39怪物と夢幻
気づくのが一瞬でも遅れていれば――
槍に沿って流れ落ちてくる泥とも肉とも判別の付かないおぞましい粘液を見て、クラックスは目を剥いた。
東方朔の成れの果て――不定形の液体は槍を伝って徐々に垂れ落ち、手元まで近づいてくる。慌てて槍を手放し、
「ゼン!離れろ!!この泥に触れるとまずいッ!!」
本能の命ずるままに大声で叫んでいた。我ながらいい反応速度だと思う。
クラックスの命令を待たずして、危機察知能力の高いゼンは泥から距離を取り、東方朔の最後の足掻きに備えていた。肉の泥はぼたぼたと重厚感のある音を響かせて、地面に落ちていく。粘性のある液体は土に吸い込まれるまでに時間がかかりそうだ。
東方朔は死んだはずだ。しかし、この泥はどうにも不気味に過ぎる。少なくとも進んで触れようとは思わない。
「くっ、火だ!予定通り焼き殺す!火を放て!」
あまりにも不気味だった。
禁軍兵士を装った暗殺者たちが命令に従って、用意していた木材を次々に投げ込んだ。一つ一つの表面には薄く油が塗布してある。火を放てば即座に大きな火へと燃え上がることだろう。あいにく日属性の術者はここにはいないが、そもそも<吸魔>の影響下では魔術や魔法は使えない。種火は魔術以外の手段で用意するしか無いのだから、無問題だ。
「燃やせぇ!!」
火が投じられる。魔術の使えない状況下で焼却されてしまえば、魔人といえども滅することが出来るはず。
燃え上がる火の高さはちょっとしたものだ。火勢も強く、火炙りにされて生きていられるなど、幻想種でも滅多に居ない。事実、炎に飲み込まれた液体は、じゅうじゅうと蒸気を噴出しながら萎び、縮んでいく。
しかし、全ての液体を焼却できたのではない。そのことに、もっと早く気がつくべきだった。
放物線を描く火の粉を見つめるクラックスの足元には、ピンク色の蠢く泥が忍び寄っていた。
ぬめり。脛に暖かさを感じたクラックスは最初、失禁してしまったのかと勘違いした。不死の魔人を殺す瞬間の安心感で膀胱が緩んでしまったのか、と本気で心配した。
しかしその暖かさは降りていくものではなく、昇ってくる暖かさだった。腿から股間へ、更に上臍まで上がってきたのを感じた時、ようやくあり得ざる危機の存在に気づくことが出来た。
慌てて服の上からヌメつく感触を押さえつけようとする。グニグニとした気持ちの悪い感触が手の平に返ってくる。あまりに不用意。しかし、その時は咄嗟にそうしてしまったのだ。
僅かな時間のうちに不快な感触は胸まで上がってきて、ついに襟元からおぞましい姿を出現させた。
「クラックス殿!!」
ゼンが異変に気づいた時にはもう遅かった。クラックスの喉は不定形の肉塊に締め付けられており、助けを呼ぶ声も出せない。それどころか呼吸ができず脳に酸素がいかない。打開策さえ思いつくことができなくなっていた。<吸魔>の空間では<並行思考>などなんの役にも立たない。
ゆっくりと肌を伝って昇ってくる肉色の液体は、クラックスの顔の下半分を覆い尽くし、固く引き結ばれた唇をこじ開けながら体内に入り込もうとする。
「んぐぅぅぅ。むぅーンッ!!」
クラックスは髪を振り乱し、凶相を浮かべてその液体を振り払おうとする。唇と歯茎が壊れるほどに歯を食いしばり、液体が絶対に入り込まないようにと懸命な努力を続ける。その最終防衛線を突破されれば、命が失われてしまうと彼の本能が叫んでいた。
クラックスを救おうとするゼンも、咄嗟にうまい対応は思いつかない。何しろ喉にがっちり食い込んだ肉塊だ。武器といえば毒の短刀しか持たないゼンには、クラックスを殺さずに怪物だけを始末する方法は考えつかない。そもそも不定形の液体に斬撃が通じるかは不明だ。
日属性や地属性、あるいは空属性の魔術が使えれば、怪物にダメージを与える方法があったかもしれない。しかし、この状況で夜の属性は無力だった。自身の精神世界に作用する夜属性では、クラックスを助けることは出来ない。部下たちも手をこまねいて見ているだけしかできない。
効果のない魔術を使うためだけに、わざわざ<吸魔>を解除しようとは思わなかった。
「ぐ――ッ!!――!!」
クラックスの口元は完全に封鎖され、空気が漏れることもなくなった。
とにかく液体に侵入させてはならない。口を閉ざし、絶対に負けてはならない。
