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師父慕う少女、果てに至る物語  作者: 犬山
肉食獣の遠吠え
43/64

38オーダー66

 襲撃は夜半に行われることとなった。

 ドラゴンは大量のエーテルを食糧としている。それだけのものを賄える場所は少なく、ドラゴンが一処に留まり続ける例は少ない。いつ他の街を襲いに行かないとも限らない状況を放置するわけにはいかなかった。

 クラックス率いる禁軍の偵察部隊が発見したドラゴンの住処は、森の奥深く、山腹にある洞穴だった。

 場所さえ分かれば、第二魔術師団に躊躇する者はいない。戦力は潤沢なのだから、怖いのはドラゴンに逃げられることだけなのだ。

 その日のうち、襲撃計画が立案、実行された。

 四方向からの同時攻撃。逃げ場をなくし、絶対にここで滅する。

 包囲を成功させるため、日が沈んでから混成軍は動き出した。


 ごく自然と戦力に数えられていたレヴィは右翼を任されていた。ナタリアも帯同しているから、数多くの護衛と道化師まで揃っている。数だけならば、最多である。

 山頂から逆落としをかけるバーニアが一陣とすれば、ナタリアたちの右翼と左翼は左右からの遠隔攻撃でドラゴンの体力を削り取る二陣である。三陣でトドメを刺すのが、麓で待機しているアンシャリーアの駆動車からの砲撃だ。十年前のドラゴンを屠った超火力の攻撃は、日進月歩の技術開発により、更なる火力増が見込まれている。命中すれば、必ずやドラゴンをも滅することができるという。

 日属性のドラゴンは飛行できない。追い詰めたところで空に逃げるという心配はない。

 偵察の報告では巨大な個体というわけでもないらしい。確かに周囲のエーテルも平穏そのもので、巨大生物の存在など言われなければ気付けない。気配隠匿が得意な夜属性というわけでもないようだし、レッサードラゴンという話に間違いはないだろう。

 一騎当千の猛者たちがいれば、必ず勝利を掴める。

 誰もがそう思っていた。






「ご苦労さん。山登りは大変そうだな。空飛ぶのが一番だぜ」


 山頂付近でバーニアは護衛の兵たちと合流していた。彼らは空属性ではないため、<飛翔>術式を使えない。バーニアはここまでひとっ飛びで来られたが、彼らは律儀に斜面を登って来たのだ。さほど高くない山とはいえ、夜間に登山など相当の熟練者でも難しい。一人の脱落者もなく、ここまでやってきた護衛たちに向かって、バーニアは邪念なく拍手していた。

 内心では護衛の必要はないと思っていても、彼らのひたむきな努力を評価したのだ。


「……気遣いは無用です、これが私たちの仕事ですから」


「はは、まぁ頑張れ。早速で悪いが、仕事は今晩中に片付けなきゃならねぇ。合図の狼煙が上がったら行動開始だ。あんまり猶予はないから休憩もできないぜ?」


「……」


 無口なクラックスの兵たちは無言で装備の点検をしていた。職務に忠実なのはいいが、ロクに意思疎通もできないのは、いかがなものだろうか。そんなことをバーニアは考えていた。

 彼らにはドラゴンを殺せない。それどころか、ドラゴンの尾の一薙ぎで昇天してしまうような脆弱な肉体しか持たない。まったく自分が力になれないのに、危険な戦場に赴く心情をバーニアは知りたくなった。

 バーニアを含め、第二魔術師団は単独行動が多い。基本的に他の軍と協同するということはなく、従って雑兵と接する機会も少ない。その上、バーニアの一日の大半は空中だから話せる機会はめったにない。


「これからドラゴンの相手をするんだぜ。怖くはないのか」


「……」


「だんまりかよ。ま、怖くても仕方ないけどな。普通は怖いものなんだからさ」


「……バーニア様は恐ろしくないのですか?」


「俺か?俺は楽しみだな。ドラゴン退治なんて一生に何度も経験できるものじゃない。俺だってこれで二回目だ。うれしくってワクワクしてくる」


 喜びに震えるかのように、断続的にバーニアの四肢からは白炎が吹き出していた。

 ふらふらと近づいてきた虫が、白炎に触れて一瞬で炭化した。

 山の羽虫は彼に近づく前に、超高温の噴射によって炭にされているのだ。


「それに今日は珍しい出会いもあった。あの勇者がドラゴン相手にどれほど戦えるかも興味がある」


 視線は右翼の位置を向いていた。そこには上十二衛の騎士隊長やアルトタスがいる。ふたりとも初陣だから緊張していることだろう。出来るならばふたりとも生き残って欲しいものだ。第二魔術師団の魔術なら大抵の怪我は治せるが、さすがに死者を蘇らせることはできない。団長は百年以上の年月を生きているが、死から還ってきたという話は聞いたことがない。

 実質的に一番大きな危険があるのは、バーニアとアンシャリーアの配置だろう。

 ドラゴンの攻撃の矢面に立つのはバーニアだし、ドラゴンを殺しきる最大火力を有するのがアンシャリーアだ。死に物狂いになったドラゴンが合理的に判断するなら真っ先に狙われるのが駆動車に乗った少女だろうから。

