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師父慕う少女、果てに至る物語  作者: 犬山
肉食獣の遠吠え
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37/64

32魔法陣


 エンダの見舞いに訪れた翌日のこと。ナタリアの姿はお馴染みの魔導研究所にあった。用事の一つとして”翁”に見てもらいたいアイテムがあったからである。

 地下道を通り抜け、”翁”のいる工房に入る。

 今日は炉が赤々と燃えており、数名の手伝いが工房には入っていた。といっても彼らの仕事は炉の管理がメイン。”翁”は部下が増えても知らんぷりで、まったく彼らを無視しているのだった。

 まだまだ顔の売れていないナタリアが工房に足を踏み切れると、彼ら下っ端の胡散臭い視線が突き刺さる。それでも”翁”との会話の邪魔はされなかった。


「今日は制作の依頼ではなくてな。偶然手に入れた魔具なのじゃが、解析を頼みたい。詳しいものが知り合いにいなくてのぅ」


 取り出したるは、道化師からもらった鈴だ。発信機として機能すると言われたアレである。下っ端たちからは見えないように身体の角度を調整したナタリアは”翁”の前に鈴を差し出した。

 珍しい依頼に興味を惹かれたのか、”翁”は視線を動かした。彼への依頼は数週間は予約が入っており飛び入りの依頼が受諾されることは少ない。一刻を争うような用事でもないのだが、待たされることがないというのは素直に嬉しい。

 無言でぐいと突き出された”翁”の皺だらけの掌に、鈴をそっと落とす。微かに音がなったような気がしたが、気のせいだったかもしれない。これはただの鈴ではない。魔を呼ぶ召喚の魔具なのだから。


「……」


 無言で鈴を検分する”翁”。炉の明かりにかざしてみたり、上下左右をくるくる回してみたり。


「これは無理だ。何もわからん」


 初めて彼の肉声を聞いた。街道を走る馬車の車輪のような、ゴロゴロと聞き取り辛い声だった。突っ返された鈴を反射的に受け取ってから、反駁する。


「分からない……。それほどまでに複雑な構造をしておるのか。見掛けはただの鈴にしか見えんのだがのぅ。外見だけでは判断できぬということか」


「違うぞ。これは魔具ではない。だから何も分からない。これは音が鳴らないだけのただの鈴だ」


 魔具ではない?一体どういうことか。問いたげな視線で説明を要求するが、言いたいことだけ言ってしまった”翁”はこちらを見ていなかった。中断していた別の作業に戻っており、鈴にはなんの興味も湧かないようだ。


「馬鹿な。ただのオモチャだというのか?贋作を道化師につかまされた?」


 ”翁”は自分の鑑定結果を露ほども疑っていないのか、まったく反応を返さない。その山のような動じない姿勢にナタリアは負けた。

 鈴を懐に収めてすごすご退散する。これが偽物ならば、居場所を知らせる機能も実在しないのだろうか。


『意味ありげにゴミをプレゼントされたってことか』


「それはあんまりな言い草じゃろ。多分本人は御守りのような気持ちで贈ってくれたのじゃろうて」


 鈴を御守り代わりにする文化をナタリアは知らなかった。しかし亜人の生活はほとんど知られておらず、もしかすると道化師のルーツとなる部族とかでは意味のある贈り物だったのかもしれない。

 音のならない鈴は、今振ってもまったく音がでない。微かに幻聴が聴こえる気もするのだが、やはり気のせいか。


 ”翁”の工房を出たナタリアは研究室に戻った。期待通りの結果は出なかったが、鑑定待ちで長い間やきもきしているよりはましだ。”翁”の好意に感謝する。

 循環盾は細かな調整も終わっているし、電探も順調だ。来たる発表会には余裕で間に合う。猶予はひと月以上あるのだから、関係者への根回しをしておくのもいいかもしれない。

 日取りを確認していると気付いた。そういえばそろそろコンラが帰って来てもおかしくない時期だ。魔導研究所の所員であり、ナタリアの担当であるはずの才女は、港町に調査に赴いているはずだ。

 水中で有用なソナーの調査だ。いつ帰って来てもおかしくないとはいえ、それは滞在時間をゼロと見積もった場合の旅程である。まだしばらくは研究室で羽を伸ばせるだろう。


 というわけで現在ナタリアが取り組んでいるのは魔法回路なる代物だった。これも循環の概念が利用されており、魔力が環状に駆け巡ることを最終目標としている。”声”の提案でその完成図だけは頭に浮かんでいるのだが、肝心の実現のための手だてが何も思いつかない。開発は難航している。