狂乱するクラックスを嘲笑うかのように、不定形の怪物はクラックスの両の耳たぶを掴んだ。
その瞬間、聡いクラックスは絶望のあまり脱力していた。
口は塞ぐことは出来ても、耳の穴は塞ぐことは出来ない。それに気付かされたからだ。耳の穴へ、細く伸びた触手のような液体がチュルン、と吸い込まれていく。脱力して開いてしまった口蓋からも、液体がどくどくと流し込まれていく。
「あががががががっがッ」
皮肉なことに、口が開いた結果、クラックスはようやく喋れるようになった。ごぼごぼと気体と液体の混ざり合う音に紛れて、クラックスの断末魔がこだましていた。
白目を剥いたクラックスの両眼から涙の代わりに零れ出すのは、おぞましい不定形の液体だった。ピンク色の液体はクラックスの体内へと吸い込まれていき、入りきれなかった分が涙腺から漏れ出していたのだ。
クラックスの顎がカタカタと操り人形のように動いた。
「――ゼン・ジャガー・タスケ。聞こえているかい?」
誰も聞いたことのない、不快な声だった。クラックスの物に似ているが、どこか細部が異なる別人の声。クラックスの口から聞こえるその声は、今しがたの怪物のものだと判断せざるを得なかった。
ゼンは警戒しながらも、律儀に返事をした。
「……聞こえている。クラックス殿の身体に何をした?」
「いやあ、エーテルが薄いと僕も辛くてね。体内に貯蔵している魔力が尽きてしまえば僕は死んでしまう。そうなる前に潤沢な魔力を貪りたいと思ってね。ちょうどいい魔術師がいたものだから。心配しないで。彼の命に別条はないよ」
不定形の怪物――いや、東方朔はクラックスの口を借りて話していた。
ゼンは背中に冷や汗が流れるのを感じた。
東方朔は死んだはずだ。溶けていった身体に火を放ち、今もごうごうと炎は燃え盛っている。油と木材が火勢を強めている。あの炎で焼かれてしまえば、魔人だって殺せるはず。
逃げ出して、クラックスの体内に潜り込んだ液体は全体のほんの一部のはずだ。残りは今も火の中。あの液体が東方朔の成れの果てだったとしても、彼の肉体――その大半を焼き払ったはずなのだ。
そして最大の驚きは、これら全ての離れ業が、希薄エーテル空間で行われたことだ。
確かにこの世の中には信じられない不思議がたくさん存在する。魔法、幻想種。常識では語りきれず、正気を疑うような闇の存在も数多い。しかし、そのどれもがエーテルを存在の根拠とする魔の存在である。エーテルが不十分では奇跡も魔法もありえないというのに。
「バケモノめ……」
「まぁ、すこしばかり不格好なのは否定しないよ。とても人間には見えない、むしろ魔に属する外見だからね。だが僕は間違いなく人間だ。バケモノ呼ばわりは傷つくよ」
あごが外れたように大きく開かれたクラックスの口内からは、時折コポコポと湯が沸騰するときのような音が聞こえてくる。眼から肉色の涙を流す男が、まだ生きていると言われてもにわかには信じられなかった。
「エーテルが足りないというのは、本当に辛いね。希薄エーテルに対する対策を確定させていなければ、さすがに殺されていたかもしれないね」
ゼンは除菌作戦が失敗しつつあることを悟っていた。<吸魔>も永続的に展開できるわけではない。今でこそ数で優っているものの、こちらに有利な術式空間が消滅すれば力を取り戻したデュアルに蹂躙されるであろうことは容易に想像できた。
アノーラは毒で今にも死にかけている。アンシャリーアは駆動車の機関室の扉を気密閉鎖して中で意識を失っている。こちらから手の出しようがないが、無効から介入されることもない。二人のデュアルは無力化できている。
しかし、肝心要の大ボスがどうしようもない。想像を絶する怪物だった上に、身体の大半を焼き尽くされても、痛痒さえ感じていない。不定形の肉塊に対する攻略法を確立してない状態では、魔人を滅することはできない。
<吸魔>だけでは東方朔を滅するには足りなかったということなのか。
<吸魔>の一族は、魔術師殺しとしての自負を持っていた。秘匿術式である<吸魔>の情報が漏れ出したことはなく、今まで全戦全勝を保ってきたのに。
その誇りは今、砕かれようとしていた。
「……<吸魔>のことを予め知っていたのか。……考えたくはないが、里の者――バカ息子から漏れたのか」