 もっとも、山火事で焼け出される危険は何処にいてもある。日属性のドラゴンは火の吐息を武器にするという。ドラゴンにその気がなくとも、山が燃える可能性は高い。空を飛べるヘイルダムが逃げ遅れることはないだろう。むしろ心配なのはアルトタスなくらいだ。

 

 

 宵闇が支配する暗天。そこに光の花が一つ咲いた。

 

 さぁ、合図の狼煙だ。


「飛ばすぜッ!」


 この瞬間、バーニアの意識は飛ぶことと、ドラゴンを追い落とすことの二つにしか向いていなかった。

 怖くはないのか?その問いの答えがまだなこと、そんなことは些事だと意識の外に追いやっていた。

 突然、虫のさざめきが聞こえなくなった。

 






 時は数刻前まで遡る。

 ドラゴン発見の報告は混成軍を大いに湧かせた。自信過剰のデュアルたちは、力を思う存分振るえる機会を今か今かと待ち望んでいた。そんなよだれを垂らした猛獣の前にドラゴンの肉というとっておきの餌を与えればどうなることか。


「よっし!じゃ一先ず見てくるぜ。んで可能ならそのまま焼き殺す!」


 気の早いバーニアは先陣を切る気満々だ。大地に足を付けているのが我慢ならないとでも言うかのように、せわしなく足踏みし、今にも飛び立とうとしている。


「バーニア。待ちなさい。あなた一人が向かったところでドラゴンは倒せないでしょう?」


 団長代理のアノーラが嗜めると、さすがのバーニアも思い直した。

 足踏みはそのままだが、今すぐにでも飛び立とうとはいなくなった。


「地形を正確に報告しなさい」


 偵察兵を出していたクラックスが頭を下げた。将軍補佐を勤めているだけあって、ブリーフィングは慣れたものだ。


「はっ。目標は山腹の洞穴に潜んでおりました。空からは完全には見えない角度でした。地上からしか出入りはできないでしょう」


「洞穴の規模は?」


「深さまではわかりません。入り口の大きさは大人五人が手を繋いで通れる位です」


「やっぱり十年前の奴より小型みたい。安全に行くならシャーリーの砲撃で洞穴ごと生き埋めにしてしまえばいいわ」


「いくらレッサードラゴンでも生き埋め程度でくたばるかよ。万が一にも生き残らないよう、徹底的に叩いて死亡確認しなくちゃあ」


「バーニア、あなたは戦いたいだけでしょう……」


「開けた場所に誘き出して叩こう。日属性のドラゴンなら、鈍足だ。俺が足止めしている間に攻撃すれば楽に屠れる」


 幻想種の肉体を構成するのは、高濃度のエーテルである。ゆえに幻想種は属性による個体差が人間の魔術師よりも大きい。幻想種の属性の違いは生態の差異から、別種と認識されうほどだ。日属性のドラゴンは火焔を吹き、自然や人工物に恐ろしい被害を及ぼす怪物だが、動きは機敏とは言いがたい。鈍足と断言できるのは、最速を自称するバーニアくらいのものだろうが、普通の人間であっても全力で走れば逃げ切れる程度の速力だ。

 バーニアの作戦は悪くはなかった。

 

「ふぁぁ~。私の砲撃でトドメを刺すつもりなのはいいけど、遠くの相手に簡単には当たらないよぉ~?」


 アンシャリーアは欠伸を噛み殺しながらつぶやいた。彼女の頭はふらふらと揺れており、今にも倒れそうだ。ナタリアも眠い。眠いのだが、眠気よりも興奮が上回っていて、ほとんど眠気を感じていなかった。

 夜空に星は見えない。厚い雲があらゆる光を押しとどめているからだ。


「だな。シャーリーの砲撃は俺と力を合わせて初めて十全の効果が発揮される。着弾点との通信がなければドラゴンの巨躯といえども、そうそう当たらんぜ」


 アンシャリーアの欠伸混じりのつぶやきを耳ざとくとらえたバーニアが、大声で状況を説明した。駆動車に搭載されている砲塔による砲撃は、射程が非常に長い。しかしその分、目視によって着弾誤差を修正するのは困難である。着弾点に誰か派遣、観測手との通信を密接にしなければ、狙った相手に連続で着弾させることは出来ないのだ。


「結局、俺が前線に出るわけよ。だったら一番槍を俺に任せてくれたっていいだろう?」

 バーニアが正論を盾にして戦いたがっているのはみなが分かっていた。しかしバーニアも重要な戦力であるだけに、わざわざ正論を覆してまで彼の機嫌を損ねることもない。大勢が決まりかけた時、クラックスが声を上げた。


「ですが、日属性のドラゴンを万が一にも取り逃がせば、山火事の被害が拡大する危険があります。逃げ場のないように周囲を固めてから攻撃を開始するのはいかがでしょう?もちろん、先陣はバーニア殿以外にはおりませんが」


 ドラゴンは野生動物という枠に収まらない高度な知能を持っている。当然、劣勢であれば逃走を選ぶ知恵はある。そういう意味では軍略を学んだクラックスの言にも一理あった。


「続けなさい」


「はっ。四方からの包囲殲滅が完全な勝利をもたらします。山の頂上からドラゴンを追い立てて、逃げるドラゴンを両側から削り取ります。開けた麓まで追い込んだ後、砲撃なりでトドメを刺すというのはいかがでしょう?」


