怪異
屋敷に帰ると、さざ波のようにざわりざわりとした空気が伝わってきました。嫌な感じです。
とうとう、私の外出がばれちゃったみたいです。
人の話し声、土をける足音、誰かの怒鳴り声。
普段は静かな離れからの喧騒。
消え失せた
草履がありません
外に行った?
どこへ
どこに
探せ
探して
女、男、女中、奉公人。知っている人、知らない人、見たことない人、声だけ知っている人。限られた人数ですが、母屋にいるはずの方々です。
その中で、ひときわ目立つ父。
普段から険しい顔立ちをさらに厳めしくし、あたりを見やる人。
何かを感じたのか、不意に私の方へ、顔を向けた。
見つかってしまいました、ね。
「須黒」
此処まで案内してくれた鬼の名を呼びます。
父は彼の姿が見えません。なので、できるだけ口を動かさず、小さな声で。駆けつけてくる母屋の人たちが到着するより、早く。
「何だい」
「ここまで、ありがとうございました」
須黒は私の顔を無言でじっくりと見つめ、切れ長の目をさらに細めます。
視線から逃げようとする自分を律してただ、無言で見つめ返してみました。
父の采配で一先ず、私は住み慣れた離れに戻ることができました。
今は庭に面した部屋に座っています。主に私が一日を過ごす部屋です。
家具も間取りも、何だか最近のばたばた具合でとても懐かしく思えました。外は相変わらず騒がしい。あちらは母屋の方です。
母屋で今何が行われ、柏木さんはいったい何をしているのか。
「元々私には、大した力などなかったのです」
三味線を抱え、けれど撥は持たずに。
指だけで、糸を弾けば、びぃん、と鈍い音がしました。
「視たくないけど、見えてしまう。聴きたくないけど、聞えてしまう。
ただ、ほんの少し、読み取るものが多かっただけなのです」
同じ糸を何度も弾きます。
びぃん、びぃん、と音を確かめ調弦を行うように。
「私自身が何であるのか、私にはわかりません。払い屋をおそれているのは、もしかしたら私自身が払われるべき存在だからかもしれません」
「なれば」
私の真ん前に正座するのは朱華さん。
柏木さんは現在、母屋に行っています。
「何ゆえ、形に成すか」
鋭く、重く、一つの動作も同様も逃がさぬ二つの目。
私が恐れていた払い屋の目。今でも怖いです。本能、なのか、トラウマとして認識しているのか。
「私は恥ずかしながら、言葉にして歌うことも、絵にして描くことも苦手です。朱華さんや柏木さんがどういう立場でどういう職を担っているのかはわかりません。が、お二人は私を見つけてくださいましたから」
右も左もわからぬ、私が迷い込んだあの黒と白の世界で、戻れ、と言ってくれました。
あのままあの異界にいればどうなっていたのでしょう。元の世界に戻れた、とは思えません。たぶん、こうしてお話しすることも三味線を弾くことも、できていなかったと思います。
それほど、あの場所の闇は深くて深くて、底なしでしたから。
穢れに触れた私を叱ってくれました朱華さん。穢れを落としてくれた柏木さん。
私をずれていると言った。その意味も、改めて聞きたい。話したい。
そんな、私のわがまま。
「ほんの少し、私ができる、お手伝いです」
懐から、茶筒を出します。私がよく見る、けれどどうやら真新しいもの。
いきなり茶葉を出され、朱華さんの眉が跳ねあがりました。
ですよね、全く話が繋がりませんから。
「それは」
「一風堂の茶葉です。
離れに来て下さる女中の一人が、今日また新しく持ってきてくださったのでしょう」
おそらくそれで、私の不在がわかった。
「女中を通じて、かような高級茶葉を持ってきてくださるのはただ一人。私の妹です。
名を、律。お律様、と呼ばれていました。」
聞き覚えのある名前です。つい先日、尋常でない場面から。この離れで、この場所で。
「守りニ目くラマし。しカシ穴ガ空いテりャ意味もなイでしョウや」
老女の顔が、生え揃った白い歯を見せた。
「ナぁ、オ律様」
あの名前は私ではありません。あの女性が狙っているのは私とは別の存在。私の、こちらでの妹の名前です。