「ふーん、<吸魔>っていうんだ。この術式は。初めて知ったよ。多分君の考えていることは的外れの大ハズレだ。僕達の家族に今日は留守番してる娘が一人いてね。その娘がドラゴンに匹敵するくらいの大飯ぐらいでねぇ。彼女がエーテルの薄い普通の世界でも生きていけるように調整が必要だったんだ。低濃度エーテル下での魔力のやりくりは、その時の試行錯誤の成果さ。今日、役に立ったのは完全に偶然だよ。君にとっては災難だったね」
下唇を噛み締めた。息子であるミックが里を裏切っていなかったとわかり、ホッとすると同時に、東方朔の言葉に絶望を感じていた。
彼には<吸魔>は通じない。それどころか、ここにはいない第二魔術師団の構成員の存在さえ示唆された。事前の情報収集が足りていなかったと突き付けられていたのだ。
事ここに至っては、除菌作戦を最後まで遂行する動機は殆どなかった。雇い主のクラックスは死んでいるも同然だ。人質となっている娘さえ助けられれば、彼の最期に付き合う義理はない。
仕事を請け負った以上最後まで――そういうプライドは残っているが、果たして意地だけであの怪物を打倒できるのか、と言われれば首を左右にするしかない。
「ゼン・ジャガー・タスケ。僕達に殺意を向け、陥れた君たちを見逃す法はない、それはよく分かっているね?」
退却は無意味だと釘を差される。
見た限り、不定形の液体の動きは決して速くはなかった。健脚のゼンが全力で遁走すれば追い付けるとは思えない。
しかしそれはこの<吸魔>空間の話である。<吸魔>の効果範囲は決して広くはない。術者との距離が離れれば離れるほど、術式の効力は弱まり、エーテル濃度は上昇している。<吸魔>という魔術と魔法を封印する最強の枷が外れた状態で、この不定形の怪物がどの程度動けるのか。
目算を誤れば、待っているのは死。
東方朔を遠巻きに術式を展開する部下たちを見る。彼らはゼンを信頼しているのか、動揺は見せなかった。しかし、この世ならざる存在を目の当たりにして、精神に異常をきたすのは時間の問題かもしれない。
彼らの半分を見殺しにすれば、自分を含め何人かは逃げ延びることが出来るだろう。しかしその選択肢は選びたくない。最後まで忘れていたい選択肢だった。
そもそも逃げ延びた所で何になるのか。秘密裏に暗殺を請け負っていた今までは、<吸魔>の里は帝国上層部から目こぼしをもらっていた。けれど今回のように、ここまで公然と動き、軍部の抗争に巻き込まれてなお帝国が里の存在を許してくれるとは到底思えない。権力者との折り合いが悪くなれば、こんな稼業やっていけるわけがない。
除菌作戦に失敗は許されない。クラックスと共に勝ち残り、事実を隠蔽する以外に勝ち筋はなかったのだ。
そんなゼンの葛藤を知ってか知らずか、
「<吸魔>くらいでやられるような軟弱者はいないと思うけど、やっぱり不快なものは不快だしね」
クラックスの顎がかたかたと動き、耳障りな音を鳴らすのだ。
その声はゼンにとっては悪魔のささやきだったが、熱に浮かされ意識が朦朧としているアノーラにとっては福音にも聞こえていた。
「ぅっ……あ、ああ。団長……、大丈夫です。私は大丈夫……。この程度の毒ではやられません」
アノーラ――第二魔術師団の軍医。
まだ言葉は喋れるというだけで、驚嘆に値する。ゼンは里の近くにのみ生息する紅い花から精製されるこの神経毒を何度も使ったことがある。猛毒だ。貴重な人体実験は実地で行っている。死に至るまでの時間――身体の自由が失われる時間――そういった知識は蓄積された経験として知っているのだ。
「まさか毒に耐性を持っているのか……?」
身体構造的に、毒が効きにくい亜人や幻想種も居る。
ゼンが呟き、部下たちはその意を汲み取り勝手に動いた。化け物のような東方朔と対峙したくないという逃げの心理も働いたのだろう。虫の息のアノーラの首を落とすべく、彼らは動いていた。
毒が効きにくくても。さすがに首を落とされたらひとたまりもないだろう。液体になってまで延命するの化け物は東方朔一人だけだと信じたい。
「彼女の着衣が乱れているから、ついでに直してやってくれないか?そのままだと、あんまりにも扇情的だ」
部下を殺されようとしているにも関わらず、東方朔はまったく見当違いのことを話している。はったりなのか、常人との感性のずれなのか。混乱が極まり、もう何が何やらさっぱり分からなかった。