「いいねいいね!なんか作戦っぽいぞ!俺は山頂から逆落としをかける!眠ってるところを叩き起こされたら、さすがのドラゴンでも慌てるはずだ。巣穴から飛び出た所にぶつかるぜ。それにその作戦ならちゃんとヘイルダムにも活躍の場が与えられる。さすがに禁軍の将軍補佐はプロだね」


『ドラゴンがどんなモンかは知らねーが、この人数で包囲なんて出来るのか?小山とはいってもそこそこだぞ?人数は……第二魔術師団の連中が六人、いや団長のガキを抜いて五人。クラックスの兵が五十人、紅雀隊が十人。こんな数で?』


 ”声”でさえ簡単に思いつくような作戦の欠陥。しかしこの場にいる誰もそれを指摘するものはいなかった。

 それぞれの事情で、それぞれはクラックスの作戦に賛同したのだ。

 自らの魔術の技能に対する強烈な過信。個人で軍勢に匹敵するのだと、デュアルたちは本気で思っていた。


 四方への戦力分配はあっさりと決定された。レヴィとナタリアを危険の少ない右翼に配置すると、自然と残りの戦力分配も消去法で決まっていったのだ。

 右翼にはナタリアたち、左翼にはバァルロゥグ。追い落とすのはバーニアの役目であり、本営には指揮官のアノーラと東方朔とクラックス、それに最大火力のアンシャリーアが配置された。

 クラックス率いる禁軍の護衛は均等に分けられている。戦力的には数に数えてもいいものか、と傲慢に考えていたデュアルたちにとっても、作戦がこのような形になれば従者のように扱える護衛の存在はむしろ歓迎していた。

 なにしろ闇夜の山中の作戦だ。通信手段は限定され、しかも個人行動が増える。ちょっとした仕事を任せられる護衛兵は連れていて色々役に立つ。


「日属性の<念話>持ちの兵士はいないのですか?我々の中で<念話>が使えるのはバーニアとシャーリー、それとアルトタスだけです。その不足を補えるとよいのですが……」


「アノーラ殿、心苦しいのですが<念話>を使える兵士はおりません。夜の属性の者が多いのです。ですが、その分隠密に長けたものが大勢います。かのドラゴンに発見されること無く、その居場所を判明させることができたのは彼らの働きによるものです。彼らの隠身がなければ困難な任務だったでしょう」


 クラックスは額に汗を滲ませつつ、弁明する。アノーラは見た目は平凡な女性だが、彼女もまた間違いなく魔人の一人である。一般人に与える威圧感は並大抵のものではなかった。


「夜属性、ね。アルトタスの<雷霆>の軌道を見切り、殺す気はないと判断した賢しい連中というわけですか。まぁ、いいでしょう。団長の決めたことですから。しかし術式の隠匿もできないアルトタスの未熟さはお説教ものですね」


 夜属性は感知の力に優れる。落雷に逃げ出さなかった禁軍兵士は、胆力をアピールしたと思っていたが、術式を解析した結果死なない、という計算も含まれていたのかもしれない。

 しかしそうだとしても、魔術の発動はともかく内容まで見切る技量は凡人ではありえないし、一歩間違えれば命を失っていた場面でもある。アノーラの言うように賢しい、と一言で片付けてしまうには乱暴すぎるようにナタリアには思えた。

 ナタリアには発動途中の術式の内容など見切ることはできないし、あの大魔術を目の当たりにしては逃げ出すのも無理は無いと思える。

 


「<念話>が使えないというのなら仕方ありませんね。その分、他でこき使いましょう」


 小馬鹿にするようにアノーラが笑う。冷笑されても禁軍兵士はまるで反応を示さなかった。鉄のような自制心と職務への集中力はさすが精鋭兵である。

 

 作戦決行まであまり猶予は無かった。ドラゴンが眠りこけている間に攻め込む必要がある。

 戦力を考えて班分けされた人員が山に分け入っていく。

 バーニアだけはその高速移動を利用。低空飛行で洞穴を迂回して山上へ。規定の時間までにゆうゆう先着する。山登りに不慣れな護衛兵がバーニアに追いつけるかどうかが心配だ。

 ナタリアたちも右翼として包囲に参加する。実際に戦力として数えられているのは、レヴィと道化師だけだろうが、随員に危険が無いわけではない。それなりに緊張はしていた。

 山の夜闇は深く、人間の眼では到底見通すことが出来ない。夜の属性を持つ者は夜目がきくのだが、全員が夜の属性持ちというわけではない。必要最低限の明るさのランプが支給され、先頭と最後尾が山道を照らした。


『……偵察はやっておく。が、安心はできねえ。この暗さだと俺もほとんど見えねぇ。さすがにドラゴンのようなデカブツは見逃しはしないと思うが』


 ”声”が不安げに言う。作戦通りに進めば大きな危険はないはずだが、世の中計画通りに行くことが方が少ないだろう。<超感覚>が森の木々の一本一本を判別できるほどに研ぎ澄まされる。いざとなれば、紅雀隊と一緒に一目散に逃げ出してしまおうとナタリアは考えていた。どさくさに紛れる事ができれば、第二魔術師団から逃れることも不可能ではない。

