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師父慕う少女、果てに至る物語  作者: 犬山
肉食獣の遠吠え
36/64

31エンダ

 コツコツ。硬質なノックの音が静寂な病室に響いた。寝台の上で丸くなっていたエンダはビクリと震えた。その姿勢は生まれたばかりの赤子に似ていた。


「あ、あ」


 言葉を失ってしまったように口から漏れるのは、乾いた空気だけ。エンダは声を出すのを諦め、木机の端を軽く握った拳で叩いて合図とした。






「失礼します」


 竜人の娘。フッフール・エンダ・リーンリーンの病室は静けさに包まれていた。

 ナタリアが中に入ると、そこには一人きりの部屋で、寝台に腰掛けているやつれた竜人の姿があった。


「久しぶり、といっても数日ですか。禁軍上十二衛紅雀隊ヘイルダム・ダールクヴィストです。こちらは従士のナタリアです」


 レヴィに背を押されて一歩前に出た。


「ナタリアじゃ。今日は見舞いに来た。どうじゃ、加減は?」


「あ、あの……誰、ですか?」


 ナタリアの質問に答えるより先に、竜人の娘はもっともな質問を返した。

 ナタリアたちは彼女と面識がある。しかしその時彼女の意識はなかったはずで、なるほど。初対面ということになる。


「ふむ、そうじゃな。……お主を助けた者たちの一人。もっともわしは何も出来んかったが」


「……兵隊さん?」


 まだ怯えの残る瞳の竜人は、独特の発声で問いを発する。彼女は亜人だ。人語を覚えて日が浅いのかもしれない。


「そういうことになるらしいの。実感はそれほどないが」


「そう、なんだ……」


 竜人の娘は訝るようにナタリアを凝視する。主に身長を見られている気がする。それはたまたま座位の姿勢の竜人の目線が、ナタリアの高さと合致していたためであったが……。

 眠り姫のようだった前回と比べて、確かな自我の存在を感じさせる出会いだった。ナタリアには、それが喜ばしくもあり、苛立ちでもあり。


「あの、ありがとうございました。ご迷惑をお掛けしたようです」


 頭を下げる竜人は定型文を口にしているだけで、心がこもっていない。ただ、ナタリアたちをやり過ごそうと思っているだけだ。

 薄く拒絶が透けて見えるから、ナタリアもあの時のように気軽に近寄ることは出来ない。まして彼女の髪をすくなど、もってのほかだ。



「あまり覚えていないんです。あの日のこと。助けてもらったのに不義理だとは思うのですけれど……」


 竜人は蚊の鳴くような声で謝罪を口にする。これのどこが、神秘の極地にあるドラゴンの末裔なのだろうか。


「無理に思い出すことはありません。思い出せないということは、思い出さない方がいいと、身体が判断しているのですから」


 レヴィが慰める。


「……そうだ、退院の日は決まったのですか?リーンリーン家に迎えを寄越すように伝言でも受けましょう」


 別にただの伝言にわざわざレヴィが出張る必要はない。釈然としないものをナタリアは感じた。


「お屋敷……?……えっと、わからない、です……ごめんなさい」


「別に謝ることはありませんよ」


 だんだん不快になってきたナタリアは、自分で言い出したことながら部屋を退去したくなってきた。あまりにも自分勝手でわがままだと、自分でもわかっているから口には出さなかったが。