「うーん、合図をしてしばらく経ったのに、山は静かだ。バーニアが暴れたらもっと騒がしくなるはずなのに、鳥の一匹飛び立ちやしない。ドラゴンがいるという話は嘘だったのかな?」
「……そうだ、ドラゴンなど幻想の産物がそうやすやすと存在してたまるものか。まんまと騙されおって。今頃、第二魔術師団の魔人たちは、我らの手の者がその生殺与奪の権利を握っている。バーニア殿も山頂で今頃昏倒していることだろう。部下の命が大切ならば、クラックス殿を解放しろ」
部下の命が大切ならば。
震え声で脅迫のまね事をしてみたが、言葉に説得力はまったく宿っていなかった。
東方朔という一人の傑物はその程度のことで歩みを止めはしない。そのことが本能でわかってしまうからだ
しかし、どうしたわけだろうか。
「ふーん。交換条件?僕たち家族の命を助けてくれるって?」
「そ、そうだ。悪くない条件であろう?」
若干の声の震えは割り切った。ゼンはただ、生き延びるためだけにうまくもない弁舌を振るう。
「東方朔殿。偉大なる魔術師よ。彼らの中には、まだ未来ある若者も多い。貴方は百年以上も生きた。もう十分でしょう。後進に場所を譲り渡す時が来たのではないでしょうか?それが自然の摂理というものだと私は思うのです」
「確かに生きるのに疲れてくる頃合いではあるね。僕もいつまでも生にしがみつくつもりはないよ。いつかは死を受け入れなければならないことはよーくわかってる。でも、それは今じゃあないんだな。まだ僕にはやるべき事があるんだから。その目処がつかないまま、朽ちる訳にはいかない」
少し、意外だった。クラックスの話では、陰陽和合を用いて永遠の命を手に入れた東方朔は人間社会に巣食う癌だと教えられていた。
今は帝国に寄生しているが、仮に帝国が滅びようとも別の国に取り入って生き続ける不滅の菌。感染すれば人間を外れてしまう外道の術を未来永劫ばらまき続ける人類共通の敵。
クラックスの話を鵜呑みにすれば、こんな風に要約できる。
しかし東方朔は狂気と悪意だけの人間ではなかった。
理解できない魔人だった。
圧倒的な力を有する超越者でもあった。
しかし、血も涙もない冷血漢ではないし、まして人類を滅ぼそうと目論む巨悪などではない。
狂気といえば、クラックスの方がよっぽど狂気に取り憑かれているように思えるのだ。
「いいよ。その交渉に応じよう。この身体は解放する。だから、僕の家族たちのことも宜しく頼むよ」
クラックスの口が開いたままで静止した。
クラックスの口と耳から肉色の液体が、どぼどぼとこぼれ始める。痙攣し続けるクラックスはとても無事には見えなかったが、しかし生きているということだろう。
クラックスは激しく咳き込んだ。口の中から肉を吐き散らかす。
彼は見る影もなく憔悴していた。
「ゴホッゴホッ……。あ、ああ。ゼン、こ、殺せ!纏めて斬れ!この身体に構うな!」
息も絶え絶えの有り様ながら、クラックスは気丈にも叫んだ。
彼の身体から不定形の肉塊は完全に抜けきったわけではない。
クラックスの喉の筋肉がまるで怯えるかのように、不自然に痙攣した。
「自己犠牲精神か。そこまで歓迎されていないなんてね。僕もずいぶん恨まれたものだ」
「ま、まだ残っている、私の身体に奴の薄汚い肉体が、残っているぞ!ゼン!早くやれッ!!」
クラックスの唇は忙しく開閉して、一人二役状態になっていた。彼の身体には東方朔の精神とクラックスの精神が同居しているらしい。元々の人格の方が今は優勢のようだが、精神的余裕では立場は逆転する。未だ底知れない魔人東方朔は、欠片も危機感を感じさせない声色だった。
「ははっ。ゼン。君なら斬れるかい?」
「……斬ります。お覚悟を」
ゼンは覚悟を決めた。被害なしで逃げるというのは、もう無理だ。戦って、勝つ。それしかない。あまりにも薄い勝算、これが最強の魔術師集団に喧嘩を売った代償ということだろうか。
ゼロ距離で。ゼロ距離で<吸魔>を発動すればどうだろうか。<吸魔>で消費されるエーテルは膨大であり、周辺のエーテル濃度は著しく減少する。<吸魔>空間は原点である術者を中心とした半球状に広がる結界のようなものにも見える。当然外縁部ほど効力が薄く、原点では最大の効力を発揮する。
斬撃は液体には通じないだろう。しかし、我が身を顧みないゼロ距離の<吸魔>ならば?