 おそるおそる、だが確実に一同は山道を登り続けた。

 紅雀隊の隊員はあまり質の良い兵士ではない。慣れない山道に翻弄され、早い段階で息を荒らげていた。身体が小さく、歩幅が狭いナタリアも同様である。

 それに対して道化師やレヴィ、近軍兵士はまったく疲れを見せていない。魔術の助けもあるのだろうが、健脚だ。

 

「くそがっ」


 レヴィと道化師はともかく、同じ禁軍兵士に負けているのは気に食わない。紅雀隊の隊員はそう思い、歯を食いしばり、気力を振り絞った。プライドだけは一人前の紅雀隊は、すたすた先を歩く禁軍の背中を親の仇のように睨みつけながら、棒のようになった足を動かし続けた。


「……」


 その様子を見守っていたのは隊長のレヴィではなかった。道化師は常の不真面目な態度を引っ込めて彼らの足取りを見守っている。


「……ここまで歩いて来たのですか?乗り物も使わずに?」


「えぇ、それがどうかしましたか」


「いや、強行軍で疲労が蓄積しているところに山登りは辛いだろうな、と」


 道化師はレヴィの真の目的を知っている。彼にはナタリアを追い掛けてここまでやってきたレヴィたちの苦労は容易に想像できる。


『そういえば、こいつも走らされてたな』


 駆動車に置いてけぼりにされた道化師は、全速力の疾走で無人の野を駆けていた。自分の足で労苦を知っているからこそ、余計に共感があるのだ。


「余計な世話です。彼らは毎日訓練を積んだ帝国の騎士たち、この程度で弱音を吐くほど腑抜けてはいません」


 レヴィ自身に疲れは見えない。しかし彼女の部下たちは疲労困憊だった。疲れた体に鞭打つような言葉だったが、隊長の強気な台詞に奮起した彼らは体の底から気力を振り絞った。


 分割された四軍の中で一番の大所帯。行程の遅れが懸念されたが、なんとか定刻までに配置につくことが出来た。

 荒い息の紅雀隊は木にもたれかかり、体力の回復に努めている。

 山登りを終えてもピンピンしている禁軍兵士は自主的に周囲の警戒を行っていた。紅雀隊の隊員の負けん気も、極限の疲労を打ち払うことは出来なかったらしい。悔しそうな目で働く禁軍兵士を睨みつけているだけだ。


「やれやれ、こんな様でドラゴンの相手が出来るのでしょうかねぇ?」


 小声で道化師がつぶやいたが、ナタリアもまったくの同意だ。これではいざという時に、逃げ切れるかさえも怪しい。

 ナタリアの体力は幸いまだ残っていた。もちろん軽い疲労感はあるが、廃村までは駆動車の荷台に揺られてやってきたのだ。全ての道程を徒歩で踏破してきた紅雀隊と比べるまでもない。

 

 身体の疲労感とは別に心には漠然とした不安があった。ドラゴンとの対峙以前に、もっと大事な何かを忘れているようなもやもや。

 不安を解消する術を知らないナタリアは、レヴィの後ろ姿を知らず眼で追っていた。


「……とにかく、合図を待ちましょう。狼煙が上がれば、”流星”がドラゴンを巣穴から叩き出す予定です。その瞬間に備え、英気を養いましょう」


 闇深い夜の森は、いくら実力者といえども心やすまる場所ではなかった。そわそわと落ち着きなくする兵士たち。道化師もしきりに空を見上げ、今か今かと合図を待ち望んでいる。

 暗闇を見つめていると、心臓の鼓動がだんだんと早くなっていく気がする。だからナタリアはずっとレヴィを見つめていた。

 

 ――そして。

 静かな空に。合図の花火が打ち上げられた。

 全ての戦線が動き始める。ドラゴン退治の開始である。誰もが待つことへの緊張からの解放を喜び、新たに加わった別種の緊張の洗礼を受ける。

 そのはずだった。

 

 周囲のエーテル濃度が急激に低下する。その勢いは凄まじく、大魔術の発動に匹敵するほど。道化師の使っていた<雷霆>と同規模の魔術である。夜の属性のナタリアはいち早く異変に気がついた。

 誰が魔術を使ったのか。ぐるりと周囲を見渡す。

 最小限の明かりで照らされた森はまだまだ暗く、ぼんやりと人影が浮かんで見えるだけだ。これでは誰が魔術を使ったのかはまったく分からない。

 大方、強化魔術なりで迫る決戦に備えているのだろうが……。

 

 急なエーテル消費の理由を脳が無理やりこじつけて解釈する。

 しかし、そうではなかった。ナタリアの直感は全く誤った結論を導いていたのだ。

 異変は終わらない。いや、始まったばかりだったのだ。

 消費されるエーテルは勢いそのままに減り続ける。減少速度から推測すると、消費総量では大魔術数十発分はゆうに消えている。拡散、遍在の性質を持つエーテルの外部からの流入が、膨大過ぎる消費量に追い付いていない。世界中に拡散しているはずのエーテルが、いまこの場には存在しない。