 一番の技術的障害は、電気回路でいう導線にあたる素材だった。エーテルは本質的に拡散の性質を持つ。それはつまりエーテルを、動力として恣意的に溜め込むことはできないし、流れを誘導するのは極めて困難だということだ。

 やはり、根本が間違っているのだろうか。ナタリアにはそう思えてならないのだが、”声”の言葉には説得力があった。魔術や魔力の存在しない世界から来たゆえの先入観のなさが彼の奇抜な発想の源泉である。


『エーテルが固着できないってよ、なら魔法陣はどうなる?マジックアイテムの原理は?』


 魔法陣と電気回路の類似性は以前にも指摘されたものである。その質問は予想の範囲内だった。


「エーテルと魔力は違う。本質的には同質のものかもしれぬ。しかしそれは水と氷を同一と言い張るようなもの。それに魔法陣には時間制限がある。血が乾いてしまえば溜め込んだ魔力など霧散してしまうじゃろうて。魔具はそもそも使用者の魔力を吸い上げて術式構築を代行する装置じゃ。魔力の保存とは関係ないぞ」


 ナタリアの語る内容は高度な知識というわけでもなく、気の利いた魔術師ならば誰でも知っていることだ。独立に魔力を補給し、半永久的に稼働する魔具が皆無とはいえないが、それらのほとんどは国宝級の古代遺産。製造方法も分からない太古の昔の超技術の遺産である。勘定に入れない方がいいだろう。

 考えてみれば、”声”の語る技術とはつまりアーティファクトの奇跡であり、悪魔の誘いに乗ってしまったナタリアは、アーティファクトを製作しようとしていることになる。あまりにも大それた目論見、大望だ。しかし同時に望むところでもある。それくらいしなければ、師父様の弟子であると胸を張ることはできまい。


『血液凝固抑制剤はないのか?乾燥を防げば魔力は維持できるんじゃないか?』


 エーテルは世界に宿り、魔力は血に宿る。魔法陣の血文字を長持ちさせる方法があれば、もしかすると効果があるかもしれない。


『ほら、輸血用みたいにパッキングして……』


 ”声”の言っていることはなんとなく分かる。しかし、命の源である血液をまるで商品かなにかのように粗雑に扱うことにナタリアは不快感を覚えた。不機嫌な声で反論する。


「生きていることに意味がある。溜め込んだ血など、それはもう死んでいる。流れには生命があるのと同じ、停滞と淀みには死が香る。流れない血液に魔術的価値はない」


『ふむ、血を流し続けるってのも現実的じゃないか……』


 ふと脳裏をよぎるビジョン。くるくると回る車輪。盾のように循環する風の流れ。

 血液を循環させることはできないだろうか。

 思い付きを即座に試すことができるのが、この研究室の最大の利点である。机の引出しから機材を漁って必要なものを集めると、ナタリアは早速魔法陣の試作に取り掛かる。まずは少量。指先に小さな穴を開けて絞り出した血液を、空属性の魔術で環状に回転させる。血も液体には違いない。

 操作する術式を案外あっさり受け入れたナタリアの血はゆっくりとだが、循環を始めた。つるつるに磨いた天板の上の赤い宝石の粒が互いに引き合い、小川を作り出す。川の流れは完全に制御されている。糸のように細い血の川は、円環を描き出していた。自らの尾を喰む大蛇のように。


 実験成功かと甘い夢を見ていられたのは数分の間だけだった。みずみずしい赤色は、乾燥にひび割れる大地のようにくすんでいく。一度生じた黒ずみは二度と赤に戻ることはない。

 流れは停滞し、やがて停止した。乾いた血液は天板にこびりついたまま動こうとしない。こうなってしまっては流体を操作する空の属性にできることはない。見るまでもなく、込められた魔力は散逸している。


「流れさせ続ければなんとかなるかと思ったが、そう甘い話はないようじゃな」


 若干の落胆がナタリアの声には混じっている。むしろ絶え間無く新しい空気に触れさせ続けたせいで、蒸発は加速し酸化も進んだ。求めた結果とは真逆である。


『……血液凝固抑制剤の原料ってなんだ?蚊が似たような物質を持つらしいとは知っているが』


 ”声”も画期的な問題解決方法は持っていない。しかしその常識にとらわれないアイディアには一考の価値があった。

 閃いた。過去の情景がフラッシュバックする。半年前、師父様との出会いの時。停滞した血液は活力を失い、死ぬ。しかしその常識に反する不思議な液体がなかったか。

 神秘の水、腐り清水。停滞しながら澱まない。かの液体の性質は"淀みなから、澄んでいる"