流体を操作する空属性によって、液体の動きを制御しているのだとすれば、僅かなエーテルさえも与えなければ、完全に倒すことも不可能ではない。
それにゼン・ジャガー・タスケの切り札は<吸魔>だけではない。
綱渡りのような薄い勝算に賭けて。
ゼンは走りだした。
その両脚は獣じみた体毛に覆われていた。
ナタリアは海の上で漂流していた。
ただの水ではない。暖かいというよりも、熱い熱湯のような湯の海に浮かんでいる。
逃げ出したくても、見渡す限りの海で陸地の影さえ見えない。
熱い。とにかく熱い。
湯だった頭。まともに思考が働いていないのが分かる。
不思議な浮力で波間を漂っていたナタリアの身体は、だんだんと水面下へと沈んでいく。
沈み、落ちていく。鼻と口が塞がれて、呼吸もできない。苦しいことは苦しいのだが、何故か同時に悦楽をも感じてしまう。感じてはいけないと直感では分かっているのに、我慢できない。この狂おしい快楽に身を預けてしまいたい、と切に願っている自分がいるのだ。
波に身体を飲み込まれる。伝導熱は全身で跳ね回り、どんどん増幅していく気がする。
もしかすると、このまま目を覚ませなくなるのかもしれない。そんな薄ら寒さを感じさせる熱い海だった。
口の端から気泡をぶくぶくと吹かせて、沈んでいく。
「――」
海が震えた。その震えはどこか遠くから届いた波のようで、近くで発せられた振動のようにも感じられた。
『――』
震え?いや、違う。これは声だ。誰かの”声”。
『――起きろッ!』
「お主、か……」
不思議なことに、水中でありながらナタリアの言葉は空間に響いた。
ナタリアの意識は自分自身の声で急速に引き戻された。目が開き、耳を澄ませる。海の深さを改めて自覚する。隣に浮かぶ陽炎のような”声”の存在も自覚する。
『上だ!上に昇れ!』
首をねじって上方を見る。水面は近くはない。呼吸ができない状況でどこまでやれるものか。肺に残った空気はわずか。ひと泳ぎぐらいしか許されないだろう。
肉体だけでは足りない。やったことはないが、ここは水中だ。空属性で水流を操作すれば、あるいは最後の一歩、距離を伸ばせるかもしれない。
『自分の肉体を信じてやれ!魔術なんて訳の分からないものに頼るな!!』
何を馬鹿なことを。魔術は己の半身のようなもの。むしろ自分の身体の中身を知らずとも、術式の構成は知っている。それは魔術のない世界の”声”にとっては訳の分からないものかもしれないが……。
あって当然のものなのだ。手を伸ばすくらい自然に魔法は行使される。
それに頼るな?