 薄いエーテルは魔術師にとって酸素の欠乏にも等しい。

 環境の激変は体の異変へと派生していた。

 眼の裏側がちりちりと火で炙られているかのように痛む。白い靄がかかったように視界は狭くなっていく。

 呼吸が出来ない。酸素を求めて開閉する口と鼻は、もはやなんの役にも立っていない。


『お、おい!しっかりしろ!!なんだこれは!?毒ガスか!?』


 待機していた紅雀隊がばたばたと倒れていく。いつの間にかレヴィと道化師もその場に膝をついていた。

 次々と意識を失っていく人々の中で、禁軍兵士だけはこの急激なエーテルの欠乏に耐えているらしい。


「な、ナタリア……!!」


 レヴィが首だけで振り向き、ナタリアを見た。暗闇の中、地面をのたうち回って苦しむ少女の影がレヴィの目に飛び込んだ。

 レヴィも同じ苦しみの中にいた。エーテルが無い。エーテルが無くては空魔力も生み出せない。

 体内の循環器は動作不良を起こし、手足の末端はどす黒く変色していく。打ち身のような傷が、何もしていない場所に魔法のように浮かび上がっていく。体内の毛細血管に穴が空き、内出血を起こしているのだ。眼の血管が破れ、レヴィの視界は赤く染まりつつあった。

 

「これは、一体……っ」


「貴女はターゲットではない。どうか大人しくしていてください」


 いつの間にか土の上に突っ伏していたレヴィを見下す姿勢で立っていた禁軍兵士たち。彼らは全員抜身の短剣を持っていた。軍の正規の支給品ではない、おそらくは私物。しかしどこか似通ったところのある短剣は同一人物の作によるもの。


「ターゲット?ぐぅ……」


 痛みが心臓に達した時、自分は死ぬのだろう。そうレヴィが直感してしまうほどの激痛が手足に走った。

 レヴィはナタリアが狙われていることを知っている。彼女を狙う魔の手から守ってやると決めている。自分が狙われていないからといって、抵抗を諦めるはずがなかった。


「うぅぅ……。ッガァァァ!!」


 レヴィは立ち上がった。

 咆哮を上げて、気合で身体を持ち上げる。禁軍兵士たちのどよめきが遠くで聞こえた気がした。

 

「っ……あ、暗殺者、というわけですか。いつ毒を盛ったのかはわかりませんが、この程度で私が弱るとでも思ったのです、か?だとしたら……見くびられたものです」


 眼は殆ど見えていないから、レヴィの視線の先に本当に敵がいるのかすらも曖昧だった。レヴィのつよがりは誰の眼にも明らかであり、憐れむような声はレヴィの気に障った。


「繰り返します。貴女はターゲットではない。抵抗しなければ危害は加えません。……口惜しいですが、それが頭領の命令ですから」


『くそっ数が多い!』


 ”声”が見て回った所、護衛の名目で随行していた禁軍兵士五人は全員が内通者だった。今の弱ったレヴィでは一人差し違いに出来るかどうかという所だろう。レヴィに限らず、道化師の衰弱も深刻なものだった。彼も戦力に数えるのは難しい。早々に意識を失ってしまった十人の紅雀隊は言わずもがなである。

 そして最大の危機は、意識すら失えずに苦しみ悶えるナタリアのことだった。


『まさか身体が小さいってのに、大人と同じ量の毒を盛られたのか!?毒の効果が分からない上に、俺の助言を聞けるやつもいねー!一体どうしろってんだ!?』


 ”声”は悲鳴を上げた。誰もそれを聞き取ることは出来ない。ナタリアも意識と無意識の狭間を彷徨うほどの苦痛に苛まれている。”声”の叫びを聞く余裕などあるはずがなかった。


「抵抗!しますっ!殺させはしない、もう後悔はしたくない……!!」


 レヴィが血を吐いた。剣すら構えられず、落ちていた木の枝を頼りなく構えているだけ。視力が失われている以上、戦力として数えるのも馬鹿らしい。


「どうします?あの女騎士には二人も仲間がやられています。抵抗したことにして始末すれば、頭領も文句はいいません」


「本人もほら、あの通り、抵抗すると言っています。虚偽の報告ということにはならないでしょう」


「五人では順次展開しても長くは持ちません。急いで」


「……よし、女騎士とターゲットを始末しろ。迅速にだ」


 五人の兵士だけが意識を十全に保っている。彼らの短剣は既に抜かれ、闇の中にぼんやりと浮かんでいる。黒い刀身は微かな月の光さえも照り返さない。

 レヴィは彼らの接近を察知していた。会話はおぼろげにしか聞こえていないが、彼らが殺意を持ってやってきたことは分かる。呼吸がずっと止まっているから、レヴィが意識を失うまで、あまり猶予はなかった。

 

敵討(かたきうち)だ。罪を自覚し、死ね」


 喉元へ凶剣が迫る。レヴィは驚異的な動物的直感でそれを躱した。凶剣の主が濃厚な殺気を纏っていなければ、察知は不可能で、直撃していただろう。

 舌打ち。すぐさま第二撃がレヴィの肩口を薄く裂いた。最初の回避で姿勢は崩れている。もうこれ以上、動けない。避けられるはずがなかった。


 レヴィの思考は停止しかけていた。死の気配がぼんやりとした影を持って、傷口から入り込んでくるビジョンが脳裏をよぎる。

 <風弾>。自分の傷口をまるごとえぐり取る自傷攻撃。形振り構わぬ攻撃が相手の意表を突いたのか。暗闇から放たれた不可視の弾丸は、暗殺者の腕に炸裂し、ナイフを取り落とさせていた。

