の当たる場所にいる。薄暗い場所にしか住めない、こんな自分が会いに行ってもいいのだろうか。
躊躇はしかし、すぐに消え去ることとなった。ミックからのコンタクトを待つことなく、指定された連絡先に大賢者ファーレーンとの取材の約束が送られてきたのだ。
まだ、自分は忘れられていなかった。それだけで心が少し暖かくなった。
ミックは記者として諸国を漫遊することにした。
定期的に大賢者へ各地の情勢を伝え、代わりに大賢者から辺境の遺跡の昔話を聞き出す、そういう交換条件だった。
誰かの役に立てることが嬉しい。ましてそれが尊敬するファーレーンであれば余計に。
数年間、そんな関係が続いた。
ミックは各地で戦い、大賢者は宮廷で戦う。”根源”から帰還した大賢者は魔術の腕が以前の十倍以上に跳ね上がっており、実力だけならば大陸一を名乗ってもいいほどだった。新参者に対する反抗勢力の気勢も削がれたことだろう。何しろドラゴンすら片手間に焼却せしめるような大魔術師だ。ファーレーンが自分から力業での物事の解決を選ばなかったから良かったようなものの、下手に逆らえば命が危ないことに変わりはないのだ。
ファーレーンは歓迎されない新参者でありながら、帝国内でその立場を着実に固めていた。
その足場構築にミックの情報が少しでも役立ったなら、これ程嬉しいことはない。
二人の関係は、死が二人を別つまで続いた。