 触れた人間の属性を露わにするその神秘。あの液体ならばもしかすると……。

 コンラの研究室にはあいにく腐り清水の在庫がなかった。コンラの名前を借りて、魔道研究所の上層に申請を出せば手に入れることはできる。あるいは錬金術師向けの商店に行けば直接買い付けることもできるはず。

 半年前は、ただただその神秘に敬服するしかなかった触媒も、今のナタリアには入手可能な触媒の一つにすぎない。奇妙な寂寥感があった。


 帝国軍の施設である研究所で申請するよりも、市井で見繕う方がまだ目立たないだろう。そう考え、ナタリアは夕刻帝都の市場に来ていた。黄昏色の残光が、眩しく家家を染め上げている。

 帝都にやってきた初めの頃。半年前は帝城にこもり切りで、街並を高いところから眺めるだけだった。籠の小鳥のように。帝都の街は景色でしかなく、そこに自分が歩くことがあるなんて想像できなかった。

 赤子にとって揺り籠の中だけが彼にとっての世界であるのと同様。人はその能力に応じて己の中の世界の写し鏡を拡大していく。つまり帝都の市場に慣れてきたナタリアの世界はまた広がったということだ。”声”との出会いは、ナタリアの出来ることや能力を著しく向上させたといえる。

 錬金術の薬品屋はすぐに見つかった。熱に弱い薬品を保護するために日当たりの悪い奥まった場所に店はあった。日差しの眩しい今はただただありがたい。

 ナタリアのような子供が入ってきたことに店番は軽く驚いたようだ。


「いらっしゃい、お使いか何かですかい?」


「腐り清水が欲しい。一瓶ほど必要なのじゃが」


「はいはい、少々お待ちを」


 勘違いをわざわざ是正する気にもなれず、ナタリアは簡潔に用件だけ伝えた。待つこと数分。店の奥に引っ込んでいた店番の男が戻ってきた。しかしその手には何も持っていない。


「すいませんね、お客様。今朝方在庫を全て納品したばかりでした。次回の入荷は来週になります」


「なんじゃと?」


 出し渋られているかと思ったが、しきりに恐縮する様子からは虚偽の匂いがしない。在庫がないというのは本当なのだろう。しかしどうしたものか。急ぐわけではないのだし、待つのもアリだ。いっそ研究所を通して申請してもいいかもしれない。

 店内でナタリアは悩んでいた。その姿にナタリアが困っていると勘違いしたのか店番が、


「あー、魔術ギルドなら多分在庫あると思いますぜ。あそこの倉庫は大きいですから、触媒の貯蔵は十分でしょう。あ、もちろんお嬢ちゃんのご主人が魔術師であればの話ですが」


 魔術師ならばギルドを利用できる。魔術師であれば平等に利便を享受させる。それくらいの公共目標を掲げなくては王国の組織が帝都に支部を持てるはずがない。帝都の魔術師であろうとも訪れれば売買は必ず許可されるだろう。

 専門家が言うのだ。まず間違いはない。


「なにしろ今朝方買い占めて行ったのはギルドみたいですからね。うちの店で買ったものがあるはずですぜ」


 ナタリアを子供と油断したのか、聞いてもいないのに商売の種を男は口にしていた。とはいえナタリアにその情報を悪用する気はない。魔術ギルドは今のところ敵ではないし、術式を買い上げてもらった恩がある。久し振りに行ってみるのもいいかもしれない。

 そんなフワフワした考えでナタリアは魔術ギルドに向かった。

 前に来た時と寸分変わらぬ景色が待っていた。ガランとしたホールには余人の姿はない。受付嬢が一人カウンターの奥に折り目正しく座っているだけだ。

 誰も見ていないのにきっちりしている。プロ意識の強い人だとナタリアは思った。


「魔術の触媒を購入したいのじゃが」


「はい、何をお求めでしょう?」


「腐り清水を一瓶ほど」


 受付嬢はこれまた以前来た時と同一人物だった。ナタリアが彼女の顔を記憶していたのだから、相手の方もナタリアのことを覚えていたのかもしれない。まじまじとナタリアの顔を見つめていた受付嬢は慌ててナタリアの注文を復唱した。