 レヴィの肩と、暗殺者の腕の両方から血液が飛散する。


「ぐぅう」


 うめき声を頼りにして、レヴィは握っていた木の枝を高速で突き出した。

 口に突き立った木剣は、暗殺者の前歯をへし折った。そのまま喉まで突き刺さり、相手を弾き飛ばした。

 しかし、レヴィにできたのはそこまでだった。とどめを刺すため、追撃しようと足を動かした瞬間、強烈なめまいがやってきた。まっすぐに立っていられない。身体が傾き、レヴィの身体は転倒した。

 必死に腕をつっぱり、顔面を強打するのは避ける。しかし、もう立ち上がる気力は残っていない。消えかかる視界。暗殺者たちが集団でかかってくれば一分もこらえきれない。


「がはっ、ごほっ!は、歯がぁ……っ!」


「おい、何油断してる。手負いの猛獣だと思えよ。そら、<鎮痛>魔術を忘れるな」


「ぐが……。し、しかしやったぞ。毒刃で一太刀浴びせた。もう助かるまい。はは、いい気味だ。ざまあみろ」


 レヴィに喉を突かれた男は笑おうとしたのだろうが、夜の属性<鎮痛>魔術では痛みは消せても怪我を無かったことには出来ない。喉の筋肉を引き攣らせることも出来ず、彼は笑い声の代わりに血を吐いていた。


「よし、さっさと任務を終わらせるぞ。残り一人。確実に息の根を止めるのだ」


 暗殺者五人のうち、一人に手傷を負わせた。しかし、レヴィができたのはそこまでだった。抵抗する気力はまだ残っている。しかし体が動かない。いつ毒を盛られたのか。もはや朦朧とした思考では正しい答えにたどり着くことは出来ない。

 立ち上がれる者さえ、もういない。レヴィは凶刃に倒れ、ナタリアは悶え苦しみ意識がない。

 立ち向かえるものは、もう、残ってはいない。

 暗殺者のナイフからレヴィの赤い雫が滴り落ちた。

 

 ドラゴンの咆哮はまったく聞こえはしなかった。






 空を飛べない。そのことはバーニアにとって恐怖であり、絶望でもあった。

 夜の山の底冷えは全身を凍りつかせようとしているかのようだ。

 鋭く尖った木の枝。歪な形で、まきびしのように散りばめられた小石。

 バーニアの身体を傷つける自然のどれもが、<飛翔>さえできていればなんてことのない障害なのだ。

 空が恋しい。風が恋しい。熱さが恋しい。

 

 バーニアの身体には四つの風穴が開いていた。

 護衛達の反乱。

 彼らと心底から仲良くなれたとまでは、バーニアも夢想していない。しかし、ドラゴンという共通の強敵を前にして一時休戦したのではなかったか。

 逃げるバーニアを追う彼らは、駆け寄ろうとはしない。ふらふらと彷徨うバーニアとのい距離を一定に保ち、決して接触しようとはしない。追いつこうと思えばいつでも追いつける距離でじっとバーニアを観察しているのだ。毒の塗布されたナイフを手にして。


「おいおい、どんなすげぇ毒を使ったんだよ……」


 手足が寒い。凍えそうだ。ぶるぶると身体が痙攣を始めていた。このままでは歩けなくなるのも時間の問題だ。


「ドラゴンはどうするんだよ……。俺たち第二魔術師団の、ち、力が必要なんじゃなかったのかよ……。俺たちにも必要とされる場所があるって言ったのは嘘だったのかよ……」


 バーニアの泣き言は団長である東方朔に向けたものだった。裏切った敵に懇願するほどバーニアは落ちぶれてはいない。しかし裏切りの衝撃は思いの他大きく、溢れる涙が止まらないのだ。

 普段全く歩かない靴は、険しい山道を歩いたせいで穴だらけ。そこから素足が傷ついていき、痛みさえ感じないほど血を流してしまった。


「安心めされよ、”流星”。ドラゴンは居ない。我らの流したデマだ」


 バーニアの独言を聞き取った暗殺者の一人が、憐れむように言った。

 バーニアの心には怒りさえ湧いてこない。ただただ海よりも深い悲しみがあるだけだった。


「デマ?……じゃあ、麓の村は?あの廃村はどういうことだよ……」


「偽装工作の犠牲となってもらった。無辜の民を殺めるのは気がまいる。もう二度としたくないね」


「なんだよ、それ……。どういうことだよ。帝国軍が帝国民を守らなくて誰が守るんだよ」


 口の端から血が垂れていた。バーニアはこれ以上立っていられず、その場に突っ伏した。倒れた拍子に泥が口の中に入った。苦い、土と血の味がする。

 もう呼吸をすることさえ億劫だ。


「我らは帝国軍ではない。<吸魔>の一族だ。せめて己を殺した者の名前を覚えて逝かれよ、炎の魔人」


 炎。それはバーニアが操る魔術の特性だ。<飛翔>は方向転換などに自由が効かない小回りの効かない大魔術だが、バーニアは日属性の適性も持っている。空中で火焔を吹き出すことで、推進力を得て小刻みな機動が可能となるのだ。