「突然訪問して驚かせてしまいましたね。負担になるといけませんから、そろそろ帰ります。お大事に」


 しかしレヴィは、ナタリアの無言の主張を感知したかのごときタイミングで病室を辞去してくれた。

 控えめに頭を下げる竜人を尻目にナタリアたちはその場を立ち去った。


 しばらくは無言だったレヴィ。声が届かないくらい病室から離れてから、ナタリアに話しかけてくる。


「あまり悪く思わないでください。彼女は辛い体験をしたのです。人と接することが億劫に感じているのでしょう」


「うむ、そうじゃな」


 ナタリアの気のない返事にレヴィは苦笑した。あの日に見た絵画のような美しい光景はもう見られないようだ。


『細かい状況は違うだろうが、あの時のガキと似た心境だろうな。誰も信じられず、誰もが自分を裏切っている。そんな思い込みだ』


 ”声”に諭されるまでもなく、ナタリアも昔の自分を思い出していた。大切な人をなくし、裏切られたと思い。まさしく世界全てが敵に感じられたのだ。失意のどん底。

 あそこからは、”声”とレヴィの助けが無ければ立ち直れなかったろう。

 だから他の誰よりもナタリアにはフッフール・エンダ・リーンリーンの心情が理解出来るはずなのだ。それでも彼女を見ていて苛立つのは同族嫌悪というやつだろうか。

 立ち直れた今だからこそ言える。この世界で一番嫌いな人がいるとすれば、それは昔の自分だ。

 理性では過去の自分と竜人の娘は別人だとわかっているのに。ままならない己の心を見つけ、ナタリアは軽い自己嫌悪を覚えた。


 施設のロビーは閑散としていた。戦中であれば上十二衛の治療院も傷病軍人で溢れかえるが、今は利用者も少ない。ナタリアたちは、ロビーを横切り外に出ようとしたところで、見舞い人の男の話が偶然耳に入ってきた。


「では怪我はないのだな」


「はい、身体の方は問題ありません。むしろ大変なのは心の方です」


「はん、そんなことはどうとでもなる。傷がないのであれば、当家が引き取ろう。あとはこちらでなんとかする」


「お待ちください。彼女は酷くショックを受けています。特に男性に対する恐怖症の可能性があります。急な環境変化は彼女の精神に取り返しのつかない悪影響を及ぼす危険が……」


「亜人の心などどうでもよい。我々には根性のない者を矯正し、まともに戻す教育のノウハウがある。それに奴は当家の娘だ。こちらが身柄を預かるのは当然のこと」


 図らずして盗み聞きのような形になったが、ナタリアたちは二人の男の会話に耳をそばだてていた。

 会話内容から話者の素性を察する。ほぼ間違いないだろう。リーンリーン家の家人と治療院の人間だ。

 困惑する治癒術師に居丈高に詰め寄るリーンリーンの家人。

 無意識のうちに、ナタリアは息を飲んでいた。


「屋敷の修復も終わった。警備体制も見直した。娘を保護するに、これ以上の環境はないと思うが」


「そちらの事情は理解しました。けれどこちらにも都合があります。あなたの主張はしかるべき場所に訴えてください。治療院は押し問答をするための場所ではありません」


「押し問答を始めたのはそちらだろう。ここに奴がいるのだ。何故遠回りをする必要がある。まさかリーンリーン家を侮っているのか?」


「滅相もございません。ですがご承知の通り、暗示魔術を受けている可能性が残っております。身体に傷はなくとも治療が必要なこともあります」


「ふん、出来ることなど、ろくにないだろうに、戯言を。とにかく、娘は連れ戻す。否応はない」


 立ちふさがる治癒術師を押し退けた男が目指す先は、ナタリアたちが出て来た病棟だった。当然、彼の目にナタリアたちが留まる。正確にはレヴィの長身か。


「騒がしいですね。もう少し落ち着きましょう」


 レヴィが諭したのを聞こえなかったはずはない。しかし男は鼻で笑っただけだ。


「退け」


 横を抜けようと思えば抜けられるスペースはあった。しかし権勢を誇示したかったのか、それとも女に頭を下げるのが嫌だったのか。ともかく、真正面からレヴィを押し退けようとした男は、巌のような抵抗に、逆に跳ね飛ばされていた。

 体幹を鍛えていない男は無様に地面に転がされた。レヴィは何もしていない。声をかけただけだ。

 塀や岩石にぶつかれば、歩行者は跳ね飛ばされる。それは当然の理。

 だというのに、顔を真っ赤にした男はまるでレヴィに非があるかのように睨み付けてくる。


「大丈夫ですか?」


 レヴィが差し伸べた手を叩こうとしたのか、男の手が素早く動いた。

 本当に学習しない。

 叩く途中の腕、手首の部分を空中で絡め取られ、男の攻撃は失敗した。のみならず、レヴィの怪力でへたり込んだ姿勢から無理やり立ち上がらされる。

 まるで赤子のような扱いに、男の顔色は更に赤黒くなった。


「貴様……。名を名乗れ。私をリーンリーンの者と知っての狼藉か?」


「紅雀隊のヘイルダムです。いいえ、過分にして存じ上げませんね。リーンリーンの当主とはお会いしたことがあります。あなたの目鼻立ちは確かに当主の面影がある。けれど、まさか当主の血縁がこれほど無礼な振る舞いをなさるはずもなし……。貴様こそ何者だ?リーンリーンの名を騙る詐欺師め」