「あいにく、わしには他に頼るものがないでな」
孤児だったナタリアは師父様に拾われなければ、今と全く異なる人生を歩んだ自分になっていただろう。老齢だった師父様から教わった数少ない宝物が魔術なのだ。それを手放すということは――。
『馬鹿!自分を信じろ!俺を信じろよ!今だけでいい!今だけでいいから、自分の力だけで手を伸ばせッ!!』
頑なだった心は僅かに揺れていた。元来ナタリアは影響を受けやすい子供だ。周囲の空気を読むことに長けていたからこそ、感受性は強い。
”声”の助言に従って間違ったことはなかった。ならば、話くらいは聞いてもいいのではないか。
そう考えている間にも、ナタリアの身体は沈んでいく。悠長にしている時間は与えられなかった。
『急げッ!!昇れ!!』
「そう急かすでない。わかったから。自分の力だけで、泳ごう」
決めてからは迷わなかった。後悔もない。
水中の抵抗は思ったよりも強かった。魔法の補助なしに、腕を持ち上げるのはそれだけで重労働だった。しかし体の動きだけで成し遂げた達成感もある。
意外にも伸ばした腕はあっという間に水面を突き破り、空中に飛び出していた。
周囲の水がとてつもない勢いで流れていく。あれだけあった多量の水は一呼吸の間に干上がってしまい、今ナタリアがいるのは水深の浅い川の中だった。
「つ、冷たい」
川の流れはそれほど早くなかったが、熱湯の海と較べていかにも涼し気な清流だった。
背の低いナタリアでは、ギリギリ足が川底に届かず、立泳ぎをするしかない。時折つま先をかすめる丸石はつるつるとしていて、苔の一つも生えていなかった。
川となれば両岸がある。左右には河原が見えていた。薄い靄が広がっているため遠方を見通すことはできないが、人影も物陰も不自然なくらいに何もない。ナタリアと”声”しかここには居なかった。空気に生命の匂いがまったくないのだ。
「こんな景色は見たことがないわ。院の近くの小川よりは大きな川のようじゃが、帝都を流れる川よりは小さい」
流れがゆるやかなこと。川底の深さが一定で、深みがまったくないので、比較的泳ぎやすい川だった。お陰でナタリアには幾分か余裕ができていた。身体の熱も川の水が持ち去ってくれていて、熱病に浮かされるようなふわふわした気分は綺麗に消えている。苦しみも、痛みも消えて今は晴れ晴れとした気持ちだ。息も好きなだけ吸うことが出来る。
熱湯の海で浴びるほどに海水を吸い込んでしまったはずだが、肺に負担はまったくなかった。今も喉に違和感はない。
『……ここは、俺の知っている場所かもしれない』
”声”が小声でつぶやいた。聞かせるつもりでは無かったのかもしれない。その言葉をかき消すように、”声”は続けた。
『右と左、どっちが正しいのか判断できねー。だったら上。上に昇るんだ。意志の力で』
荒唐無稽なことを。とは思わなかった。ナタリアもとっくにここが尋常なる世界ではないことには気が付いていた。なにしろこうもめぐるましく海と川が入れ替わったりすることなど、大魔術でも有り得ない。大質量の海水は魔術師も苦手とするものだから。
ここはきっと、夢のような世界なのだろう。この現実感のなさや、身体感覚の不自由さもそれならば説明がつく。
川で泳ぐナタリアは視線を水流の源に向けた。やはり靄のせいで、遠くまでは見通せない。けれどその先に罠や悪意があるようには感じられなかった。腕で水をかいて進んでいく。流れに逆らっているというのに、抵抗は殆どなかった。確信を強める。やはり、ここは現実の世界では有り得ない。
進んでいくに連れて靄も晴れていく。両岸の様子は全く変わらないから進んでいる実感はあまり湧かない。ナタリアはただ意思を強く、強く持っていた。
再び景色が変転する。いつの間にか身体を濡らしていた川水は綺麗さっぱり消えており、ナタリアは空に浮かんでいた。足場はない。ぎょっとするが、落ちていく気配はなくふわふわと宙の一点で漂っていられるのだ。丁度”声”と同じような状態だろうか。
眼下には靄の代わりに雲が漂っていた。雲の合間から下界を一望することが出来る。
海と川と、野と山。<飛翔>術式を使えばきっとこんな景色を見ることが出来るのだろう。
『……ここは夢の世界のようで、そう簡単なものでもない。早く目覚めなくちゃあ、取り返しの付かないことになるかもしれん。分かるか?』
「本物の夢ならば、夜属性の魔法で思うがままにできるはずじゃからな。ここは夢のようであってそうではない。そもそも、わしの夢にお主が入ってきている時点で、尋常では無いのだから」
『急げ。浮上しろ。意識を無意識の海から引っ張り上げろ。とにかく上に昇れ』
昇る。そういう意思を固めた次の瞬間、ナタリアの身体はものすごい勢いで上空に飛ばされた。地面は遠く、遠くなって豆粒のように小さくなっていく。
大地が見えなくなり、海さえもぼやけて。高く、高く昇っていく。
<飛翔>で見える世界よりも、更に高く。
黒い影が音もなく、視界を覆い尽くしていく。カーテンのように広げられた暗幕には小さな無数の穴が開いていた。その穴からは向こう側の明かりが漏れだしている。
そのカーテンの黒は、夜の暗さによく似ていた。
カーテンの揺籃に守られるようにして、今しがた見ていた大地と空があった。
丸い。光に満ちている。
瞬きする。
幻の世界は消えていた。
しかし世界が消えたとしても、ナタリアの脳裏にはその幻影がはっきりと焼き付いたままだった。