 炎はバーニアを構成する要素の半分である。その言葉を聞いて、せめて自分を殺したものたちを道連れに業火を放とうと無意識に思っていた。


「燃えろ……。<火球>」


 しかしダメだ。痛みが術式構成の邪魔をしているのではない。そんな新兵の段階はとっくに通りすぎている。魔力が足りない。エーテルがない。

 急な坂道を馬車で無理やり登ろうとして、滑っている時のような空回り。いくら術式に力を注ごうとしても肝心の魔術が発動してくれないのだ。


「……さすがは魔人だな。神経毒を食らっているというのにまだ息がある」


 びくびくと四肢が痙攣している。バーニアは死に体だった。反撃する手段なんてもう何一つ残っちゃいない。


「あぁ……。夢、見過ぎたな。所詮俺らはいくら努力しようが、忌み子ってことかよ……」


 力さえあれば。腕を磨けば受け入れられるかもしれないと、そんな淡い希望があった。

 アノーラやアンシャリーアのような古株は、もうそんな甘い砂糖菓子のような幻想は忘れてしまっているのかもしれない。彼女らはもう大人だ。現実の重みというものをよく知っている。

 バーニアはその重さを感じたくなかった。どこまでも空を飛び続け、どこまでも軽やかに浮かび続けて。そうしていればいつかきっと、太陽と星星がきらめく世界を見つけられるかもしれないと無邪気に信じていたのだ。


「首をかっ切りましょうか?魔人の生命力は異常だ。バケモノを相手にしている時と同じくらい徹底的にやらねば」


「魔人の不死性は魔力に由来している。言ってみれば人工的な亜人、あるいは幻想種のようなものだ。その供給源さえ断てば、魔人は人に戻る。そう、聞いていたがな……」


「恐るべき生命への執着心ですね。神に定められた寿命さえ無視しようとするとは」


 どこか遠くで会話が聞こえた。バーニアの頭からはその意味を理解する思考が消えている。

 身体が冷たい。熱が奪われていく。

 バーニアの意識はそこで途切れた。






「魔人東方朔、観念するんだな」


 クラックスは自分の計画が成就したことを確信し、頬を緩ませた。

 手には暖かい血の感触。魔人の身体に流れる血の色は普通の人間と同じ、赤色だった。


「団長っ……!」


 大地に倒れているアノーラが悲鳴を上げた。女である彼女にも致死毒の塗りこまれた凶刃は例外なく振るわれている。遠からず死に至ることだろう。<吸魔>の影響下では魔術による治療も満足に行えない。毒物の成分が解析される恐れはない。

 

 <吸魔>があるかぎり、魔術師は木偶の坊以下の存在になってしまう。

 <吸魔>術式は普段エーテルの存在を当たり前だと信じ込んでいる魔術師に、致命的なダメージを負わせることが出来る。魔術師ならずとも、エーテルと魔力に通じた人間ならば、魔力によって身体機能の拡張を行っているのが普通だ。エーテルの存在する環境に最適化された身体は、環境の急激な変化に耐えられるのか。

 おそらく五分以上低濃度のエーテルに曝露されていれば、命の危険があるだろう。

 エーテルと魔力を奪われる苦しみは、クラックスも実体験として知っていた。

 

 訓練すれば確かに慣れる事はできる。けれど身体能力の低下は避ける事が出来ず、何よりこの空間ではありとあらゆる魔術が無効化される。陰陽和合の不死性を支えるものがエーテルと魔力である以上、この空間内でならば不死の魔人の息の根を止めることが出来る。

 

 クラックスは秘伝であるはずの<吸魔>術式を習得している。魔人を殺す銀の弾丸だ。

 民主的に、一族の頭領に協力を訴え、その力を借りている。頭領の一人娘を嫁にもらったのも、秘伝の術式を伝授されたのも、すべては大義のためだ。

 魔人を滅するため。その為だけに、<吸魔>という術式は生を受けたに違いない。

 クラックスは大真面目だった。

 

 <吸魔>空間ではエーテル濃度が著しく減少する。

 <吸魔>の里の暗殺者たちを禁軍兵士に変装させて連れてきた甲斐があった。この場にいる二十人近い夜の術者が、<吸魔>の空間を展開している。東方朔も、ついでにアノーラとアンシャリーアのようなデュアルたちも、この空間の中では只人以下のちっぽけな存在でしか無い。

 クラックスは突き立てた槍を右手でひねり、東方朔の内臓を傷つけた。魔人から漏れる、うめき声が心地よく耳朶を打つ。


「くっ、くくっ。君、名前を聞かせてくれないか?覚えておきたいんだよ。ここまで用意周到に罠にかけられたことは久しぶり、いや初めてかもしれないからね」


「これから地獄へと旅立つものへ名乗る名前はない。滅菌だ」


 魔人は確かに虫の息だった。刺し傷がどうこうというよりも、暗殺者たちの猛毒が効いているのだろう。呼吸を苦しそうにしている。

 苦しい癖に、見栄を張っているのか喋り方だけはハキハキしていた。

 名前を聞かれても、クラックスは無視をした。病魔と交わす言葉はない、と己に言い聞かせていたからだ。

 しかし、同じく近くに待機していたゼンは口を滑らせていた。

 まったく、なっていない。


「ゼン・ジャガー・タスケと申します、稀代の魔術師殿」


「おいおい、彼の方が礼儀ただしいじゃあないか。帝国軍人としてどうなんだい、その態度」


「黙れ。ゼン、お前もだ。娘のこと、よもや忘れたわけでもあるまい」


「……」


 ゼンは頭領としてこの場にいる。粗衣か黒装束を着ている姿しか見たことがないから、禁軍兵士のコスチュームは新鮮に見える。額から汗を流し、ゼンは東方朔の紅い瞳を見つめていた。

