序章 断・中
人を模して造られた人ならざるもの。
その象形。
「オルフェナ……でいいのか? 聞いたことないな」
景真は像の前に跪きライトを向けると、その下に一回り小さく文章が刻まれていた。
“veritas liberabit vos”
「真理は汝らを自由にする――聖書か……?」
しかしこの像も施設もキリスト教や、その亜流であるようにはとても見えない。
だとすると、星雲救世会が崇拝しているものとは一体何者で、その祈りは何を意味しているのか。
オルフェナとは、何なのか。
得体の知れぬその存在が、足元を蠢いている感覚に微かな眩暈を覚える。
部屋を満たす闇が、一層濃さを増す。
だが景真は何かに突き動かされるように、あるいは誘われるように――導かれるように像の背後へ回った。
闇の発生源。
そこにあったのは、宗教施設には到底似つかわしくない厳重なハッチだった。
床に備え付けられたそれは色こそ周囲と同じ白を基調としていたが、静謐な宗教的記号で整えられた礼拝室の中で、明らかに異質な存在感を放っている。
これは、パンドラの箱だ。
あるいは地獄の釜の蓋か。
開けばいよいよ、後には戻れない。
中から噴き出したあらゆる災厄がこの身を引きずり込み、愛すべき日常は永遠に失われるだろう。
理由など無いが、その確信がある。
だが、迷いはない。
“日常”など、間抜け面で春華の背中を見送ったあの瞬間に砕けて散ったのだ。
しゃがみ込むとハンドルを両手でがっしりと掴み、力を込める。左腕の傷がズキリと痛み顔を顰める。
その鋼鉄の門番は最初僅かに抵抗を見せたが、すぐに観念してぐるりと回転するとその門を開け渡した。
恐る恐る、覗き込む。
それは、闇の井戸だった。
どろりとした暗闇が満ちており、湧き出す漆黒に息が詰まる。
闇の中に足を浸し、据え付けられた梯子にかける。案外しっかりとしたその感触に安堵する。
確かめるように梯子を掴み、ゆっくりと降る。
ひやりとした感覚が足首から背筋へと蛇のように這い上がる。
足元をライトで照らすが底は見えない。
「ケチらずにもっと良いやつ買うべきだったな」
軽口を叩いてはみたがその声は掠れ、震えていた。
どれほど降りただろうか。一分とも、一時間とも思える。
――突如、下ろした足の感触が変わった。
地面を踏み締め見上げる。
微かに礼拝室に差し込む夕陽がハッチの輪郭を形どっている。
――金属が擦れる鈍い音を立て蓋が傾いだかと思うとガチャリと閉じる。
景真の頭上に、無慈悲な静寂が降る。
その様子を呆然と眺めていた景真はしかし、くるりと反転し道を照らす。
ここに足を踏み入れた時点で、引き返す選択肢など捨てた。
今はただ、前へ。