 男はプルプルと拳を震わせる。しかし実力差は理解したのか、やぶれかぶれの特攻には移らない。

 必死に反論の言葉を探しているようだ。けれど茹で上がった頭で名案を出せるくらいに賢明ならば、そもそも体格に勝るレヴィに突っかかる筈がない。

 男の肩にぽんと、手が置かれた。事態の変化にようやく追いついた治癒術師である。彼も衛生兵の一人。腕力を行使してもいい相手となれば、この程度の相手を、あしらうのは役不足なくらいだ。

 横暴な男が引っ立てられようとした時、新たな役者が現れた。


「まったく。呆れ果てたぞ。常々思っていたが度し難い愚弟だな」


 入り口から入り、すぐに騒ぎを見咎めたのか横暴な男によく似た顔立ちの男がやってきた。もっとも纏う雰囲気は雲泥の差がある。


「いや、炎剣殿。愚弟が迷惑をかけた。私としても身内の恥だよ」


「当主殿……」


 やってきたのはリーンリーン家の当主らしい。男と顔立ちは似ているが身なりの良さが段違い。執事のように控える従者の服もどことなく造りが高級そうだ。


「あわ、兄上……」


「見下げ果てたぞ。市井のつまらぬ芸者に入れ込むだけならともかく、当家の名声を地に落とすような真似をしてくれるとはな……!」


 両者の体格に差はなかったが、立場の違いから、どうしようもなく兄の方が大きく見えた。威張り散らしていた男――弟は、息もできないのか完全に硬直していた。


「去ね!貴様はもはや私とは無関係の人間だ。二度と当家の敷居を跨ぐことは許さぬ!」


 縁切り宣言にはさすがに驚いたのか、抗議のために動こうとした弟を、リーンリーン家の従者が抑えた。


「みっともない真似はおやめなさい」


 腕力の使い方がなっていないのか、それとも従者が地属性で筋力を強化しているのか。とにかく従者の力は弟を凌駕しており、抵抗は無意味だった。

 治療院から追い出された弟は、覚束ない足取りで雑踏の中に消えていった。

 弟の姿が消えるのを確認してから、レヴィに向き直った当主は、深々と頭を垂れた。


「迷惑をかけた。不心得者が先走ったようだ。炎剣殿には世話になったのに、恩を仇で返すような真似をして申し訳ない。深く謝罪する」


 主に合わせて従者もまったく同じ角度まで頭を下げていた。そもそも勝手に暴発したかのような弟の言動に呆気に取られていたレヴィは、あまり考えずに頷いた。


「上十二衛が娘の身柄を守ってくれるというのならば、これに勝る安心はない。今後ともよろしくお願いしたい」



 今度は居合わせた治癒術師にも頭を下げる当主。百八十度異なる対応に治癒術師も面食らっていた。


「街で奴を見掛けたら絞っておいてください。あの年で遊興にかまける愚弟で、本当に恥ずかしい」


 それだけ言って帰ろうとする当主に、ナタリアは思わず尋ねてしまう。蚊帳の外に置かれた疎外感か、それともおどおどした竜人への苛立ちか。


「せっかく来たのに、娘の見舞いにはいかぬのか?すぐそこじゃぞ?」


 思い出したように治癒術師も相槌を打つ。


「彼女、男性に対して苦手意識が出来てしまっているようです。親しい男性……家族の方で徐々に慣らして行くのは治療の助けになると思います」


 先程の横暴な男を竜人の娘に会わせることは思いもしなかった治癒術師も、理知的な父親にならば、と思ったらしい。しかし事情を知るレヴィは苦い顔。リーンリーン家当主は彼女の義理の父であり、しかも引き取られたのは最近だ。親しい男性に該当するかは微妙なところ。