朱華さんの顔つきがさらに険しくなりました。
「それで?」
「朱華さんからしたら、今更、と思われるかもしれませんが。
私は整理したいのです」
人に連れられるまま、言われるままであった今までの私。
それでは荒波に呑まれ動けず、冬の厳しさに凍えてしまうだけ。
私は改めて、津軽で生まれた弦楽器を抱えなおしました。
「父に、縁談と言われた時からおかしかった。彼らは私に、そのような話を持ってくるわけがありませんから。良縁ならば妹の律が受けるはず、いえ、受ける予定のものなのでしょう。しかし、」
一端言葉を区切る。
「それで、人の命を奪おうと思えるものですか」
いや、思うのは自由だ。しかし、本当にそれを実行に移してしまえるものだろうか。
「欲しがりて妬み、恨みて怒る。それだけのことではあるまいか」
朱華さんが懐から扇を広げ、口元を覆い隠してしまった。いつかの夜で見た、真白の扇面。
目元だけ残して、朱華さんが問いかけます。
それほどの良縁だったのでしょうか。
人から妬まれ、狙われるほどの。
「お主ずいぶんと、甘いのであろうな」
「甘い、ですか」
「人の情は、難しいものよ」
「他人が想像しても、難しいものです」
ならば、私の目は私の物でなくなり、私の耳は私の物でなくなります。
須黒気に入りの茶葉を通して、それを私にくれた、妹の目となり耳となり。
◇ ◇ ◇
ずず、ずず、と自分の周りから畳を這う音がする。
ずずず、と、衣の擦れる音。
暗闇の中から、あちらこちら、布団の周りを回るように聞こえる。
それ以外に、音がしない。
恐ろしい、と、なに、と思うが好奇心と恐怖を押さえつけて必死に目を閉じていた。
朝が来ればやむ。寝てしまえば気にしない。
早く、眠れ。
次の日、またした。
今度はもっと近づいてきたらしい。
耳元で風が動く感じがする。なんということ。
誰か、誰かいないの。この異常に気付く人は。
『よいか、もし嫌なもの、恐ろしいものに出会うたなら』
枕の下には、常にお守りがあります。
紫の衣のお守り。中には大事なものが入っているから開けてはならぬと言われた。
ぎゅ、と抱きしめる。どこか柔らかい棒の感触がした。
『あの者に渡しなさい。あなたが嫌だと、嫌悪するものを思い浮かべながら』
わたくしは、祈った。祈ってしまった。
わたくしのたった一人の姉さまに。姉さまなら大丈夫。姉さまならこの恐れを消してくれる。そう思って。
だって、母様がそう言っていたのだから。
『そうすれば、あの者が救ってくれましょう』
どれくらい、丸まっていたことでしょう。音も気配も、消えていました。
隠しきれなくて、母様に呼ばれ、問い詰められた。
最近眠むれていないことを、女中の誰かが伝えたのでしょう。
わたくしは正直に今までの怪異と昨夜わたくしが行ったことを告白した。
母様に物の怪や化生の話は厳禁。だけどわたくしは耐え切れず、ありのままを告げていた。母様はしばし黙されていたが、何も言われず部屋に返された。ただ、最後に退室する挨拶のためお顔を見たとき、俯いた母様の口元が
にぃんまりと、笑っていた。
いつも通り横になった後、わたくしは数日ぶりにぐっすりと眠りました。
そして朝になって気付きます。音も気配も、無かったことに。
姉さまが助けて下さった。
そういえば、そろそろ茶葉が少なくなっていたころでしょう。
あの、姉さま付の女中を呼ぼう。
お礼を言わなければ。
◇ ◇ ◇
「私が読めたのは、以上です」
三味線を掲げて一礼し、畳の上にゆっくりと置く。
いつも通りに動作がとても、ゆっくりとしたもののように感じました。
朱華さんは、何も言いません。だけど、扇の向こう側で何だか複雑な目をしていました。
何かを言おうとして、何度か扇が揺れます。ですが、結局言葉にならず。
朱華さんは、どこまで知っていたのでしょう。
「母が妹に渡したのは、藁人形ですね」
呪うためではない。
「形代と。あなた方が追っていた女性は私を指して言っていました」




