母
誰も何も言いませんでした。朱華さんは私の目をじぃ、と見ます。
見つめられると背中がむずむずします。美人さんの視線って、色んな意味で危険だと思います。私的意見ですけど。
私が何も言わずにいれば、その沈黙をどう受け取ったのでしょう。
彼女は一つため息を零し、紅狩衣の懐に手を入れました。
「お主は我らの仕事を、知らぬと言うたな?」
「はい。存じ上げません」
即答です。ガチです。
「ほぅ」
取り出したのは見覚えのある扇。広げたのは真白の扇面。
あの、橋で会った夜のように、白紙が目元から下を隠します。
これはもしかしなくともあれですね、詰問体制ですね。
「然れども、我らに知らすかえ」
「須黒が、あなた方のもとに連れて来たので」
朱華さんの怪訝に柳眉が上がる。怖いです。正直に言いますと。
思わず、意味も分からず謝りたくなります。
「あの鬼。お主はあれに名を付けたか。なるほど、妙だと思うたわ」
「いけなかった、ですか?」
「名付けの意味を、知らぬと」
ことり、と今度は首をかしげた。
そうすると、年齢不詳の彼女が随分と幼く見えました。
小首を傾げる、て美人さんがやると犯罪的にかわいらし…げふん。いけません。何かが危ういです私。
真面目な場面のはずです。はずなのです。
そういえば、朱華さんと二人で会話するのは初めてです。
だから落ち着かないのでしょうか。
「はぁ、知りませんねぇ。本人に流されて名前を考えさせて頂いた、だけですし」
「お主、実は妙にこちら側に疎いな」
「よく言われます」
本当に。
「それで、あの鬼の紹介ゆえに信ずると?何とも危ういものよ。お主とあの鬼は、いったい」
まぁ、確かに須黒の言葉はゆらゆらしていてはっきりせず、信用できるかと言われると疑問です。でも、何故でしょうね。
彼は、危うい。人の血を甘すぎると言いやがりました彼(鉄の味しかしないはずですけど)
時々、人のことを焔の宿った目で見つめることもあります。
きっと、彼は無害な存在ではないのでしょう。
でも、私は生きています。助けられました。生かされました。わからない、分かりません。
「ただの、」
「ただの?」
結局、私と須黒、端的に関係性を現すならば、
「茶飲み友達です」
「は?」
呆ける朱華さん。
美人さんはそんな顔しても、美人さんです。素敵です。
「あえて言うなら、時々三味線を聞きにいつのまにか来て、いつの間にか帰る、そしてよくよく人をからかうのがお好きな、そんな………友人、でしょうか」
「あれを、友と申すか」
「あいにく、人間関係が幅広くないもので」
自分で言っててぐさりと来ました。
「主は…」
ふと、言葉を切った朱華さんがあらぬ方に顔を向けました。
障子の向こう側、離れに入る石階段の方角です。
今気づきましたけど、ばたばたと、向こうが何やら騒がしい。
「あの阿呆め」
朱華さんが剣呑な眼差しで不穏な言葉を吐きました。あらら。
母屋の方には柏木さんがいたはずですけど。
足音が近づいてきます。まず一つ、そのあと複数。
何となくですけど、一番最初にたどり着くのは、おそらく。
「放しなさい!!」
声が聞こえました。本来なら上品な言葉を日々紡いでいますのに。
止めに来た誰かと争っているのか、物がぶつかる音や諌める声がする。
このままでは埒が空きません、私から出迎えようとすれば。
「待ちや」
視界が白に包まれました。顔面に寸前にある白紙。
近すぎて分かりませんでした。これは、扇面です。朱華さんがお持ちであった。
「持っておれ。消して面を出すでないぞ」
耳にひそりと、囁く音。思わず言われた通りに扇の要を握ります。
詳しく考える前に、かん、と乱暴に障子があけられました。
「此処かっ」
取り乱した、女の声。
乱入する、足音。
一変する空気。
「どこ、どこにいる。満足?私たちをおとしめて!」
随分と、久々にその音を耳に入れました。
彼女がこの離れに足を踏み入れるなんて、初めてではないでしょうか。
何も見えない。白の向こうで罵声と、部屋の中を探る足音は続く。
「きえた?逃げたの、あの狐つき!」
私は顔を扇で隠しただけ。
ですが、どうやら彼女には見えない様子。
何かが、あるのでしょう。この白扇に。
「赤狩衣!答えなさい、あの狐をどこにやった!!」
あの狐。狐憑き。憑き物。あれ。あのもの。
何時からでしょう、彼女が私の名を呼ばなくなったのは。
「落ち着きなされませ、お内儀。未だ我らの問い詰めは終わっておらぬはず」
「問い詰め?まるで私たちが罪を犯したような「黙りゃ!」」
始めは丁寧な物腰であった朱華さんが、豹変した。
「主らは呪を人に移した。我らが禁じておることぞ!」
「人?人にですって?」
激昂を受け、しかし彼女は不意に笑んだ。哄笑した。
その先を、私は聞きたくありません。
「そのために、あれを生かしておいたのよ?」
「な、に」
「教えていない言葉を使い、知らぬはずのことを聞く。あれは、化け物よ。
あれは私の子供ではない。取り替えられた!あれが私の子を殺した!。
それでも私たちを咎めるの?橘の私を?
汚らわしい。あの狐を放っておいて、私を咎めるなど。何と汚らわしい!」
「ほぅ。我らを侮辱するかえ」
彼女の怒りが朱華さんに飛び火する。朱華さんもまた不吉な空気を流し出す。
そ、と扇を畳みます。
私に背中を向けている彼女は気づきません。ですが、朱華さんが気付きます。
朱華さんは私を見て、不愉快そうに顔を歪めました。
『何をしている』
眼差しが問います。
『我らに守られるは不満か』
何度も首を振ります。
いいえ、いいえ。もう十分、守っていただきました。
他人である私を。たまたま縁があってあっただけの私を。
異物なのは私です。お二人は怪しみながらも、それでもお話をしてくれました。
どれだけ、もったいないほどに有難く、嬉しかったことでしょう。
目を瞑り耳を塞ぎ体を丸めてやり過ごすこと、自分を守るためには必要なときもあります。
「母様」
でも、それは今じゃありません。
今だけは、それではいけないことなのです。
「私は、ここにいます」