 ゼンを脅しつけるのはそれくらいにしておこう。彼はクラックスの部下ではなく、あくまで善意の協力者だ。

 口を閉ざす。クラックスはぐりぐりと穂先を動かし、東方朔の命を削り取っていく。不死の魔人が相手だ。毒だけで殺そうとは思っていない。身体をバラバラにして、炎で焼きつくして灰にする。最後はその灰をばら撒いて埋めてしまう。そこまでやってやっと安心できるというものだ。


「魔力がうまく生成できないね……。エーテルも……薄く、なっ……てる」


 他人事のように言う東方朔の端正な顔は崩れかけていた。熱で皮膚が溶けたかのように醜く爛れ落ちていく。顔だけではない。全身の皮膚が骨と剥離してしまったかのように重力に従って流れ落ちていく。どろどろと溶けゆく身体は、クラックスに嫌悪感しか与えなかった。


「これが陰陽和合の真実か。生にしがみつき、生命を弄んだ者の末路。醜く、浅ましい貴様にふさわしい姿だ。死して命の尊さを思い知るがいい」


 溶けて、溶けて、溶けて。

 最後は骨だけが残るのだろうか。

 屍骸に向けて憎々しく吐き捨てる。

 肉が溶けていく。眼球がこぼれ落ちる。唇が皮だけになり、形を保てなくなる。東方朔だったものは、もはや人間とは到底呼べない形に変容していた。定命を無視して、自然の摂理を無理やり魔術でねじ曲げた結果の怪物がこれだ。

 

 不死を求めるまではいい。それは死に怯える生命として至極まっとうな要求だ。


「――陰陽和合は禁術にする。人の世にあってはならない魔術だ、あれは」


 たった一つ。

 たった一つ、クラックスが許せなかったのは、その願いを叶えてしまったことだ。

 幻想を現実に変えてしまったことだ。

 

 東方朔個人が憎いというよりも、陰陽和合こそが真の敵なのだ。

 彼に能力がありすぎたゆえの悲劇とも言えるのかもしれない。彼が凡人ならば、世界の歪みが生まれることはなかったろう。人の夢を穢す病魔はただの妄想で終わっていただろうに。

 遠い未来、帝国がなくなったとしても、魔人は生き続ける。そうして世界中にその呪わしい魔術を広め続けるのだ。根絶困難な伝染病が陰陽和合だ。国境を越えて広がり続ける病魔は人類全体の敵である。帝国の存亡などよりも、余程大きな問題なのだ。国を越えて、人類全てが団結し、これを排除しなければならない。

 

 人類共通の敵を滅ぼすためには、ある程度の犠牲も仕方ない。廃村の住民や、第二魔術師団の面々は大義の前の必要な犠牲だと割り切るしか無い。


 クラックスは第二魔術師団に少しばかり同情していた。

 目的を半分達成して、クラックスは感傷に浸っていのかもしれない。

 冷静に考えてみれば、東方朔の一生も不幸なものだ。帝国に貢献し、不死の秘術を乞われ、与え、誰にも理解されず、結局知性を持たない魔獣を相手に戦い続けた。そして最後は栄光も名声も役に立たない非文明の野山で、半生を捧げて練り上げた自慢の魔術を封印され、背後を刺されて命を断たれる。

 彼は悪人ではない。ただ、ほんの少し、運が悪かっただけなのだ。

 

 クラックスは浸っていたが、勝利を噛みしめるにはまだ早い。

 除菌作戦の本旨は陰陽和合の消滅にある。そのために禁術としてこの世から跡形残さず消失させる必要がある。禁術を使いこなせる人間は、確認されている中では開発者である東方朔しかいない。しかし禁術を伝授されているであろうデュアルを抹殺しなければ、完勝とはいえない。彼らは東方朔の手駒だ。東方朔を滅したとあれば、復讐に走ることもあるかもしれない。如何に大義のためのだと説明したところで、制御しがたい感情に操られるのが人間の一側面なのだから。

 

 この戦場では勝利を収めたが、道化師やバーニアといった強力な魔術師は、クラックスの分断工作によって別の戦場にいる。別方面での作戦の成否は未だ不明。全戦線での同時多発襲撃。しかも味方と思わせておいた禁軍兵士からのバックスタブである。禁軍兵士に扮した<吸魔>の一族は、暗殺のプロフェッショナルであり、やすやすと任務失敗するとは考えにくい。

 しかし、相手が相手だ。

 万が一、異変を察知され取り逃がせば、戦闘なしに事態が収束することはありえない。

 まだまだ油断はできない。

 

 瞬きにも満たない刹那の時間で、そんなことをクラックスは考えていた。

 勝って兜の緒を締めよ、と意識をしっかり現実に戻す。

 ふと握りしめた槍の先端を見た。見るのが一瞬でも遅れていれば――

 

 おそらく、もっと酷いことになっていたであろう。

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