第一話 再起 女神の門 前
2025年08月10日
ゲートを一息に乗り越え両足で着地する。
傾いだバックパックが重力に引かれ、ずしりと存在感を増すがアスファルトを踏み締めて体勢を立て直す。
侵入者を出迎えたのは、ゲートの外で感じていた以上の異様なまでの静けさだった。
木の葉の揺れる音すらこの場所には届かない。写真の景色に踏み込んだのかと錯覚する程に。
音はおろか熱も届かない。時すらも、その切り取られた瞬間で凍りついているかのようだ。
意を決して足を踏み出す。
正面玄関はガラス張りで、中は受付になっているようだ。
床にうっすらと積もった埃にいくつかの足跡が残されている。
「人の出入りがあるのか……?」
ならば、ここに春華が連れて来られた可能性もあるだろう。あるいはあの足跡の一つが春華のものかもしれない。
扉の取手に手をかけて力を込めるが、押しても引いても開かない。
当然だが、施錠されているようだ。
正面玄関を諦めて、他の入り口を探して建物の周りを歩く。
外からの印象通り建物そのものはそこまで古びてはいないが蔦を這わせ、踏み入る者を拒むその雰囲気は太古の神殿を思わせた。
裏手に回り込んだところで割れた窓を見つけた。
「ここからなら……入れるか」
肩の高さにある窓枠の下辺に残ったガラスを、近場に転がっていた石で叩き割る。
割れたガラスが床に落ち――硬い音が建物の中で響く。
景真は思わず息を止めて耳を澄ませたが、返ってきたのは耳が痛いほどの静寂だった。
息を吐いて、手のひらに滲んだ汗を拭う。
中に人の気配は無い。
それでも慎重に屋内を覗き込む。
食堂か何かだろうか、白いテーブルが整然と並んでいる。
ガラスが残っていないか窓枠を指先でそっと撫でて確認してから掴み、一気に体を持ち上げる。
「――ッつ!」
窓枠を体が通過しようとした時、左腕に鋭い痛みが走った。
床に降り振り返ると窓の右枠に鋭利なガラス片が残っていた。
「こいつの仕業か」
傷はそこまで深くはなさそうだ。しかし裂けたジャケット「血が滲み、灼けつくような痛みを感じる。
「お気に入りだったんだがな……」
右手で頭を掻き、破れてしまったジャケットの袖をため息混じりに眺める。
バックパックを下ろしジャケットを脱ぎ、それを無造作に突っ込むと代わりに白い箱を取り出した。
新人の頃、春華に持たされた「記者七ツ道具」の一つ、救急セットだ。
その中から包帯と消毒液を取り出す。
「初めて役に立ったな」
懐かしさに笑みが溢れ、入れ替わるように寂しさが滑り込む。
——寂しさ?
違う。
これは後悔だ。
なぜあの時先輩を一人で行かせてしまったんだ。
危険を分かっていたはずだ。俺も、そして先輩自身も。
だったら引き止めるか、無理を言ってでもついて行くべきだった。
それができたのは自分だけだったのに。
アルコールで消毒してから右手に包帯を握り、なんとか左の二の腕に巻き付けようと格闘するが上手くいかない。
「使い方も教えといて下さいよ……」
——いや、多分あの人も巻けないだろうな。本当に、本当に不器用な人だから。
その仕上がりは実に無様なものだった。
巻き方がゆるい上、末端の処理が甘く今にも解けそうになっている。
とは言え、とりあえず傷口を覆えていれば良しとしておく。
残った包帯をしまい、クリップライトを取り出すとワイシャツの胸ポケットに取り付けてスイッチを入れる。これも七ツ道具の一つだ。
改めてぐるりと室内を見渡す。カウンターの奥には厨房が見えた。やはりここは食堂のようだ。
長らく使われた気配はなく、テーブルも厨房も雪のように埃が堆積している。
半開きの扉を押し開けて廊下へ出る。
白を基調、というよりほとんど白一色に統一されたそれは病院を思わせた。
窓から差し込む夕陽が白い廊下を琥珀色に染め、景真の影を長く、長く伸ばす。
誰そ彼時。
ここはきっと此岸と彼岸の境目だ。
渡ってしまえばもう戻ってはこられない。
そんな予感が景真を、かえって前へと踏み出させる。
廊下を進むと突き当たりに縁を金色に装飾された両開きの大きな扉が見えた。
扉の上には「礼拝室」の文字。
左右の持ち手を掴むと、背筋を冷たいものが撫でた。
その感覚を敢えて無視し、思い切って扉を引く。
中は暗闇だった。
窓一つない礼拝室の中を、扉から差し込む光と景真のクリップライトだけが照らしている。広さはちょっとした会議室くらいだろうか。
机も椅子もなく、ただ正面に祭壇のようなものが据え付けられている。
そこに座すは純白の女神像だった。
近寄り、ライトで照らす。
床にはうっすらと埃が積もっているのに、その像には一切の汚れがない。
慈愛とも悲哀とも取れる表情に五枚の翼を背負い、その内一枚は無惨に折れている。
「変わった意匠だな。……折れた翼か」
神を象ったにしてはどこか現代的な、あるいは機械的無機質さでただ静かに佇んでいた。
そしてその台座には、この世界には存在せぬ”理”が綴られていた。
“ORPHENA”——と。