「はい、腐り清水ですね。少々お待ちください」


 待つ事もなく、瓶詰めされた魔術触媒を持って来てくれる。安い買い物ではないが、決して法外な値段でもない。対価を支払い、腐り清水を手に入れる。

 受付嬢は手渡す際、緊張しているように見えた。何かに身構えるような態度はナタリアの不審を呼んだ。


『奥を見てこよう。なんなら少しくらい文献を無断で拝借してくるぜ』


 よく気のつく”声”はギルドの中に潜入していったようだ。拝借といっても実体のない彼ではこそ泥の真似事はできはしない。彼なりの品の悪い冗談だろう。

 用事が済んだのに、いつまでもぐずぐずしていては無用に怪しまれる。ナタリアは会釈をしてから魔術ギルドの外に出た。

 ギルドの正面からは見えない場所で待機。”声”の報告を待つ。古道具屋の店先の腰掛けを使わせてもらう。ナタリアの短い脚はぷらぷら宙に揺れる。夕焼けの空を見上げながら思索に耽るナタリアを見つめる二対の瞳。

 上の空だったナタリアがその視線に気付くのは、一刻の後、”声”が帰還してからのことだった。






 ギルドの事務所は慌ただしかった。少ない職員がバタバタと廊下を駆けている。

 緊急事態なのかと思えばそうでもなく、のんびりとしている職員も見受けられる。彼らは奔走する同僚を気の毒そうに見ていた。そこには憐憫と自らの幸運への喜び、二つの感情が入り混じっていた。

 ”声”が注目するのは当然というべきか、多忙な職員数名である。彼らの移動先について行くと、いつの日かナタリアとの面会に使われた応接室があった。

 もっと正確に言うならば、応接室の隣のギルド長室である。

 ノックすらせず出入りを繰り返す職員に混じり、”声”は内部への潜入を果たす。当たり前だが見咎められるようなことはなかった。


「ふむ、ではただ単純に触媒を求めに来ただけなのだな?脅迫を匂わせるようなことは何もなく?」


「ええ、それどころか探りを入れてくることさえありませんでした。慌てて資料を本国に送りましたが杞憂だったみたいですね」


「……そうかもしれぬが、万が一がある。我らの動きに勘付いて飛脚を途中で殺すつもりかもしれぬ。すぐ動ける手練れを監視につけろ。何か動きを見せれば官憲に通報、及び直接妨害だ」


「相手は子供ですよ。取り越し苦労なんじゃあ」


「あの娘は夜の術者だぞ。勘が良いであろうことは疑うまでもない。我らは法に則り活動しているが、我々が帝国の法を守ろうが相手が法を守る保障はない。悪逆な無法は想定せねばならん」


 ”声”は耳を疑った。おおよその事情は察した。彼らはナタリアを過剰に警戒しているようだ。資料とやらが強奪されるのを恐れている。

 しかし見かけならば幼い子供のナタリア個人をそこまで恐れる意味がわからない。彼らが後ろ暗いことをしていて、その罪過が露見することを恐れているというのなら、話は単純だったのだが。

 いや、法に則るというのも彼らの常套句なのだろうか。

 少しでも情報を得ようと様々な書類を流して見る。無造作に広げられているだけあって、機密が含まれたものは殆ど見あたらなかった。

 特に彼はこの世界の文字をあまり知らない。転写によってある程度の知識は持っているのだが、難解な公文書を一読しただけで理解する技能は持ち合わせていない。”声”は書類から探ることを諦め、ギルド長と職員の会話に全神経を傾けることにする。


「タイミングが良すぎる。魔法陣を模写し終わり、丁度本国に送る直前の来訪だからな。我々の動きは監視されているのかもしれん。積荷が検められたとしても、違法なものは何もない。まさか帝国のボンクラが魔法陣の有用性に気付くはずもなし……」


「魔術はそこそこですが、帝国のその他の分野は遅れてますからねぇ。医学なんて学問の存在さえ知られてないんですからよっぽどですよ」


「進んでいるはずの魔法技術でさえ、魔法陣と人体の相似にも気づかぬ始末。優れた先人たちの遺産を食い潰すばかりの阿呆が多いのさ、帝国には」


 指示を出して一安心したのか、水分補給しながらギルド長は呆れた息を漏らした。


「確かに。ですがあんまり帝国をバカにしすぎると、大賢者殿が怒りますよ?」


「彼のことは尊敬している。が、過去の人だな、どうも。最近は病身のせいで活躍の噂を聞かぬし、氏も高齢だ。一人のタレントで国家を牽引する英雄の時代は、過去のもの。知識やノウハウを共有することの意味を受け入れられない帝国に居ることが心労だろう。案外それで体調を崩されたのかもな」