 もしかして当主も同じことを思ったのだろうか。


「いや、やめておく。これ以上私が娘と関わることは双方にとっての不幸にしかならない。おい、帰るぞ」


 従者に帰り支度をさせながら、当主はレヴィに慇懃な礼をしていた。


「こうして出会ったのも縁の一つです。リーンリーン商会は紅雀隊及び炎剣殿の栄達を支援いたします。今後ともよしなに」


 それもきっと将来の商売の為なのだろう。終始無視されているナタリアは不貞腐れながら、胡散臭く当主を見ていた。







 治療院を去る当主と従者。馬車置き場に待たせていた御者に合図して乗り込む。誰の耳目もない空間で二人きりとなった瞬間、温厚な顔の当主が怒気を滲ませながら毒付いた。言うまでもなく、彼の弟についてである。


「くそっ。確かに竜人の回収に向かわせたが、あれほど周りが見えていないとは思わなかった。よりにもよってあの炎剣に喧嘩を売るとはな!」


「ご主人様……」


「餓鬼のお使いでももう少しうまくやるぞ?度し難い無能め」


「弟様も軽率でした。ですが全て弟様に責任を帰すのは些かやり過ぎに思います。情報が錯綜していたのは事実ですし、弟様が出立した時点では治療院で検査が行われる予定だったと誤情報が信じられていたのですから」


「だとしても、だ。たかが検査如きで我が家の教育の痕跡が辿られる筈がないのに……焦りすぎだ、馬鹿者」


「お嬢様の破談の件はいかがします?本人に伝えますか?」


「いらんな。どうせきゃつめにとっては嫁ぐ相手が皇族であろうが、そこらの浮浪者であろうが同じこと。そういう風に教育したのだ。道具は道具、必要以上の情を持ってしまえば、廃棄するとき心が痛むだけだぞ」


「はっ……」


 顔を伏せた従者を前に、当主は親指を爪を噛みながらぼやく。


「さっさと代わりの縁談を用意せねばならんな。いつまでも治療院に預けていれば、奴の洗脳が解けないとも限らん。縁切りするのも手だが、恨まれては敵わん。密密に処理というのも困難だろうしな……」


 ままならない現状によっぽどムカついていたのか。それとも喧しい馬車の中の会話を盗み聞き出来るものなどいないと考えたのか。愚痴というには黒過ぎる暴露話。

 主人に付き合わされる従者は、主家の兄弟の揉め事の板挟みになって冷や汗が止まらないようだ。

 プライベートな空間のはずだった。しかしそうではない。あらゆる魔術の探知をかいくぐり、どんな達人であろうが気配すら読み取れない。

 そんな影が――

 そこには影があった。

 誰にも見えず触れられない彼は、当主たちの会話を漏らさず聞き取っていた。


『想像していた倍くらい胸糞悪い話だな。……ガキに直接伝えるには刺激的すぎる』


 ふわりと宙返りした”声”は、治療院で待つナタリアたちの下へ戻る。

 竜人の娘。エンダ・フッフール・リーンリーンは政略結婚のために、養子に引き取られた。肝心要の婚儀が破談となれば、宙ぶらりんの状態になってしまうのは、至極当然の流れ。

 道具のように扱われる娘に同情が湧かないでもなかったが、”声”にとってナタリアのことが最優先。弱者を助けている余裕はないのだ。


 うまくオブラートに包んで、盗み聞きした会話をナタリアに伝える。

 聞いたナタリアはしばし黙考した。


 薄い胸に手を当てて、祈るように瞼を閉じる。

 隣にいたレヴィが不審に思うほどに、その祈りは長く続いた。


「忘れ物をしてしまった。すまぬ、すぐ戻る」


 病室にかけ戻るナタリアに追いつこうと思えば追いつけたはずだ。大人の足と子供の足の差はあまりにも大きい。だからレヴィが追い掛けなかったのは、彼女にも何か思うところがあったということだろうか。






 ナタリアは再び竜人の病室の前に立っていた。何ができるでもない。彼女の境遇は同情に値するが、ナタリアだって負けず劣らずの不幸を跳ね除けて来た。結局は本人次第なのだ。

 ナタリアは聖人君子ではなく、自分勝手な一人の子供だ。少しぐらい魔術が使えたところで、多くの人に助けられてばかりだし、小さな手で誰かを助けられるなんて思いあがりだ。