 体調を崩すどころか、大賢者は既にこの世にない。それを知らない彼らはボソボソと帝国の滅びは近いと囁きあっている。それは国家転覆のけしからぬ企みとかでなく、ただの事実と現状の確認。王国に与する魔術ギルドは手を出すまでもなく沈んでいく船を傍観するような目で帝国を認識していた。

 ナタリアを襲う貴族の専横を目にした”声”も頷ける話だ。王国が帝国よりも良い場所なのかどうかはわからない。しかし帝国には改善の余地が多々あるのは事実。ナタリアの味方をする立場上滅多なことは言わないが、情けない帝国の現状を”声”は知っていた。


『ま、国の在り方なんて大それたものに手を出すつもりはねーよ。それは俺に望まれる役目じゃない。むしろ今やるべきなのは――』


 魔法陣がいくつか机の引き出しから顔を覗かせていた。幸いにも引き出しは閉じられていない。これならば”声”にだって見ることができる。

 今までは魔法陣なんてものは、摩訶不思議な力の象徴であり、理解しようとする気さえ起きなかった。ただありのままを受け入れていた。

 今は違う。大きなヒントを貰ったのだ。観察が大切だ。見ること、伝えることだけが”声”にできること。ここで怠慢を見せる訳にはいかない。


 魔法陣は基本を円形とする。より正確に言えば環状をしている。始点と終点は存在せず、くるくると回路のように血の線が続いているのが魔法陣である。

 インクで記された魔法陣の模写を、穴のあくほどに見つめる。

 確かに輪の形になっている。途中で分岐点がいくつもあって複雑に見えるが、基本は環状だ。

 以前ならばこれだけ見つめても何もわからなかった。

 いくら根を詰めたところで、わからないものはわからない。気付きの問題だからだ。

 あるいは一年間とか、そんなスパンで取り組めば、異界の知識を基にして真相に辿り着けるのかもしれない。けれどそんな悠長にしていられる時間はない。


 魔法陣と人体の相似。

 血液の回廊。

 環状に巡り続ける赤い線。


 もう答えを与えられたようなものだ。気づいてみれば、どうして過去の自分は気が付かなかったのか、と言いたくなる。

 魔力を生み出すのは、人体に流れる血流。で、あるならば、血管の経路がどうして魔術的意味を持たないことがあろうか。いや、ありえない。


 魔法陣とは、人体の隅々まで張り巡らされる血液の経路の略図だった。


 あまりにもデフォルメされていたのも、気づかなかった原因の一つだろう。一番シンプルな真円の魔法陣。これを見て、人体の模式図だという輩がいれば”声”は、想像力のたくましい奴だ、と笑っただろう。

 あくまで略図である魔法陣は、全体の形そのものは人の形とは似ても似つかぬ。

 ”声”はホムンクルス図を思い出していた。人体の神経分布に応じて、各器官の大きさを調整して書いた歪な人体モデルである。肥大した舌や指先と、縮小された下半身が特徴的なあれだ。

 魔法陣と血流の関係はホムンクルスを想起させた。ただし毛細血管はほとんど無視され、大動脈と大静脈が描かれているだけの簡素な図だ。心臓や肺のような体循環で重要となる器官の存在する位置には、対応した記号が埋め込まれている。

 つまり、性能の高い魔法陣とは、より精密な血管の配置の模式図に他ならない。人体解剖を含む医学の進歩と、新しい魔法陣の図は深い相関関係にある。どちらが進めば、もう一方は牽引されて、反対が進めば残る一方は引き摺られる。丁度それは車の両輪のよう。


 なるほど。このことを王国だけが知っていて、帝国が知らないというのであれば、帝国は遅れている、とギルド長か豪語するのも故無いことではない。

 徐々に舞台裏がわかってきた。

 ナタリアが魔術ギルドに持ち込んだ魔法陣は想像以上の波乱を巻き起こしたと言うことだろうか。新しい魔法陣とはすなわち、人体の新しき観点、解釈に他ならない。医学の進歩にも貢献するであろう重大な発見だ。ギルド長はそれを王国に伝えようとした。

 彼の言う飛脚や、資料がそれだろう。


 リラックスするギルド長をもう少し見張ったが、もう発言をしてくれない。アクションを起こしてくれないと、”声”一人でできることはあまりにも少ない。

 ナタリアに聞き知った情報を伝えよう。難航している魔法回路の開発の一助になるかもしれない。

 それに、あまり遅くなると、心配させる。


 ナタリアとの合流を目指す”声”。


 とあるトラブルに巻き込まれ、彼が持ち帰った魔法陣に関する情報が活かされるまではかなりの時を有することになる。

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