 紅葉のような手が、扉を叩く。痛い。やはりレヴィの真似をしたのがまずかった。拳を固めてから、小指側で少し乱暴にノックする。骨で叩くのではなく、肘から手の先までを一体にして扉を叩いたことで、痛みはほとんど感じない。


「ナタリア・ファーレーンじゃ。入っても良いか?」


「その声……さっきのちびっ子?いいよ、入っても」


 元気のないくせに、妙に腹立たしい言葉選びをしてくる。レヴィを伴っていたときとは明らかに違う。意気を挫かれた思いだが、ぐっと飲み込み扉を押し開く。


「どうしたの?」


 当たり前だがさっき別れたばかり。しかも疲れさせないように、という名目付きの別れだ。とんぼ返りしてきたナタリアを不思議そうに見る竜人。


「忘れ物じゃな。お主の名前を聞いておらなんだ」


「……エンダ。エンダだよ。私もおチビちゃんの名前、もう一度聞いてもいい?」


「ナタリアじゃ。あと、その呼び方はやめよ。失礼じゃぞ」


「でも、幼生でしょう?私より小さい幼生は始めてみたから」


 邪気のない目で、エンダは初めて笑った。薄い拒絶の精神障壁は、透明になっているようだ。彼女が少しでも安らげたのなら、心開いたのなら、少しぐらい我慢してやろうか。


「おいで、いい子いい子してあげる。私を助けてくれたんだよね。頑張ったね」


 エンダはポンポンとシーツを叩いてナタリアに寄るように、と合図する。

 ナタリアに対しては怯えを感じていないようだ。これは打ち解けた、とか親しくなったとか、そんな綺麗な言葉では説明できない。

 舐められている。ただそれだけだ。

 憮然としながらも、ナタリアはエンダの傍に腰を下ろした。

 すぐさまエンダの手が伸びて、頭を撫でられる。

 不器用な手つきだ。力加減がうまくない。あんまりにも不慣れだから、小さなナタリアの身体はグラグラと揺れた。


「い、痛いぞ。もう少し力を抑えんか」


「わわ、ごめんね。幼生に触るの初めてで……。もっと優しく、だね」


 とはいえ、別に撫でることに高等なテクニックが必要とされるわけではない。相手を思いやる気持ちがあれば、それで十分だ。僅かな時間で上達したエンダの手の力加減もマシになった。

 されるがままのナタリアは、どうやって漏れ聞いた密談を伝えるか考えていた。言い出しにくい。デリケートな問題だ。

 だから、言葉にしたのはこれだけだった。


「知り合ったのも何かの縁。もしも助けが必要なことがあれば、出来る限りてを貸そう。これは連絡先じゃ」


 そういって予め部屋の外で書き上げておいた住所をエンダの手の中にねじ込む。エンダは紙が珍しいらしく、目をしばたかせながら、ナタリアの渡した住所を見つめていた。

 自分でやったことながら、気恥ずかしい。ナタリアはまだ頭の上にあったエンダの掌をかわして立ち上がった。エンダの顔を見ないように部屋の出口を向く。


「誰も彼もが敵だったとしても、わしの言葉は覚えておいてくれ」


 まだ状況が飲み込めていないエンダはポカンとしていた。ナタリアはもう何も言わない。これ以上は彼女自身が判断し、選択することだ。それに、大袈裟な見栄を切って何の役にも立てないとなると恥ずかしい。

 扉を引き、外に出る。


「あ、さよなら……」


 エンダの遠慮がちな小声が背中に浴びせられた。それはただの別れの挨拶のようでいて、真逆の意味を含有しているように感じられた。声色に滲む引き止めようとする意思を振り切る。


「ごめんなさい。このくねくねは一体何なの?もしかしてこれが文字?」


 扉を出たところでナタリアはガクリと膝を折った。

 格好を付けたのが台無しだった。けれどナタリアだって院で地図の筆写で訓練していなければ、文字を読めなかっただろう。亜人であり、教育を受けるのも難しかった彼女が識字できると思い込んだのはナタリアのミスだった。

 格好は付かないが、自分が書き記した文字を改めて音読してなんとかエンダに教える。恥ずかしかったが、年上のエンダがうんうん、と素直に聞いてくれたのだけが救いだった。

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